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くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [2]

2014-01-30 09:17:14 | はらだおさむ氏コーナー
拝啓 上海市長 殿


 着任早々、中国総領事館から一通の手紙が転送されてきた。

封筒の表書きには住所もなく、「上海市長殿」とあるだけ、日付を見るとすでに半年以上経っている。

総領事館の添書には、この手紙は住所未記載のまま上海市人民政府に無事届き、各部署を転々と旅したのち、外事辨公室から大阪総領事館で対処してほしい、との依頼があったのでよろしくとある。

これが85年の1月に、上海における日系製造業の合弁第1号契約調印となる、茨の道へのきっかけとなるのであった。

 差出人の住所を頼りに電話番号を調べ、いきさつを話してアポをとる。

阪急京都線淡路駅下車東数分のAレース、専務の話では前年に大阪で開催された現G-BOC商談会の記事を見て、社長が「拝啓 上海市長殿」と一筆したためたとのこと。

応接間には美智子妃殿下(現皇后)が展示会で同社製品を手に取っておられる写真が架かっている。

これは?と尋ねると、ご成婚の際、同社のレースのイブニングドレスが献上されたこともあってのお立ち寄りとか。

線路沿いに三棟の工場があり、スイス製の長さ13メートルの大きな自動レース編み機が10余台据付けられているが、稼動しているのは1台のみで、従業員も数名しかいない。盛業時には、地方から集めた“金の卵”の中卒女工のため、個室の宿舎にプールもある箕面工場も建てたが、そこもいまは開店休業、機械のメンテ要員を残しているだけという。

 「シャンハイをミラノに負けんくらいの、レースの産地にでけへんかと、あの記事を見て思いましてなぁ、ところもわからへんやったけど『上海市長』で届くやろと思いまして出しましたんや」と二代目の社長。

機械は自動だが紡績のように手先の器用な女工さんが要る、日本ではもうわらじを履いて集めて、お姫様が住むような御殿を作って定時制高校に通わせても、長続きしない、労働集約型の斜陽産業。しかし、機械設備はある、技術は残っている、デザインなどの型紙はそのまま使える。

「おカネはおまへんけどな、中国さんではこれはえぇ商売になりまっせ。どうでっしゃろなぁ、機械の現物出資、技術指導でということで、あちらさんは受けてくれはりまへんやろか」

 わかりにくい言葉遣いではあったが、興味がもてるプロポーザル、上海が待ち望んでいる投資案件になるかどうか。

帰路、これまで輸入商談の相手をしていた工芸品公司のレース担当者の顔が浮かぶが、これは投資案件。

「友好都市間の経済交流促進」の相手になった、上海市人民政府外事辨公室の関係部門―上海市人民対外友好協会に、なにはともあれ、「拝啓・・・・」と手紙を出したのであった。      (2004年5月23日 記)


はらだおさむの体感的日中経済交流史1983-2003

2014-01-29 15:43:38 | はらだおさむ氏コーナー
<あのとき・あのころ 第二部>

第二部のはじめに

 昨年11月14日に第一部を書き終えてから5ヶ月がたった。

あのときは退院してからまだ4日目。下垂体卒中で緊急入院、切除された腫瘍が視神経を圧迫して、左眼まぶたは自力で開かず瞳孔も左右動転不全のため、右の目をたよりに、いまは死語になっている“ブラインドタッチ”で書いた。

機関誌「上海経済交流」1月号の原稿「ユメは『中国』をかけめぐる~シュールなヴィジョンのドキュメント」を書き上げたのは12月1日であったが、状況は退院時と変わらなかった。

第一部のあとがきで第二部は3月ごろからと予告していたが、そのときの心境は芭蕉のように“枯野”をかけめぐっていた。

 あれから5ヶ月が経った。

外観上は入院前より健康そうで、血液検査でも“いうことなし”(主治医談)と回復しているが、なにしろ2年で二度の大病を患い、4ヶ月の入院生活を過ごした体力は従前とは比べるべくもなく、これからは「語り部」に専念したい思いである。

といっても、20年間の<経済交流>のうごきをどのように語るのか、まだ構想もなにもないが、毎月二篇のエピソードを二年くらいの予定で書けたら、と考えている。

第一部同様の身辺雑記、ご笑覧いただければ幸いである。  (2004年3月)

「野口家文書」のこと

2014-01-20 08:16:44 | はらだおさむ氏コーナー

 「野口家文書」は、原田村(現豊中市原田元町二~三丁目)四株(梨井・中倉・南丁・角)の、梨井入組(相給)旗本鈴木領三百石の庄屋・野口家に伝来する、近世以降の文書である。野口家はまた、摂州八部郡西尻池村(現神戸市長田区)の鈴木領四百石余の大庄屋でもあった①。
 現在豊中市立岡町図書館に寄託されている同文書は、慶長五年(一六〇〇)以降の一八四四点。「近世初期から原田村にかかわり、野口家にかかわる出入りや紛争などの嘆願書や御用状類が多く、近世を通じての原田村の村政・経済・文化などの動向をよく知ることができる」(同目録まえがき)ものである。
 原田村に関する文書には他に「中倉村文書」(岡町図書館蔵)があるが、これは近世中期以降、とくに一橋家領時代のものが多く、忍藩領時代の原田村を入会の側面から眺めるにはこの「野口家文書」は格好の史料であるといえよう。

 まず原田村の全貌を見てみよう。
 原田村の九三七石余(全村の62%)が忍藩阿部豊後守の所領になったのは、元禄七年。下図②はそれから七年後の元禄十四年、原田村の領主役高を幕府代官長谷川六兵衛に提出した、その確認書である。




 これを株別に見ると、つぎのようになる(『旧高旧領帳』より作成)。



                 
原田村は総高千五百石をこえる大きな村で、所領別では忍藩領がダントツであるが、株別に見ると梨井が三領主の入組とはいえ総石高の半分以上を占める。野口家が庄屋を務める旗本鈴木領は三百石であるが、これも庄屋別では原田村のトップであり、同家はまた西尻池村の鈴木領四百石余の大庄屋も兼ねていて、後年には苗字(元から野口姓)帯刀御免の代官も務める名門である。
享保十五(一七三〇)から十六年にかけて、中倉の庄屋・永田兵太が筆写した野口玄好翁の日誌がある。『新修豊中市史 古文書・古記録』(以下「古文書・古記録」と称す)の同解説(P三四五)によると、「先祖は原田郷の土豪ないし在地小領主で原田城に居住した原田備中守直正の養子、野口満五郎冬永である。冬永は三好一族・淡州野口氏の系譜を引き、原田北城に居住した。後に元禄年間に野口姓に復している」とある。
関東在住の旗本鈴木家の総拝領高は千二百石③。梨井の領主変遷は、寛永から正保(一六二四~四八)にかけては阿部備中守、その後幕領となり、「御代官所ヨリ三百石切出しニて、御拝領かとも被奉存候」と鈴木領(相給)になった由だが、その年次は不明。関東の知行から西尻池村への所替えは寛文元年(一六六一)となっている(「古文書・古記録」P三三〇)。しかし「鈴木氏摂津知行所由来書」(同P三二八~三二九)によると「一 高三百石 同国豊嶋郡原田村之内梨井 寛文元丑年私親鈴木長左衛門御加増ニ致拝領、延宝四辰年私家督相続仕候」となっており、梨井も西尻池も「寛文元年」に鈴木知行所になったと当主・鈴木兵九郎はその由来を述べている。

