goo blog サービス終了のお知らせ 

くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾七

2012-12-18 00:08:07 | はらだおさむ氏コーナー

                 
莫 言 効 応(モ- イエン  シャオ イン)(莫言効果)      
 
 (公社)日中友好協会の機関紙「日本と中国」に劉笑梅さんのコラム「新語手帳」の連載があり、その58回(11月15日)に表題の「莫言効果」が掲載されている。莫言さんのノーベル文学賞受賞後の、中国の寸描である。
 <1 代表作「赤いコーリャン」をはじめ、すべての作品が売り切れ、出版社は増刷を急いでいる 2 高校の教材にも急遽、取り入れられることになった 3 莫言の故郷・山東省高密市のかれの旧居に観光客が毎日殺到、観光地化の動きもでている>
いずれも結構なことである。
この受賞を機会に中国はもちろん、大勢の方が莫言の描く“世界”に入り込んでいただくことを期待したい。

もう十余年前になるか、京都で二度莫言さんにお会いしたことがある。
一度目の会食のとき、日本入国のビザ申請をしに在北京の日本大使館に出向いたら、応接間に案内され上司の方からこれから何回も日本においでくださいと数次ビザの押された旅券を手渡されたと耳にした(そのころはまだ日本の身元保証人がないとビザが発給されなかった、まして数次ビザなどは)。
 二度目は翻訳本の出版記念会であったか、京都の大学での講演のあと催された立食パーティのとき。このあと東京で大江健三郎さんにお会いして、それから北海道を旅するとかの話であった。大江さんはかれの高密の自宅にもすでに立ち寄っておられて、久しぶりの面談を楽しみにしておられた(ノーベル賞受賞者の大江さんは、アジアからの次の受賞者は莫言さんと信じておられた)。このときの来日は、もちろん前回の数次ビザが活用されている。

 彼の小説が原作の映画「赤いコーリャン」、「至福のとき」、「故郷の香り」はいずれも二十年ほど前に日本でも上映され、わたしも見ている。
 「赤いコーリャン」は張芸謀(チャン・イモウ)監督の第一作として話題を呼んだ。わたしはかれが撮影を担当した「黄色い大地」(陳凱歌監督)のカメラアングルに魅せられてかれのフアンになり、その監督処女作というこの映画を待ちわびた。原作者の、莫言という作家はその時はまったく知らなかった。
 二十数年前、数多くのすぐれた中国映画が日本でも上映され、そのなかでいまでもわたしの心に深く残るのはやはり「黄色い大地」であり、「芙蓉鎮」である。この「黄色い大地」に魅せられて、その後ヤオトンに住み込み、そこから覗いた「中国」を学究のテーマにした後輩もいるが、わたしはやはり民謡採集の、解放軍文芸班の兵士に心惹かれた主人公の心情に魅せられた。あの最後の、川を筏でひとり渡ろうとするあのシーンはいまでもわたしの目に焼きついている。そのシーンを撮ったのは、張芸謀のカメラであった。
 「赤いコーリャン」は原作もシナリオも読んでいないので、あまり記憶が定かでないが、ドギツイばかりの原色の“紅(あか)”と、のちのチャン・イモウとコン・リーのコンビが描きだす“愛憎”の世界を思い出す。宴たけなわになれば、わたしの友人が声を張り上げて歌う「紅高粱」の主題歌は、こうした思い出を紡ぎだす。
 「故郷の香り」は莫言さんの原作『白い犬とブランコ』に基づいている。監督は張芸謀ではない。わたしはしっかり原作を読み、そして映画を見た。わたしはかれの著作は、短編集をふくめ数冊ほどしか読んでいない。しかし、この原作の映画化に期待し、そして感動した。原作が読みこまれ、映画になっていた。原作では、わずか2~3行の文章が、しっかりと映像になってそのふんいきを深く映し出していた。この監督(霍建起)についてはほかにどのような映画があるのか知らないが、わたしはこの一作でかれの名を胸に仕舞い込んでいる。そして、この映画でわたしと莫言さんはつながったのであった。
 張芸謀は莫言さんの『幸福時光』を映画化している。はっきりとした記憶はないが、そのシナリオを見て原作者が監督に意見を出したというはなしを、なにかの映画雑誌で読んだような気がする。この映画も見る前に原作を読んでいたが、期待は完全に裏切られた。映画はまさに「至福のとき」をイメージするようなシーンをくりひろげていたが、原作はそうではない。九十年代はじめの「国営企業改革」がその背景にあり、登場人物はそのなかでさまざまな行動に出る。映画はその表面的な動きだけを捉えて、ストーリーを展開しているが、その動機なり、背景を説明するプロットがない、組み立てがない。莫言さんの小説はときには難解であり、読み手の解釈に任されていることも多いが、この映画はそのエッセンスを抜き取って形骸だけを取り上げているように思えた。
 チャン・イモウは中国を代表する世界の映画人に昇りつめているが、わたしはこの「至福のとき」以後のかれの映画に琴線をゆるがされたことがない。

 12月のストックホルムは雪が降り続いていた。
 莫言さんは7日の記念講演では人民服姿で「物語を語る人」と題して、母親の記憶を手がかりにした四つの話「古い記憶」「最もつらい記憶」「最も印象深い記憶」「最も後悔している記憶」を語ったという。川端康成の愛読者であるかれは、康成の受賞スピーチ「美しい日本の私」を参考にしたともいわれているが、その内容について中国では賛否両論の議論が起きていると中国新聞網は伝えていた(12月7日「レコードチャイナ」)。
 「・・・その細やかな観察眼や母親への深い愛情、貧困の中でも誠実さを失わなかった母親の素晴らしさに対して賞賛する声も上がった一方で、まるで中学生の作文だと皮肉る意見も。あまりに中国的、農村的すぎて欧米の人間には伝わらないのではとの意見もあった」
 10日の授賞式では、燕尾服姿の莫言さんの席は山中伸弥教授(医学生理学賞受賞)の隣であった。口さがない中国の「網民」はあれやこれやとネット上で騒ぐが、いいじゃないか、中国の首脳もTPOで服装を使い分けている。
 晩餐会で莫言さんはつぎのように語ったと報じられている。
「・・・自身の受賞に対する賛否両論を念頭に『私は受賞発表後に起きたことを、一歩引いた冷静な目で見ようと努めてきた。それは世界を、それ以上に私自身を知る貴重な機会になった』」(12月11日「ストックホルム=共同」)。
 中国の「人民網日本語版」(12月12日)は「莫言氏に『言論の自由』について問い詰めるのはとぼけた話だ」と現状における中国の言論の自由について解説している。

 莫言はペンネームである。
 本名は管 謨業、この謨の一文字を偏と旁に分解して出来たのが莫言というペンネーム、名前そのものを意味づけるのは読者の勝手というものであろうが、
これは<言う莫れ>と解釈できる言葉にもなる。
 かれは文学者、作家である。
 政治家でもなければ、アジテーターでもない。
 しかし、『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳・中央公論新社刊)を読めば、中国の「一人っ子政策」のもたらした悲劇を、山東省高密県の風物と歴史のなかでみることになる。そして、それは中国のこの三十余年の歴史といまに思いを致すことにつながるのである。
 そのなかにつぎのようなフレーズがある(P248)。
 「十数年前にわしは言いました。書くときは心のいちばん痛いところに触れ、人生のいちばん振り返りたくない記憶を書かねばならない、と。いま、わしは、
さらに人生のいちばん恥ずべきことを書き、人生のいちばん無様な境地を書くべきじゃと感じています。おのれを解剖台の上に置き、集光レンズの下におくのです」
 ひとつのことに対しても、ひとの感じ方、考え方は多様である。
 この一人っ子政策の「産児制限」について、盲目の弁護士・陳 光誠さんは中国政府の対応・措置に抗議してアメリカ大使館の保護を求め、アメリカへ「留学」することになった。莫言さんは同じテーマに挑んで、この本『蛙鳴(あめい)』を書き上げた。対応は異なるが、莫言さんも「おのれを解剖台の上に置き」
苦吟している。中国公民ではないわたしには、それ以上のコメントはできないが莫言さんの思いは受け止めることができる。

 莫言さん
 桜の咲くころ、京都に、日本にいらしてください。
 もうビザは要りません。
 そして、散り行くサクラを肴に酒盃を傾けあいましょう!

