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徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾四

2014-06-10 09:55:59 | はらだおさむ氏コーナー
保上知令のことなど


夏が近づくと、よく思い出すことがある。

そのひとつは、敗戦詔勅(ラジオ)の数日後のこと。
疎開先の農繁期休暇の繰上げ登校で、「国民学校」の五年生であったわたしたちが先生の指示で一番先にしたのは、教科書を墨で塗りつぶすことであった。たしか“国造り神話”の一節、神の矛先のしずくから“淡路島”が産まれた、とかの話であったように憶えている。この思い出は、わたしのこころにトゲのように突き刺さり、後年入院時に書き綴った詩集のなかの一篇にもなった。
 わたしの同世代は、「小学校」を出ていない。
創設されたばかりの「国民学校」の一年に入学、戦時体制下の“ホシガリマセン カツマデハ”と疎開や空襲などのときを過ごして、敗戦後の最後の「国民学校」を卒業した。そのあとは「新制中学」の第一期生として、自前の校舎も無い、“六・三制 野球ばかり 強くなり”の日々を過ごすことになる。

 ふたつ目の思い出は、高2の夏、テニス部の合宿のときのこと。
 テニス部部長の数学の先生から進学のことを聞かれた。文系の大学受験には数学は不要と信じ込んでいたわたしであったが、それは旧制のはなし、新制大学ではたとえ文系であろうと理数は必修科目と、即刻退部を命じられた。それからは不得意の数学に熱中したが、一期校は見事“サクラチル”、二期校の数学は、いまでも満点と信じ込んでいるが、わたしの人生設計は大きくカーブを切った。この独断と思い込みは、人生のたそがれ、“午後七時の太陽”になったいまも健在のようである。

 “七十の手習い”ではじめた古文書の学習にも、この性癖がちらつく。
いまだ判読できない文字も多いが、地方文書(じかたもんじょ)だけでは地元の歴史もつかめないと、四年前から同好の士と『宝塚市史』の輪読会をはじめた。知らないこと、わからないことばかり、それは地元の歴史だけではなく、日本の歴史全体にもつながって、間口は広がり、迷路に入り込んで身動きが取れなくなってきている。
そのひとつに「天保の上知令」があった。


わたしの生まれ育った尼崎市では、上知令(あげちれい、じょうちれい、とも)というとすぐ脳裏に浮かぶのは、明和六年(一七六九)のあの上知令、いまの西宮市、芦屋市、神戸市の東部(兵庫津=神戸港を含む)の豊かな海岸線沿いの尼崎藩領が幕府に召し上げられ、その代替地として播磨の農村地帯があてがわれた。絞油、酒造、海運業など豊かなこの地域の上知は、尼崎藩にとって表向きの石高では測りきれない経済的損失であった。
ところが、である。
念のため、「上知令」を電子辞書などで確認すると、一般的には「天保上知令」を指すらしい(『広辞苑』ほか)。
さてさて、という次第で昨秋書き上げたレポート「“雪の殿様”と天保上知令」(宝塚の古文書を読む会冊子「源右衛門蔵」16号へ寄稿)のことになるのだが、この時代の中国はどうであったのだろうか・・・。

いまユーチューブで中国映画「阿片戦争」(謝晋監督)を見直した。
清国第八代道光帝のとき、イギリスの持ち込む阿片で国の財政が行き詰まり、林則徐にその廃棄処理が命じられる。そうだ、広州での林則徐のあの勇姿を思い出した。一八四〇年四月、イギリス議会は討論の末(花瓶=チャイナが割られ)、9票の差で中国への懲罰戦争が議決される。同六月に出兵、イギリス艦隊は意表をついて広州ではなく天津を攻撃した。清軍の敗北、そして二年後の南京条約の締結・・・このときから中国の「屈辱の百年」がはじまるのでる。