別図は原田村の古絵図(元禄十二年)である④。
右上(北東)の森は、原田北城跡、中央の大きな家は一向宗誓願寺の添書きが見える(その南に原田南城があった)。左上(西北)から南へ蛇行して東へまわる水路は原田井(ゆ)で、この水路の東に民家が目測で凡そ百数十軒ほどある。
「北城のあたりを梨井町と唱エ、両城之間ニ有之を中倉町と申、(南)城の南を南町(みなんちょ)、巽角ニ御座候を角(すみ)町と呼候」との由だが、別に境界があるわけではない。まるで「碁盤上之如く内交ニ御座候」と入り乱れて散在していた、と伝えられている(『豊中市史資料集 3 村明細帳[上]』=以下略、「文政七年 原田村明細帳」)。



梨井の旗本鈴木領三百石は面積にして約二六町(=ヘクタール)、田・畑の石高比は八六対二四、面積比は七十対三十で田のほうが収益性が高い。本免毛付(年貢対象)は石高の九一パーセント、面積の八六パーセントであった(「天保十四年 
原田梨井村明細帳」)。貞享二年(一六八五)の「免状」では、田五ツ六分、畠一ツであった⑤。
元禄十七年(一七〇四)の名寄帳⑥によると、二九戸のうち十石以上の家は約三分の一の十戸、庄屋(野口)藤右衛門宅は約二十パーセントの持分であった。
梨井の戸数などの変化・推移をまとめたのが以下の表である。
名寄帳、宗門改帳、五人組帳、村明細帳など性質の違う史料から取り出したのでやや統一性に欠けるきらいもあるが、百数十年にわたる梨井旗本鈴木領の戸数などの推移を見てみたい。





 宗門改帳で庄屋と年寄の家族構成を覗いてみよう。
 貞享三年の庄屋藤右衛門は当年五七才、本宅には女房四八才と長男二三才、嫁二十才、孫二才の家族のほか下男四名、下女二名がいる。年寄七兵衛は当年五三才、女房三九才に八二才の親と二二才の長男を含め四名の息子、二三才の長女を頭に四名の娘の大世帯、ほかに二人の下男と下女一人がいる⑧。このころは相対的に大家族であったとみえる。
 約百年後の寛政二年の場合、庄屋藤右衛門はまだ三三才の青年、女房は三才年下で子供は六才の長男のみ。五一才の母と下男ひとり下女二人を抱えている。
年寄は八右衛門となっている、四七才。女房は十才年下で、十才の息子と七才の娘の四人家族⑨。この時期から全体の人口もなぜか半減してきている。
 元文五年(一七四〇)の大洪水は、それから百余年後の村明細帳(「天保二年」、「天保十四年」)にもふれられているように、復旧作業に砂石を田畑の下に入れたので以後「から地ニ相成り」、「実入り薄く、凶作勝ニテ嘆ヶ敷奉存候」との被害をもたらした。寛政二年以降の人口減には、こうした事情が繋がっているのかもしれない。

 これまでもふれてきたように、梨井は鈴木・船越・忍藩の入会・相給の地であった。
 享和三年(一八〇三)の野口(マヽ)八右衛門から江戸の用人宛の手紙に、つぎのような入り組み具合が述べられている(以下の引用資料は『豊中市史・資料編第三巻』、文中のカッコ書きは筆者による)。

 「二月 船越様知行所ニ而、家壱軒出火、阿部様御領下類焼壱軒(隣近所か)、
四月 私(野口)所持之林(=阿部様小物成所)ニ而、首縊変死、六月 船越
様御知行所水掻池ニ而溺死、・・・入組互ニ右躰変成事者、融通仕合候」⑩
 領主は異なるが同じ共同体で生を営むものたちである。祭りでは神輿を共に担ぎ、災害時には一蓮托生、お互いが助け合い、対処する。

 元文五年の大洪水から数十年を経た寛政・享和・文化にかけてのころ、洪水被害の文書がふえてくる(六年で十五件)。このときの庄屋は、野口藤右衛門、(年寄八右衛門)、郡太と世襲されているが、そのいずれもが文才に長け、表現はビビッドで、読んでいてその体感を共有する思いがする。
 「当十三日(享和三年七月)夜、夜半過雷鳴壱つ弐つ有之、頻にちなり(地鳴り)いたし、扨大雨降出し、誠に車軸を流す勢ニ御座候。未明には大ニおたやミ(小弛む=雨が小降りになる)候故、・・・ゆるりと于蘭盆いたし可申存候処、北の方にて釣鐘太鼓夥敷(おびただしく)聞へ・・・又鉦太鼓を敲き候故、打驚き、村方よりも千里川へ馳参し・・・」(八右衛門)⑪。
 「・・・味噌汁之様成ル泥水、一日一夜かむり申候而、湖水之様ニ相成候」
(享和三年九月、八右衛門)⑫。

 村の田畑の中央を貫流する千里川は「当村地内凡六百間、巾平均十五間」の、普段は「一滴も養水之助ニ相成不申」の空川であるが、ひとたび大水になると鉄砲水が流れる暴れ川となる。こうなると「堤危く、昼夜十五歳以上六十歳までの男、村中堤へ出張、相防」ぎの作業となる。まことに「行燈・松明・杭木・土俵等之雑費も相懸」(る)難渋な川である(「原田村明細帳 文政七年」ほか)。




 

 庄屋郡太はつぎのような筆致でレポートする。
 「七月廿日(文化元年)大白雨有之、・・・同廿六日夕方より大雨降、翌廿七日未明より、外野一面湖水之如く水冠り申候。・・・又廿八日水弥増申候、剰廿八日黄昏より大雷雨誠ニ車軸を流すと申す歟、又桶より打明る歟といふ降様・・・」
 「麦秋頃ヨリ数度の霖雨(ながあめ)」「八月中、日々之陰雨(降り続く陰気な雨)」
「凡(およそ)日のめ(目)拝まず」「廿三年巳年(天明五年)ニも、凡不相変凶作」「当(九月)十七日鶏鳴頃より、大夕立、大北風樹木吹打し・・・」「人家ハ屋根抜ヶ、或者壁落し・・・」⑬

 梨井は鈴木領だけではない、忍藩阿部領、旗本船越との相給・入会の地である。濁流は分け隔てなく、田畑を押し流していく。

 「・・・阿部様御領分字坂田南町街道ヨリ南大崩れ、是ハ元文五年申年大切れ跡也、馬踏少も不残、内腹斗(バカリ)残リ、・・・堤者阿部様領ニ候得共、根
ニ御地行所(鈴木領)四五ヶ所も入組御座候・・・」(文化元年=一八〇四)。⑭
 その復旧も共同作業だが、費用はそれぞれの負担となる。
 忍藩は攝津に二万石の領地があり、中野(伊丹)に陣屋がある。
 旗本船越⑮は豊島郡、川辺郡に知行所七百石のみの江戸住まいであるが、地元には陣屋を設けている。相給の他二領は何事につけ地元で決裁は可能であるが、鈴木領の庄屋郡太はその都度「飛檄料」を費やして江戸へ御窺いを立てねばならない⑯。
 この堤の修復も「阿部様 根杭入候」で、他領の普請が完了し、こちらのみが遅れているときに洪水などが万一発生したら、「村役人共も甚以不面目・・・御入会之なみに・・・」と江戸の返事を待たずに「相掛リ可申候」ということになる(文化元年)⑰。

 「阿部様、船越様此地御陣屋有之」と郡太はこの年(文化元年)の九月廿二日、江戸の用人に他領の災害後の年貢減免の動きを伝えている。
 「阿部様等も御見分・・・内野 御理解、願書御下げ。外野 願書納リ、船越様 見分とも遠見(とおみ検見=遠隔地又は錯綜した場合、前年までの年貢を参考に当年の年貢率を定める検見のひとつ『音訓引き古文書事典』「柏書房」)とも未決定。当年破免見分願出」の動きのなか⑱、鈴木領の百姓たちが「喧く」「相歎、日夜申出」、このままでは「御取立相滞可申」とその苦境を述べている。
 「近々御相給方御取扱之処、極内密承リ合せ候上、御窺申上候」と江戸の用人宛情報蒐集をはじめると手紙する(文化四年九月廿八日認)⑲。