(2012年12月13日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾六

2012-11-19 16:05:06 | はらだおさむ氏コーナー

                 
傷ついた鳩      


 阪急宝塚線曽根駅の東、豊中市立中央公民館前の道路脇にひとつの碑がある、三義塚である。
 これには一羽の傷ついた鳩をめぐる西村真琴博士と中国の文豪・魯迅との交流をめぐるエピソードがある。
 もう八十年ほどむかしの、昭和6年のこと。
 満州事変の勃発後、西村真琴は医療奉仕団を組織して中国に渡り、戦争の被災者救援活動を続けていた。あるとき戦火で廃墟になった上海の街「三義」で一羽の傷ついた鳩を見つけ、日本に持ち帰って育てた。西村真琴はこの鳩を「三義」と名づけて講演会にも連れて行き、「三義」と仲良しになった日本鳩との間に小鳩が生まれたら、平和と友好の象徴として中国へ送り届けるつもりとも話していた。
 だが残念なことに「三義」は西村の豊中の自宅でいたちに襲われ、不慮の死をとげた。かれは「三義」をスケッチして、つぎの一首を添えて魯迅に送った。
西東 国こそ違え 小鳩らは 親善あえり 一つ巣箱に

 感激した魯迅は「題三義塔」という詩(七言律詩)を書いて西村に贈った(一九三二・六・二十一)。「塔」は西村の自宅の庭に葬られた「三義」の墓碑である。
 この詩の最後の一句「相逢一笑泯恩讐(相逢うて 一笑すれば 恩讐ほろびん)」は中国の人なら誰でもが知っている、有名なフレーズである。

 わたしは今年の六月「西域のたび」の最後の一日を上海で過ごし、魯迅記念館で「魯迅と日本の友人」の展示を見た。この「三義塔」をめぐる魯迅と西村真琴の交流、そしてこの詩「題三義塔」の展示も見た。
 案内してくれたのは、東京での「魯迅と日本の友人展」(主催:上海市人民対外友好協会、上海魯迅記念館、東京中国文化センター)の開幕式から帰国したばかりのZさんであった。そのとき、十二月開催の豊中展のことも話題にのぼったのであるが・・・。

 九月中旬、あの小さな島の問題で中国各地は「愛国無罪」を叫ぶ若者たちで荒れ狂い、小平の要請にこたえて松下幸之助が中国進出の先陣を切ったパナソニックの工場やジャスコ、平和堂などのショッピングセンターが破壊され、暴徒に略奪された。
 日中国交正常化四十周年のこの秋に、なんたることを!

 そのとき、たまたま北京にいたわたしの友人はつぎのようなメールを送ってきた(奥さんが日本人の中国人画家が、北京の友人から聞いた話)。
 「中国人の多くは、自分の国を一流の国だと偉そうに思っていたことだろう。
しかし、今回のデモで、そうでないことがはっきりと分かった筈だ。そして、この国を構成している国民の中に、どれだけ多くのレベルの低い人たちがいるかを世界中の人びとに知られてしまった」

 毛沢東の写真を掲げて荒れ狂った「愛国無罪」の暴動は、自然発生的なものかどうか、まだまだ検証され、議論もされるであろうが、これは、いまおく。
 事件直後の、わたしが耳にしたのは24日のことであるが、この豊中の「魯迅と西村真琴」展が「上からの指示により」中止と上海の担当者から伝えられたとのこと。まだ三ヶ月も先の行事であるのに・・・。
それよりも驚いたのは、10月6日にびわ湖ホールで開催の「日中オペラアリーナーの夕べ」に出演することになっていた上海の主要メンバーが不参加となり、急遽欧州で活躍中のメンバーの友情出演とあいなった。中国はあの小さな島の問題を「核心的」対象ととらえ、これまでの友好の歴史と文化交流のすべてを閉ざそうとしているのかと、心が冷える思いであった。

 九月末の谷村新司の北京公演も延期(中止)になった。その理由は明白ではない。不測の事態を避けるためというなら、中国の警備体制がそんなに信頼できないのかと逆に疑いたくなる。
かれのヒット曲“昂”はこの十余年来中国でのスタンダードナンバーであり、カラオケでのヒットチャートの上位を占める中国の人たちの愛唱歌であった。
それだけではない、かれはこの十余年来“上海アジア音楽祭”のオーガナイザーであり、主演者でもあった。04年からは上海音楽学院現代音楽部教授も兼任、音楽界における日中友好の架け橋にもなっている。「日中国交正常化四十周年記念事業」であるからダメとでもいうのだろうか、それではなんという狭い料簡ではあるまいかといいたくなる、味噌もクソも一緒では困るのである。

 九月末から十月にかけて、日中の知識人の声明が相次ぐ。
 先ず日本で作家の大江健三郎さんなどの声明「『領土問題』の悪循環を止めよう!」が発表され、これに刺激を受けた中国人の作家崔衛平さんが五人ほどの仲間と文案を練って十月四日にネットで「中日関係に理性を取り戻そう」と声明を発表、十三日現在ですでに六百人以上の署名が集まっているという(中国での署名は当局の注意・拘束の対象ともなる“勇気”のいる行動である)。東京新聞とのインタビューで崔さんは「領土争いを民間交流に影響させてはいけない。暴力的行為をしたのはほんの一握りで、ほとんどの人は理性的な考え方をしているのに、皆沈黙していた。・・・ネット上では政府と異なる意見も多い」と述べている。
 そうだ、黙っていてはいけないのである。
 十一月二十五日に開催される北京国際マラソンのホームページ上のエントリ―欄に日本国籍欄がないことを在北京の日本大使館員が見つけ、中国国際陸上協会に抗議、それが日本のメディアで報道され、中国のネットに転送されて騒ぎが大きくなった。この「日本外し」について、「(中国は)国際社会で大恥をかいた」「スポーツ精神に反している」「国際大会なのに視野が狭い」など大会組織委員会に抗議が殺到、十日同協会の沈純徳副主席は「北京マラソンへの日本マラソン愛好者の参加を拒否していない」と公式に声明する羽目になった(「レコードチャイナ」10月11日)。

 潮の目は変わりつつあるのだろうか、いや、これは変えなければならない。

 この小さな島の問題は、〇八年五月、胡錦涛主席と福田総理の両者で協議・調印された、いわゆる「戦略的互恵関係の構築」からみれば「核心的問題」にはならないと、わたしは思っている。
 そこで思い出すのは四十年前の国交正常化のとき、周恩来総理が編み出した
「求同存異」(小異を残して大同に就く)の考え方である。
 九月末に放映されたNHKBS1スペシャル「1972年“北京の五日間”こうして中国は日本と握手した」の制作者の鬼頭春樹さんがそれを本(NHK出版)にまとめられているが、そのなかで、中国共産党中央党史研究室研究員の章百家氏が「求同存異」を外交史のなかで高く評価して次のように述べたと紹介されている(P115)。
  
 「『求同存異』が周恩来外交の非常に重要な思想であるのは確かです。なぜなら周恩来自らもこう言っています。世界各国の歴史文化の背景はそれぞれ異なり、政治制度も異なるため、差異にこだわるなら合意は不可能で、双方の関係の発展を促すことはできない。だからこそ双方の共通の利益と共通点を探し出すことが大事だ。そうすれば国家間の関係が発展し、それでこそ世界平和を守ることができるのです。その背景には周恩来の、非常に思考の切り替えがうまく、相手の困難などを思いやることができる才能が挙げられます。だから彼は中国の思考法を相手に強制せず、いつも双方が受け入れられるような方案を探していました」

 問題を解決するには、犬の遠吠え、「遠交近攻」ではダメである。
 中国の人なら誰でもが知っている魯迅の「相逢一笑泯恩讐(相逢うて 一笑すれば 恩讐ほろびん)」を地で行く外交を早く展開してほしいものである。

(2012年11月14日 記)

古文書徒然其之四

2012-10-30 00:16:23 | はらだおさむ氏コーナー
猪名川の氾濫(3)
                         

    (五)

そのころ、尼崎城の堀に流入する庄下川(武庫川の支流)は濁流で溢れ、堤を崩しはじめていた。城下のいたるところが冠水・「水押」になって来ている。
この時の洪水について、武庫川流域関連の研究レポートは多いが①藻川流域の史料は少ない。

すでに触れた二件の絵図(「宇保 登文書」、「徳永孝哉文書」)はその数少ない貴重な史料である。
前者は旧下食満村(現食満六~七丁目)の、被災当事者の絵図で「元文五年申六月廿八日差上候」と洪水直後の作図であるだけにダイナミックで臨場感があるが、三食満領の堤の決壊とその「水押」状況を中心に描いている。提出先は不明である。
 後者は旧上坂部村(現上坂部二~三丁目)に残る絵図。作図時期は不明であるが、添え書きに「八月廿日迄二漸ク水留廿四日二仕立申候」とあるから、水留工事の終わった同年八月末以降であろうと推察する。十枚もある絵図の一枚(文書番号三三九-一八)を別掲する。この絵図は文字の関係で南北が逆さになっているが、川西の小戸、池田の神田、伊丹の中村・下市場の中流から、尼崎城周辺の庄下川に至る川や井筋の決壊状況を測量数字で示し、村々の所領関係まで書き添えている。さらに(四)で触れた猪名川東岸の豊中市域の被害(注5参照)まで明らかにした貴重な文書である。