鎖国日本ではあるが、長崎経由で外国の情報は絶えず入ってきていた。
また、イギリス船やロシア船などがそれまでにも来航、文政二年(一八二九)には「異国船打払令」も出されている。
「天保期は気象上からみれば、小氷期にあたっていた。降水は雨でなく、雪になることが比較的多かった」との書き出しではじまるわたしの前述のレポートは、幕閣「ロウジュウ(老中)・シックス」で執行される天保の改革の一断面を描いている。もちろん老中首座は水野忠邦である。他の五人の老中は月番(交代)制ではあるが、大塩平八郎の乱のとき大坂城代であった土井利位(どい・としつら)が京都所司代を経て天保十年(一八三九)幕閣に加わっている。
老中首座について二年目の天保十二年、忠邦は将軍家慶の支持のもと、いわゆる「天保の改革」に乗り出す。ひとつは農村への帰農を促す「人返し令」による殖産振興策、さらに物価の騰貴を抑え、流通経済を促進させる「株仲間の解散」などであった。十余年前の「異国船打払令」を撤回して、外国船に薪や水など必要な物資を与えて穏便に帰す「薪水給与令」を定めたのは、前年の中国における「阿片戦争」への対処であろう。
さらに翌天保十三年、江戸や大坂の十里四方の大名や旗本領(いわゆる私領)の幕府への返上(上知)令は、ホントに首都防衛にまで意識していたのか史料的には明確ではないのだが、そのあたりの不明確さが発令半年足らずで撤廃に至り、水野忠邦本人も辞任に追込まれることにつながってくる。
この撤廃にいたる過程で明らかに中国と異なるのは、土地(領土)のこと。中国では土地はすべて皇帝のものであったが、日本では年貢を支払う義務はあるが土地の実質所有は、農民のものであったということである。
天保の上知令が施行されずに頓挫した最大の原因は、幕閣ナンバーツーになっていた土井利位の、大坂の領地の農民(庄屋など)たちがおこした上知反対闘争による。大坂城代や京都所司代の就任は譜代大名にとって幕閣への昇進コースではあるが、実質は名誉職で国許から連れてきている供侍の滞在費用も自己負担である。つまり宛がわれた所領の年貢から費用を捻出することになるのだが、江戸も中期を過ぎると貨幣経済の時代になり、所領からの年貢も定免制(年貢比率の固定化)が定着して、領主は借金財政にあえいでいた。下総古河藩主土井利位は所領八万石のお殿様であるが、その所領の三割は畿内にあった。
地味が比較的豊かなこの地域では、綿実や菜種など庶民の生活に欠かせない産物が多く、その流通などで生産者に不利な事由が発生すると、これまでも村の有力者や庄屋などの連判による集団示威行動―「国訴」を行ってきていた。大坂町奉行所などに対するこの経済闘争の実績と村々の連携は、「お上」を圧倒する智慧と行動力があった。
六月中旬に古河藩の地元陣屋から「上知」の話を聞いた村役人や百姓代は、衆議の上、要望書を出している。「御永領」と思っていたから、三年分も借金して年貢を前納しているのです。もし上知になるのなら、その前に年貢前納分のすべてを即刻返して欲しい、お願いします。
幕閣ナンバーツーの土井利位でも、無い袖はふれぬ。
武士にも二言はありやとばかり、上知反対派に取り込まれる。
かくして勝算なきとみた忠邦の家臣も、反対派に寝返り、忠邦は失脚、上知令は発令から五ヶ月足らず、閏九月に撤回されることになった。

清代の中国の土地は皇帝のものであったが、戦いに敗れるたびに列強の帝国主義諸国(日本も)に割譲されていった。
中華人民共和国が成立して、中国の領土は中国共産党が指導する政府と国民のものになった。
90年の浦東開発の宣言で、国有地の借地権有償譲渡が認められて今日に至るが、その利権を巡る不純な動きはあとを絶たない。
国の寸土も侵食を認めないとする対外的行為とその国内での対応はどう判断すればいいのか。
自他の歴史から考えることが多い。
                 (2014年5月15日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾参

