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くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

ロンビェン橋のほとりで 

2011-02-17 00:01:36 | はらだおさむ氏コーナー

 バンコックーラングーンービエンチャンと飛行機を乗りついで、東京を出てから四日目の夕闇迫るころ、ハノイ空港に降りたつた私たちはベトナムツーリズムの用意してくれたバスに乗りこんでホテルまでの距離と時間を聞いたところ、<17キロ・40分>の答えに思わずいぶかしげの声を上げたものだったが、空港からハノイ市内に至る紅河にかかるロンビエン橋までの約3キロの交通渋滞とそれにまつわる話を聞いて、30年戦争を終えたばかりのベトナム社会主義共和国にやっとたどり着いたとの実感をかみしめたものだった。

 橋のたもとの検問所を過ぎて間もなく、バスは説明通りの立ち往生を見せはじめ、そのかたわらをアオザイに菅笠をかぶった女性や中国風の人民服を着た人たちが、自転車を押して通りすぎて行く。橋は単線の鉄道併用橋で、一車線の車道と50センチ幅程度の歩道がその両脇に設けられて一応一方通行の態をなしているが、車間と歩道には人と自転車があふれ車の動きもママならない。後で聞いた話では、特に夏場にでもなるとエンストをおこしたクルマのために交通遮断になることもしばしばあるとのことで、この橋が市内と郊外を結び、ハイフォン港やロンソンへ向かう国道一号線の起点となるだけに、1965年から72年に至るアメリカの北爆時代にはしばしば攻撃の目標とされ、数度にわたる爆破を応急修理しながら今日まで維持してきた模様で、土手下の橋桁付近にも大きな水溜りがいくつか見受けられたのも、当時のおもかげをしのばせるものだった。

 ロンビエンとは、紅河(ホンファ)と同様中国語の“龍辺”と同じような発音をする上流の村の名前で、その後ベトナム国内を参観するうちに中国語を語源とする言葉をいくつか発見したが、元・宋時代から「封建中国」にしばしば侵略され、帰路飛んだハノイー南寧間はジェット機で45分の短距離で中国と陸続きで接しており、いまなお南北5千万人の人口の内、サイゴン(ホーチミン市)の50万人を最高に、ハイフォンその他で数パーセントの華僑が居住しており、ベトナム料理をはじめ一般大衆の生活・習慣は中国のそれと類似している。それだけになおさら<民族の独立と自由>をはかるため、表面的にみればソ連や東欧圏との結びつきを強めているかに見受けられ、わたしたちが到着した湖上の美しい、収容200人程度のタンロイホテルはキューバの援助により建てられたもので、宿泊者の80パーセントは家族連れのソ連やポーランド・ルーマニアの観光団であり、中国人は数名の貿易関係者と思われる一組のみであった。

 後日市内の外文書店で見た書籍は30%強は中国語(技術関係が多い)ロシア語50%で、その後ハノイからハイフォンを経て風光明媚なハロン湾へ6時間のバス旅行の際、ハノイーハイフォン間96キロ、2時間の対向車のトラックの内中国製解放号が40パーセント弱あったことは、レジュアン第一書記が中国訪問の際いみじくも毛主席や周総理の言葉を引用して述べていたように、ベトナム戦争に対する中国側の支援のあつさを物語るものであった。

 


「ベトナム社会主義共和国を訪問して(1976・11)」(復刻版)

2011-02-15 00:31:51 | はらだおさむ氏コーナー
はじめに
 中国以外の国を旅したのはこのときがはじめて、団体旅行もはじめての経験であった。
 「あのとき・あのころ」の第一部(32)―<1976(2)♪はるかはなれた、そのまたむこう♪>でこの旅の最終篇は書いているが、ここに復刻する旅行記は帰国後の年末、東京で開催された解団式兼忘年会で団員などに配布したものである。いま読み返してみると、何かゴツゴツした筆遣いで読みづらい文章であるが、“語り部”のひとつとして記録に残しておきたい。

 ベトナムにはその後2回出かけている。
 1994年8月にはホーチミンの投資環境視察を数名で実施、96年夏にはミシン業界の視察団を引率してホーチミン~ハノイに行っている。それぞれの視察レポートは書いているが、いまそれらの復刻予定がないので、前者のはしりをこの復刻版との絡みで以下にご紹介しておこう(「上海経済交流」No.37、94年9月号。<ホーチミンから中国をみる>)。

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「いまなぜかヴェトナムが熱い」

 この暑いさなかヴェトナムですか、と言われて大阪空港をAM10:30飛び立ったキャッセイで香港を経由して週10便はある共同運航のVNCXでホーチミン市郊外のタンソンニャット空港に着いたのは8月9日夕刻の4時30分(時差2時間、正味飛行時間6時間弱)、気温30度、大阪より数度低い。