 さらに「貴志隆造文書」は、旧富田村の一部(現園田一丁目)の被害状況を、つぎのように記している。 
 洪水発生五日後の六月十三日、「当村田畑損し申候」と田畑荒地は凡高〆三拾五石九斗弐合と届け出、さらに同年九月「木綿水押損毛」として米換算〆三石七斗六升五合を申請している(尼崎市史第六巻)。この合計は本高の五八・六%となる。猪名川西岸の富田村堤の決壊がなかっただけに、対岸の庄本村(豊中市)より少ない「水押」被害率で留まっている。
                  
①大国正美「近世後期の武庫川洪水と対策」(「歴史と神戸」通巻217号)ほか。

       (六)

 「火の玉は飛んだ」との書き出しではじまる新聞記事(毎日新聞、尼崎・伊丹版、昭和57年3月4日)を見つけた。
 「流れとともに」と題するこの企画記事は、同年1月5日スタートの第一部
から12月3日の第四部まで合計65本の連載もの、阪神間を中心とするいろいろな河川にまつわる話を取材、レポートしている。
 この「火の玉は飛んだ」は第二部「川と生活」の第九話にとりあげられた「元文五年」の洪水に関わる記事である。
 「目の前を突然、大きな火の玉が北から南へスーッと流れた」
 昭和三十六年の秋祭りの前夜、目撃したのは田能に住む女性であった。
 火の玉が飛んだのは猪名川右岸の旧堤防上、竹藪の中には地元の人が「ホウケントウの墓」と呼ぶ供養塔のあるところであった。
 元文五年六月九日の夜、猪名川が藻川と分かれて田能の中州をつくり、左へ大きくカーブする川岸に、子供を含めた多くの遺体が揚がったと記事は綴られ、
「大半は逃げ遅れた池田の遊郭の女性だった」と記している。
 本レポートの冒頭に記した「・・・北ノ口①京や太右衛門流レ・・・」(伊居太神社日記)とこの記事の「遊郭」が気になり、池田市史で調べ、市関係者にもヒアリングしたが不明であった。
 地元では、このとき田能村に漂着した夥しい溺死者をねんごろに葬り、三回忌に地元応徳寺の和尚が発起人となって溺死霊魂の慰霊塔を建立した。その後村人は毎年命日には供養塔(地元では放献塔と呼んでいる)の前で慰霊祭を営んでいる、という(「三ッ俣井組考」)。この慰霊塔は現在田能農業公園内に移設されている。
 池田徳誠氏が同書に書き記されている碑文(抄)を以下ご紹介する。

   惟元文五年庚申夏六月九日
   雷鳴折山俄水裏陸近迫人馬
   抱擁厥老幼溺死者不知□幾
   千万也・・・(以下略)

   トキニ元文五年庚申六月九日、山を裂くような雷が鳴り、
   豪雨は猪名川を氾濫させ、濁流は人畜に襲ってきて、
   老人や子供が逃げ場を失ない、溺死するものは数えきれません(略)
           (福沢邦夫先生現代語訳)

 
  治山・治水は政治(まつりごと)の基本である。
  歴史はそのことを教えている。
                          (了)
                          
 尼崎市立地域研究史料館で史料の提供とアドバイスをいただきました。
 厚く御礼申し上げます。(伊丹:古文書を読む会会報『遊心』第20号掲載) 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく)(番外)

2012-10-05 16:29:49 | はらだおさむ氏コーナー

                 
四字熟語      


 深夜 NHKスペシャル「北京の五日間-こうして中国は日本と握手したー」(2時間)を見た。懐かしいシーンの数々、そして、あぁ、このひとも、このひともお元気であったかと日中間の交流で遭遇したひとたちの証言を聞いて、日本も中国も、この四十年前の日中国交正常化にいたる歴史から学ぶべきことが多々あると思った。

 そのひとつが「四字熟語」にからむおはなし。
 当時の中国はまだ文革のさなかで、「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」「日本軍国主義」「インド拡張主義?」に囲まれた「四面楚歌」の状況下にあった。国内でも紅衛兵たちを巻き込んだ「純粋無垢」なものから、日々権力闘争に明け暮れる状況が続くようになり、経済活動は低迷、市民生活にも影響を及ぼす、まさに「内憂外患」の状況になってきていた。
 いかにして、この苦境から脱却できるか。
 毛沢東の諮問に答えて編み出されたのが、「遠交近攻」の外交方針。
ベトナムでは一戦を交えているがその停戦処理で苦境に陥っているアメリカと、その同盟国である日本と手を結ぶことはできないか。
キッシンジャーの電撃的な中国訪問にはどういう手引きがあったか知らないが、おそらく孫文のころからの人脈につながる海外華僑などのルートが活用されたのかもしれない。そして、「ニクソン訪中」で日本を揺さぶる。

わたしは岸内閣がひきおこした「長崎国旗事件」(1958年)で中断した日中友好貿易に、その前年から参画していた。事件のあったとき、「日本商品展覧会」武漢会場から急遽帰国された森井庄内展覧団副団長のおはなしをいまでも忘れることができない。まだ日本の敗戦から十数年しか経っていない当時、会場でへんぽんとひるがえる「日章旗」を見て、悔しさと憎しみにあふれる人たちによる不測の事故を避けるため、解放軍の兵士がこの「日章旗」を護り続けてくれていたという。それに比べて、わが岸内閣は・・・、このあと数年の中断はその後のわたしの人生の最大の教訓となって、今日に至る。
いま中国の“憤青”たちが大使の車から国旗を奪ったり、抗議行動でそれに火をかけ足蹴にするのはどうしたわけか。ひとりっ子の「愛国無罪」は、中国でも認められない行動である。

この「四面楚歌」、「内憂外患」は89年にも再来する。
「6.4」のあと、中国は西側諸国から「経済封鎖」され、江沢民政権は「内憂」に対して「愛国教育」、「外患」についてはその一番弱い環の日本を狙い撃ちにして「改革開放」を宣伝、わたしもその旗振りを務めて「浦東開発」に邁進した。
この番組で中国の証言者は、中国の改革開放と経済発展に日本が大いに貢献してくれたことを語り、感謝のことばを述べている。わたしは「天皇訪中」の実現で前向きの日中関係が実現するものと期待したが、それは甘かった。日本でも会津の人がいまだに長州に恨みの感情を隠そうとはせず、韓国は秀吉の「朝鮮征伐」を許さない。江戸幕府はその謝罪を含め朝鮮通信使の訪日を実現したが、「狷介固陋」な新井白石は財政難を口実にこの「友好交流」の道を閉ざしてしまう(中断)。加害者はすぐに己の非を忘れるが、被害者のこころの奥底にひそむ「怨」の炎はなかなか消えつきない。この道理を、どのように結わえあわすのか。

ふたつめは外交交渉のこと。
田中角栄総理の「ご迷惑発言」で交渉が難航したあのとき。
中国側は、それは加害者が被害者に謝る言葉かと広辞苑までひっぱりだして日本側を責める。田中は誠心誠意その謝罪の意思を中国側に説明して、中国の求める謝罪表現では
「日本に帰れない」と率直にその苦衷を述べる。最後はことばではない、こころである。毛沢東が「もうけんかはすみましたか」と幕引きを演じる。周恩来の演じた“外交術”がきわだつ。交渉決裂か、妥結か。とことんまで話し合うトップ会談が必要である。
 ウラジオストックで開催されたAPECのとき、野田総理は胡錦涛主席の発言をどのように受け止めたのか。なぜ国有化の契約を急ぐ必要があったのか。方針は変えることはできないとしても、その波紋は中国の方がはるかに大きい。その辺の根回しを含め、7月以降現在に至るまでの、水面下の交渉での食い違い、思い違いに外交交渉のまずさを覚える。

