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中国文学者・竹内実氏が死去…毛沢東論など執筆

2013-08-05 11:03:48 | はらだおさむ氏コーナー
「偲ぶ会」は9月15日とりおこなわれます。

毛沢東論などで知られる中国文学者で京都大名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)氏が7月30日、亡くなった。
 90歳だった。告別式は近親者で行い、後日、竹内氏が顧問を務めた「現代中国研究会」(代表、吉田富夫・佛教大名誉教授)がしのぶ会を開く。
 1923年、中国・山東省で生まれ、幼少期を過ごした。49年に京都大文学部を卒業後、東京都立大助教授を経て、京都大人文科学研究所長や立命館大教授を歴任した。
 60年、作家の野間宏らと訪中した際、毛沢東に会い、共著「毛沢東―その詩と人生」などでその実像を日本に紹介したが、文化大革命時は批判する論文を執筆した。
 著書は「中国 歴史の旅」「中国の思想 伝統と現代」など多数。読売新聞社の「検証戦争責任」中国語版の日本側監訳者。
(2013年8月1日23時09分 読売新聞)
中国研究者の竹内実さん死去 毛沢東論など記す
朝日新聞デジタル 8月1日(木)23時14分配信


竹内実さん
 毛沢東論などで知られる現代中国研究者で京都大学名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)さんが死去した。90歳だった。葬儀は近親者で行う。後日、竹内さんが顧問を務めた「現代中国研究会」(代表=吉田富夫・佛教大名誉教授)がしのぶ会を開く。

 1923年、中国山東省生まれ。京都大学文学部卒、東京大大学院修了。東京都立大助教授だった70年、大学紛争に嫌気がさして辞職。73年から87年まで京大人文科学研究所で教授や研究所長などを務めた。同年から94年まで立命館大教授、その後も北京日本学研究センター教授、松阪大学教授などを歴任した。

 19歳までの中国生活で培った滑らかな北京語の能力が研究のベースとなり、現代中国文学の紹介に努めた。60年の安保闘争下に作家の野間宏氏らと訪中。日本の反安保闘争を評価する毛沢東との会見記「毛沢東主席との一時間半」を、感動的な筆遣いで発表した。65年には「毛沢東―その詩と人生」(武田泰淳との共著)を発表。いずれも話題になった。

 文化大革命には懐疑的で、68年の論文「毛沢東に訴う」では、近代中国の屈辱の歴史を終わらせた毛を評価しつつ荒廃を生んだ文革を批判した。毛の人間的魅力への共感は失わず、その後も「毛沢東の生涯」「毛沢東」などを著し、06年には編著「漢詩紀行辞典」を出し、注目された。

 晩年には中国が「中華世界」であることを強調して、安易な中国理解を戒めた。天安門事件でも学生擁護のムードが強かった日本の論調に対して、学生の自重を求めるなど距離を置く姿勢をとった。

 著書はほかに「魯迅(ろじん)遠景」「現代中国の思想」など。

     ◇

 《親交のあった吉田富夫・佛教大名誉教授(中国文学)の話》 中国の文学や歴史など個々の分野の専門家は多いが、竹内さんは現代中国を総体で捉えることができた万能選手のような研究者だった。研究の基礎には中国で生まれ育った体験や高い語学力があった。座談の名手で、私たちの思い込みを意表をつく発想でひっくり返した。亡くなられたことは寂しく、残念でならない。
朝日新聞社
最終更新:8月2日(金)1時8分

竹内実氏が死去 現代中国研究の第一人者、京大名誉教授

 現代中国研究の第一人者で京大名誉教授の竹内実(たけうち・みのる)氏が7月30日、京都市内の病院で死去した。90歳だった。告別式は近親者のみで行う。
 中国山東省生まれ。戦後、京大で中国文学を専攻した。1986年、京大人文科学研究所所長。北京日本学研究センターの教授も務めた。現代中国の文学や情勢を幅広く論じ、安保闘争さなかの60年、中国指導者の毛沢東と会見。共著の「毛沢東 その詩と人生」が注目された。著書に「中国の思想」「魯迅遠景」など。(「日経」)
訃報:竹内実さん90歳=現代中国研究
毎日新聞 2013年08月01日 13時23分(最終更新 08月01日 13時39分)
死去した竹内実10+件
氏=1982年9月撮影
拡大写真
 現代中国研究で知られた京都大名誉教授の竹内実10+件
(たけうち・みのる)さんが7月30日、京都市の病院で死去した。90歳。葬儀は近親者のみで営む。
 中国山東省生まれ。戦後に京大で中国文学を専攻。京大人文科学研究所教授、同所長、立命館大教授などを務めた。
 1960年、作家、野間宏さんらと中国の毛沢東に会見。共著「毛沢東 その詩と人生」など、毛沢東研究で注目された。文化大革命を批判的に考察した論文「毛沢東に訴う」も話題となった。
 幅広い学識をもとに現代中国の政治、社会、古今の中国文学などを論じ、第一人者として活躍した。著書に「中国の思想」「魯迅遠景」「中国 歴史の旅」など。(共同)

古文書徒然(五)

2013-07-29 09:32:51 | はらだおさむ氏コーナー
クサい おはなし(2)
ウンコはいつから肥料になったのか。
 日本や中国など水耕栽培農業(稲作)のあったところは比較的早く野グソと縁が切れたが、西欧では街中に撒き散らかされて伝染病の発生源となり、ロンドン留学中の漱石はそれが原因で鬱(ウツ)になったとも耳にする。
 日本で稲作栽培にウンコが肥料として使われたのは鎌倉時代以降といわれているが、それが経済的に意味をもつようになるのは江戸時代、江戸や大坂などの都市の形成と綿・菜種など経済作物の登場以後のことである。
 町方では下屎の処理が衛生上の観点からも必要になってくる。

 安永三年(1774)の御触では、その前文において「往古ハ」の書き出しで、下屎をめぐる経過を概述している。最初は百姓が「勝手宜場所」で「家々江相対仕」、「下屎価として菜・大根之類」を渡して下屎を集めていた。ところが町方人口の増大につれ、農作業の合間の屎取りでは間に合いかねることもしばしば起こり、下屎処理の急掃除人が出現、「直段せり上、全急掃除人中買仕候故、高直ニ相成」と説明している(『大阪編年史』第11巻P166)。
しかし百姓も「同様請入候」と町方へ出かけて下屎を処理する「直取引」(直請)を続けている(寛永6年=1629、西成郡江口村に「大坂買屎」)。
明暦・万治期(1655~1660)、急掃除人の「町方下屎仲間」が大坂町奉行の公認仲間となり、元禄期(1688~1704)ごろまで農民への下屎販売を独占(安く買って、高く売る)していたといわれるが、元禄十一年(1689)の、尼崎藩領西新田村で平駄舟9艘、道意新田7艘の屎舟所有の記録(「瓦林組舟数御改目録」*)は、百姓たちの「直取引」継続を裏付けるものであろう。 
 享保八年(1723)では、西新田村と道意新田の屎舟は、前者が十石積8艘、後者が同3艘並びに平駄舟24艘(「生津組掃除・通船改帳」*)、文化二年(1723)には西新田村十石積屎舟8艘、道意新田同3艘、平駄舟25艘(「元文弐年 船御改帳 控」*)とむしろ増加している。町方戸毎の「直取引」はなかなか杓子定規にはいかなかったものと見える。
 明和六年(1769)の「三郷町割」を見ると、西新田村の汲み取り箇所は「南安治川二丁目、同四丁目」、道意新田は「小右衛門町、古川一丁目」となっている(『図説 尼崎市史[上]』)。昔からのお馴染みさんとのつながりは強かったようである。
 (*はいずれも「地域史研究」第15巻1号『江戸時代前半期における武庫川尻村々の屎舟』に紹介)

 下屎が「金肥(キンピ)」になると、供給側の姿勢も変わってくる。
 『ウンコに学べ!』(有田正光・石村多門著)からいくつかの挿話を孫引きしてみよう。
 滝沢馬琴の日記(天保二年七月十八日)では新しく来た汲み取り人が、ナスを250本しか持ってこなかった、これまでより50本少ないと書いている(P90)。
 なんとシブイこと。
 安永三年(1774)に出版された江戸小噺集にはつぎのような落語が掲載されているとか。
 「さる田舎侍、にわかに便意を催し、物陰にて用を足す。あまりの大なるものなれば、辻番に置いてくるのも口惜しく、左ねじりを懐紙にくるみ、袂に入れる折ふし、向こうから『肥え買おう』と呼びつつ、肥え買い来かかる。『小口にても買うか』と問うに、肥買い『お屋敷はどちらでございます』『そんなおっくうなことではない。ここにある』と袂から出せば、肥買い、あたりをはばかり、声を潜めて『まさか、出の怪しいものではございますまいな』」(P91)。

 『江戸のおトイレ』(渡辺信一郎著)では古川柳などからの分析がある。
     店中(タナジュウ)の 尻で大屋は 餅を搗き
 大屋の収入は「大略百両の株の年給廿両、余得十両、糞代大概凡そ三四十両を得る。(略)糞代は家主の有とし、得意の農夫に売之」(『守貞漫稿』)と紹介(P189)、これだけの屎代があれば歳末に餅を搗き、店子にふるまうことも可能だったと解説している。