2014-04-24 00:36:14 | はらだおさむ氏コーナー
KOKYOU

莫言さんのノーベル文学賞受賞から、もう十数ヶ月がたつ。
この授賞式に参列された吉田富夫先生が帰国後書かれた一文の最後に、つぎのようなはなしがあった。
ストックホルム最後の夜、あの事件で亡命を余儀なくされた詩人北島の仲間であった陳邁平さん(同夫人アンナさんはスウエーデンにおける莫言さん訳者の有力者のひとり)の招きで訪れた市内の店、名はKOKYOU。
 「たぶん、日本語の故郷の意味。ご主人の王紅偉さんはスウェーデン華人商工会副会長。北京大学出身というのですが、ひょっとして文革で生まれたれいの労農兵学生だったかも知れません。ハルピンから香港を経ていまスウェーデンで店を開いていらっしゃるのですが、そのどこかで春雨の加工技術のことで日本ともかかわったことがあるらしい。KOKYOUという店名はそれと関係があるらしいのですが、なにしろ一筋縄ではいかない人生です」(吉田富夫『雪の幻影―莫言氏・ノーベル賞授賞式の一週間』「こころvol.11/平凡社」)
 いつまでもこころの底にへばりつくおはなしである。

 九十年代のなかばであったか、上海都市研究会の訪中団にパリの大学で教鞭をとる日本女性の参加があった。帰国も間近に迫ったある夜、彼女からむつかしい話があった。パリにいる知り合いの中国人から、上海の友人の近況を聞いてきて欲しいと手紙を預かってきている、なんとか連絡がとれないか。
苦労して、やっと連絡がつき、ホテルまで来てもらった。旅行社の通訳は、同席しないというので、ときには筆談を交えての面談とあいなったが、いまは毛沢東肖像のデフォルメ画が日本ほかで評判になって、銀座の画廊で個展を開いたこともある、パリの友人には元気でいると伝えて欲しいということであった。誘われて彼の家と作品を見に行ったひとは、写真も撮れたのでいい土産話ができたとよろこんでくれたが、パリにはこのようなひとが大勢いると話していた。

 あの事件のあと、わたしは会員の要望で8月に二度スワトウへ出かけた。
 いずれも香港経由であったが、二度目は香港-汕頭のフライトがとれず、深圳からクルマで出かけることになった。海岸線のいたるところに非常線が張られ、パトカーに二度ほど追いかけられてパスポートの提示を求められた。もう指名中のひとたちは海外に逃れて声明を発表しているのだが、この海岸線の警備の厳しさには驚いた。汕頭の商談会場には西側の経済制裁の網をくぐって押しかけた韓国や台湾の商人であふれていた。現地の人は、あれは北京の事件だ、ここ汕頭とはまったく関係がないと、ここは「一国二制度」の地といわんばかりの誘致優遇策を披露していた。

 故郷を離れ、国を去るとはどういうことか。

 日本が戦争に敗れ、台湾が「中華民国」になったとき。
 日本に少なからぬ台湾出身の「日本人」学生がいた。
 台湾に帰り、蒋介石政権ににらまれて香港経由で日本に逃れて「株の神様」になった人もあれば、祖国建設の一助にと解放直後の中国に渡った医師や建築家も大勢居られる。
 二十数年前、はじめて海南島へ出かけたとき、わたしより十歳ほど年長の医師も一緒だった。現地でときおり通訳を介さず話しておられるのでお聞きしたところ、台湾出身とのこと。大学でインターンのころ日本の敗戦に遭遇、医師の資格をとるため日本に帰化したが、改名を迫られたことが辛かったと。日本の女性と結婚、日本で開業医を続けてきたがココロは台湾人。アメリカに留学していた甥が選挙に出るというので台湾へなんども応援に行った。国籍は日本だが、故郷は忘れ難い。故郷を捨てるというのはよほどのこと、覚悟のいることと話しておられた。

 在日の中国人女流作家の楊逸さんが08年に「時が滲む朝」で芥川賞を受賞されたとき、その受賞者インタビュ―で「中国式無神経のすすめ」と称してつぎのように語っている(『文藝春秋』08年9月号)。
 「日本人はみな真面目で、なんでも重く受け止めすぎますね。もっと楽観的で、無神経にならないと、生きていくのが難しいところもあるんじゃないでしょうか」「老後は気候のいい広東省の珠海あたりで、友達同士で暮らす老人村を作るのが夢なんです、皆さん、一緒に住みませんか(笑)」