 これがはじめてのことではない、いつも相給方の免状を内偵、報告している。
 享和三年(一八〇三)の場合、こんな気配りもしている。
 発状は十一月二八日付、この情報は「極内ニ承リ合セ、鳥渡(チョット)申上候」「内密之事ニ御座候」として「阿部様者十一月十五日御免状」「船越様も十一月十一日御免状」、それぞれが江戸屋敷まで到着するには「飛脚ニ而十五六日」なので、鈴木の用人がこの情報(相給方の免状)を問い合わせするのは「左様御承知可被下候」と念を押している⑳。
 このときの相給領の減免は「阿部様 外野 定免→三割九分 内野 二割」「船越様 玄米ニテ弐拾五六石(三分の一位か?)」であった(21)。

 文化元年の場合、「阿部様 例年之三割内外御宥免」「船越様 遠見定免之内引 大底阿部様同様之御取噯(扱)」(22)となっており、文化四年(一八〇七)では「船越様 遠見、玄米納・・・定免高之三ツ余ニ相当」、「阿部様 極内々問合候所・・・外野 四わり→三わり、木綿 五わり→四わり、内野 二斗八升→弐わり」と報告している(23)。
 これまでは御窺を立てていた郡太ではあるが、このたびはこれまでの情報提供の実績を踏まえてか、「当知行御毛見御入用も不掛候事故」と以下のような要望(要求といってもいいだろう)を提出している。
「外野・綿 壱わり、内野 八歩」、鈴木領の被害状況はわからないが、相給他領の比率からみれば、これはかなりの優遇を求めているやに見てとれる。
「万一此上少々ニ而も、減石等被仰付候而ハ、村方相治リ不申候」と頭百姓十一名の連署を付けているのは、決意表明とはいえ、いささか脅迫じみてもいる(文化四年十一月十二日)(24)。
 結果は十一月弐六日要望(要求)どおり認められ、年末には御請書を提出している、メデタシ、メデタシであった。

 今回は野口家文書のなかで、主に相給の忍藩阿部領と船越地行所の、特に災害時の年貢減免の状況を中心に調べ、述べてきた。「文書目録」を眺めると、村政や経営などの項目にも面白そうな事件の文書があり、「道中旅日記」も残っているようである。これらは他日の課題としたい史料である。(了)

 豊中市史編纂資料室、豊中市立岡町図書館ならびに尼崎市立地域研究史料館から資料の提供とアドバイスを賜りました。末尾ながら厚く御礼申し上げます。

[注]
① 『豊中郷土資料目録 [Ⅲ] 原田村野口家文書目録』(一九七七 豊中市立岡町図書館)[以下「目録」と称す]のまえがき(小林 茂・名古屋学院大学教授)
② 「目録」 A-施政―2―4 原田村領主役高(元禄十四年)
③ 「古文書・古記録」P七四
  鈴木正左衛門(旗本) 拝領高 一二〇三石(豊中市内領有高 三〇〇石)
  『徳川実記』第三巻(六五、七六、一九〇頁)に鈴木兵九郎の名前が三度出て来る
 (寛永一四年九月、同十月、同十七年五月)、いずれも江戸城普請大工頭のひとり。十七年の作事奉行は、船越三郎四郎永景であった。
④ 『新修豊中市史 第九巻』より収載、「目録」 Q-絵図面―2
⑤ 「古文書・古記録」P七六 「原田郷梨井村免状」 「目録」 C-免状―2
⑥ 「目録」 B-名寄帳―1
⑦ 「目録」 名寄帳(B-名寄帳―1)、宗門改帳(E―宗門改帳-1、1-2)、五人組帳(E―五人組帳―1~4)、村明細帳(天保十四年 梨井村明細帳)、『豊中市史 資料編四巻』P六〇
⑧ 「目録」 E-宗門改帳-1 ⑨ 「目録」 E-宗門改帳-1~2
⑩ P二〇八 差出人は野口八右衛門となっているが、同年三月の文書では年寄八右衛門となっており、野口姓(庄屋)は誤記であろう ⑪ P二〇九~二一〇 ⑫ P二一〇 
⑬ P二二八~二二九 ⑭ P二一五
⑮ 『旧高旧領帳』によると、豊中市内に船越主計と船越柳之助名義の旗本知行所があった(「古文書・古記録」P七三~七四)。前掲②の「元禄十四年」の領主役高をみると、梨井の船越知行所は船越三郎四郎名義となっている。『寛政重修諸家譜 八八八』によると、同人は船越伊予守永景(三郎四郎)の二男で「寛文十年十二月十日 父が遺跡攝津国豊嶋・川辺二郡のうちにして、七百石をわかちたまふ」とあり、船越左衛門景通(三郎四郎)と称した。同じく三代下る船越龜五郎景貞も三郎四郎と称し、享保二〇年にこの遺跡を継いでいる。江戸城、中奥御小性組の番士であった(『寛政重修諸家譜 第一四巻』P二一九~二二一)。
⑰ P二一六 ⑱ P二一六 ⑲ P二二九 ⑳ P二二一 (21) P二一二 
(22) P二一七 (23) P二三〇 (24) P二三〇

                          (「遊心」23号に掲載)






 
 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾九

2013-12-25 09:32:22 | はらだおさむ氏コーナー
春 の 海


 L先生は、どうされているだろうかと、ふと、思った。

 駅前のコンサートホールで、いま、C嬢のフルートリサイタルがはじまろうとしていた。プログラムの二番目に、宮城道雄の“春の海”があった。電子チェンバロン使用とある、はて?聞き慣れぬ楽器だが、宮城道雄のあの琴の音に代わりうるのか・・・。
 上海万博のとき、L先生の教え子、といってもわたしより少し年上の、元上海の都市計画業務のCさんと会食のとき、先生の近況をお尋ねした。軽い脳梗塞にかかられたが、自宅で静養されている、先週お見舞いに伺ったがお元気であった、とのことであった。

 もう何年前になるだろうか・・・、国際会議で来阪中のL先生からの伝言と人を介して宮城道雄の“春の海”のCD購入を依頼されたのは。
阪大の大学院に留学中の方と大阪や神戸のレコードショップに電話を掛けまくった。まだパソコンもさほど普及していない三十年ほどむかしのことである。二日ほどの探索?のあと、やっと心斎橋筋商店街で発見、先生にお届けして、夕食をご馳走になった。
 ここまで書いてきて、・・・。
 むかし、このCD購入のいきさつを書いたような気がした。
 検索して調べたら『徒然中国』其之弐に、このショッピングのことを書いていた。90年代の初めのことのようだ。
 「先生は宮城道雄のこの名曲に深い愛着を持っておられたのであるが、紅衛兵たちの暴挙からこのレコードは守ることが出来なかった、そのCDはいま手に入らないでしょうか、というお願いであるとか」とそのいきさつを記している。
 過ぎ去りし思い出であるが、C嬢の演奏は終わった。
 チェンバロンはどうでしたか、フルートをすこし尺八ぽく吹いてみましたがと、彼女は話しかけていたが、わたしは先生との思い出にひたっていた。