クサい おはなし(3)

はなしを「売手屋」にもどそう。
 時代は若干ずれるが、尼崎の城下町の戸数と人口は、すでに寛文九年(1669)ごろ戸数1,424、人口は14,089人、天和・貞享年中(1681~1687)では戸数1,475、人口14,113人となっている(「地域史研究」第10巻3号、尼崎領内高・家数・人数・船数等覚)とあり、城内の屎尿汲み取りは東新田村が請け負っていた。城下においても「直取引」があったことは前述訴状のとおりである。

 ところで「売手屋」の米三石の屎代は、いかほどになるのか。
 上記数字からみて、一戸の人口は平均十人となるから「売手屋」の汲み取り対象人口は、その申し開きが正しければ七戸x十人=七十人x十二ヶ月(一年)=八百四十人となる。
 元文五年の大坂在方米価は、石平均84.5匁である(山崎隆三著「近世物価史研究」P178)。これをいまの時価換算でみると、約16万円/石、キロ当たり1,070円となる(注)。屎代米三石は84.5x3=254.35匁、ひとりあたりの屎代は0.3匁/年となる。
前掲「安永三年御触」では「如斯直段相極候ヘハ」と屎の値段をつぎのようにきめ、告示している(P168)。
ひとつの基準は米相場との連動、「壱石ニ付五十目を真に立置」、対象年齢を六歳以上ときめて「壱人ニ付壱匁弐分宛」とし、米相場が四十目のときは「壱匁四分」として、この価格にて相対取引するよう指示している。

しかしである。
「ウンコの値段には五段階の価格差があり、大名屋敷が特上で牢屋のウンコが最低。長屋のウンコは下から二番目のDランクであった」(『ウンコに学べ!』P90)。
「売手屋」の屎のランクは不明だが、この屎代0.3匁はどう解釈すべきか。やはり「肥之とい屋」として、野菜や大根ではなく銭をちらつかせて安く買い叩いたのであろうか(基数人数が減れば単価も高くなるが)。

天保九年(1838)の大坂下屎一件・村々調印書(尼崎市史第六巻P40)によると、「壱人分下屎代銀弐匁五分」とあり、さらに「下屎代之儀は、代銀百目(つまり四拾人分)に付壱ヶ月六荷つゝ候事、但し壱ヶ年七拾弐荷相定成事」の条文が付記されている。一荷1.39匁となる。
 「売手屋」事件より六年後の延享三年(1746)の、西成郡江口村における史料では、1.93匁/荷、五十年後の寛政二年では2.62匁/荷となっている(小林茂著「近世農村経済史の研究」P94)ので、2匁/荷(時価3,740円)として計算してみると、この「売手屋」の屎の量は約百二十七荷となる。
 前掲『ウンコに学べ!』(P95)によると、壱荷は二斗樽相当(約四十キロ)とあるので、これを援用・計算すれば「売手屋」の米三石の屎の量は、二斗樽換算で約百三拾樽、重量で五トン強/年となった。いわばトラック一台の積載量である。これでは十石積屎舟数艘分にしかなるまい(米十石は1.5トン)。

 計算の視点を変えてみる。
 四十人で年七十二荷であれば、八百四十人では千五百十二荷となる。
 二斗樽換算で千五百樽は六百トン、十トントラック六十台(毎月五台)の屎の量であれば「取溜メ」置き、「小売ニ仕候」が可能となるであろう。

(注)林 英夫監修「音訓引き 古文書字典」(柏書房)の付表4「江戸時代の貨幣と相場」によると、元文二年の換算率は金一両につき銀53.5匁とある。時価換算において金一両を十万円として計算した。



クサい おはなし(4)

急掃除人の「町方下屎仲間」が大坂町奉行の公認仲間となり、大坂三郷(人口三十万人)における下屎処理が独占事業になった後も、摂河地区農村から町方での下屎取引が行われていたのは、西新田村などにおける屎舟の増加推移で見てきたとおりである。寛保四年(1744)では、摂河全村の四分の一にあたる二百数十ヶ村が大坂三郷で取引をしており(『図説 尼崎市史(上)』)、各所で「町方仲間」との争いが激化、在方も結束して「仲間」を結成、大坂奉行へ陳情を繰り返す。

 「売手屋」事件は、こうした流れのなかで発生したのであった。
 
 明和六年(1769)、「摂河在方下屎仲間」三百十四ヶ村の惣代から東町奉行所に、急掃除人による下屎汲み取り請負の全廃と村方による完全管理を求める願書が出される。
 下屎処理をめぐる「町方」と「在方」のトラブルに手を焼いていた大坂町奉行は、いくつかの条件をつけてこれを公認、寛政二年(1790)には急掃除人も全廃してその所有屎舟百四艘を在方に譲渡、農民が完全勝利を獲得したのであった。その後屎舟の往路の積荷(野菜や縄・むしろなどの農業加工品)などをめぐっての、過書船ほか河川流通の特権を握る「川舟仲間」との争いにも決着をつけ、在方屎舟はゆるぎなき力を発揮する。
 この下屎処理、その後11月末までに翌年の屎代金の現金払いのとりきめ、庄屋の当番制による管理体制などいろんな問題を抱えながらも、「摂河在方下屎仲間」により明治までの百年間継続されている。しかし、屎代金の立替・融資、請け入れ場所の譲渡や売買、屎舟所有の有無などで在方内での所得格差による矛盾が目立ちはじめる。農村内・間における屎の「仲買」商売が次第に拡大してくるのであった。

 元文五年の「下屎訴状」事件は、つまるところ在方の、町方に対する戦いの烽火であり、歴史に残るものになったのである。

 それから十六年後の宝暦六年(1756)、札元・別所町売手屋善右衛門が尼崎市史に登場する(『尼崎市史』第二巻P537)が、そのつながりは定かではない。
(2008年1月7日 記)

  史料の選択ならびにその解釈などについて、尼崎市立地域史料館のご指導・アドバイスを賜りました。厚く御礼申し上げます。

参考図書:
・『尼崎市史』(第2巻、3巻、6巻)
・『図説 尼崎市史』(上巻)
・『尼崎地域史事典』
・『地域史研究』(第10巻第3号、第15巻第1号)
・『大阪編年史』(第27巻の索引により「下屎」関連の10余巻)
・『新修 豊中市史』(第5巻)
・山崎 隆三「近世物価史研究」(塙書房)
・小林 茂『近世農村経済史の研究』(未来社)
・有田 正光・石村 多門『ウンコに学べ!』(ちくま新書)
・渡辺 信一郎『江戸のおトイレ』(新潮選書)
・プランニングOM編『トイレは笑う 歴史の裏側・古今東西』(TOTO出版)
・中村 克己『お江戸の意外な生活事情』(PHP文庫)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾四

2013-07-01 09:31:04 | はらだおさむ氏コーナー
ならぬことは、ならぬ

 
NHKの大河ドラマ「八重の桜」は戊辰戦争も終わって、舞台は会津に移る。
その歴史的解釈にはいろんな見方があろうが、「ならぬことは、ならぬ」とは重いことばである。

昨秋マイル‐ツとは直接の関係はないが、豊中市(大阪近郊)の「原田村」の領主のひとり・旗本鈴木兵九郎(三千石)のことをすこし調べた。三代目までは神田川に面した駿河台の鈴木町(昭和八年までこの呼称があった)に数百坪の屋敷があったが、そのあと数十年の所在は不明で、文政五年(一八〇八)に駿河台の淡路坂を上りきった角地に七六二坪の屋敷を見出す(『江戸城下武家屋敷名鑑』幕府普請奉行編/原書房)。この不明の数十年、江戸の武家屋敷をくまなく探求、番町(旗本の番士が多く居住していた)に領主の通称のひとつに該当する、大名屋敷と馬場に囲まれた小さな角地(屋敷)を見つけたが、それと確定する史料を見出すことはできなかった。しかし、この番町の、旗本軍団敷地あとの大部分が、いまの靖国神社の境内になっていることを知り、歴史の重層に触れた思いがした。

靖国神社の前身は、東京招魂社である。
いまも山口県を筆頭に鹿児島県など幕末の“志士”を輩出した諸県に招魂社が数多くあるようだが、九段の招魂社も戊辰戦争など“官軍”の戦没者を祭るために創建された。敗れた“賊軍”やその後明治政府に反旗を翻した西郷隆盛などは対象外である。明治12年に靖国神社と改称され今日に至るが,“侵略戦争”の筆頭・A級戦犯を合祀したことで問題をさらに複雑化させている。