 1978年の「日中平和友好条約」締結交渉のときのこと。
 その第2条の、「覇権を確立しようとする他のいかなる国または国の集団による試みにも反対することを表明する」という表現、それは具体的には「ソ連修正主義」に対して、共同で反対することを求めるものであった。日本は二国間の条約に、第三国を対象とする表現を挿入するのはなじまないと締結交渉が長引いた。そのとき、中国はいまと同じように尖閣諸島を漁船軍団で取り囲み、自己の主張を強要した。文革が終わったばかりの中国は「無理難題」を押しつけてきたのであるが、小平の「再びこのような事件を起こすことはない」とのことばを信じて次の世代に問題を先送りしたのであった。そして、日本は第4条に、これは「第三国との関係に関する各条約国の立場に影響を及ぼすものではない」の文言を入れ、この条約の調印に合意したのである。
 以後尖閣周辺の漁業は「日中漁業協定」にのっとって、二年前まで比較的平穏に実施されてきていたのであった。
 
日本のざれうたに“嫌い嫌いも好きなうち”というフレーズがある。
世論調査でみる日本人の大多数の対中感情は好ましいものとはいえないが、それでも「一衣帯水」の両国は引越しのできない、重要な二国関係にあると認識している。しかし職務上のせいでもあろうが、TVでみる報道官のような感情むき出しの、強圧的な発言にはなじまない。いま日中の水面下で、まじめな対話と交渉が続けられているが、扇動はよくない。自己の主張を押し通すために、78年にやったとおなじように、いやそれ以上に民間の友好交流や経済交流にまで波紋を広げようとする強圧的な姿勢は決して好ましいこととはいえまい。
「無理を通せば道理引っ込む」とは、どの国でも、社会でもありえないことである。

いま、わたしは自分のこころによぎる思いをどのように表現すればいいのか、苦渋している。
「沈思黙考」、「隠忍自重」なのか、「切歯扼腕」なのか、そして、わたしの半生をかけた「日中友好」と「経済交流」とは一体なんであったのか、苦衷に浸る日々が続く。

                                (2012年9月25日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾五

2012-09-24 21:47:43 | はらだおさむ氏コーナー
                
一夜漬けのおはなし      


 選挙が近づいているという。
 こわし屋で有名な先生が「国民の生活が第一」を党名に、取り巻きやチルドレンたちを集め、“維新”は「参議院廃止、衆議院の定数を半分」など高邁な狼煙を掲げて、“信”を問うという。
 ことばだけは結構なお話であるが、なにがわかっているのかと自問した。
 たとえば消費税のこと、5%が8%、ついで10%になる、増税はだれでも
好ましいことではないが、それがどのように使われているかが問題。ヨーロッパではどうか、中国ではどうかと考えが及んで、中国の増値税のことが気になった。
 税率17%の増値税は、課税対象が異なるのでイコール日本の消費税ではないが、中国の庶民にとってそれは税負担と受け止められているのか。駐在経験の長い後輩に聞いてみたが生活上では消費税と受け止めていた記憶はないと、知人の中国人に尋ねてくれた。転送されてきたその返事では、一般的な説明のあと、政府高官の汚職問題についての憤懣が述べられていた。さもありなん、文革再現を思わせるような言動で人民の支持を受けていたと思わせるリーダーが海外などにも不正の蓄財を隠し持っていた、この国の上層部。庶民の不満は充満しているが、一党独裁でそのはけ口がない。とすると、日本のつまらぬメディアも、それはガス抜きになるのか、それともそれは、たぶらかしなのか。

 一日大阪へ足を運んで、年来じっこんの専門家(公認会計士・税理士)に教えを請うた。わたしにとって一番の問題は、あまり買い物の経験がない、日常的にレシートを見て、消費税のことを考えたことがないということであった。本を買う、そのとき裏表紙にxxx円+税とあるので、支払いのときは消費税を負担したと自覚する。しかし、コンビニなどでたとえばドリンクを買い求めても、レシートは見ずに捨てているが、話を伺いながらレシートを見つめると、表示価格の下に、内税xx円となっている。これは内税なんでしょう、業者負担の消費税なんでしょうと質問すると、さにあらず、表示価格の内にxx円の消費税が含まれていますよということ、と教えられた。それが増税になったとき即、表示価格にモロに反映されるとは日本の市場競争下では考えられないが、負担する税金が増えるのは間違いない。
 西欧の国々では、医療費や教育費は無税と耳にしていたので羨ましく思っていたが、日本でも医療費(社会保険対象)や授業料・教科書は消費税の非対象と聞いてあれあれ、と思った。
 中国でも書籍や新聞、ガス・水道は増値税も通常より安い13%に設定されているとか(電気は要節電のためか17%)。

 ところで、中国の増値税の仕組みはどうなっているのか。
 わたしは最終の小売段階では、内税とばかり思っていたが、さにあらず。すべて、外税であるが、小売段階では日本式の表示価格となっているため、消費者は気づいていないだけの話とか。
 中国の増値税の仕組みのなかで、発票(ファーピャオ)という公式のインボイスが重要な役割を果たしている。この発票は税務当局発行のもので、すべてこれで管理されている(一時偽の発票で混乱したこともあったとか)。そして、その税率は17%と表面的に高く見えるが、実際は販売額x0.17-仕入額x0.17になるので、納付税額は数パーセント以下となる。
 たとえば仕入れ金額80円、販売額100円の場合、(100x0.17)
マイナス(80x0.17)、つまり17円-13.6円=3.4円で、この場合、販売額100円の納付税額比率は3.4%になる(これは業者間の取引のケースで、最終消費者が負担する基本増値税率は17%である)。
 中国の消費者(含む駐在員)も日常生活では税負担の意識がないのは、わたしと同じようなことなのであろうか。
 それにしても言い値では買わない、値切らなければ買い物をした気がしない中国の人を相手とする小売店の、税務処理はどのようなかたちで実際に処理されているのであろうか(日本では一千万/年以下の小規模業者は無税であるが、中国でも小規模販売者は仕入れ額控除無しの、販売額の3%増値税が課されているようである)。

 また、サービス業や不動産業は増値税の対象ではなく、営業税3~5%が内税として課税され、これは地方税であるとか。ウ~ン、地方都市の建築ラッシュの裏にはこの税制があるか、業者と役人の癒着が問題になるのもゆえなしとしないか。
 また、先述の増値税は75%が中央の国家税務総局に納付され、25%は地方財政として運用されている由。日本のように中央からの地方交付税システムではなく、地方財政は営業税を含めてかなり豊かなようである。

 中国の税制に、遺産税(相続税)や贈与税がないのが気になった。明・清時代じゃあるまいに、付け届けから袖の下に至るまで制度的に野放しになっているのはどうしたわけか。これでは地方は言うに及ばず、中央高官から解放軍に至るまで汚職まみれになるのは自明の理で、庶民の嘆きと憤りはマグマのように内にたまる。

 事務所に税理士法人キャストの三戸俊英公認会計士のペーパー『中国税務』があった。営業税の、増値税への移行が上海などから暫行されているようだが、
内容は専門的でよく理解できなかった。中国で法の制定は、暫行・試行から制度化されていくのが通例なので、大都市から暫時地方へと改正・実施されていくものと思われる。

 さて、日本のこれからの消費税のことなど。
 素人のわたしが云々できる問題ではないが、将来的に消費税の高率化が避けられないとすれば、まず行政や立法機関の自らの身を切る姿勢が必要であることはいうまでもない。欧州のように生活関連や教育・医療・文化関連品目は無税または低率とする分離課税とすることと、個人や企業の寄付行為を促進するためにその無税化を図ることなどをベースに議論を進めてほしいと考えている。低所得者などへの現金支給などは、怠惰な国民をふやすばかりである。一時期の中国ではないが、自力更生、刻苦奮闘が生活の基本であろう。

 いま思いついてネットサーフィンし、本田直之さんの「北欧が世界幸福度ランキングトップにいる理由」を見つけた。

 「北欧諸国があらゆる『幸福度ランキング』で上位を占めているのはなぜか。世界的に見ても豊かなはずの日本が、どうして81位なのか(2010年ギャラップ『世界幸福度調査』より)」
 そして、デンマークの団体勤務のリナ・インヴァンセンさんの次のような談話が紹介されている。
 「所得の多い人はかなりのものを払う。所得が少なければあまり払わない。平等とまではいかないかもしれないけれど、肩幅の広い人が社会の安定を担っていく。もし何かが起こっても、今の生活を維持していくことが許される。そこにすごく安心感があるんです」

 日本もこのような国になってほしいと痛感した。

(2012年9月12日 記)

古文書徒然其之四(2)

2012-09-17 21:46:10 | はらだおさむ氏コーナー
猪名川の氾濫
~ 元文五年(1740)の洪水を中心に ~

(三)