 80年代の半ば、大阪と上海の都市計画関係の専門家が共同で上海の街道改造考察をしたことがある。中国建築学会大御所のL先生がこのプロジェクトチームの最高顧問に就かれていた。わたしは上海の関係部門とこの考察小組の立ち上げやそのアレンジを担当、現場の考察にはあまり関与しなかったが二年間、数回にわたる日本の専門家チームの訪中には加わっていた。会食の都度L先生は顔を出されて、日中双方のメンバーにいろいろと話しかけられていた。中国側のメンバーはすべて先生の愛弟子か、その孫弟子であった。文革中は全員が“下放”さされていたが、技術系の専門家であるみなさんは文系に比べると比較的優位な、“専門性”を生かした地方の部門で仕事をされていたようであった。
 文革の初動期、紅衛兵たちがL先生宅に押しかけてきたとき、先生は宮城道雄のレコードのほかに浮世絵も没収されておられたが、これは木版刷りだからいずれ同類のものはどこかにあるだろうと達観されていた。だれかがそれで・・・とお聞きすると、文革終結後、国際会議で訪米されたとき、アメリカの知人が同じ図柄ではないがと探し出してくれたとか・・・。そんな話で盛り上がった、共同考察の夕食会であった。

 Cさんが、黄浦江の架橋問題で悩んでおられる話をお聞きしたのもそのような食事会のときであった。
 そのころ、上海の市内を貫流する黄浦江にはまだ橋が架かっていなかった。
 河口から上流の郊外・松江地区まで3千トン級の貨物船が往来するので架橋できないのだという。コロンブスの卵ではないが、螺旋状の橋にすればいい、大阪の南港大橋や広島の音戸大橋はこの方式で解決していますよ、と日本へご招待することになった。“百聞は一見に如かず”、この視察がヒントになっていまの南浦大橋の建設となり、わたしたちは開通前に招待されてこの橋の渡り初め、好きなところで停車して、眼下の黄浦江や両岸の光景をカメラに収めたものだった。小平揮毫の「南浦大橋」のプレートはすでに掲げられていたが、通行はまだ工事関係者のみであった。

 八十年代 「北京愛国」「上海出国」・・・と揶揄されて海外へ飛び出した上海の「就学生」は語学習得よりアルバイトに追われ、それでも小銭をためて帰国すると人脈を生かして「毛生え薬-101」や「痩せる石鹸」の販売などで金蔓を増やし、起業する人や株式投資に走る人も出てきた。なかには不動産投資で政府の役人とくるんで後ろに手が回った人もいたが、九十年代も後半になると帰国留学生優遇のベンチャービジネス支援策が実施されることになる。「ハイ・グイ」=海帰、発音が同じなので“海亀”族と称されるが、他人のメシを食って来た、こうした人たちは良きにつけ、悪しきにつけ、自分を客観視することができる。ことばを換えれば、“ひとのふり見て、わがふり直す”ことができるひとたちである。

 わたしはロシアには一度しか行っていない、それも極東ロシアを一週間ほどで廻ったに過ぎない。ゴルバチョフが軟禁される直前のこと、その一事をもってとやかく言うことははばかれるが、それにしてもこのときの食事も、ホテルも中国に比べても貧弱であった。
 いま、司馬遼太郎の四十年ほどむかしの訪中記『長安から北京へ』(中公文庫、改版8刷)をひもといている。
 かれはわたしより二十年ほどむかしに極東ロシアを巡り、その二年後はじめて中国に足を踏み入れたのであるが、三泊四日宿泊した西安の「人民大廈」についてつぎのような感想を綴っている。
 「夜、ホテルに帰ってくると、気持ちが暗くなった。廊下も部屋も暗く、そのロシア好みの暗さは鉛の空気でも吸っているように重苦しかった」
 八十年代から九十年代の初めにかけて、わたしもこのホテルになんどか宿泊している。
 「セメント塗りの床の上に、琺瑯びきの大きな浴槽が置いてある。大きくて深すぎるそれは、湯を溜めるだけでも大変で、その上、床からよじのぼるのに、大げさにいえば浴槽のふちをつかんで機械体操の要領で―私はロシア人と違って背丈が小さいために―せりあげる気分でやらねばならず、それほどにふちが高々としていた」

 中ソ蜜月時代には革命烈士の子弟(でない?人もいたが)や党の幹部候補生たちは、“社会主義の先達”ソ連や東欧の社会主義国に留学した。ほどなく中ソが対立、“先進技術”の導入はご破算になったが、「留学組」は傷つくことなく「高い浴槽」に身を潜めたまま改革開放の権力の中枢におさまっていた。さすがに五カ年計画はいつとはなしに消えてしまったが、中共党指導部が運用する「社会主義市場経済」のその根幹には、毒草が生え茂って来ている。身銭を切って留学したことのないこのひとたちには、“唯我独尊” 「親方五星紅旗」の発想しかないのであろうが、「就学生」出身の実業家より品性に欠けるひとが多いように思えるのである・・・。

 いま、「宮城道雄」「春の海」で検索、ヒットしたユーチューブで♪春の海♪の琴の音の調べに耳を傾けている。
たゆとう波がしらも、いつしか海流に巻き込まれて流れ去っていくが、春の海はいつまでも波静かにただよっているようである。
(2013年12月12日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾八

2013-11-27 23:23:01 | はらだおさむ氏コーナー

砲弾と包丁


 砲弾は爆薬を装填した火器であるが、包丁も使いようによっては凶器ともなる。使用済みの砲弾を原材料に作られた包丁は、なんといえばいいのか。

 日本が戦争に敗れて降伏したとき、わたしは「国民学校」の五年生であった。
「欲しがりません 勝つまでは」と六甲山の北の農村に疎開していたわたしの戦後は、教科書を墨でぬりつぶすことからはじまった。こころに重い「シミ」が残り、後年病床にあったとき書き綴った詩集『ふくらみ』にそのことを記した。
 小学校の間借り教室を転々と移り、「六・三制 野球ばかり 強くなり」で過ごした「新制中学第一期生」が高校に進学した、その年の六月、朝鮮戦争が勃発した。全校生が校庭に集められ、校長先生の上ずった声でそのことが告げられた、そのとき、わたしの全身に寒気が走り、あのひもじかった「こどものころ」を思い出した。戦争は、もうごめんだ!!わたしは図書館で手にした『きけ わだつみのこえ―日本戦没学生の手記』でその思いを強くし、54年の第五福竜丸の水爆被爆事件が明らかになると、いち早く街頭に飛び出して「原水爆反対」の署名活動を展開した。「反戦・平和」運動がわたしの学生生活の主軸となり、「日中不再戦」がその後の「友好貿易」の核になった。

 詩集『ふくらみ』におさめた「しみ」のおわりは、つぎのように綴っている。
  ・・・・・・・・・・・・・・・
   そして、
   一九六四年の、
   あのとき―――。
   パスポートにつけられた入国査証。
   橋の上で迎えたお下げ髪の兵士。
   商談成立の祝宴で
   <東京―北京>をうたいながら
   片手で<乾杯>をくりかえす
   あの ものを云わない もう一本のきずあと。

   あの時のしみ、
   あのときの、
   おれの息づかいは
   いま、
   ホルマリンづけになって凝結している。
(1968年10月)

 87年であったか、上海での会議のあとアモイをはじめて訪れたとき、海岸から目と鼻の先にある台湾の小金門島には「大陸反攻」のスローガンが岸壁に書き連ねてあった。まだ「中華民国」も「大陸」との交流を認めていなかった。ジャズと京劇の「唱」(チャン)の“交戦”はあったが、両岸を隔てる海には静かな漣がたゆとうていた。わたしは“朝鮮戦争”のことを思い出しながら、このさざなみを見つめていたのであった。