 そうは言われても、真面目な日本人であるわたしにとって彼女の受賞作「時が滲む朝」を再読すると、結果的には学生たちを煽動して挫折させ、自分も欧州各国をさまよい、息子からの絶交文を見て帰国する元教師のKOKYOUを思う気持ちに胸が痛む。

到着ゲートの真正面に場所を構え、・・・2時間を過ぎたところで、やっとパリからのフライト到着のアナウンス。・・・あ、似ている人だ!厚手の濃紺のコートに赤いマフラーを巻いた紳士が現れた。・・・長き十年、短き十年、もろもろと何もかもが涙に溶かされ込み上げてくる。
  「先生、帰ってからどうするつもりですか?」
  「辺鄙な田舎にでも行って、小学校の先生になる覚悟だ」
  「君のお父さんを見習ってさ。長年理屈ばかりで生きてきたけど、所詮一介の書生だ。・・・林林(息子)からの手紙だ。もう大学生だよ。妻は過労とストレスで去年亡くなった」
    「父さん、昨夜母さんは息を引き取った。目尻に涙を一つ残し
    たままだった。きっと僕が責任のある父親に恵まれることがな
    いのを最後まで悔やんだ涙だと思います。妻も息子も顧みるこ
とが出来ない、そんな人は国を愛せるだろうか。これは僕から
の最後の手紙です。 林林 」

 このときから更に十数年が経ったいま、この老教師といまは中年になっている息子の林林はどうしているであろうかとの思いが募る。

 時は変わり、いま台湾で学生たちが立法院を占拠し、市民がこれを支援して「サービス業を自由化する中台貿易協定」の批准に反対している。台湾と中国の統一については、これはわれわれ第三者の口にすべきことではないかもしれぬが、一時公表されていた「一国二制度」「国旗、軍隊の現状維持」とまでいわれていたその推進策が、馬政権を巻き込む形で強引に進められてきていると台湾の市民は感じてきているようである。「クリミア」問題に敏感に反応する台湾の市民、KOKYOUを思うひとたちのこころは熱い。

                (2014年4月5日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾壱

2014-04-19 09:09:46 | はらだおさむ氏コーナー
タテマエとホンネ


 あのときも、そうであった。
 わたしの乗っていたタクシーが自転車と接触、人もろともに倒れた。
 タクシーのドライバーは、かけ下りた。
 わたしは倒れた人を助け起こすのだと思ったが、接触したボンネットの傷の有無をチェックするや、クルマを発進させた。
自転車の人はやっと立ち上がり、集まりはじめた野次馬に大声で助けを求めた。運転手は窓を開けて、どなりつけ、“逃げるが勝ち”とばかり現場を離れた。
 まだ自転車が中心の、上海の朝のラッシュ時であった。

 これは、文革の前ごろのことになるだろうか。
 北京の胡同の夫婦げんかの、はなしである。
 おかみさんが金盥(かなだらい)をたたきながら表へ飛び出して、大声で叫ぶ。ウチのヤロウが・・・・・、ジャン、ジャン、ジャン・・・。
 まるで江戸時代の、長屋の夫婦げんか、そのものであったらしい。
 まぁみんな、聞いておくれよ、というのは街のケンカでも同じである。
 群集が取り巻く。
声の大きい方が有利か、お節介野郎が仲介しようとすると、火に油を注いだように騒ぎが大きくなる。

 台湾総統の、はじめての民選のとき。
 中国は台湾海峡にミサイルを撃ち込むと威嚇した。
 アメリカの空母が出動し、騒ぎが大きくなった。
 終わってみれば、エライ人の長男が中台合弁企業の中枢に座り、工場の所在地は“タイワン特区”になっていた。
 だれが得をしたのか、中長期で見ればこの判断は、ムツカシイ。
 そのヒトが始皇帝のように泰山に登り、孔子が復活した。
 ロープウエイや入山の料金がはねあがり、ふもとに豪壮な人民政府の庁舎が出現した。
ガイドは、孔子様のおかげと片目をつぶったが、あのときの“批林批孔”は聞いたことがないという。政治は、いつもウエのヒトが操っている?のか。