 慶長八年(一六〇三)から慶応三年(一八六七)まで二百六十五年間の江戸幕府の時代、「江戸時代年鑑」(遠藤元男・雄山閣)によると、洪水は全国で四年に三年、畿内では四年に一年の割合(平均)で発生している⑦。
 元文五年(一七四〇)では、六月京畿水害、閏七月京阪に大水害と記載されている。
 猪名川の上流から下流までの全域の状態はどうであったのか。

流域の自治体史を上流からひもといていくと・・・。
「猪名川町史」、ふだんはおだやかな猪名川も、いったん豪雨に見舞われると手のつけられない暴れ川に変身すると、慶長二年以降の洪水爪あとの記録が記載されているが(同2巻)、この元文五年については前年の普請工事(同4巻「南田原自治会文書」文書)などが功を奏したのか、銀山町の四ヶ所の土橋すべて流出(同歴史年表)との記載しかない。
「能勢町史」(第3巻)の「洪水不作ニ付平野村御普請願」(元文五年申十二月「藤井武雄文書」)では、「今年之儀、以上五ヶ度之大洪水ニ而夥敷損亡仕」の記述がある。北攝の山々に降りしきった豪雨は能勢から多田銅山の夫婦間歩などを水没、操業中絶に追い込んでいる(「かわにし」第2巻二七二頁)。
銅山を越えた濁流は、一挙に一庫川にあふれ、流れ下る。

 一庫村から多田院の堤を破り、猪名川を駆せ下った土石流はいまの池田市北部の古江町の堤を突き崩し、川西市の出在家町(現川西市役所附近)を覆い、久安寺川(余野川)を下ってきた濁流は、猪名川本流との合流地点・池田市木部町の田畑を埋め尽くす。
 伊居太神社日記は六月九日の当日、つぎのように記している。
 「・・・古江土橋流れ、・・・久安寺橋落箕面橋今年大□□施主橋落ル、出在家ノ上かも湯ノ下より切候へ共松はへ故砂入不申、出在家へ水入古眼へ水泥入、
火打屋の下より小部村の間栄根寺迄田地へ水入綿なとおこす処も有、・・・」
 火打は、川西市役所の西、栄根はJR川西駅の附近になる。
 
伊居太神社(イコタサン、上の宮)の由来については諸説はあるが⑧、いまの社(やしろ)は五月山ふもとの綾羽町にある。猪名川の東岸に面しているが、濁流は五月山に阻まれて冠水は木部町から対岸の小花、栄根に達し、いまの猪名川運動公園を覆って伊丹市域へと流れ、さらにリバウンドした逆流は東岸の堤を崩して神田(こうだ)村に襲いかかっている⑨。
 ところでこの日記、筆致はきわめてドキュメンタリ風に洪水の流れゆくさまをビビッドに描き出しているが、この小文の冒頭に引用したように豪雨は九日の夜中から発生している。
 「十日、ふり、暮方西ノ口へ見ニ行、昼迄古江河迄行、夜ふり止」と行動を開始したのは翌日から。九日の洪水の流れゆくさまは、後日の取材?(氏子などからの報告・情報収集)による記述であろう。なにはともあれ、洪水は猪名川の中流域を襲って行くのである。

 宝塚市平井の奥、満願寺から流れる最明寺川は川西市の栄根附近から猪名川に沿って南下する。その流域の「加茂井組」には、いまの川西市の加茂、久代と伊丹市の北、北のうち鋳物師、辻、伊丹坂と伊丹郷町がふくまれていた(「かわにし」第2巻)。
 伊居太神社日記の六月九日はこのように記録している。
 「・・・中山海道より小花へ切レ込、小花西へ川流レ、栄根へ水入、小花つつみ辻道より切、辻へ水入、下加茂家流れ屈(崩)レ七人死ス。・・・有馬海道ゑびやひらきより・・・久代村へ水入、・・・新田の南切込、辻の北村水ニひたり・・・」
いま、文中に句読点を入れながら、絵図をにらんでいる。
六月九日の伊居太神社日記は、伊丹市域の「辻」⑩までの濁流と浸水の被害をこのように記録しているのである。

                  
⑦「江戸時代年鑑」より筆者が集計、分析
⑧小野寺逸也「式内伊居太神社の所在地比定をめぐる諸問題」(「地域史研究」第7巻第2号通巻20号、一九七七)
⑨「徳永孝哉文書」にはこの洪水の切所の詳細が中流域まで含め図示されている。
⑩小松左京氏はこの地点を「摂津のへそ」と呼ぶ(「伊丹からみた摂津」)。大国正美編著「古地図で見る 阪神間の地名」にはその由来が述べられている(P九〇~九一)。


(四)

照顔斎の「有岡古続語」(坤)⑪の文末近くに、「祖父に及聞事」と題してこの水害の思い出話が記されている。

「元文五年申年六月九日夜洪水にて上在ハ勿論下市場外崎夥敷人死有之、則下市場入口に溺死の石碑ある也、・・・」⑫

元治二年(一八六五)の記述である。
百二十五年前の水害が「祖父に及聞事」と語り継がれてきている。
それは、いまから明治拾年代の事件を思い出すような昔話になるのであるが、それだけに当時の被害の大きさとひとびとの恐怖が偲ばれる。
「角川日本地名大辞典・兵庫県」によると、下市場(しもいちば)村はいまのJR伊丹駅の東南、藻川に面した東有岡町附近、外崎(とざき)村はその西の伊丹台地の下に立地、隣接の高畑村も含め、元文五年の洪水で流失、数年後の延享三年ごろまで離村のやむなきに至っている⑬。

猪名川と箕面川の合流地点・中村にも被害が及んでいた。
「伊丹古絵図集成・本編」(伊丹資料叢書6)に、八木哲浩氏の解説がある。

「元文五年(一七四〇)六月九日夜から翌十日にかけてと閏七月一日の大雨による出水で、近世でも例が少ない大洪水となった。ことに六月の洪水では猪名川・武庫川とも各所で決壊し、大きな被害を出した。
中村地先の猪名川堤も切れた。それだけではなく、猪名川から取水し中村の村なかを流れる中村井溝も四ヵ所で切れている。また箕面川も上流瀬川村(箕面市)で切れ、その被害は全村域にわたった」
そして本書五五頁には、「元文五申年洪水ニ付堤切水押絵図 摂州川辺郡中村」と(裏書)された本絵図が掲載されている。

いま、「元文五年猪名川藻川洪水絵図」(「宇保 登文書」⑭を眺めている。
池田川(猪名川)と藻川に挟まれた通称「島之内」の北端・田能村へは、本流がその右岸(西)の堤を大きく破り「三ツ又井」の西溝、中溝を伝って中食満領から藻川(左岸)へ突っ込んでいる。「三ヶま(上・中・下食満)領内三丁之間堤なし」とある。
藻川の上流ではすでに「上食満領切所」と「上食満村切所」があり、さらに本流の堤を破って藻川に流れ込んだ濁流は、藻川中流の右岸(西)の堤も破って三食満(本村=藻川西岸)内井溝を南流している。
藻川はさらに中流と下流の左岸で二箇所、島之内側の堤を破っているが、水の流れは藻川西岸に押し寄せて瓦宮村に達している。
本絵図の猪名川本流の切所は先述の一箇所しか描かれていない。
「豊中市史」本編・史料編でも、元文五年については千里川からの井堤、庄本の悪水堤の小決壊の図示があるだけをみれば、この地域の被害は藻川西岸に比べ小さかったということになるのだろうか⑮。

本絵図は四色(カラー)で、御料・私領、堤、道、川溝が区分、切所箇所・間数も明示され、濁流が波立ち流れるさままで描いている。
「洪水六月九日夜八ツ時 元文五年申六月二十八日差上候」とある。

もう、濁流は井溝からあふれ、尼崎藩領内に「水押」して来ている。
元文五年申六月十日の夜明けである。
(つづく)
             
⑪「有岡古続語」伊丹生まれの歴史家・梶曲阜(安政十一年~明治七年)が元禄以降の郷土に関する様々な事情や伝来の書物を後世の人に伝えたいと元治二年(一八六五)に著わした乾・坤2冊の書。
⑫「災害情報データーベース」によると、死者は四十二人とある。
⑬流域の地名を「角川」と「平凡社」の地名辞典ですべてチェックしたが、元文五年の
 洪水被害に触れられていたのはこの三箇所のみであった。
⑭藻川流域の被害状況をダイナミックに描いていて迫力があるが、上坂部村の「徳永孝哉文書」に比べやや精度が乏しい。
⑮「徳永孝哉文書」によると、猪名川本流の西岸には切所の図示はないが、東岸の利倉(豊中市域)に二箇所、千里川口北堤に一箇所の切所をそれぞれ示している。さらに「郷土~庄本の歴史を中心に~」(郷土の歴史研究会)では、元文五年の洪水に関する庄本村について、宥免高(石)は二三九・八六一石で村高の九二・七%が全滅状態、土砂入水押が原因と記している。これらの史料は豊中市域にも被害が及んでいたことを物語っている。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾四