 それから二十余年後の上海。
 すっかりご無沙汰していた上海の老幹部と会食したとき、わたしは「歴史にイフはないが、もし朝鮮戦争がなかったら・・・」と訊ねた。上海がまだ国民党支配下にあった学生時代からすでに地下活動をされていたこの老幹部は、杯の酒を飲み干してこう断言された。「台湾本島まで国民党軍を追い詰め、殲滅させていただろう」。
朝鮮戦争勃発にはいろんないきさつがあるが、中華人民共和国建国の翌年六月にはじまり、その数ヶ月後(建国一年目)に中国の「義勇」軍が参戦した。中朝国境まで迫った国連軍を撤退させるため、ということであった。
89年の秋、上海で放映されたテレビドラマ「上海の朝」(周而復・原作)は、この朝鮮戦争参戦で揺れる“愛国資本家”の苦悩を描いている。

 アモイ周辺から金門島本島に砲弾が打ち込まれたのは、朝鮮戦争終結後の58年8月23日であった。2時間で6万発、アメリカの軍需支援がなければ台湾本島も危機に陥るほどで、10月6日までに打ち込まれた砲弾は50万発近かったといわれている。
 この中台の“敵対関係”がほころびはじめたのは、蒋介石の長男・蒋経国が
亡くなる一年前(金門島砲撃後30年)の88年、戒厳令の解除と共に認められた「大陸親族訪問」からであった。
 「国共の戦い」は、中国のひとびとを巻き込んだ「内戦」であった。上海出身でいまは香港に居留するわたしの知友も、ふたりの叔父、父の長兄は解放軍の幹部、その弟は国民党の幹部という、戦乱の中国ではこうもありえたであろう家庭の出身であった。多くの大陸出身の兵士や軍属が、家族や親戚と離れ離れになって台湾に移って四十余年が経っていた。88年に認められたこの「親族訪問」は、海峡両岸の“緊張関係”を徐々に氷解させていった。
 92年に二度目にアモイを訪問したとき、郊外には早くも台湾の経済特区が開発され、台湾投資の“別荘”には大陸の親戚が住みはじめていた。
 大陸のカラオケでは、テレサテンの歌がヒットチャートを独り占めにし、台湾の“康師傅”が即席麺の王座に輝く。三通(通信・通商・通航)の制限は徐々に緩和され、大陸からの台湾訪問もはじまる。エバグリーン(台湾)のコンテナ船が中国商品を満載して世界を駆けめぐり、“上海万博”への臨時便がやがて定期路線としてシャンハイとタイペイを結ぶことになる。

 09年3月 わたしはアモイからフェリーで金門島へ向かった。日本人の団体
乗船第一号である。中国人の観光グループで満席であったが、アモイの日本語通訳はわたしたちのメンバーとはみなされず、急遽彼女の友達を誘っての団体乗船とあいなった。
 わたしたちは金門島の史跡と戦跡めぐりが中心であったが、不思議というか、当然というか、滞在二日間で中国人の観光客と出会ったのは土産物店だけであった。そして、ウワサには聞いていたが、砲弾から作られる包丁の製作実演コ
-ナ-は押すな押すなの超満員。毛沢東は「鉄砲から政権が生まれる」と語ったが、まさか“敵”に打ち込んだ砲弾から、切れ味のいい包丁が作り出されるとはユメにも思わなかったことであろう。その切れ味の良さは、噂にウワサを呼んで、いま長蛇の列とあいなっている。後で聞いたはなしだが、中国の観光地でも“寅さん”よろしく、この包丁売りの街頭実演販売もあるとか。そのブッタギリの、切れ味の良い“口演”に商売繁盛との由だが、モノは本家本元で買うのが“ゴリヤク”が多いというもの。そして、包装のメイドインタイワン、金門島がなんといってもモノをいうのである。

 WTOの中台同時加盟からすでに十余年が経った。
 その加盟の瞬間の台湾企業の表情をさぐるため、わたしはそのときタイペイに飛び、数社の台湾企業の対中観をヒアリングした。企業のポジションで反応はさまざまであったが、交流の拡大は中台双方の経済関係の発展には避けられないとの見解では一致していた。
 その後わたしは訪台を重ね、その都度行く先々で多くの中国からの観光団と巡り会った。故宮博物院では、あの喧騒に眉をひそめる参観者も多く、土産物店では正札販売に慣れずに大声でトコトン値切る中国人観光客に音をあげていたが、それでも“お客様は神様”、台湾経済にとって中国人観光客の増大は欠かせない。日本も高度成長期、ノウキョウの猛者が花のパリで醜態を演じて天下にその名を轟かせたことがある。なによりもダイジなのは、中国の人たちが台湾の人とその社会のなりくみに深く触れ、自他を振り返ることにある。「衣食足りて 礼節を知る」は中国発の格言であるが、世界のマナーでもある。

 砲弾からつくられた包丁で、調理にいそしむ日々は旅の思い出を深め、相互理解を進めることにつながることだろう。いま漁界をわきまえず、自己流の漁法で稚魚まで吸い獲って、明日の海を護り育てようともしない人たちにも、こうした中台の交流も必要なことではないだろうか。              
(2013年11月10日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾七

2013-10-24 14:43:08 | はらだおさむ氏コーナー
セブンか、エイトか
 七年後に、東京五輪の開催がきまった。
 日本ではこのセブン、ラッキーなセブンは、あの七回裏の風船飛ばしのように野球がその起源とかいわれているが、たしかなことはわからない。 
〇八年の北京五輪は、八月八日の午後八時八分に開幕された。88888(パパパパパ)、そう、中国では「八」がめでたい、ラッキーなのである。
くわしくは知らないが、古来中国では八人の仙人が実在、「八仙(八福神)」の絵が民間信仰の対象になっていたといわれている。日本にも「七福神」があるが、関係があるのかどうか・・・これは、まったくの落とし噺になるが、むかしむかし、蓬莱山(中国山東省)に集う八仙人が、東海の扶桑国(日本)へ向かって船出した、その途次嵐に遭い、ひとりが波にさらわれて・・・、日本に着いたのが七福神???その真偽はさておいて、いま日本でも七福神信仰が定着して各地にその廟や祠がある。
 この七福神の中国渡来説よりさらに有名なのが、「徐福東渡」のはなしであろう。

 江蘇省の北の海岸沿いに連運港というみなとまちがある。朧海鉄道の起点であり、西安・蘭州を経てその地の果てはユーラシア大陸に繋がる。
 80年代のなかごろ、大阪の泉北港とこの連運港が“友好港”になり、堺市と連雲港市の友好都市提携に発展した。
 わたしはそのころ友好都市間の経済交流の促進を図るべく、関係者と数回同市を訪問したことがある。まだ同市へのフライトもないころ、鉄路では上海からあの徐州を経由するか、クルマでは南京からのスタートであった。

 これは南京からはじめてクルマで連雲港市へ向かったときのおはなし。
道すがら周恩来総理の生まれ故郷―准安で竣工したばかりの記念館を参観、
 昼食のあと連雲港に向かったはずであったが、クルマは2時間ほど綿畑で覆われた人気(ひとけ)のない農村地帯を走り続けていた。連雲港へ行くのがはじめてのドライバーも、さすがにこれはおかしいと周辺を見回したが、尋ねる人もいない。カ-ナビはおろか、携帯電話もないころのこと。頼りにするのは地元の人の道案内である。やっと綿畑を脱出して地道にでたところで出会った農民に聞くと、右の方を指差して「ハイヨ―、イ―パイトゥコンリ」、あと100キロくらいという。
さらに2時間、すでに陽(ひ)は西に傾き始めている。ドライバーは焦りぎみにやっとつかまえた自転車のアベックにたずねると、ふたりとも前方を指差して「イ―パイトゥコンリ」と声をそろえて合唱。道の両側は干からびた畑のみ、このふたりはどこへ行くのか・・・。
 ようやく見つけた数軒の集落にはすでにランプが灯り、道端で親子が夕食中であった。ここでも「イ―パイトゥコンリ」、彼らは行ったことがないのだ。遠くだよ、まだずっと先だよと言っていたのであった。