 十年ひとむかしというから、二十年ほど前は大昔、中国は「一国二通貨」で、人民元と外貨兌換券(FEC)があったのだが、いまでは知らない人も多くなった。
 改革開放に入った八十年代から、外貨管理のために発行されたこの兌換券は、すべての外国人に適用された。友諠商店など、いわゆるドルショップでは、この兌換券があれば街にはない商品も手に入り、当然のことながら闇レート(50~80%アップ)が発生した。
 外国人旅行者からこの兌換券を徴収して、支払いには人民元でとサヤ稼ぎをする旅行社の添乗員もいたようだが、そこには闇ブローカーも介在する。
ホテルの前で、ヘイ、マネーチェンジと、とぐろを巻くやからもよく見かけたが、偽札の人民元もずいぶんと流通していたようである。

 ミレニアムの翌年、友人たちと西域のたびに出かけたことがある。
 トルファンからクチヤまでは夜行列車、そこからカシュガルまで砂漠のなかをクルマで走り抜けた。随所に解放軍や屯田兵の基地があり、通信ケーブルを傷つけたものは即銃殺の張り札にはキモをつぶした。カシュガルからパキスタン国境に接するカラクリ湖にも足を延ばした。
 楽しい思い出が浮かぶが、偽札事件のことを記そう。
 カシュガルのホテルで両替をして、市内の百貨店で買い物をしようとしたメンバーのひとりが、わたしのところにすっ飛んで来た。ホテルで両替したばかりの百人民元が偽札だと・・・。兌換券は数年前に廃止され、百人民元が半年前に発行されたばかり。一般の中国人にとっては持ち慣れない、見慣れない高額紙幣とあって、買い物の支払い時にはいつも透かし見された(まだ偽札発見器は普及していなかった)ものだが、このときはどうわめいても、店員の眼力に従うしかない(わたしの両替した百人民元はセーフであった)。
しからば、この落とし前をどうするか。
“目には目を!”、両替したホテルのバーで使おうと衆議一決した。
予算はオーバーしたが、“偽札”百人民元は無事酒代に消えた。

そのころ、巷では闇人民元は少数民族、とくに西域からのものが多いとささやかれていた。
しかし、のちに中国の偽札発見器製造の技術交流に参画した日本の技術者によると、昨今では深圳あたりのものが多くなっているという。
偽札発見器の性能向上とイタチゴッコであるが、人民元そのものの印刷精度も高まって、それに対応する偽札をつくるにはかなりの技術力と資力?がいるという。
これは日本人技術者の語る“ホンネ”のはなしとして信用してもいいだろうが、人民元の国際化のなかで、アジア諸国で流通しかけているそれについては保証のかぎりではないとも。タイペイで人民元を差し出すと「ソーリー、タイピー、オンリ」と断られたが、これで正解であろう。

武吉次朗(元摂南大学教授、中国研究所顧問)さんの「新語が映す中国」は
毎号「新語」からみた時評で、いつも教えられることが多い。
 今号(96)は、「官邸制」である。
 昨年11月の中国共産党・三中全会で決定されたなかに出てくる。
 本文で紹介されている汪玉凱教授のはなしにはおどろいた。
 高級幹部の住宅は地方政府の提供、転任してもその居住権があるとかで、リタイアした幹部などは安く手に入れた住宅を売却したり、親族や知人に転貸してフトコロをふやす人が後を絶たないという。「三多幹部」とは、カネと女と家を沢山持っている幹部を揶揄する言葉らしいが、摘発されたある元副省長はなんと46軒もの住宅を持っていた、という。
 これには制度としての“老幹部”への優遇措置が問題との指摘も。
 中国人記者が、村山富市元首相の大分の自宅を訪問してその質素な生活ぶりにおどろいた話も紹介されているが、「幹部の財産公開」などが制度化される見込みも無い中国では、俎上にあがったとしてもその実現は望めまい。

 ホンネとタテマエは、どちらが先でもいいが、少数民族の地区で漢族の支配が強まり、普通話(プートンフワ=標準中国語)の授業が必修科目になっていくと嘆くガイドたちに出会った。目の前には不似合いな大きな役所が並び、武装警察の駐屯地があった。彼女たちのはなしはNHKの中国語講座を聞くようであったが、その表情はさえなかった。
 謝晋監督の名作「芙容鎮」のラストシーンが、思い浮かんできた。