「八重の桜」はドラマであるから、会津攻防戦における主人公・八重の奮闘が主題になるのは当然の成り行きであるが、“官軍”は敗残兵の屍体の処理を認めず、鳥獣のなすがままに処した。見るに見かねた百姓たちが埋葬したところこれを咎められ、庄屋が投獄の憂き目にあったという。「島原の乱」でもそうだが、“反逆者”に対するこうした残虐な“見せしめ”は、のちの“三光作戦”にも通じるものがある。加害者はすぐに忘れるが、被害を受けたものの“怨”は心の奥底にいつまでも残り、伝承される。会津の人たちの心の奥底に残るこの“怨”が、折に触れ噴き出すのである。
この会津戦争が終わって百二十年ほど経ったころ、山口県の萩市から会津若松市に姉妹都市提携のプロポーズがあった。もう仲良くしましょうとの申し入れだが、会津としてはまだ百二十年、はい、そうですかということにはならなかった。「3・11」のとき、萩市から義捐金と支援物資が会津若松市に届けられた。震災処理が少し落ち着いたころ、市長が萩市に出かけるというので記者たちが騒いだ。仲直りですか、との問いかけに、市長は「震災見舞いの返礼」に行くだけと答えたという。そして、そのことがまた話題になったと、現地へボランティアに行った人から洩れ伝え聞いた。


1983年はわたしが日中貿易から、対中投資コンサルタントに業種転換した思い出の年である。ちょうど「大阪城築城四百年」とかで、大阪府市や財界などが連携して「大阪21世紀協会」を設立、その記念行事のひとつとして“御堂筋パレード”が実施されることになった。わたしの所属した団体にも主催者側から友好都市上海からの参加要請依頼があり、上海歌舞団と幹部一行十数名が来日することになった。その最終決定の理事会はシャンシャンで終わるはずであったが、ひとりの理事の反対意見で大荒れになった。「大阪城築城四百年」記念とはなにごとであるか、秀吉の朝鮮侵略をなんと理解するのか。これを認めることは、中国に対する侵略行為をわが団体が容認することにも繋がると云々。会議は沸騰、対韓国と中国では問題が違うとか、四百年前のことまで問題にするのか‐未来志向で行こうではないか、さらには主催者側にこの築城四百年記念を削除するよう申し入れるべしなど議論は百出。最後は多数決で原案どおり可決されたが、反対意見の理事との確執は後々まで残った。
11月3日、花車に先導された上海歌舞団の舞姫たちの楚々とした踊りと行進は沿道を埋め尽くした群集の歓呼を浴びた。そして、この“御堂筋パレード”はその後25年の長きにわたって秋の大阪の風物詩として市民に親しまれる催事となった。わたしどもの団体で議論が百出した「大阪城築城四百年」記念のタイトルは、第二年度目から(静かに)消えている。
こうした論議の“副産物”とはいえないが、それから数年後、在阪の韓国人グループを中心に古代からの日韓交流を見つめなおそうという動きが出てきて、「天王寺ワッソ」として結実した。“ワッソ”とは古ハングルで“ワッショイ”を意味する由。聖徳太子の時代、国の“外交賓館”であった四天王寺と難波津を結ぶゆかりの街々を、当時の衣装をまとった日韓の高官や民衆が練り歩くというイベントであった。後日談になるが、この催事の準備段階で知己を得た韓国の経済人と中韓国交正常化前後の「中韓経済交流」促進のお手伝いをしたことがある。

「八重の桜」からずいぶんと話が飛躍してしまったが、過ぎたる日々を思い出すたびに昨今の「日中」「日韓」の不協和音が気になる。
中国や韓国の人々は「靖国」とは何たるかも知らずに騒いでいると日本では思われているが、“党籍”を剥奪されてまで靖国に“参詣”してその実態を調査したひともいる。そのひとりが「長城万里図」や「上海の朝」などの作者・周而復である。かれは抗日戦争時代ジャーナリストとして活躍、解放後作家・書道家として日本とも交流・知己も多く、中日友好協会副会長、文革後は文部次官にも就任するが、85年の訪日時に靖国に“参拝”、“党籍”剥奪処分とあいなった。のち、「長城万里図」執筆などの調査のためとの“釈明”が認められ、復権した。
04年4月の清明節に、関西日中関係学会では1月に逝去(享年90歳)された周而復先生を偲ぶ講演とTVドラマ「上海の朝」(本邦初上映)の夕べを開催した。すでに「長城万里図」第一巻(上、下)は邦訳・刊行されていたが、21世紀日中翻訳会の代表・伊井健一郎姫路獨協大学教授(当時)や監修の竹内実京都大学名誉教授も出席、故人の業績を偲んだ。この大河小説は日中戦争のすべての局面を、関係する重要人物~毛沢東から東条英機までも登場させて描きつくしている。すでに第五巻12冊まで翻訳刊行され、今年中に第六巻3冊が刊行、完成の運びとなる由。これも大河小説に匹敵する大事業である。

テレビでは「八重の桜」の会津篇はもう少し続くだろうが、死者はもう甦ることはない。しかし、江戸二百五十年の社会はなんであったのか、そして大政奉還・王政復古は日本の「夜明け前」にはならなかったことも、もう少し考えてみたい。


 また暑い日がやってくる。
 原点をわきまえないひとたちが蠢動、妄動する季節である。
 だが、ならぬことは、ならぬともう一度考えつくしてほしいものである。

(2013年6月26日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾参

2013-05-27 11:07:06 | はらだおさむ氏コーナー
サンファンのふるさと

昨秋 莫言さんのノーベル文学賞受賞の報を耳にしたとき、書棚の奥からかれの短編集『白い犬とブランコ』(吉田富夫訳・NHK出版)を取り出して、この日本語版に寄せられた著者のメッセージを読んだ。川端康成の『雪国』を読んで“電光石火”のごとくに浮かんだ着想がこの短編の書き出しとなり、「それからというもの、『高密県東北郷』がわたし専属の文学領土となった。わたしもそこら中を彷徨い歩く文学乞食から、その領土の王となった」と述べている。
わたしは中国地図集を開いて、かれの領土「高密県東北郷」を探した。
それは、山東省青島市の近郊にあった。
そこはまた、わたしの“サンファンのふるさと”でもあった。

わたしが北京から夜行列車ではじめて青島へ行ったのは、“四人組”逮捕の翌年の2月、駅前旅館?に到着早々、魔法瓶を二本手渡され、ススだらけの顔を洗った。軍の飛行場に民間機が就航するのはそれから2~3年後のことである。
 中国工芸品進出口総公司山東省分公司、これが今回の商談相手、北京の総公司とは基本的に合意していたが、具体的には現地でということにあいなって、仕切り直しの商談はその夜、この駅前旅館での“歓迎宴”ではじまった。60度は優にこえる“チンタオ・マオタイ”の一気飲み、同行の社員が次からつぎへと倒され、気がつけばわたしも部屋で服を着たままダウンしていた。
 メイズクッション、とうもろこしの内皮を天日で乾燥させた繊維、それを手編みでクッションに仕上げたものであるが、これを自動車用に補強したものを輸入したい、それも日本総代理店として長期契約したい、というのが今回の商談内容であった。そのころ日本ではマイカーブ-ムのハシリではあったが、カークーラーを装着しているのは、高級車のみ。真夏のクルマに腰掛けると、飛び上がるほど熱い。竹製やいろんなマットが製造・販売されていたが、会社の自動車用品部がこのメイズクッションに目をつけ、貿易部に開発輸入、それも総代理店方式のビジネスを提案してきていたのであった。
 製造現場は、郊外の農村にあった。
 生産は地元の合作社が一括請負、農家に手作りで賃仕事させていた。
 夏になると、辺り一帯は高粱ととうもろこしで覆われているという。
 莫言の、「紅高粱」の世界である。
 チャン・イモウの映画「赤いコーリャン」がヒットし、原作者の莫言が注目されるようになるのはまだ十年ほどのちのことになるが、その世界はこの周辺にあった。

 公司との商談も順調に進み、販促にテレビコマーシャルもはじめることになった。帰国後、広告代理店との打ち合わせで商品名を「サンファン」とすることになった。語呂のよい、覚えやすいことば、サン=太陽、ファン=扇風機、意味づけはどうでもいい、メロディも、歌詞も・・・となり、外人の女性のスカートが風でそよ吹き・・・というカットをなんどもくりかえし収録さされたこのモデルは、とうとう風邪をひくということに・・・。
 「サンファン」の売れ行きは、順調であった。
 翌年の契約で、販促のひとつとして大口販売先の中国招待旅行がとりきめられた。題して「サンファンのふるさとを訪ねて」、このキャンペーンの展開にはいろんな課題が浮かび上がってきた。まず参加者への中国事情、現地事情の紹介と受け入れ先(青島)の宿泊事情の問題などである。

 莫言のノーベル文学賞受賞後に手にした彼の作品のひとつに『白檀の刑』(吉田富夫訳・中央公論新社、文庫版も)がある。その文庫版(上)の裏カバーにつぎのような一文がある。
 「清朝末期、膠州湾一帯を租借したドイツ人の暴虐の果てに妻子を奪われた孫丙は、怒り心頭し鉄道敷設現場を襲撃する。近代装備の軍隊による非道な行いの前に、人の尊厳はありえないのか。哀切なマオチャン(猫腔)が響き渡り、壮大な歴史絵巻が花開く・・・」
 この作品は単なる歴史小説ではない、スト-リー・テラーとしての莫言の能力がつぶさに展開される“おはなし”であるが、その時代背景は上記のようになる。
 そして、義和団の乱のあと清王朝は崩壊、第一次世界大戦のあと、日本はドイツに代って青島を含めた一帯の租借権を受け継ぎ、45年の敗戦までこの地を支配している。日中の国交が正常化してまだ数年のこのとき、この地には日本の生々しい痕跡が残っている。