 翌日に持ち越された歓迎宴のなかで、連雲港の郊外に徐阜(徐福と中国語では同音)村があることを耳にした。大阪でも徐さんという人が経営する中華料理店があり、かれの本社所在地の和歌山県新宮市には徐福神社があることなども話題になった。「徐福伝説」の本家争いは、日本でも中国でもいろいろとあるが、この「徐福東渡」は七福神の中国渡来説よりかなり歴史的裏づけがある。           
司馬遷の『史記』や北宋の詩人・欧陽脩の作品などに、秦の始皇帝の求めに応じて不老長寿の薬を探しに行くと、徐福が三千人の若い男女と百工(多くの技術者)を連れて東方に船出したまま帰って来なかったとの記述がある。いまに残る日本の伝統工芸品や農業・漁業などに、その技術と面影が偲ばれるとさえいわれている。

連雲港市にはもう二十年近く行っていないので、その後の発展ぶりは定かではないが、サントリービールの中国法人(「花果山啤酒」)発祥の地であり、同地出身の知人も大阪に定住していて、いまも懐かしいところである。当然この地が“徐福”本家争いの筆頭であろうと思っていたが、昨年の「徐福東渡2222年」行事は、浙江省の象山県で開催されることになっていたという。『中国地図集』を開いてみると、わたしも行ったことのある、寧波市や舟山列島の南、天台山の東北にあたる。わたしはこの象山県を訪れたことはないが、十数年前、温州市からクルマでこの海岸線を北上して台州市まで行ったことがあり、天然の良港・象山港やその海岸線は『史記』の記述とは少し異なるものの、徐福一行の船出の地としても悪くはない。

  わたしはいま、東海日中関係学会の逵(つじ)志保さんのレポートを読んでいる(日中関係学会ホームページ掲載「徐福を通しての日中交流」)。 
昨年10月の12号はつぎのような書き出しではじまっている。
「 なんとも重い秋を迎えました。
    9月15日~18日に中国浙江省象山県で開催を予定していた、『2012中国徐福文化象山国際大会』が、9月12日晩、他の多くの日中交流行事同様、開催見送りを決定したとの一報を受けました。・・・いま思えば、その時同じような連絡を受けて頭を抱えた方が、きっと日中のあちこちにいらしたことでしょう」

    中国徐福研究会は1983年に設立され、全国で14の研究会があり会員は約10万人。現在の第三代会長は張 雲方・中日関係学会副会長だとか。
    このとき会場に選ばれた象山に徐福研究会が設立されたのは07年とまだ新しいが、習 近平主席が浙江省の党書記であったころ(02~07年)、同省のお茶とこの徐福伝説が「無形文化財」の対象となり、08年には「国家級文化遺産」に登録されたとのことである。
    その国際大会が、開催の三日前になって中止になったのである。
    「あの島」が問題になったのはいうまでもない。
    「ほどなく主催者から大会中止のお詫びのメールが届きました。主催者からの文面は、尖閣諸島の問題に一切触れず、ただただ開催見送りをわびるものでした」

    今年になって、中国徐福会は動き出した。
一月に研究論文の表彰が張 雲方会長名で行われ、八月には舟山市で国際シンポジュウムが開催されている。30数名の小さな会合であった。日本からは、逵(つじ)志保さんひとりの参加だけであったが、とにもかくにも動き出したのである。

「政治の世界」は動き出そうとしているのか、どうか。
「三中全会」をひかえ、日本の中国情報は相も変わらずかまびすしいが、昨年の中共全国党大会で最高指導部は、チャイナナインからセブンになった。スリム化か、意思統一が図りやすくなるのかよくわからないが、庶民にとってはナインでもエイトでも、セブンでもどうでもいい。わかりやすい政治と「庶民」のささやかな「夢」を実現してくれる体制であって欲しいと願っていることであろう。
「不老長寿」の薬は、どこで手に入れるのか・・・。             
(2013年10月15日 記)
【追記】
   このところ、しきりと思いだすことばがある。
   「もう、<友好乾杯>の時代は終わった」
   八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員が
  よく話されていたことばである。

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾六

2013-10-17 09:10:27 | はらだおさむ氏コーナー
ルビコンの川


“七十の手習い”で学びはじめた近世地方文書(じかたもんじょ)は、庄屋さんなどが備忘録として書き残した村方文書が主で、あとではご本人も判読に苦しむような、書きなぐりのものも多い。
はじめて参加した学習会(月二回)は、わたしより数歳年長の方が指導される10名ほどのクラスであった。二時間の学習時間では、受講生三名が順番にテキストの文書を釈文して黒板に書き、それをみんなで検討しあって誤りを正し、最後にリーダーがその内容を解説するという仕組みであった。
文頭の「乍恐・・・」も読めないわたしは、つぎの「以書付奉願上候」が読めるはずがない。順番が回ってくるたびにパスを繰り返していたが、あるときリーダーから「ルビコンの川を、思いきって渡りなさい」との指摘を受けた。
わたしのあたまに一瞬「クワイ川マーチ」(映画「戦場にかける橋」主題歌)のメロディが流れかけたが、あわててさにあらずとストップ、あの「賽は投げられた」の故事のことと思いついた。そうだ、古代ローマの時代、ルビコン川より内側に軍隊を連れて入ってはいけないとされていたが、カエサル(シーザー)はこの規則を無視して渡河、ローマに向かった。爾来「ルビコン川を渡る」とは、ある重大な決断・行動をすることのたとえとなっている。リーダーはわたしの古文書学習態度を、この比喩を使って叱正されていたのであった。


♪人生~いろいろ♪、そう、わたしの人生にも、いろいろと決断を迫られる場面があった。
22歳 さる中小企業経営者と意気投合して、社員がわたしひとりの日中貿易の会社に入り、実務も経営の何たるかもわからずに船出したこと。32歳 湿性肋膜炎で加療・養生半年のあと、まだそれほど施術の確立していなかった胸部外科手術で右肺三分の一を切除したこと。48歳 こと志と異なり和議再建が実らず、会社破産で一年の浪人のあと、対中投資コンサルタントとして再出発したことなど、いくたびか、わたしもルビコンの川を渡ってきている。

86年の初夏のこと、これはさほどの決断をしたという記憶はないが、伊丹から上海へ向かうJALで搭乗直前 ストップがかかったことがある。
同上海支店からの緊急連絡で、わたしたちを招聘先が受け入れできないと連絡してきたとか。なにを馬鹿な、わたしたちは正式のビザを取得している、大丈夫と機内に乗り込もうとすると、もし上海で入国拒否された場合、帰国便の費用は自費負担をご確認下さいと書類に署名を求めてきたのであった。
 これにはつぎのような事情が背景にあった。
 その前年の一月 日系合弁製造業第一号の設立批准を受けていたが、日本にあるスイス製プラントの解体・輸送と上海における工場建屋の新設遅れなどでまだ操業には至らず、スイス人の技術者が現場でプラントの組立て指導に着任した直後のことであった。かれは上海での生活環境がなじめないと中国側に無断で、日本経由で帰国してしまった。突然姿を消したこの技術者の行方を捜していた中国側は、かれが虹橋空港から帰国前に投函していた手紙を見て一安心するやら、これは日本側の手引きに違いないと、今度はわたしたちにその怒りを突きつけてきた。誤解もいいところ、わたしたちはこの事件発生以前から今後の業務推進打ち合わせに訪中の予定であったが、何はともあれ、事態の改善にと空港へ駆けつけたのである。
 上海虹橋空港の入国ゲイトを出ると、いつもの中国側担当者が出迎えに来ていた。ぎこちない会談のスタートであったが、話せばわかる、誤解は氷解し、仕事の改善策が話し合えるようになった。もちろんキーパーソンの、スイス人技術者の再訪中のため、日中双方がそれぞれ役割分担をして対処することになった。
 もしも伊丹空港で、あのまま搭乗せずにいたらと思うと、いまでもゾッとするときがある。