 南部が「解放」されて1年後の76年11月、「ヴェトナム経済視察団」の一員としてこの地を訪れたときは、東京―バンコク―ラングーン(当時)―ビエンチャン―ハノイまで5日かかったのだから、まさに隔世の感がある。関空の開港で11月から飛び立つ直行便は週4便、5時間とのことであるから、大阪―ホーチミンはずいぶん近くなる。

 あのとき、ホーチミン市と改名されたばかりのサイゴンのチャイナタウン―ショロン街の灯は消え、廟の線香の煙のなかにたたずむ“華僑”たちのうちひしがれた姿が強くまぶたに焼きついているが、ハノイで、開設準備中の日本大使館の書記官に聞いた話では、急激な「社会主義化」で穀倉地帯のメコンデルタでも食糧不足が発生、北では農民の暴動がおこっているとのことであった。なにか南部解放統一戦線を「制圧」した「北」に裏切られた思いがしたものだった。
 アメリカの北爆にいきどおりのこぶしをあげ、ベトコンのテト攻勢に喝采、僧侶の焼身自殺に涙したベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)シンパは、ハノイ周辺で見かけるトラックのほとんどが中国製の「解放号」であり、北京までの帰途立ち寄った南寧飛行場では米軍機に立ち向かったであろう無数の戦闘機に、ヴェトナムを後方支援した中国の思い入れを感じて、ニクソンとの中米共同声明以後、すきま風の吹きはじめた中越関係に複雑な思いがした。
 そのとき、北京は「四人組」が逮捕されて一月余、文革の終結に市民は祝い酒に酔いしれていた。

 抗米戦争の英雄、グェン・ザップ将軍が嘆いたように、それから一年を経ない内に「経済戦争」に敗れたヴェトナムから脱出するボートピープルが世界の耳目を集め、そしてカンボジアへの侵略、中越戦争―中国のカラオケでいまも歌われる<血染的風采>は、そのときの中国人兵士の心情を吐露したものであるが、“懲罰制裁”で明らかになったことの一つは、兵站面での弱さ、10年の文革で疲弊した中国経済を象徴する、物流の悪さであった。
 その年、79年末に中国は対外開放政策を採用、その翌年ヴェトナム南部のロンアン省で[ドイモイ]の実験が始まった(以下略)。



独立と自由ほど貴いものはない

2011-02-12 13:22:43 | はらだおさむ氏コーナー
 バック・ホー”、ホーおじさん

 中国の毛主席と同様、あるいは中国人の周総理に対する敬愛の気持ちをあわせたような暖かいまなざしで、ベトナム人民は街角のホーチミンの像や写真にホーおじさんの在りし日の姿を思い浮かべ、ベトナム解放の歴史を思い出しては、ホーおじさんに語りかける。
 <“バック・ホー”、あなたが話したように、独立と自由ほど貴いものはありません。今やわれわれはそれを手に入れた。今後、誰がわれわれの主権を侵し、われわれの自由を奪おうと、われわれは決してそれを許さないだろう>と。

 午前6時に起床して、7時からハロン湾観光の船に乗った私たちは、沖合いにホンゲイ炭積み込みのため停船している一艘の日本船をまぶたにおさめながら大・中・小三千の島が点在し、あるいは織り重なった1500平方キロメートルの湾内を一周する。
 中国の桂林を訪れたことのあるメンバーの一人が「まさにミニ桂林ですなぁ」と感嘆の声を上げるのを待ちかねていたかのように、あちらこちらで望遠カメラのシャッターの音が続く。

 「封建中国の元時代、侵略軍がこの地に攻め入ったところ、湾内にねぐらを定めていた龍がベトナム人民の反撃に呼応して侵略軍に火の玉を降らせ、ついに敵を打ち破った。この三千の島は、そのときの龍の火の玉のあとだという伝説があります」
 エンジンの騒音のなかから通訳の解説が聞こえてくる。
 それは、おそらく日本の元寇の役の<神風>ともいえる伝説の類であろうが、しかし、その言葉は、アメリカ帝国主義を打ち破って国家の統一を成し遂げたベトナム人民の、今の気持ちにも通じる伝説ともいえるのだろう。

 昼前、湾内を一周してホテルに戻った我々と前後して昨夜来同宿していたラオスの貿易代表団の一行も湾内観光を終えて帰ってきた。
 往路、ビエンチャンの田舎然とした空港で危うくアエロフロートに搭乗を阻まれかけたことを思い出しながら、もしあの時、搭乗できなかったらジープで山越えのハノイ行きだったなぁ、とハノイまでの一時間、下の山なみを見続けていたが、1975年の同じころ、ラオスなどがそれぞれの独立を勝ちとり社会主義を目指して独自の道を歩みかけている今日、周辺のアセアン諸国との善隣外交は主義主張の差はあれ、次第に密接度を増してゆくことだろう。