 得意先の役員から青島の丘の上の教会はどうなっていますか、あそこで結婚式を挙げたのですがと問い合わせがあった。調べてみると、文革が終ってもまだ改革開放が進んでいない当時のこと、教会は食糧倉庫になったままであった。
 初訪問時に眺めた海岸に連なる丘稜の、赤茶色の建物の数々は南欧の風景を思わせた。駅前旅館?の朝食も、当時の中国では見かけられない目玉焼きに野菜サラダがついたパン食であったから、これはまぁいいとして、数十人の日本人をどこに泊めるか。ホテルは夏場だけにオープンしている海岸沿いの桟橋賓館しかないが、これは避暑客で超満員、受け入れ側公司の大丈夫、まかせてくださいのことばをたよりに、キャンペーンが実施されることになった。

 一年後の初秋であったか、シャンハイ・イン~ペキン・アウトとその逆コースの二団が青島で合流することになった。わたしは先に青島で待ちうけ、公司と打ち合わせをしていた。本団は迎賓館(元ドイツ総領事館)、あとは海岸沿いの別荘にと分宿することになった。歓迎宴も終わり、わたしは三十余名の方と迎賓館に宿泊した。夜も更けたころ、同宿の社員からみんなが寝付けないと騒いでいると言ってきた。なんでも廊下を軍靴で行進する音が聞こえ、ときおり“ハイール、ヒットラー”と叫ぶというのである。それも、ひとりやふたりの話ではない、寝付けない、なんとかならないかという。とにかく寝れない人を大広間に集め、夜明けまで酒盛りをする羽目になった。
 翌朝、元重光公使(アメリカの戦艦・ミズリー号上で降伏文書に署名したあの重光外務大臣の北京大使館勤務時代の)別荘の三階の畳の間に宿泊した人たちは、夜中に浴衣を着た女性が窓から海の方へスゥ~と消えて行ったとか、別のところに宿泊したひとも松風のささやきが気味悪かったと話が続く。公司の人たちは、そんなバカな、と取り上げない、気のせいですよということになったが、そう、気のせい、なにか中国に臆する気持ちがあったのかも知れない。

 莫言のほかの小説を読んでいても、かれは声高に主張するわけではないが、こころのそこに残る思いを綴り、読者に話しかけている。
 『牛、築路』(菱沼彬晃訳・岩波現代文庫)の、『牛』は少年の目を通して文革中の人民公社の一断面を描いているが「これは無産階級文化大革命の偉大なる勝利である。この事件がもし、諸悪のはびこる旧社会で発生していたなら、三百八人の患者は一人として生存を望めなかっただろう」との語りは、ことのなりゆきから見ればこれは反語であり、痛烈な批判というべきであろう。
 『蛙鳴(あめい)』(吉田富夫訳・中央公論新社)の表カバーには「これは禁書だ 現代中国根源の禁忌に莫言が挑む」とある、いってみればその通りであるが、中国のひとりっこ政策・産児制限は、当事者でなければその思いは体感できないであろう。この本の前半は、強制的な産児制限を描く悲劇であり、後半からはコミカル風でさえあるが、中国の根っこの部分でこれからも噴出してくるような問題の提起もある。裏カバーには「堕せば命と希望が消える 産めば世界が必ず飢える」とあり、さらに莫言のつぎのようなことばが記されている。「本書を書き上げて、八つの文字が重くわたしの心にのしかかっている。それは、他人有罪、我亦有罪(他人に罪あり、我また罪あり)」。

 サンファンのふるさとは、いまも、気にかかるところである。
(2013年5月22日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾弐

2013-05-03 16:38:15 | はらだおさむ氏コーナー

虚(むな)しい?中国


 大阪造幣局の桜の通り抜けがはじまったころ、在日二十数年の初対面の中国の方にお渡ししたわたしの名刺のことからこの話がはじまる。
わたしの名刺には「『徒然中国』通信 はらだ おさむ」と住所、メールアドレスが書かれている。この方とは初対面であるが、在上海の文字通りのわたしの“老朋友”のご子息で、上海から転送されてくるお孫さんの写真などを通じて熟知の間柄であった。
 会食後同席の日本人(この方とも初対面で名刺を差し上げていた)から、「徒然中国」を中国語としてみると「虚しい中国」という意味になるがとかれは話していた、ご存知でしたかと聞かれた。「徒然中国」を中国語で読むという発想はわたしの脳裏に浮かんだことはないが、漢字のほとんどは中国から渡来したもの、エ~ット度肝を抜かれたわたしは「中日辞典」をひっくりかえし、中国語に堪能な友人・知人にもメールで確認した。中国語「徒然―ツ・ラン」は、たしかに「(副)むだに、むなしく」とある。
 ネットでも「徒然中国」を検索してみた。
 「徒然中国留学日記」「正月徒然―中国滞在記」「徒然中国株投資日記」とわたしの前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」がヒットした。
 わたしはこの題字を「徒然に想う中国」の意味でつかっている。もちろん兼好法師の「徒然草」の書き出しがこの題字の発想の基になっている。お読みいただいている方も、またこの名刺を手にされた日本の方もこの発想が基になっていることは「暗黙の了解事項」であろうと思うが、名刺というものは初対面の方にお渡しするもの、特に中国の方では誤解が生じやすい、これは中国語に弱いわたしにはありがたいご指摘であった。
 老朋友には毎回お届けしているこの『徒然中国』の、最新の三号分を後日ご子息に読んでいただき、感想をいただいた。すばらしい文章です、日本語の文章の題字『徒然中国』ですから、日本語の読める中国人でもこの題字は日本語としてよく理解できますとのことであったが、わたしはやはりこの名刺はまずい、「『徒然中国』通信」を削除した新しい名刺をつくることにした。
“覆水盆に返らず”ではあるが、一月末中国の“高級知識人”北京電影(映画)大学教授の崔衛平女史(『徒然中国』其之五拾九「冬来たりなば・・・」ご参照)に差し上げたこの名刺を、彼女がなんと読み、なんと理解されたか、日本語のできない崔女史が「虚しい中国」通信を書いている「原田 修」(名刺には漢字でこう書いておいた)と記憶されているとすると、これは弱ったなぁ、と思う。いや、日中国交正常時の中国の「戦時賠償請求権の放棄」や日本の「ODA資金」などについて同女史の意見を求めた、“気に食わぬ日本人”の類と思われたかもしれないが・・・。

 わたしはいまの中国について、ときには腹立たしい気分になることもあるが、“虚しい中国”と思ったことはない。
 小平の「南巡講話」のあとのこの二十余年、中国経済は大きく発展し、いまやアメリカに追いつき、追い越そうとする世界の大国になった。
 しかし、三十数年前の文革直後の中国はどうであったろうか。

 華国鋒政権時代、日本に大量のプラント発注が舞い込んだことがある。
 わたしの会社にも自動車部品関連のプラントの引き合いが舞い込み、総公司副総経理を団長とする視察団が日本の工場を見学、技術者同士で綿密な打ち合わせを行い、来春さくらの咲くころ正式に調印しましょうと仮発注書を取り交わした。しかし、かれらが帰国後ほどなく、他社のプラント商談をふくめ一斉にキャンセルとなり、日本側の延べ払い提案にも応じない。キャンセルの理由も、説明もない。会社の北京事務所から当の公司の窓口にせめてメ-カ-に対する書状でもと求めたがそれにも応じない。わたしの大学の先輩になるメ-カ-の担当部長は役員から追及されて責任問題になってきていた。わたしは北京に飛んで副総経理に面談を求めた。やっとのことでアポが取れたとき、わたしは録音器を懐にしのばせて公司に赴いた。謝罪の言葉は一切なかった、国の方針による、の一言のみであった。通訳を交えたそのやりとりの録音は帰国後メ-カ-の役員に届けられ、担当部長の責任問題は回避されたが、中国とのお付き合いはしばらく見合わすと通告された。

 文革が終わって、はじめて中国の紡績関連の工場を見学したときのこと。
 自動織機は動いているが、従業員は三々五々工場の片隅にとぐろを巻いてタバコをくゆらせ、寝そべっている。糸が切れようが、油が飛んでシミができようがおかまいなし、B級品の山が次々と出来上がっていく。だれもが機械を止めて修復しようとはしない。
 わたしは工場長にこんなことでどうするんですか、と難詰した。
 かれは「四人組」のせいと、両手を広げる。
 わたしは思わず、大声を張り上げた。
 江青がここに来てオシャカの製品を作れと指示したのか、あなたのアタマが
「四人組」に毒されているのではないか、こんな生産状況ではつきあいができない、キャンセルだとドヤシつけた。
 なげやりな現場、荒んだ青年たちの行動に、わたしはどうしようもない怒りと悲しみにとらわれた。もうこんな中国にはつきあえないと「虚しい」気持ちがこみ上げてきた。わたしは中国ビジネスから足を洗おうと思った。