2012-08-20 22:36:23 | はらだおさむ氏コーナー

                 
なんであったのか、この四十年      


  わたしはいま、加古隆のCDを聴きながらこの小文を書きはじめている。

  わたしがはじめて加古隆に会ったのは、上海音楽庁(コンサートホール)の楽屋であった。96年の秋のこと、上海の友人が日本の有名な音楽家と紹介してくれたが、わたしはそのときまでかれがNHKスペシャル「映像の世紀」の作曲家であるとは知らなかった。
  満員の会場の一番前に友人と座り、はじめてそのピアノが奏でる調べに引き込まれた。
  帰国後、わたしは知人たちのフアングループに加わって、京阪神で開催のかれのコンサートを数年追っかけた。サイン入りもふくめ、いまも手元に十数枚のかれのCDがある。
  96年の中国公演は、国際交流基金の主催によるものであった。このときは、中国公演(北京、上海)のあとスリランカ・インドなどへの公演旅行が続いたはずである。
  
  それから十余年後の、上海万博のとき。
  在上海日系コンサル会社の創業者・菫事長であるわたしの知友が、玉三郎主演、上海昆劇団・蘇州昆劇連合公演の昆劇「牡丹亭」の開催に深くかかわり、これを成功させた。なによりもすごいのが「人間国宝」玉三郎が、昆劇のセリフをすべて原語で語り、演じたことである。日中の文化交流もここまで深化したかと思わせるできごとであった。
  そして昨年の5月、日中韓三国首脳会議で来日中の温家宝総理が、会議の合間を縫ってSMAPのメンバーに会ったこと。上海万博会場での公演が「あの事件」で流れ、そしてこの年の秋、北京公演が確定していたSMAPは温家宝総理に♪世界にひとつだけの花♪を中国語バージョンで披露したのであった。

  七月末に白内障(両眼)手術で数日入院したとき、わたしは加古隆のCDをベッドで聴きながら、過ぎし日々を思い出していた。
目がすこしはっきりと見えるようになった。
今年は9月に日中国交正常化四十周年を迎える記念すべき年でありながら、日中双方の世論調査ではお互いに好感情を持たない比率が過去最高、つまり両国民、とりわけ日本人の対中感情は悪化の一途をたどっている。
  四十年前のあのとき、百貨店の「大中国展」会場で正常化実現のクス球が割れた時、手を取り合って涙したのはなんであったのか。

  いま加古隆の「パリは燃えているか」を聴きながら、考えている。
これは前述NHK「映像の世紀」のオリジナルサウンドトラックである。
  独仏国境の街ザールは、普仏戦争のむかしから互いに領有権を主張して二度の大戦の発火点となり、戦場となった。そして、いまは不戦の誓いも新たに緑したたる独仏公園になっている。

  尖閣問題は、来年三月地権者と国との使用契約期限が満了したとき、新たな局面をむかえる。
  このとき、日本の対応いかんで中国の“憤青”たちが日本大使館や企業を襲撃する事件がおこらないとはいえない。東京の中国大使館などを取り囲むひとたちの動きも出るかもしれない。両国の交流は、民間ベースも含め一頓挫するのは目に見えている。それを承知で、拱手傍観していていいのか。
  不測の、偶発事件を避けるために両国首脳間にホットラインはあるのか。
  この島を、平和と友好のシンボルの島にするための話し合いはどの程度進められているのか。犬の遠吠えでは、困るのである。

  ビジネスと政治の世界は異なるだろうが、交渉ごとの基本は同じではないだろうか。
  わたしの経験から、交渉では大いに論争し、喧嘩をすべし、といいたい。
  そのなかで、お互いの本音と妥結点が探り合える。そのときの鉄則は、ケンカをしても憎しみあってはならない、ということである。
  80年代初めの、まだ合弁企業実施細則もないころのこと。
  上海での日系製造業合弁契約第一号交渉のとき、あまりにも高飛車な、無理難題な相手の要求に、ホトケの原田さんもついにキレてテーブルをたたき、
 声を荒げた。先方の責任者は席を立ち、姿を消した。交渉決裂かと腹をくくったとき、相手はヒルメシにしようと誘ってきた。無言の、まずい食卓であったが、ふと見ると隣席で先ほどまで大声で遣り合っていた海外華僑と公司の担当者が談笑しながら箸をつついている。交渉(ネゴ)術を教わった気がした。そして、たとえまずい食卓であれ、席をともにしたことは交渉継続のサインを出したことになると思った。

  アモイの目と鼻の先に台湾領の小金門島がある。
  朝鮮戦争休戦後の58年、アモイから台湾の前線基地兼司令本部のある金門本島に数十万発の砲弾が打ち込まれ、小金門島は「大陸反攻」の前哨基地であった。わたしがはじめてアモイを訪れた86年9月では、午前中は小金門島からジャズが流れてきて、アモイからは午後京劇の唱(チャン)が拡声器で伝えられる音楽の応酬になっていた。二回目の訪問の92年にはそれもなくなり、沖合いには中台の軍艦が双方の漁民の密貿易(辺境貿易?)を見守っていた。いまはアモイから金門島へフェリーがひっきりなしに行き交い、小金門島には「大陸反攻」に代って「三民主義 統一中国」のスローガンが岸壁に書かれている。軍事対立から、今日の状況まで数十年の時間がかかっている。

  来年の三月、地権者から尖閣諸島のいくつかの所有権が東京都経由で国に移転するであろうそのとき、日本政府は中国と対立を激化させるだけでいいのか。わたしはこの島を平和と友好のシンボルにするため、中国と積極的に交渉すべきではなかろうかと思う。
  まず周辺航行の船舶の安全のため灯台を設置する。そして、緊急時のためのヘリポートの建設と台風など悪天候時の緊急避難港をつくり、国籍を問わずあらゆる船舶の受け入れを認める。この費用と管理は日本が行うが、その運用などは適宜関係諸国と話し合っていけばいいのではないだろうか。
  日中両国にとっての「核心的利益」とはなにか、大局的な見地からみれば08年5月に胡錦涛主席と福田康夫首相が署名した「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」の誠実な履行こそが求められるのではないだろうか。これが一番最近の、国としての約束ごとになる。
  そのために政府は当然、企業家も学者も、各界各層の団体・市民も、40年前のあのときのように熱意を持って問題点を整理し、話し合いを進めるべきではないだろうか。いまは40年前と違っていろんなパイプが存在しているはずである。日中間の危機的状況は、話し合いのなかで解決されなければならない。

  加古隆のアルバム「静かな時間」に収録の数曲は、上海生まれの世界的二胡奏者・姜建華(ジャン・ジェンホア)とのコラボレーションである。ピアノと二胡の合奏によるその調べは、「パリは燃えているか」よりこころを慰めてくれる。日中関係のあすもそうであってほしいとおもう。
                 (2012年8月15日 記)
   「パリは燃えているか」http://www.youtube.com/watch?v=Iv-FTxisEpM

古文書徒然其之四(1)

2012-08-12 21:04:12 | はらだおさむ氏コーナー

猪名川の氾濫
~ 元文五年(1740)の洪水を中心に ~




(一)

 「六月九日、・・・九つ時くもり七つ時よりふり、・・・暮六つ時神鳴(雷)夕立六つ過よりひかり大夕立、夜大雷火に光り大夕立、夜中時より門々ニ火ヲつる。大水夜中時より北ノ口①京や太右衛門流レ、・・・流レ、木部新田流レ出在家ノ上切レ山王岩下切れ、中山海道より小花へ切り込み・・・」(池田市史・史料編第二巻「伊居太神社日記」)。

 元文五年(1740)六月九日、畿内全域に豪雨が降り、とりわけ摂州川辺郡周辺では大きな被害が出た。
 猪名川下流の尼崎藩杭瀬村にある真宗西本願寺派末寺・西光寺の住持了諦は、「家の記録」②に「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」と認め③、六月十三日付けで尼崎藩の寺社奉行田中清助様あて以下の被害届けを出している。



 一 当寺所持之田地水押
     高拾九石壱斗壱升六合九勺
 一 死人    無御座候
 一 牛馬怪我  無御座候
 一 潰家    無御座候
 一 寺内倒木  無御座候