先日 リービ英雄さんの「国境越える文学」を読んで思うことがあった(8月24日「日経」夕刊)。
 少し長くなるが、以下引用する。
 「・・・中国にも強い関心を寄せ、頻繁に訪れ、作品のテーマにしている。
 『中国に行くのは子供のころ台湾で育ち、中国語が話せることが大きい。僕は日米という枠の中で生き、米国人だからどうのこうのとずっと言われてきた。結構、息苦しかったのですが、中国というもう一つの軸ができて、逆に小説の日本語が深まった気がする。日米、日中など二つの国だけの視点だと、どうしても優劣を比較することになる。これに第三国が加わることで、初めてそれぞれの文化の特徴が比較でき、広い世界が見えてくるのです』
 『日本もこれから欧米とは違ったアジアの国々との国際化が重要になります。でも日中韓のナショナリズムの高まりが心配です。特に中国のそれを見ていると、どこか戦前の日本に似ていて、現代の出来事とは思えない。中国は19世紀に受けたトラウマ(心的外傷)を今になって癒そうとしている。19世紀は民族、人種で発想する時代でしたが、21世紀は言語と文化の時代です。世界全体が21世紀に向かうよう望んでいます』(聞き手:編集委員 藤巻秀樹)」

 昨年ひとつき遅れで開催された中国共産党第18回党大会の開幕式で、十年前に引退、一時死亡説も出ていた老幹部が意気揚々と壇上に姿を見せたのには驚いた。最近このことを中国消息筋に聞くと、解放軍の総参謀長を含む人事がかれの思惑通りに実現したからだろうとのことであった。日本でも引退した古老がときおり政界の裏で暗躍することはあるが、ここまであからさまなことはないし、その実力もない。
昨年8月の北戴河での“駆け引き”はまったく報道されないが、秋の党大会の開催が一月延長されたのは、あの「島の問題」が原因ではない。まさに死力を尽くした“権力闘争”が展開されていたのである。この状況を日本政府がどこまでつかんでいたのか、外交は内政の反映とも言われるが、日本はその火中に“栗”を投げ込んでしまったのである。


故事によると、ルビコンの川を渡ってライバルを倒し、独裁の道を歩みはじめたシーザーは、「王」への階段を昇りはじめる。しかし、ローマの伝統的な元老院による共和政治を、シーザーの専制政治にしてはならぬとするグループは、決起して白昼かれを刺殺したのであった。

ブルータス、お前もか・・・。

(2013年9月11日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之六拾五

2013-09-10 15:10:45 | はらだおさむ氏コーナー
鬼  城

このところ“会うが今生(こんじょう)のわかれ”とか称して、数人の学友たちとの年二回の一泊旅行が続いている。
 今年の春は、岡山の総社(そうじゃ)に一泊し、鬼ノ城(きのじょう)に足を延ばした。かなり険阻な山頂に遺跡が発掘され、古代山城と認識されたのはまだ40年ほど前、国の史跡指定は1986年とのことである。
山頂の古跡に設けられた砦ふうの展望台から、古代吉備国の中枢地・総社平野が望め、その先に四国の山容がかいま見れる。
“桃太郎伝説”は人口に膾炙して、その本家あらそいはかまびすしいが、当地ではその“黍団子”は「吉備」ダンゴに通じるとその“歴史”をつむぐ。
ひとつは古代大和政権と吉備国との対立、もうひとつは白村江の戦いに敗れた「倭国」を攻める「異国の王子・温羅(うら)」の伝説。後者では吉備国に舞い降りた「温羅」の悪行退治のため朝廷から派遣された「吉備津彦命」が“鬼退治”に成功するおはなしであるが、それを裏付ける史料は乏しい。江戸の草双紙『桃太郎』『桃太郎昔話』で広まったものといわれているが、その端緒は室町時代にも遡るとのこと。

中国にも「鬼城」が出現してきているが、ご存知だろうか。
改革開放後の“産物”で、わたしの「岩波・中日辞典」(1983年版)には載っていないが、中国のいまの世相を象徴している。「グイ・チョン」は“鬼”(幽霊)の住む屋敷、つまり“ゴーストタウン”のこと、90年に土地使用権の有償譲渡が認められてからの“新生事物”(このことばもいまでは“死語”であろうが)である。
いまの“80后”たちが生まれたころ、上海など都市の住宅は極度に払底し、愛し・愛されて結婚した彼らの両親に“愛の巣”はなく、たまの休日には祖父母が公園などで日永時間をつぶして、孫の誕生をサポートしていたものである。
南市区の石庫門住宅街などでは、一戸に2~3家族が同居、その居住性を改善するため大阪から専門家を派遣、共同考察なども実施した。
85年9月には大阪の専門家(建築士、不動産鑑定士、弁護士)の「上海経済区房産視察団」を常州・無錫・上海に派遣、趙紫陽改革の実験住宅などを視察したことがある。
 常州の“実験住宅”は建築コストを市・企業・個人が各三分の一負担するという新しい住宅政策の“実験”であった。使用権、相続権(親子二世代)は認められるが、転売は認められない、いわば実質家賃の先払いといえた(『上海経済交流』第3号)。居住者の満足気な応対に、わたしたちもこころ和んだが、無錫の関係者は「住宅の私有化は社会主義でない」と否定、上海から同行の通訳も「私有が認められるのはテレビまで」と言い放った。

 90年4月の「浦東開発宣言」で国有地使用権の有償譲渡が認められ、当初は外資導入策として活用された。上海の行政組織「房地産(家屋・土地)管理局」はふたつに分離され、朱鎔基市長(当時)の呼びかけで「住宅基金」の積み立て(企業と本人が各50%)がはじまった。やがて国営企業改革の推進で、社宅の分譲がはじまり、住宅の私有化が進む。才気ある人はこの転売、買収などでふところを豊かにし、新しいマンションなどの建築需要を産み出す。老朽市街区の再開発をめぐっていくつかの汚職・疑獄も発生するが、庶民側から見たこの時期の住宅トラブルは、映画『上海家族』が赤裸々に描きつくす。

 90年代の終わりごろであったろうか、まちづくりプランナーの知友から相談を受けた。上海の某大学の知人から中国での共同事業の提案を受けているが、
どう対処したらいいかと。わたしは合作経営方式での処理をアドバイスした。
第一号のプロジェクトは、上海の浦東地区であったと記憶する。かれのプランしたスケッチのいくつかは大阪で他の同業者たちと拝見したが、中国のこれまでのまちづくりに見られない雅趣があった。プランだけで完売された、なんでも温州閥のグループ購入であったとか耳にする。日本ではこのような70年間の借地権付償却資産に過大投資するひとは多くはないと思うのだが・・・。
 後日かれにその後の状況を聞いたところ、入居者は少ないという。
 かれの、この花園住宅の設計コンセプトは、園内に流れる小川のほとりで孫の手を引いた老婆がたたずむ、ということにあったが、“鬼”の住む館になってしまっていた。“ゴーストタウン”のはじまりである。
 かれは、その後もパートナーの要望で、成都、青島、大連・・・のまちづくりに参画するが、プランナーとしての充実感を味わえないと口ずさむ。