 前作「ひねもすちゃいな 徒然中国」に「老学者の涙」という話を載せている。少し長くなるが、その一節をご紹介したい。
 「77年の秋であったろうか、わたしは青島から上海行きの夜行寝台車に乗っていた。コンパートメントはふたりの華僑と老人(中国人)そしてわたしの4人が同室であった。上段のふたりははやばやと寝てしまい、わたしは手酌でホットウイスキーを舐めながら文庫本を読んでいた。老人もなにやら口に含みながら読書に余念がない、どうも洋書のようである。タヨリナイ英語で自己紹介しながら、ウイスキーを勧める。彼の英語もたどたどしい、見るとはなしに彼の本をのぞいて見るとドイツ語のよう、ドイツ語は話せるかと聞いてきたが、ナイン。それから差しつ差されつの、英語、中国語チャンポンの会話が始まる。
彼は石油関連の地質学者のようであった。これから上海の国際会議に出席する、家は無錫にあった、3代続く学者の家であったがいまはもうない・・・とはなしが続く。もうどの辺だろうか、カーテンを少し開けてみるが漆黒の闇。と突然かれが外を見やりながら泣きはじめた。この暗闇のなかにも農民がいる、毛沢東も周恩来も、小平もこの人民たちの幸せを願って革命をしたはずなのに、この10年の文革ですべてがダメになってしまった、わたしの教え子や部下たちは全部いなくなってしまった、わたしはもう70に近い、もう一度中国が栄光を取り戻す日を見ることが出来るだろうか。
 わたしはツタナイ英語と中国語でかれを慰め、励まさねばならなかった。
 日本は明治革命後も民主国家をつくれず、逆に中国などを侵略、敗戦ですべてを失ってしまった。しかし、日本人はいま新しい社会をつくろうと頑張っている、あなたの国もこの困難を乗り越えて必ず素晴らしい社会を作り上げますよ、きっと・・・。
 老人はわたしの手を握り締め、中国のため、あなたたち日本の方は力を貸してください、お願いしますよ、とつぶやくのであった。
 わたしは所用で南京で下車、この老学者と別れた。
 わたしはもう一度中国で仕事をしようと決意したのであった」

 「虚しい中国」は、もう、さようならである。

(2013年4月24日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾壹

2013-04-04 23:34:20 | はらだおさむ氏コーナー

いまは、いいたくない


この『徒然中国』も六年目に入った。
さきほどその第一号の「ときは、春」を読み返してみた。
話の中心は中国映画「胡同の理髪師」の感想であった。
北京五輪前の、消えてゆく胡同に生きる庶民の姿を描いた、心にしみる映画であった。最後はつぎの一句でしめくくっていた。

<人は老い、この世を去るが、少子化の社会は衰え、活力をなくす。
日本だけではない、中国も高齢化が急ピッチで進んでいる。
「北京五輪」にこの「高齢化問題」を掛け合わせた監督の視点は鋭い。

ときは春だが、木枯らしの舞う冬は確実にやってくるのである。
                   (08年3月30日 記)>

このとき わたしは日中ビジネスから身を退き、冊子「ひねもすちゃいな 徒然中国」を編み、記念とした。竹内 実先生(京都大学名誉教授)に序文をいただいたのであるが、そのなかに次のような一節があった。「政冷経熱」が終わりを告げようとする時期であった。

「・・・せんじつ、漢俳の作句を依頼され、苦しまぎれに一句つくった。漢字で五、七、五をならべるのが漢俳である。

  結 氷 層 層 封
  双 方 不 乏 遠 見 人
  毅 然 送 春 来
    氷結びてかさねがさね封ずるも
    双方遠見の人乏(とぼ)しからず
毅然として春を送り来(きた)る
これは陳昊蘇(ちんこうそ)・中国人民対外友好協会会長のつぎの句をうけた。
 氷 雪 喜 消 融
 一 衣 帯 水 尽 春 風
 山 海 看 花 紅
   氷雪消融するを喜ぶ
   一衣(いちい)帯水に春風を尽くし
   山海に花紅なるを看る

陳会長のご尊父は陳毅外相である。それで拙句にお名前を入れさせていただいた。(NHK中国語テキスト4月号に掲載)。・・・」

昨年来 日中関係にまたまた厚い氷が張りつめているが、お互いにこれでよしと見なしている人は限られている。「日中不再戦」を心に刻み、この数十年「日中友好運動」に参画してきた身にとって、今回はかなりきびしい試練の日が続く。四十余年前はさらに「日中国交正常化」を求めない、内外の「勢力」や「論調」とも対応しなければならないことが多い時代であった。
文革中の中国では「アメリカ帝国主義」「ソ連修正主義」「日本軍国主義」などとの闘争が展開され、日本では台湾(中華民国)との関係が微妙であった。
「友好貿易」と「LT貿易」の両輪で進められていた日中貿易も「人事往来」はすべて香港経由で進められていたが、「中共」に対する見方には厳しいものがあった。

<中国を知り、知らせる>日中国交正常化への運動として、お寺の境内にテントを張ってはじめた「中国物産展」は官憲の妨害を乗り越え発展し始めていたあのころ、「珍宝島事件」がおこった。69年3月のこと、ウスリー川中洲のダマンスキー島(中国名珍宝島)の領有をめぐる中ソ軍隊の衝突・発砲事件である。スターリン批判に端を発するフルシチョフの動向に対し、中国はそれを「修正主義」とみなして北京のソ連大使館などに“紅衛兵”たちの襲撃などがあったと耳にすることもあったが、この「珍宝島事件」はわたしには寝耳に水であった。あんなちっぽけな島を巡って、なぜ「社会主義国」間で戦火を交わさねばならないのか、「中国物産展」の会場でこの事件の写真の取り扱いをめぐって関係者間でいろいろともめたことを思い出す。
後で知ったのだが、国防大臣林彪の煽動がこの事件に大きく関わっていたという。戦闘が続き、双方に死傷者も出て泥沼に陥りかけたその年の九月、ベトナムのホーチミン主席の葬儀に参列したコスイギン・ソ連首相が帰途北京に立ち寄り、空港で周恩来総理と会談、一応軍事的緊張は緩和されたが国境問題は先延ばしとなった。
70年は、大阪万博の年である。
国交未回復の中国は参加できず、わたしたちは茨木の公民館で開催中の中国物産展会場から万博会場へ向け、機動隊にはさまれながら“台湾館粉砕!日中国交正常化促進!”をシュプレヒコールしてデモ行進した。
そのころ、わたしの会社はすでに北京に駐在事務所を設け、上海にも長期出張の社員が滞在していて、友好貿易はそれなりに順調に展開していた。秋の広州交易会が終わり、わたしは次の上海服装交易会準備のため上海の貿易公司を訪問した。ある商品を三年間輸入契約する前提として、公司の実務責任者に工場見学を申し入れた。山東省出身で、上海解放時(49年)少年兵であった彼も上海の女性と結婚、すでにベテランのビジネスマンであったが、いま工場は七夕まつりでダメという。天井から短冊がぶら下がっていて、仕事はしていない、工場見学ダメです、と断られた。あとで社員に説明を求めると“批林批孔”運動の展開中で操業していない、とのことであった。林彪が毛沢東の暗殺に失敗、ソ連に亡命しようとしてモンゴルに墜落・死亡、「四人組」は周恩来を「孔子」になぞらえてその打倒を図っているという。あの珍宝島事件はなんであったのか、わたしたちは政争の具に使われていたに過ぎなかったのかと思い知ったのであった。

キッシンジャーの電撃的な訪中のあと、ニクソン大統領も中国を訪問した。
日中国交正常化にしり込みしていた日本の政財界も動き始めたが、台湾グループの暗躍もあり、事態はスンナリとは進まなかった。しかし、72年7月 田中内閣が成立、日中国交正常化を公約したとき、わたしたち民間の日中国交実現を求める諸団体は全国からバスを連ねて東京の日比谷公園に集結、田中内閣が正常化できない場合は、即刻倒閣運動に移ることを決議して、田中総理の国交正常化交渉を強力に支援・激励した。
9月 北京での会談は田中総理の「ご迷惑発言」で交渉は難航するが、最後は田中の熱意と毛沢東の発言で暗礁をクリアして共同声明に至る。その詰めの段階で田中は周恩来に尖閣のことを聞く。「いまは、言いたくない」この含蓄のある周恩来の言葉に田中は息を呑む。これはいま持ち出すべき問題ではない、と。中国にも、日本にもいろんな国内事情がある、それぞれの懸案事項を一挙に処理することはできないと「棚上げ」にして、日中関係は正常化され、四十年がすぎた。
昨年の「石原発言」で尖閣問題が沸騰、その国有化で日中関係が氷結した。
いま、まったくの畑違いだが『いのちの旅~「水俣学」への軌跡』(原田正純・東京新聞出版局)を読んでいて、医師や学者や行政がどう対応してきたかを知った。メディアも最初からは患者の味方でもない。
「公正な報道」と謳うそのかげで「3・11」も、「想定外発言」から原発再稼動への「世論操作」に紙面が多く割かれはじめている。
昨春の「石原発言」はアメリカのヘリテージ財団主催の会合で行われた。その事実のみは報道されているが、この財団がネオコンのシンクタンクであるとは最近まで知らなかった。調べてみるとスポンサーはアメリカの軍需産業で、アジアで領土問題や歴史問題に緊張状態を煽る政策を推進するとある。この一年、日本は防衛予算を増額、アメリカからさらなる高性能のミサイルや兵器購入の契約をしている。
中国の国内でも、何があったのか詳しくは知らないが、わたしたちの知らないところで歴史がつくられているとあれば、それは恐ろしいことである。
(2013年3月31日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾

2013-03-05 00:10:26 | はらだおさむ氏コーナー

                 
ラ・メール(海)


とある早春の昼下がり、三宮の古書店で「アラゴン評論集」なる本が目に入った。ルイ・アラゴン、ピカソと同世代でシュールレアリストからコミュニストの道を歩んだフランスの詩人・小説家、わたしの本棚のどこかにも、学生時代手にしたかれの小説や詩集がしまいこまれているはずだ。

ドゴールのフランスが西側ではイギリスについで二番目に早く中国を承認した、その直後の64年2月、わたしは香港経由で、はじめて中国に向かっていた。広州で一泊のあと北京に向かうプロペラ機にはフランスの友好訪中団の男女二十数名と日本人のわたしひとりが乗り込んでいた。テイクオフしてしばらくすると、機内で「ラ ヤンズ」「ラ ヤンズ」の声が舞い上がった。下を覗き見ると、はてしなき水の流れ、これが揚子江(長江)かと思うが対岸が見えない。洪水のあとだろうか、「ラ・メール」「ラ・メール(海だ)」の声が高まる。そうだ、これはまさしく泥の海だ。なぜか、あたまのなかをシャンソンの「ラ・メール」のメロディがながれる、学友たちがよく口ずさんでいたあの歌だがフランス語の歌詞が浮かばない。対岸が見えてきたのは、いかほどたったころであったろうか。プロペラ機は山野を乗り越え、やがて給油と昼食のため長沙機場(エアポート)に降り立った。

中国で海に面している省・自治区は、北から遼寧省、河北省、山東省、江蘇省、浙江省、福建省、広東省、海南省の8省に広西チワン自治区である。
省に昇格した直後の海南島に、香港から広州経由で省都海口市に飛んだのは90年代のはじめであった。島内の交通網もいまだ整備されてはおらず、 “地の果て”三亜市へはチャーターバスで一泊二日(往復5日)の旅であった。いまでは、中国のハワイ―三亜へは中国の各地から直行便が飛んでいる。
数年前であったろうか、上海の某日系企業の社員旅行でこの中国のハワイに足を延ばした上海っ子たちは、海がこんなに青く、白波が押し寄せてくるとは知らなかったという。上海の波止場から高速艇で小一時間はかかった崇明島は、海に浮かぶ島とばかり思い込んでいたようだが、さにあらず、(台湾を入れると)海南島に次ぐ中国三番目のこの崇明島は、長江の河口にデンと横たわり、土砂の堆積で大型船の航行を阻んでいる「ラ ヤンズ」の島である(いまは橋とトンネルで上海市につながっているのだが・・・)。

 NHK「中国語講座」のテーマソングであったか、「海よ わがふるさと(大海阿 我的故郷)」はいまもわたしのこころに流れるメロディである。(日本語では)♪小さいころ お母さんが私に話してくれた 海は私のふるさと 海辺に生まれ 海の中で育った・・・、あのリフレイン、♪タ~アハーイア タ~アハーイ・・・は、いまでもわたしの耳朶にこだまする。四界海に囲まれて育った日本人の私ですら、この歌は海への郷愁を蘇らせるものであった。
92年にはじめて吉林省朝鮮族自治区の琿春を訪れたときのこと。北朝鮮と国境を接して流れる図們江は、あと何キロかの地点でロシアと北朝鮮のフェンスをくぐって日本海に流入することになる。望遠鏡で目を凝らせば、日本海を往来する船舶が蟻の歩みのように見えたが、フェンスの先は中国領ではない。この現場に立ってみると、中国の東北地区、特に黒龍江省、吉林省の人たちの海への憧憬を身にしみて感じることになる。それはそうとしても、ウラジオストクは、むかしは中国の土地であったという話になると、はてさて、ということにもなる。
 
訪米中の「石原発言」から、一年が経った。
 日中関係は「あの小さな島」問題をめぐって対立が激化し、「国交正常化四十周年」の記念行事は吹っ飛んでしまった。昨今では中国包囲網を強化しようとする動きもあり、それを煽りたてるメディアもあるが、角突き合わせて、“ホットライン”も無いままに不測の事態が発生すれば、喜ぶのは「死の商人」たちだけであろう。
 台湾はこの数十年、海峡両岸をはさんで、ときには戦火を交えた時代からいまの交流を迎えるまで、中国とはさまざまなやりとりがあった。中国の唱える「一国二制度」にはそのままでは乗らないが、実質的には経済から人的交流までその実を挙げており、その成果には嘱目したいものがある。中台関係と日中関係はまったく次元の異なるものではあるが、問題の対処には「華僑」世界の“商談”の詰め方に学ぶ必要もあるのではないかと思う。前にも述べたが(『徒然中国』其之五拾四)、「ケンカは大いにすべし、しかし憎しみあってはならない」ということであり、日中関係もこの四十年、両国政府の間で締結された四つの共同声明にもとづき、「戦略的互恵関係」をいかに構築するかということにつきる。

 あの島の問題をめぐっては、台湾も問題提起している(昨年の8月6日)。
 この「馬総統・東シナ海平和イニシアチブ」による提言の骨子はつぎの5点である。
「一、対立行動をエスカレートしないよう自制する。 二、争議を棚上げにし、対話を絶やさない。 三、国際法を遵守し、平和的手段で争議を処理する。 四、コンセンサスを求め、「東シナ海行動基準」を定める。 五、東シナ海の資源を共同開発するためのメカニズムを構築する」
日中両国政府とも建前としては「中華民国」を認めていないので、その総統の提言には公式見解は述べていない。わたしは、これは傾聴に値する提言ではないだろうかと思うが、「産経」(2月21日)によると、台湾の外交部は「中国大陸と合作(連携)しない立場」を表明したという。これも、つぎを睨んだジャブのひとつであろうか。

もうひとつの話題も見逃せない。
野田政権の末期、すでに総選挙の日程も公表されていた11月の末、カンボジアのブノンペンで開催されていた東アジア首脳会議で、日中韓のFTA(自由貿易協定)の協議開始が三国の担当大臣間で合意されていたこと。2月20日には早くもその準備会が東京で開催され、3月には韓国でと事務方では着々と作業が進められているとのことである。 
 未だにきな臭い、勇ましい論調がメディアで目立つ昨今ではあるが、実務レベルでは改善に向けた動きが蠢動し始めている。
 
 アラゴンが亡くなってもう二十年ほどになるが、若いころ読んだかれの『断腸詩集』(一九四一年)に「春」と題するつぎの詩があった。

 ・・・・
   ことし おれたちはずっと待ちこがれていた
   みんなの眼が 菫のようにひらく美しい月を
   へとへとに疲れた血管のなかに 酒が流れ
   林檎の花かげで 陽をよける 美しい月を
 ・・・・
   おれたち にせの亡者も も一度よみがえろう
   なぜなら いつかきっと 地獄の扉もひらくだろう
   いつかきっと 春がやってきて 春の香りは
   愛撫のように 風をゆすり起こしてくれよう
 ・・・・
(大島博光訳『アラゴン選集 Ⅰ』飯塚書店)

  日・中に春が訪れるのが待ちどうしい、きょうこのごろである。
            (2013年2月25日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾九

2013-02-18 09:45:27 | はらだおさむ氏コーナー
                 
青空がみえない街

友人のNさんが編集・発行する「呆報368号2013.2(4)」はつぎのような書き出しではじまっていた。
「一月下旬、中国湖南省、長沙市。数日、とうとう一度も青空は見なかった。一度だけ太陽が浮かんだが、ガスを通しただいだい色で、まんまるかぼちゃがおぼろにかすんでいるようであった。日本でも夕映えの中に、だいだい色に輝く、平べったいかぼちゃのような美しい夕日をみることがあるが・・・両者は全然違うかぼちゃ!
道路はどこまでも渋滞し、まるでベルト状のオープン駐車場のようである。車はすべて火山灰を浴びたばかりのようだ。『洗ってもすぐ汚れるから洗わないのね』と言ったら運転手が『毎日洗っていてこうなんだ』と笑う。何だか信じられないが、新聞はこう報じていた。
『ゆっくりした速度で走っていて、突然スピードだしたり、減速したりする時の排気ガスは、ふだんの何倍にもなる。渋滞のとき排気するPM2.5はさらに増える。一台の乗用車が一年に排出する汚染物は自身の重量の4倍にもなる』(『長沙晩報』)」