(2014年2月25日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾弐

2014-04-03 09:11:48 | はらだおさむ氏コーナー

さがしもの

いつものことだが、狭い書棚をひっくりかえしても探しものは見当たらずに、一冊の本に手が止まった。
『詩集 わたしの北京』
著者は、鹿島 龍男。
WHO?記憶が甦らない。
野間 宏の序文がある(一九八七年一月二七日)。
本に挟まれていた手紙には「・・・夫坂田輝昭の詩集を読みたいとご連絡を頂き・・・」とあった。
あぁ・・・、鹿島 龍男は坂田輝昭さんのペンネームであった。
かれの十三回忌に編まれた『峠の証言』は、最高裁まで行った「羽田事件」“被告”のドキュメンタリー風の作品であるが、この詩集は寄贈いただいた『峠の証言』への礼状で、わたしがおねだりしたものであった。
未亡人のお手紙では「・・・第三集もだしたかったようです」とある。
日中友好協会全国本部の専従役員として、日中国交回復のはるかむかしからその“活動”を支え、指導してこられた坂田輝昭さんとは、浅からぬおつきあいがあった。生前には日の目を見ることのなかった『峠の証言』の、その「証言」のいくつかには応対したこともあった。神田にあった本部の事務所で、上京の都度、よもやばなしに興じたが、文革中の広州交易会の「日中接待処(という名であったかどうか、現地での事務所)」ではピリピリした雰囲気であった。
この詩集の表題は『わたしの北京』とあるが、Ⅰ 季節外れの旅 Ⅱ わたしの北京 Ⅲ 五月、の三部作となっており、60年代の作品から85年の訪中時のものまで、20年間の作品から選び、編まれたものであろう。

野間 宏は序文で「幕あいのない舞台」をとりあげ、<怪しげに恐ろしいといってもよい詩である>と評している。
・・・・・・ 
  ひとつのドラマが終わり
  廻り舞台はどんな風景を用意しているのか
  登場するのは夜明けなのか
  それとも晩秋の季節なのか

  ・・・・・・
  今はプログラムがない時代
  今は幕あいのない時代
  新しい舞台に
  期待をかけ諦めてもいる時代

  さあドラマが始まる
  拍手をするのか席を立つのか
  静かに待っている客席を気にするな
  僕は怠惰だから何もしない


 さがしものを続けていても、やはり見当たらない。
 竹内 実先生の『中国という世界――人・風土・近代』(岩波新書)に目が留まった。表紙を開ける。「原田 修様  竹内 実 3/14 平21」と先生の自署があった。
 その序章に、例のカタカナのチュウゴクが出てくる。
 <チュウゴク>とは何か、と序章で提起された問題は、終章 <チュウゴクはどこへ>につながっていく。
 昨年の七月末に他界された竹内先生を偲ぶ会が催されたとき、わたしは先生の小品「王蒙さんのこと」を紹介・朗読した。
かねてからこの一文が先生のチュウゴク観の原点であり、また、わずか千二百字ほどの短文ながら、中国文芸史の数十年を「王蒙さんのこと」を中心に語り、まことに起承転結、さびの利いた、リズム感のあるすばらしいものと愛読していたからである。
 「新中国が成立しても、正直な話、わたしはあまりおどろかなかった。軍閥内戦時代、中国のいなか町に生まれ育ったせいで、政治的変化があるのが中国だという観念が、あたまのどこかにあったからかもしれない」と綴られていくこの一文は、先生の中国との原点であろう。
 結びは、このようになっている。
「先日、ようやく王蒙さんの自宅を訪問することができた。北京に伝統的な四号院で門は朱塗りだった。健在で、お元気だった。
 胡同(フートン=横町)についての随筆で、子供のころ父親の書斎には日本の書物があったと王蒙さんが記していたのを思いだし、質問した。東大の教育学部に留学した、よく日本人の来客があった、ただし軍人はひとりもいなかったといって、王蒙さんは微笑したのだった」
(初出『群像』1995年12月号、竹内実[中国論]自選集三<映像と文学>2009)