 昼食後、又6時間のバス旅行のあとハノイに戻ったわたしたちは、予定されていたホテルが変更になったため改めて荷物を担ぎ出して別のホテルへ移動せざるをえない羽目となった。このホテル事情が改善されぬ限り商用渡航はよほど商材を煮詰めてからでないと無理だろうなぁとこぼすことしきり。

 翌日、いよいよベトナムとお別れである。
 先のホーチミン行きで行方不明になっていた仲間の手荷物も空港事務所から出てきて<終わりよければすべて良し>と空港ロビーで思い出話やベトナムの感想に花を咲かせていたが、待てど暮らせど週一便の中国民航機が到着しない。
北京の最後の夜の、お別れパーティ用にと残していた日本酒も仲間とともに飲み干してしまったころ一台の大型機が到着した。<スワッ、民航>と立ち上がったが、よく見ると<ベトナム航空>、タラップから降りてきたのは一人の高官と思しき人物のみで、タラップ下まで迎えに来ていた車で姿を消してからさらに待つこと一時間、暮色濃いハノイ空港にやっと待望の中国民航機が到着した。
 南寧空港で夕食の後、北京へ向けて北上しつづける機内で中国人の乗客が手にしている<人民日報>を見るとはなしに目にしていると<ベトナム党・政府代表団の訪中>とある。さては前記の大型機―訪中特別機の帰港であったのかと先ほど来の謎解きは終わったが、北京空港よりはるかに大きかった南寧空港を思い出すにつけ、北爆時代の、中国にとっても「民族の独立」を守る戦いがいかに大変なものであったかと思い知らされた。

 四海海で囲まれ、平和な環境のなかで経済繁栄の虚像のなかにどっぷりつかりこんでいた日本へ帰る日が近づくにつれ、円高で揺れ動く経済大国―日本の行く末や如何、との思いがつのってくる。
 そこにはホーチミンの<ベトナムは一つであり、ベトナム民族は一つである。川があふれ、山が崩れようともこの真理は決して変わらない>との言葉をからだで理解する経験と歴史はなく、この言葉にほとばしり出ている熱情と苦しみを自分のものにしようとする環境もない。


◆こんなコメントが送られたので、ちょうど「ベトナムの旅」に関連したことなのでUPします

 ベトナムで思い出して探したら76年の初訪越のレポートのひとつが、ありました。
 あと数編ありますが、ご興味があればまたお届けします。

◆76年ごろは、ハロン湾の島数は3000島だったのですか?
 今回のガイドさんは2000島だと説明を受けましたが・・・・・1600島と言われる方もいますね
 それと、「海の桂林」と言われていますが、私も10年くらい前に「桂林の漓江下り」をしましたが
 感想は、どちらも素晴らしい
 鍾乳洞があるのも変わらないし、海と河くだりの違いでしょうか?
 エンジン音も現在は全然しなくて、ゆれないし快適なクルージングでしたよ。

◆ハノイはベトナムの北で中国に接しています。
 
 北は中国の桂林から続く石灰岩の台地が長い年月のうちに沈降を繰り返し、海になった所。
 湾内には、南国の強い雨に削られ、奇抜な姿になった大小の島々が1600もあります。
 さまざまな奇岩が海に突き出した風景は桂林に似ており、「海の桂林」とも呼ばれています。
 (NHK世界遺産より)


徒然中国 其之参拾六話

2011-02-11 15:05:23 | はらだおさむ氏コーナー
            
ケンカのあとで・・・

 ケンカには別にルールがあるわけではないが、ケンカ慣れというか、ケンカの上手下手ということはあるだろう。
 もう、いまの上海で見かけることはなくなったが、二十年ほど前の交通渋滞のころ、自転車と人とか、クルマとの接触で、街のあちこちでケンカの成り行きを見守る野次馬の人だかりを見かけることが多かった。
 一度はわたしの乗っていたタクシーが自転車に接触、乗っていた人が自転車ごと横転したことがある。運転手は飛び降りて、倒れた人を助けるかと思いきや、接触したボンネットをチェックしたあと、まだ起き上がらない自転車の人に罵声を浴びせかけた。わたしはクルマのなかから、ことの是非はともかく、それはないだろう、先ず倒れた人をおこし、怪我の有無を確かめてから、事故の原因を追究すべきではないかと思ったが、上海の友人に言わせるとそれはアマイ、そんなことをしたら、逆に自転車の方がつけあがって損害賠償、治療費を要求するだろうとのこと。倒れた人はやおら立ち上がり、周りを取り囲みはじめた野次馬に向かって運転手をなじりはじめた。運転手はベッとつばを吐き、わたしを乗せたクルマを発進させた。自転車が交差点でもないところを渡ろうとしたんだ、ということなどをしゃべったようだが、わたしは無言のまま。運転手は前に向きなおってクルマを走らせ続けた。