わたしが生まれ育った尼崎市は、阪神工業地帯の中心にあり、戦前から“煙の都”と教科書にも載せられ、東洋のマンチェスター、極東の ハンブルクなどとも目された。
わたしは60年代のはじめに尼崎を離れ、40年ほど前から宝塚に住まいを構えているが、いまでもわたしの親族や同窓生の多くは尼崎の市民である。
70年代になると、“煙の都”の尼崎は、大気汚染と公害の街になる。
この間の状況は「図説 尼崎の歴史 下巻」(編集:尼崎市立地域研究史料館)に詳しいが、そのなかで「深刻化する公害問題」「『公害』から『環境』へ」などの記述(執筆はいずれも辻川 敦館長)は、当時の市民の苦悩と闘争、そして行政の対応を想起させる。特に、国道43号線上の高架道路建設反対の座り込み抗議行動は、七年間の長期に及んで国の環境行政に影響を与え、企業への規制強化に繋がって行った。しかし、「さまざまな対策がとられたとはいえ、窒素酸化物・浮遊粒子状物資等を原因とする大気汚染状況はかならずしも改善されず、市域におけるぜん息などの公害病認定患者は昭和五〇年代を通して五千人以上という高い水準を保ち続けました」(同書二二一頁)。わたしの親族のひとりも、そのころ喘息が主因で亡くなっている。
これらの公害反対運動は、一九七六年以降、国や道路公団および大気汚染排出企業を相手どる訴訟に転化・発展し、「日本の大気汚染公害史上はじめて差し止め請求が認められた」のは大きな成果と注目されたが、日本経済の停滞につれ「自動車排ガス削減・大型車規制等の抜本的措置は必ずしも講じられず」二次提訴などが続けられたという(98年和解成立)。
先日北京から一時帰国していた四十代前半の友人にこうした話をすると、「尼崎大気汚染訴訟」は中学の教科書にも載っていました、その後も訴訟が続いていたんですか、それにしても日本の空はわたしの小さいころからずっときれかったですよ、北京に住んで十余年、こんな澄みきった青空を見たことはありません、という話になった。

わたしが北京五輪の前年に書いた小文につぎのような一節があった。
「トウキョウ・オリンピックは1964年10月10日開幕、新幹線は10月1日
東京―大阪間が開通している。
 わたしはこの年 はじめて訪中して、2月から4月にかけて70日ほど北京に滞在した。
冬の北京はスモッグで覆われていた。
昼間でも市内を馬が荷車を引いていた当時のこと、クルマは数えるほどであった。スモッグの原因は、練炭・豆炭の熱エネルギー、特に暖房には低質の石炭・粉炭が使用されていて、外出にはマスクがいるほど粉塵が舞っていた。
楊にみどりのふくらみが見えてくると今度は西から砂塵が降りかかる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
北京市内は、西から北にかけての山なみで取り囲まれている。
高層ビルがふえ、経済の活性化で人口が増えはじめた80年代のはじめごろから、市内の風通しが悪くなり、どんよりした灰色の日が多くなる。
これに追い討ちをかけたのが、クルマの増加。
88年に北京の保有台数は40万台をこえ、中秋の名月がきれいに見えない、北京の空は青くない、との認識が広まるが、この時期はまだ政府の大気汚染対策はない・・・。
 北京市では98年から大気汚染情報を毎日出しはじめた。
 なにごとも計画とその達成率の向上に関心が行くお国柄、98年を基準に毎年その成果が公表される。人民網(2007年11月2日)はつぎのように伝える。
 『北京市環境保護局は1日、10月の北京市で大気環境レベルが目標値に達した日数は26日を記録(月全体の83.9%)し、今世紀になって同期最高水準だったことを明らかにした。今年11月1日までで、大気環境レベルが『2級(良)』以上の日数は、昨年同期よりも9日多い213日(全体の69.8%)に達し、通年目標の245日まであと32日となった』
 結構なことであるが、観測地点がどこなのか。北京市には郊外の万里の長城―八達嶺までが含まれていることを思い出していただきたい」(「北京の空は青かったのか」より抜粋)。

 80年代の中葉、わたしは大阪の中小企業の会長と上海市環境局を訪問していた。同社は大気汚染監視検査機器のメーカーで、日本ではほぼ行政にもそれが行き渡って、次の市場と中国を目しての市場調査でもあった。当時の上海はまだそこまでの状況ではなかった。環境局の目下の仕事は、騒音対策、それも病院などの前ではクラクションを鳴らさないことという管理が主たる業務、自転車の大群が街中を走り回っているが、クルマも少なく環境局も開店休業に近かった。帰路ガーデンブリッジを渡ったとき、蘇州河のヘドロの悪臭に驚いた会長は通訳のZさんに話しかけた。大気汚染の発生源(工場など)を突き止めるのはタイヘンだが、汚水の発生源の探求はそれほど難しくは無い、先ず工場の廃水対策をされるよう環境局に話してほしいということだったが、Zさんは工場の規制を厳しくしたら全部つぶれますよ、日本でも経済成長のときは垂れ流しだったじゃないですかと反論、当方の気持ちは通じなかった。

 “前車の轍を踏まない”よう、日本政府も90年代に入って中国政府に工場廃水や大気汚染規制の技術や管理手法などを提供しているようであったが、企業への規制は浸透しているとは言い難い。中国でも各地で工場廃水をめぐる住民とのトラブルが多発しているが、日本の水俣病(1956年)発生時の公害反対運動のように全国的な高まりにならないのは、日本と中国のメディアの違いにもよるものであろうか。  
日本の場合、工場廃水の規制が達成されると、市民とメディアの関心は大気汚染にも注がれるようになり、四日市喘息(1961年)から光化学スモッグ(1962年)に至る過程で、その発生源の捕捉をめぐる自治体など監視側と企業とのシーソゲームが展開されてきた。このメーカーもこうした流れのなかで大気汚染監視機器の開発・製造で大気汚染防止に寄与してきていたのであった。
ヘドロの川に鮎がもどり、スモッグの空がいまの、吸い込まれるような青空に回復したのは、日本の市民運動とそれを支えたメディアの力であり、ビジネスとしてこれを結実させた企業の技術力の成果であったということができる。

 中国の空に青空が映えるのは、いつのことになるのだろうか。
                    (2013年2月13日 記) 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之五拾八

2013-01-31 23:24:48 | はらだおさむ氏コーナー
                 
冬来たりなば・・・


年末に上海の老大人(ラオターレン)から動画のメールをいただいた。
 中国へはよく足を運んだが、生活をしたことがないわたしは、季節の変わり目のあいさつや民間の行事にうとい。サンタや子供たちが出てくるこうした動画(童画)は、いま中国のネットに溢れているのであろうか。

「12月21日は冬至、4日後にはクリスマスがやってくる」
 ♪あ~といくつ寝ると、お正月・・・♪とひとりでに口ずさんでいるわたし。 
「それから7日のあとに元旦がやってきて、39日経つと除夕(大晦日)、
楽しい一家団欒の日だ」
 そうだ、この日はギョウザを食べるんだった、そして明け方まで爆竹の音。
 新年 好! 新年 好!(シンニェン ハオ!)
 「農歴新年(春節)快楽」、ことしは2月10日である。
 中国をはじめ、東南アジア諸国ではこの日が、年のはじめ、お正月である。
 しかし、まだ春はめぐってこない。
 さらに15日あとの「元宵節」を迎えて、やっと春の訪れを祝う。
 日本でなら「小正月」にあたるこの日、中国ではこの宵、美しく飾った灯籠の下で団子を食べるのだが、むかしの日本ではどうであっただろうか。

 今年の正月、わたしはときおりこの動画を見ながら中国の風景や老朋友たちのことを思っていた。
 文革が終わり、改革開放がはじまった80年代半ば、いまは工場やビルで埋め尽くされている上海郊外の農村で、わたしははじめて元宵節の灯籠のアーケードをくぐり、招待所の酒宴に席を連ねた。春がやってきていた、あたらしいプロジェクトが動きはじめていたのであった。
 そして、いまは酷寒の冬のさなか、春が訪れるにはこの先いくつものことを乗り越えねばならないと、この動画は教えているようである。

 上海で日系企業などの経営諮詢事業を長年展開しているAさんの年賀状に
つぎのような一節があった。
 「昨年は日中国交正常化40周年の記念すべき年でありながら、両国の諸先輩が40年間積み上げてきた互いに対する親近感を一挙に失墜してしまうような悲しい事態となりました。人災としか言いようがありませんが、20万人の中国で働く日本人にとっては、まことに残念かつ過酷な状況となってしまいました」
 いまは東京に事務所を構えて同じく対中投資の諮詢をしているBさんは「目下の中国コンサルの仕事は、現法のリストラと撤退が中心です」と。
 Cさんはマーケッティングが専門である。
 昨年の年賀状では、「上海国際マラソンに出場。激走のあともケロッとした余裕の表情!」と完走後の写真が印刷されていたが、今年は“冬の風物詩”として上海の街に定着していた恒例のマラソンも「あの小さな島」の影響で中止となり、いまはそれどころではない。
「・・・初めて中国の土地を踏んでから20年。少しオーバーですが、いままでの人生の三分の一ほど、中国に関わってきたことになります。そして、おそらくこれからも関わり続けることになると思っています。そんな私にとって昨年の反日の動きはショックでした。40年前に小平さんは『次の世代の人はもっと賢くなるから、きっと良い解決法を見つけてくれるでしょう』と言いましたが、どうやら人間はあんまり賢くなっていなかったということでしょうか・・・」
 この三人の知友とは20余年来のつきあい、とくに90年代の初めは対中投資の推進でともに汗を流してきた。これらの年賀状に記された、その思い、その悔しさには身にしみるものがある。