 数年前、上海で中年のドライバーのタクシーに乗った。
 かれの郊外の住宅はまだローンが残っており、息子の結婚をサポートしてやれない(中国では花婿が住宅を用意する)と嘆いていた。いまどきの上海では、住宅のない青年は女性から見向きもされないというが、70年代の日本で一世を風靡したとも言える「かぐや姫」のあのうた、♪三畳一間の小さな下宿♪(「神田川」)から新生活を営むカップルはもう中国にもいないのであろうか・・・。

 話は変わるが、昨今の日中関係で日本からの訪中団は激減、知り合いの中国の旅行社の日本部長はいまカナダ旅行も兼任、結構忙しいと耳にした。
 それで思い出したことがある。
 香港のAさんのことである。
 カラフト生まれ、上海育ちのかれは、上海解放のとき香港に脱出、小さなみやげ物商を営む。わたしは初訪中時の64年から、日中間の直接往来が定着するまでの間、毎年なんどかの中国との出入時にかれのお世話になった。
 香港の中国返還が話題になりかけたころ、香港の商人たちのカナダへの脱出が話題になった。Aさん夫妻も大金をはたいてカナダ国籍を取得した。すでに長女は在米華僑と結婚、次女はシンガポール大学、長男はジュネーブの高校に留学中であった。かれはわたしに、世界各地に同胞あり、これが中国人の処世術と語って、香港からカナダへ移住した。
 その数年後、かれと大阪で再会した。
 カナダでは商売にならないので香港に戻っている、家と国籍はカナダにあるが商売は香港、また立ち寄ってください、とのことであった。

 朝日新聞デジタルには、つぎのようなレポートが載っている。
 「カナダは、移民を目指す中国人にとって『天国』と称される。80万カナダドル(約6千4百万日本円)の投資などをすれば移民できたためだ。・・・07年ごろからは中国からの移民が急増した。いまや(バンクーバー)人口の2割にあたる40万人の華人が暮らす。
 バンクーバーで不動産業を営んで20年以上になるという華人の男性は言った。『党や政府の幹部の多くは、まず妻と子供を移民させる』なぜか『幹部だからこそ分かっている。彼らにとって中国は、安全ではないということを』」
            (『紅の党』(2)「赤い貴族」たちの権力と蓄財)

 90年の前後、「北京愛国、上海出国、広州売国」のザレことばをよく耳にしたものだが、いまではすっかり様変わりしているかのようである。

 在阪の中国人の友人は、こうもいう。
 いま罪を問われている人物のようなクラスで、汚職をやっていない人はいないと“老百姓(庶民)”たちは思っている。人気取りであったかもしれないが、低所得者向きの住宅をたくさん提供したことは、庶民のこころをつかんだ。“夢”よりも“実績”だよ、と手厳しい。

  
 先日一週間ばかり入院したときのこと、可愛い看護士から「吸血鬼が採血に来ました」告げられた。こんな“鬼”ばかりだといいんだがなぁ・・・。

                 (2013年8月24日 記)

 

政 策 と 対 策

2013-09-03 21:18:23 | はらだおさむ氏コーナー
  “上に政策があれば、下に対策がある”、これは中国を語る有名なことばであるが、昨年の“島”問題で「国交正常化四十周年」記念行事がすべて吹っ飛んだとき、中国側の窓口は“異口同音”に「上からの指示による」と語った。それは単なる記念行事に留まらず、“民間交流”のなかで生み、育ててきていた、たとえば「上海国際マラソン」のような定着していたイベントでさえ、“警備上、不測の事態を避けるため”と中止になった。そこにはこの行事を開催してきた“歴史”を守ろうとする姿勢、“対策”はまったく垣間見られなかった。このことは、豊中市で開催準備中であった「魯迅と友人展」に対しても同様であった。上からの“命令”にただひたすら従う“役人”の姿勢しか感じられなかった。個々の当事者を責めるのではない。この四十年で中国が変わってしまったのである。
  日中友好協会設立五十周年記念行事が北京で開催されたとき、わたしは盧溝橋の「抗日戦争記念館」で見たくない光景に遭遇した。大勢の小学生が「愛国教育」のため訪れていたが、まるでピクニックに来ているかのよう、「731部隊」の「生体実験」のパノラマ展示の前でおどけ、騒ぎまくっていた。わたしは随行の関係者に苦言を呈したが、数年後の全面改装時にはこれが撤去されて、A級戦犯の紹介に変わっていたという。むかしの中国では「軍国主義者は日中両国人民の共同の敵であり、99%の日本人民は戦争の犠牲者」ということがよくいわれていた。「敵」と「味方」を峻別して、物事に対処してきていた。いまはどうであろうか、“坊主憎けりゃ・・・”になってはいまいか。
  “島”が「核心」なのか、08年の「『戦略的互恵関係』の包括的推進に関する日中共同声明」が基本なのか、よく考えてみたいものである。

  『大阪 与 中国』230号(2013年9月1日掲載)

思い出すこと

2013-08-25 15:04:01 | はらだおさむ氏コーナー
 『毛沢東 その詩と人生』はわたしの長年の愛読書であったが、著者(武田泰淳との共著になっているが、かれは序文のみの由)の竹内 実先生の謦咳に接したのはまだ十数年前のことである。
 日中関係学会の設立発起人のひとりであった高橋正毅弁護士が若くして病魔に倒れたあと、かれの事務所にあった関西日中関係学会の連絡先がわたしの大阪府日中経済交流協会に移り、当時関西の会長を務めておられていた竹内先生とお目にかかる機会がふえた。ほどなく先生から次期会長就任の要請があり、お引き受けしたものの病気がちでかえって先生のご負担を多くしていたと思う。京都はもちろんのこと、大阪や神戸での会合にもよくご参加いただき、姫路獨協大学で開催した全国総会のあとの記念セミナーには全面的にご協力を賜った。
閉会後、姫路日航ホテルで一夜をともにしたが、その節いまは絶版になっている前掲書の再版はむずかしいので、新しい漢詩辞典を書いているとのことであった。後日先生の署名入り『岩波漢詩紀行辞典』をいただくことになった。

 先生は単なる中国文学者ではなく、エッセイストであり、文芸・映画の評論家でもあった。
 わたくしごとであるが、国慶節60周年のとき、上海のある日本語雑誌から寄稿を求められ、最終的には当局の検閲で不掲載になったことがある。あとから思えば、その内容にふたつの課題があったと思う。そのひとつは、90年の「浦東開発宣言」以後の改革開放が「6.4」を起点としているという指摘であり、もうひとつは上海証券市場に上場の60%以上の銘柄が国有企業関連の
ものであるから、市場操作はあるだろうがかれらが火傷をする相場展開はないだろうという見解であった。わたしは稿料はいらないからと原稿の返還を求め、後日メールで友人・知人に「ボツになった原稿」と題して発信した。竹内先生にも事情を説明して郵送でお届けした。後日先生にお目にかかったとき、つぎのようなアドバイスをいただいた。読者にいろんな情報を提供するとき、その材料だけでいい、結論は自分で述べる必要はない、読み手がいろいろ考え、自分で結論を導き出すようにすればいい、と。以後わたしは先生の含味をかみしめ、そうありたいと努めているが、まだ若いのか?つい感情にまかせて大上段に結論を出そうとしてしまうことがある。まだまだ修行が足りないと恥じ入る。

 『竹内実[中国論]自選集』三部作(桜美林大学北東アジア総合研修所)は先生最後の集大成の作品である。わたしは特にその[三]<映像と文学>に惹かれ、座右の書としている。
 まだまだ先生に教えを賜りたいが、先生はすでに「死すとも朽ちず」の途にある。謹んでご冥福をお祈りする次第である。  合掌