   右ハ当月九日之夜満水ニ付、水押入及破損候儀
   書付指上申候 以上

     元文五申六月十三日
                  杭瀬村 西光寺 印

田中清助様

                        
①池田郷町の能勢街道に通じる「北ノ口」。いまの池田市新町、猪名川に面し対岸は小部村。
②「家の記録」(「源光寺文書」)は尼崎市杭瀬西光寺の元禄三午(1690)六月~天明七年(1787)六月の記録。本山からの連絡を含む宗教行事、御触れなどの写しが中心であるが、ときおり本文のような身辺記述もある。
③本記述は、「右案文同事ニ而」と閏七月、八月の三度の「水押」時に寺社奉行へ「書付差上候写」に書かれている。この覚の末尾に小さく追記されたもので、挿入した時期は不明であるが、出水後の伝承を書き添えたもの。

       (二)

 猪名川は、猪名川町の大野山から発し、渓谷を南流して屏風岩の狭窄部を通って南下、大小あわせて42本の支流と合流しながら兵庫県と大阪府の境界流域を通過、戸の内の南で神崎川に合流して6.5km下流で大阪湾に流入する。流域面積383平方km、幹線流路延長43.2kmの典型的な都市河川で、流域には猪名川町、川西市、宝塚市、池田市、伊丹市、豊中市、尼崎市の6市1町が連なっている(国土交通省ホームページなど参照)。

 「摂津国名所旧跡絵図」①でその流れを辿ってみる。
 能勢の奥から多くの枝川が銅山(川辺郡)を越えて一庫川に集まり、多田院の手前で猪名川本流に入る。箕面(豊島郡)の奥から五月山の後背を通り抜けてきた久安寺川(余野川)と鼓滝の南で合流、川辺・豊島の郡境に沿って南下する。左岸(東)に池田郷町、右岸からは中山寺への巡礼道や小浜宿に向かう有馬街道が連なる。郡境は猪名川からすこし東に寄り、伊丹郷町が近づいてくる。荒木村重古城附近(現神津大橋南)で本流から藻川が分かれ、いまの尼崎市域②に入る。本流は岩屋の下(しも)で千里川を合流し、再び川辺・豊島の郡境に沿って下る。この流域は水争い(水論)の頻発した九名井(原田井)の地点である。この先で「池田川」がはじめて絵図に大きく「猪名川」と記載される。州到止(すどし)で神崎川に合流、藻川も戸ノ内の先で神崎川に入る③。対岸は西成郡加島、「カンザキノワタシ」の右岸に「遊女塚」がある。

 元文5年6月9日の夜半から10日にかけて、杭瀬村の西光寺周辺に流れ込んだ「水押」は、どの川からきたのであろうか。
 「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水 池田川筋切所多当寺境台(内)へ水入」来たのは、上流の決壊箇所から灌漑用水路を伝って溢れ出してきたのか、それとも近くの左衛門殿川の堤が決壊したのであろうか。「当寺所持田地」は冠水したが、死人・牛馬怪我なく、潰屋・倒木なし、という被害届からみれば、この書き出し―「能勢郡より多田郡之山を吹出ス水」―は、上流地域からの被害の大きさを漏れ伝え聞き、恐れおののいているかのようである。
                       
①「摂津名所図会でみる猪名川の今昔」(国交省猪名川事務所編)の付図。
②藻川流域の村々は当時尼崎藩領ではなく、直領、大名、旗本領またはそれらの入組が多かった。
③この絵図では藻川は直接神崎川に流入しているが、現在は昭和40年前後の戸ノ内、利倉の捷水路工事の結果、猪名川と合流後神崎川に注入している。藻川の流れはときおり移り変わっていたのだろうか。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾参

2012-07-18 08:51:20 | はらだおさむ氏コーナー

                 
ニホンメシヤ・事始め      


 先日 十余年ぶりに夜の王府井(ワン・フーチン)を歩いて、その変貌ぶりに感嘆した。そして、そのむかし、この街の裏筋に“ニホンメシヤ”の原点たる「和風」があったことを思い出した。

 初訪中時の北京の宿は、いまも崇文門にある新僑飯店(当時は3星級)であった。そのころ、ここには日本の新聞社、商社の駐在員やわたしのような短期滞在者が3~40名宿泊していた。まだ国交正常化の8年前のこと、“専家”といわれる技術者などをふくめても、北京在住の日本人はそれほど多くはなかった。
 とても採算ベースに乗りそうもない当時の北京で、なぜ日本料理「和風」が開店していたのか。
なんでも、“民間大使”として北京に滞在中の西園寺さんと中国の対日窓口を務められた廖承志さんの肝いりによるらしい。
前年の秋、北京ではじめて開催された「日本工業展覧会」の団員用に設けられた“日本食堂”の什器備品を、閉会後譲り受け、日本のコックさんの技術指導で開店にこぎつけたものという。

 わたしはこのとき、2月なかばから二ヶ月ほど北京に滞在して、上海(商談)、広州(交易会)経由で帰国した。いま当時の訪中記『中国 見たまま聞いたまま』を本棚の隅から探し出してみると、“お茶漬けの味”と題して「和風」のことも書いている。
 酒、醤油からタクアンにいたるまで、すべて輸入品であったらしい。
 「畳敷小部屋数室のほか、椅子席もあり、スキヤキからエビ天、お寿司はもちろん、チキンライスからカレーまでそのレパートリーはひろい」と記している。
わたしはどうも週一のペースで通いつめていたらしいが、どなたとご一緒であったのか、記憶が定かでない。帰国前に、お世話になった公司の方々数名をご招待してスキヤキパーティをしたことは覚えている。このときは知人に電話予約(中国語)の特訓を受けて申込み、それでも心配になって当日は半時間ほど前に「和風」に出かけていた。
 料理ごとの採点も記している。
 「ステーキ50点、カシワの水ダキ80点~70点(日によりバラツキ)、刺身50点(努力賞)、酢のもの70点、海老天90点、スシは巻70点は甘いか、ニギリは努力賞50点、赤ダシ80点、ヒネタクアンは輸入もので100点」という次第で、わたしの定番は「タクアンに赤ダシ、ときには海老天プラスの
お茶漬け」となっていたようだ。

 それから20年後の上海。
 わたしは貿易の仕事をやめ、対中投資推進の団体に関与して毎月のように上海に出かけていた。そのころ上海の常住日本人は、数十名くらいであったろうか。銀行や商社も駐在員は1~2名くらいの規模であったが、国交も正常化して10余年、出張ベースのビジネスマンや旅行者、留学生もふえてきていた。
 日本料理店は虹橋空港近くのホテルにひとつあったが、市内から離れており、常住者にとっては値段的にも“ハレ”用のものであった。
 上海当局からの要望もあって、友好団体の引き受けで“日本料理研修生”が大阪の料理学校で研鑽に励み、さらにアフターフォローもあって上海で「日本料理店」がオープンした。市内目抜き通りのホテルの一角、立地条件は抜群であったが、駐在員によると日本の板さんたちが帰ると、容れものは日本だが中味は中華料理と不評、間もなく“開店休業”とあいなった由。
 そんなあるとき、友好団体の役員から大阪のさる日本料理店の上海出店の斡旋を依頼された。江沢民市長の時代であった。当時上海への企業進出は製造業に限定されていた。日本料理なんて、トンでもない話、と一言のもとに突き返された。雌伏二年、トップが替わって朱鎔基市長の登壇とあいなった。上が替われば政策も変わる?と勇んでネゴを開始した。スンナリと話が前に動いたわけでもなかったが、朱市長の“ひとつのハンコ”政策をたよりに“頂上作戦”の結果、既存のホテル内での合作経営なら可能性ありとの感触を得た。
 88年の秋、大阪の日本料理店の社長や幹部と上海市旅游局傘下のホテルをいくつか見て廻り、市中心部ホテルの23Fの1/2スペース・中華料理店「望海楼」のあとに出店を決めた。その契約締結までにもいろいろと問題はあったが、1Fにカラオケ店“雲雀”も併営することになり、89年3月やっと調印にこぎつけたのであった。
 「望海楼」は、海につながる黄浦江が望めると80年代のはじめまではそれが売りのレストランで、“トップオブ・シャンハイ”の異名もあったが、周辺に高層ビルが増え、客足が遠のいていた。日本側は“トップオブ・オオサカ”、よろしま、日本料理の“トップオブ・シャンハイ”にシマヒョじゃないかとサインしたのであるが・・・。
 89年5月、改装を任された大阪の某百貨店建装部の担当者が上海に赴任して間もなくあの事件が発生、7月社長からどうしまひょ、と相談を受けた。話をはじめてから三年、社長、ここでやめたら、トップオブ・オオサカが泣きますでぇ~と口説いた。よっしゃ、わしもオトコや、やるでぇ~、やりまひょ・・・。
 90年1月、カラオケ雲雀で開かれたオープニングセレモニーで♪いい日 旅立ち♪を合唱して、開店。小平の「南巡講話」の進軍ラッパが鳴り響く92年まで赤字累積の日が続く。
 ヒマなときにはと大阪から仲居さんたちが交代で上海へ来て、女の子たちの着付けから接客の対応などを教え、日本で半年以上研修した中国人調理師をさらに日本の一級調理師がオンザトレイニングすること数年、95年までに累積赤字を解消した。
 客席は、十数人は入る掘りごたつタイプの座敷が二部屋、衝立などで仕切られた四人掛けのテーブル席も十有余と総収容数は八十名になんなんとするが、いまから見ると小部屋もあれば利用頻度が増えるのかもしれない。