 こんなこともあった。
 文革のさなか、春秋二回の広州交易会しか中国との商談が行われなかったころのこと。日本の関係団体が現地に事務局を設けて参加者の便宜?を図っていた、まだ日中の国交が正常化されるはるか前のことである。
 「友好商社」として実績を積み重ねていたわたしの会社は、中国のいろんな貿易公司と取引があった。輸入商品のひとつに欠陥があり、日本の税関の検査機関で証明を受けてその商品を送り返し、損害賠償を求めたことがある。年二回しか商談のチャンスがない当時のこと、手紙などでこちらの主張を述べていたが返事がない。この交易会で決着を図ろうとしたが、相手は話合いにも応じてこない。埒が明かないので、中国側の裁定機関に提訴、決裁を求める手続きをしたところ、日本の現地団体事務局から提訴取り下げの要望が出された。そんなことをしたら、「友好商社」の指定を抹消されるかも、というのである。わたしの方になんの非もない、悪いのは先方の貿易公司(その分公司=支店)、それが「非友好」で「友好商社」たる資格云々とされるなら、いいでしょう、中国との商売はやめる、と事務局の姿勢(おもねり)を非難、突っぱねた。その夜、相手の当事者(分公司)がわたしのホテルに訪ねてきて、提訴を取り下げてほしい、あなたのクレームの賠償金は全額支払うと述べたが、時すでに遅し、裁定は翌日午前に決まっていた。わたしは相手側にも“お裁きの場”に出廷して、「和解」が成立したことを話そうと告げた。翌日、わたしは裁定の場で“雨降って、地固まる”と和解成立を述べ、相手側と握手した。
 その後、わたしの会社の商売に何の影響もなかった。
 ただ、相手の担当者はどこかへ飛ばされ、その窓口とは数年間冷たい関係が残ったが、それは商売上何の痛痒も感じなかった。

 もうひとつ思い出した。
 はじめての合弁企業設立交渉のとき、前例も、実施細則もない手探りの商談が続いていた。あるとき話し合いが輻輳して、先方の高飛車な要求に思わずテーブルを叩いて大声を上げてしまった。普段声を荒げて怒鳴ったことのない“ホトケの原田さん”は、手が震えて顔面蒼白、先方も一瞬息を飲み込んだ。あとのわたしは、無言の行。相手も席を立ったまま、別の担当者同士が事務的な打ち合わせをしていたところ、昼休みになり、一緒に食事をという(当時外国人はホテルでしか食事が出来なかった)。相手が設定した食堂でテーブルを囲んだが、そのときの食事の気まずいこと・・・。と、隣の食卓で、先ほどまで隣室で大声を張り上げて談判していた華僑とその相手が笑いながら箸を動かしていた。商談の中身はわからないが、仕事上の争いを人間関係にまで及ぼしてはならない、と身につまされる思いがしたものである。
怒り上手に、怒られ上手。
このとき怒鳴った相手はその後、日中第一号(上海における製造業)の合弁企業の初代董事長に就任、苦楽を共にする仲間となる。

ケンカの思い出を綴ってきた。
とにかく昨今の日中間に漂う雰囲気が面白くないのである。
中国でも「李鴻章(売国奴)になる」とする後ろ向きの発言をする人もいるようだが、日本でもこのときとばかり「中国脅威論」を振りまく人たちがいる。
一衣帯水の日中両国は、お互いに引越しの出来ない大切な隣邦である。
この両国の関係を規定するのは二つの共同声明(72年、08年)とひとつの平和友好条約(78年)であり、これは日本の国会で批准され、中国においても共産党の重要文献に
なっている。日中両国ともこれから逸脱することは認められない。
ケンカは大いに、声を出してやりましょう(相手の顔も見ずに、ボソボソとつぶやくのはやめること)。しかし、憎しみあってはならない。
これが、ケンカの原則である。
小泉内閣のとき、「靖国参拝」をめぐって侃々諤々としたときもあったが、日中関係の枠組みはきちっと維持されていたと思う。
いまは、言葉だけの“おもねり”、基本的な軸がぶれているのではなかろうか。また心中の“マグマ”がたまってきた思いがする、きょうこのごろである。
        (2011年2月11日 記)
◆はらだおさむ氏は私の大事な仲間
 「しろあと通信」(豊中にある原田城跡に建つ旧羽室家住宅・国の登録有形文化財を通しての会・とよなか歴史と文化の会のブログ)で中国の話題をとりあげてもらっていましたが、会がホームページをUPしましたので、しろあと通信は終了しました。
それに伴いまして、【はらだおさむ氏】のコーナーを「くに楽」でUPさせていただきます。
中国に関心のある方は、どうぞご覧くださいませ。
過去の記事は「しろあと通信」http://blogs.yahoo.co.jp/sonenishimachi でご覧ください。