 新春になってふたつの“世論調査”を見た。
 「日中韓経営者アンケート」(「日経」1月7日)と「日中ネット意識調査」
(「神戸」1月6日)である。前者は日本経済新聞社が韓国の毎日経済新聞と中国の人民日報系の日刊紙、環球時報と共同実施されたもの(昨年12月)であり、後者は天児慧早稲田大教授の協力を得て質問を作成、「サーチナ」と「日本リサーチ」に登録のモニターに呼びかけ、共同通信社が実施した(昨年11月末~12月初め)。両者の実施対象や項目が異なるので、対比検討することはむつかしいが、ここでは日中の領土問題関連にしぼって、その調査結果を見たい。
 「日経」では、領土と歴史問題について、日本の経営者の5割が、中国でも25%が「悪影響を受けている」と回答、具体的影響(複数回答)としては「売上高が減少している」が、日本では74.1%、中国でも69.2%と最多である。「日中間の政治のあつれきが、双方の企業活動に波及している様子が明らかになった」とのコメントがある。
 「神戸(共同)」では、関連の設問がさらに多岐にわたっている。
 まず相手国への信頼度であるが、「できる」は日本が5%であるのに対し、中国は31%、日本の回答者のほうが「坊主憎けりゃ・・・」の気配が強い。
 尖閣国有化をめぐる日本政府の説明について、「非常に理解できる」が日本の10%に対し、中国が5%もあるのにはむしろ驚いた。「ある程度理解できる」は日本が52%、中国が17%、このふたつで日本が62%に対し、中国が22%、五人に一人の中国回答者が日本政府の説明に耳を傾けている。中国側の自由回答では、「武力衝突も辞すべきでない」との強硬意見や「軍国主義の復活にこそ注意すべきだ」「裏で画策しているのは米国だ」との指摘も。「日本には愛と憎しみの感情がある。漫画文化は好きだが、侵略は恨む」と複雑な心情を吐露する意見もあったと紹介されている。
 天児教授は「若者の考えは多様」と題して、つぎのようにコメントされている。「・・・中国人の3割が『日本を信頼できる』と回答しており、中国が反日一色ではないとも捉えることができる。年代別にみると、反日教育の影響を強く受けたとされる20代の若者も、4割近くが『日本を信頼できる』と回答していた。反日デモに対しても、全体の7割が『行動は行き過ぎ』と批判的な見方を示した。・・・」「・・・一方で、日中協力の目玉だった政府開発援助(ODA)について6割が知らないと答えており、中国側の理解不足は明らかだ。・・・」

 小正月も過ぎた、とある週末の夜、大阪のレストランで崔 衛平女史を囲む“トーク・イン”があった。ご存知、“中国の知性”、北京電影(映画)大学教授、司会者の紹介によると“高級知識人”である。
 崔さんについては、『徒然中国』其之五六の「傷ついた鳩」で以下のように紹介している。
 「九月末から十月にかけて、日中の知識人の声明が相次ぐ。先ず日本で作家の大江健三郎さんなどの声明「『領土問題』の悪循環を止めよう!」が発表され、これに刺激を受けた中国人の作家崔衛平さんが五人ほどの仲間と文案を練って十月四日にネットで『中日関係に理性を取り戻そう』と声明を発表、十三日現在ですでに六百人以上の署名が集まっているという(中国での署名は当局の注意・拘束の対象ともなる“勇気”のいる行動である)。東京新聞とのインタビューで崔さんは『領土争いを民間交流に影響させてはいけない』(以下略)と語っている」
 今回の来日は国際交流基金の招聘によるものらしい。
 開口一番、崔さんは広島の「被爆者二世」の女性と昨夜遅くまでいろいろと語り合ってきた。自分は「抗日二世」、父は「延安老幹部」、今回の訪日に父は反対こそしなかったが、意見が異なった。中国人は日本に対して「怨気(恨みや不平不満)」を抱いている、南京の「抗日記念館」の建設を最初に建議したのは私であるとの率直な自己紹介に、一瞬耳をそばだてる。
 会場で配布された東京でのインタビュー(及川淳子・法政大学客員研究員)では、この「怨気」についてつぎのように語っている。
 「これはウイルスのような悪さをしているが、さらにやっかいなことに、日本に対する中国人の感情は、吐き出すにしても押さえるにしても当局によって自在に操られてしまっている。自分たちで対日感情を飼いならすように理性をコントロールすることが必要だ。歴史や領土の問題をめぐり、怒りで高まった温度を下げる努力をしなければならない。・・・自分自身のことを言えば、日本に対して戦争という『陰影(暗い影)』がある。これは普段は言葉にすることはないが、重苦しく存在している。このような『怨気』や『陰影』にどのように向き合うかというのが重要な問題だ」

 あの島に、『怨気』や『陰影』が漂っているのか。
 日中に春が巡ってくるには、まだまだ時間がかかるようである。
                      (2013年1月20日 記)

古文書徒然(五)

2013-01-14 09:34:15 | はらだおさむ氏コーナー

クサい おはなし(1)


~ 尼崎町の「下屎訴状」事件(元文五年)をめぐって~     
       
   (一)
 母方の大叔父に“尼崎の芭蕉さん”と呼ばれた人がいた。
 蓬川(ヨモガワ)公園の橋の袂に句碑がある。

序の舞の まこと静けし 足袋きしむ   地朗

晩年請われて俳画も教え、白寿の祝いの席では妙齢?の着飾ったお弟子さんたちに囲まれてご満悦であった。
『尼崎市史』第三巻(P239)に「小学校の憶い出」と題した本人のスケッチが掲載されているが、そこには「琴城尋常小学校 明治二十九年卒業生」と記されている。
菩提寺の本興寺一乗院(寺町)にある先祖の墓には「売手屋 金兵衛」の銘があり、本人は句集「米寿」で「売金十三代目の御曹司」であったと、記している。
係累は不明であるが、この「売手屋」の屋号が『尼崎市史第二巻』(P572)に出てくる。
元文五年(1740)のこと、『尼崎地域史事典』の年表によるとつぎのような事件があった。

五月 摂津国村々には、干鰯値段高騰に際して大坂市中干鰯問屋・仲買の、新組・古組による干鰯買取の競り合い停止を大坂町奉行に出訴。
十一月 尼崎藩領三十二ヶ村は、城下下屎を藩領村々以外には汲みとらせないこと、城下屎問屋二人の新規企て停止を藩に出願。

この屎問屋のひとりが売手屋三郎右衛門であった。

『尼崎市史』にはそのいきさつの史料が収録されている(第六巻P38~40 西宮岡本俊二文書)。

尼崎藩領の、南野組・上之島組・神崎組・瓦林組三十二ヶ村の庄屋連印のこの訴状によると、「御城下東西町の下屎之儀」はこれまで毎年末に百姓が「請米相究町人衆と相対を以」「掃除仕来候」とこれまでの経緯を述べたあと、売手屋三郎右衛門と長兵衛の二人が他領の村々と馴れ合い「屎之とい屋と唱え」「御城下町々掃除我儘に仕候」と指摘、「新規之屎問屋弐人共」「急速御指留メ被為成下候」と訴えたのであった(元文五申年十一月)。
藩としては、領下三十二ヶ村(いまの灘から神崎川に至る地域)の全庄屋連印によるこの訴状をうけ早速事情聴取に及んだのであろう、十二月はじめには当事者二名から弁明書が提出されている。

初島由兵衛事長兵衛の申し開きはこのようになっている。
まず、肥商売を始めたのはきのう・きょうのことではない「八年以前丑年より肥商売仕候」と述べ、「新規之屎問屋」という訴状の言掛りにまずジャブを入れている。仲間は東町の売手屋三郎右衛門、「其節ハ他領在々へも売渡申候」とあっさり指摘された事実を認めている。しかし、それは昔のことである。四年前からは売手屋とは離れて年五石分ほどの肥は取り集めているが、そのほとんどは自分作の田畑に使い「残り少々初島作人之内ヘ売渡申候」と開き直り、いらぬお節介といわんばかりである。

別所町売手屋三郎右衛門の回答はもっと明快である。
まず五年前の冬から「東町七軒ニて屎を取」「此代米三石ニて御座候」と述べ、この七軒のリストを「別紙にて差上申候」(現存しない)としている。逃げ隠れもしない、正々堂々たる商売である事を強調、「右之屎取溜メ」「御当地下作人又ハ杭瀬・今福辺へ小売ニ仕候」(太字・下線はいずれも筆者)と、肥とい屋であることを自認するが「他領へ一切売不申候」と明言している。

この両者の言い分は、その後のいきさつを明らかにする史料がないので結末は不明である。問題はこの時期、なぜふたりが尼崎藩領の百姓たちの訴状(俎上ともいえるか)の対象になったのか、ということになる(つづく)。