 開店からすでに二十余年がすぎた。
 日本人総経理が亡くなり、中国人の一級調理師が経営のあとを引き継いで頑張っている。日本で焼き上げて持ってきた舞妓の陶板画も広間に飾られ、空調やスプリンクラーも、そのままであるとか。
 わたしは上海へ行くと、よくこの店をのぞく。
 日本の友人から義理堅いなぁといわれ、滞在が短いので新しい馴染み先をつくる時間がないよと言い繕うが、本心はどうであろうか、やはり生んだ子の成長を見続けたいのであろうことよと・・・。
 
                    (2012年7月12日 記)   

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾弐

2012-07-07 22:48:05 | はらだおさむ氏コーナー
                 
風が招(よ)ぶ      


 「3・11」のあと、当事者能力を喪失した東電と取り巻き御用学者の「想定外発言」を耳にして、怒り心頭に達したわたしたちであったが、それから一年が過ぎ、定期点検などですべての原発が停まったあと、その再稼動をめぐってまたぞろ政・官・学・財集団の怪しげな論理が再浮上してきている。

 この一年、いろんなことを考えてきた。

 原発施設の安全性も問題ではあるが、原発はそもそも「使用済み燃料」(ウランやプルトニウム)のリサイクル技術の確立が見込めないまま増設されてきた「欠陥発電装置」であること。そしてこの「リサイクル事業」に毎月各家庭から200円程度の費用が電気料金として徴収され、青森県六ヶ所村の「日本原燃」に注ぎ込まれて、その総額がすでに十数兆円に達していることなどはあまり公にされていない。
 また、原発は水力や火力発電と異なり、一度運転をはじめると意のままに止められないので、特に夜間の余剰電力消化のため「揚水発電所」がその一体として敷設され、下流の河川や池から上流のダムへ揚水・貯水されて、昼間に必要に応じて「水力発電」するシステムが付帯している。しかし、この揚水発電所の建設費用は「原発」にはカウントされていない。
 「原発」は安くて・安全で・クリーンな発電装置ではない。
これは、つくられた(偽造)「安全神話」なのである。
 さらにいえば、原発は冷戦時代の産物であるといえるのかもしれない。
 60年代の中葉、アメリカで開発された「溶融塩(トリウム)炉」はクリーンな発電装置として期待されたが、兵器としての「原爆」の原料になるウランやプルトニウムを生産しない原子炉であるがゆえに、76年に米政府により開発が禁止されている。
 ノーモア・ヒロシマ!の日本人に、「原発」の安全性を強調する「平和教育」が70年代からはじめられたが、それは「大気汚染・公害反対」に便乗した「クリーンエネルギー」の宣伝でもあった。だれが、国民をあざむいたのか・・・。

 日本の電圧は世界(220V)に通用しない100ボルトであり、明治以来の慣習をそのまま持続して、国の東西間で異なるサイクルを使用している。
さらに、供電・送電・配電を一手に扱う電力会社が地域独占体制として存在している。日本の電力は「政官財」の伏魔殿に支配されたまま今日に至るのであった。

 「原発」廃絶のグランドデザインもプロセスも示されてはいないが、わたしは先ず現状の供・送・配電システムを分離し、新規供電事業の参入がしやすくなるシステムの構築が先決であろうと考えている(まだその供電率は1%台に過ぎない)。通信業界の、NTT寡占体制時代から今日をみれば、その実施は時間がかかっても不可能なことではない。経産省はその実施プランを暖めているようであるが、その実現を阻む「既得権益」集団の圧力も根強い。目先の「夏場電力不足」騒ぎのみに目を奪われていてはならないのである。

 昨夏 東京の友人から「サロベツ原野の風車群」の暑中見舞いが届いた。





それは涼風を覚える美しい光景であったが、道路の両側に28基の風車が立ち並び、発電能力は一万戸/年の実需規模であるらしい。わたしは十余年前に見たトルファンの砂漠に立ち並ぶ風車群を思い出し、それのいまを見たくなった。風がわたしを招(よび)、わたしを西域へのたびに連れ出したのである。

ウルムチからトルファンへの道路は片道二車線に拡幅され、行き交うクルマでごった返していた。トルファンは降雨量が年間数ミリの乾燥地帯であるが、
この日の空模様は怪しい。発電基地の体感風速は20メートル級で、からだを風で押し倒されないように支えるのが精一杯であった。もちろん、提供写真(下)のような青空ではなかった。ガイドは一基千キロワットの発電量と説明するが、参加者のひとりは五百だろうなぁ、と。わたしは、まったくわかりませ~んだが、これは十余年前の牧歌的光景ではない、一大風力発電基地である。さらにクルマで走ること20分ほどの間にふたつの発電基地があった(一基地は未稼働)。




トルファンの風力発電基地(ブログ「中国写真ライフ」提供)

 中国の風力発電メーカーは、欧米や日本より後発であるが、この数年、政府のバックアップもあって、その発電総容量は世界一となり、世界のベストテンに中国企業が四社ランキングされている(2010年)。ウルムチに本社のある新疆金風科技はデンマークのヴェスタスに次ぐ世界第二位のメーカーにかけのぼり、昨今ドイツ企業に資本参加、アメリカのイリノイ州に風力発電所を建設するなど海外進出も目覚しい。
 「人民網日本語版」などによると、中国の発電総量の95%は未だ水力と火力で占められており、原子力を含めたその他風力、太陽光、地熱、バイオマスなどの発電はまだ総発電量の5%にすぎない。いまや中国の風力発電基地はトルファンのみにとどまらず、蒙古の大草原から山東半島や天津の海岸線にまで延び、その風力発電総設備容量は、昨年で六千五百万KWに達しているが、現状ではまだ中国の総発電量の1%にすぎない。将来的には10%台に達すると見られているが、その稼働率と送電ロスに改善点があるとの指摘がある。

 砂漠からトルファン盆地に入ると、これまで見かけなかった石油井が連なり、炎が立ち昇っていた。ガス田もあるという。
 翌日もめずらしく曇天で、ベゼクリク千仏洞の見学を終えるころから雨粒がポツポツと落ちはじめ、さすがの火焰山も燃えるようには見えない。おかげで前回は45度の炎暑で見送った交河古城も杖をたよりに全て参観することができた。夕食はディナーショウであった、それなりの出来栄えと思えたが、前回のように、夕食後、地元の人たちとぶどう棚の下で輪になって踊るチャンスはなかった。
 トルファン市の郊外で、今回はじめてウイグル族のイスラム風共同墓地をいくつか見かけた。そのいずれもが新設のもので、メッカの方に向かっている。ガイドによると、それぞれが集落とその家族の墓で、大きさや造作に貧富の差があらわれているという。この新生事物をどうみるのか、少数民族政策の変化の兆しであるのかもしれない。

 この旅の最後の晩餐会は、上海のバンドを浦東側から望めるレストランで催された。ひさしぶりに五年ものの紹興酒でのどを潤し、旅の疲れを癒した。
 街路には週末の夜景を楽しむ若い人たちがあふれていた。
 ストリートシンガーに共感するグループもあった。
 まだ三年ほど前のことであるが、上海の南京東路の交差点の一角で弾き語りするシンガーを、信号を挟んで三方から遠巻きに聴いているひとたちの姿があった。歌の内容まではわからなかったが、なにかがあれば歩行者になる人たちの集いであった。これはわたしの思い過ごしであるのかもしれないが、今夜のわかものたちはシンガーの歌に共鳴し、その場の集いを楽しんでいた。
 それは『トイレの神様』を生み出す、なごやかな、自由な雰囲気であった。
 中国が吹き出す風にひかれて旅を続けてきたわたしにとって、それは心地よいそよかぜに感じとれた。星のない夜空であったが、上海の夜景はわたしのこころにふかく染み込んでいった。
                    

                                         (2012年6月25日 記)