  さがしものは、なんだったのか。
  本をひもときながら、書き出していると忘れてしまった。
  年とはいえ、物忘れがひどくなってきている。
  そのヒントがなにか、・・・これも浮かんでこない。
  明日になれば、必要に迫られればまた思い出すことであろう(就寝)。

 
 おはようとパソコンのワードを開いている。
 もうさがしものは、どうでもいい。
 春の彼岸、中国の清明節もちかい、いまは死者との語らいのときだ。

 このところ、来日する中国の友人がすこしずつふえてきた。
現役をリタイアしたひとから、いつの間にか立派な肩書きのついた元留学生までさまざまだが、むつかしいはなしはしない。久闊を叙することしばし、アメリカで結婚した息子にこどもが出来た、ハーフだなぁ、国籍はどうなるのだろうか・・・、こどもが今年から中学生、へぇ~、いつの間に・・・、高橋真梨子の“桃色吐息”を歌っていたきみがねぇ~・・・と、はなしが回転する。
 だれも口にしないが、阪神・淡路のあの震災のとき、ひとりの女子留学生が倒壊した家の下敷きになって、不慮の死をとげた。上海出身の衛紅さん。92年の天皇訪中のとき、上海で皇后付の通訳として活躍したひと。
 あのとき、わたしの家も倒壊した。
 小学校の体育館で寝泊りし、電車がやっと開通して、事務所へ顔を出したとき、彼女の訃報を聞いた。結婚直後に単身来阪留学して、この地震に遭遇したのであった。彼女と同世代の元同僚たちは、いま、むかしばなしに興じ、中学生になろうとする子供たちのことを話し合う、“人到中年”になっている。
 かれらと同じ年ごろのとき、わたしはなにをしていたのだろうか。

 わたしも詩を書いていたときがあった。まとめたのは一集だけであった。
 これは「砂浜」と題する詩だが、なにを言いたかったのだろうか。

  砂浜に立った/波はよどんで押し寄せてきた
  砂は汗をふき出した/這いころばって逃げた

  砂浜に立った/漁船はインポテのようだった
  わずかな成果にうちふるえていた/ヘドを吐いて消えていった

  ・・・・・・
  ・・・・・・

  砂浜に立った/よどんだ波が押し寄せてきた
  足もとをくずして行った/にらみつけてやった

  砂浜に立った
                  (詩集「ふくらみ」より)

  
さがしものは、どうなったのか・・・                        
                       (2014年3月5日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾

2014-03-24 09:15:47 | はらだおさむ氏コーナー
ネジをかむ

『日経中国網』に村山 宏編集委員が執筆の「日本人小声説」というコラムがある。不定期だが毎月一~二本執筆・掲載されており、そのなかで「中国の“愛国青年”は半沢直樹に学ぶべき」(2013年11月18日)という一文には心ひかれた。
昨年の日本のテレビ番組で視聴率のトップを占めた“半沢直樹”(やられたら、倍返し)を主題に据えたその着眼点とイントロは、一般読者の好奇心をそそる巧みな筆さばきだが、そこでとりあげられている日本の中小企業のネジ、ボルト、スプリングや工具などが中国の市場にとってどれほど必要不可欠のものかと読者の関心を引きつけている。

 ずいぶんとむかしばなしになるが、いまから半世紀前の1963年10月、
北京で開催された日本工業展覧会の出品物のほとんどはココムの規制対象品で、そのころ“竹のカーテン”で包囲されていた中国に対して日本の通産省(当時)から“持ち帰り”条件で認可されたものであった。あとから聞いた話だが、ある精密機械の出品者は日本に持って帰ればいいのでしょうと中国の技術者の要望に応じてその機械を解体して詳しく技術説明したという。かれは中国側から深く感謝され、閉会後半月ほど中国各地の関連工場の見学(兼観光)を“国賓待遇”で案内され、歓迎されたという。かれの話では、その機械の構造や使用されている部品を中国の技術者に説明したところで、そう簡単には作れるものではないので、日本の政府が“持ち帰り”などヘンな条件をつけずに中国に売却するか提供する方がよほど出品者にとっては身軽だったのに、ということであった(サムライはいつの世にもいる)。

 80年代の末から90年代の初めにかけて、日本の精密医療器械がまず北京や上海などの大病院に設置され、その効能のすばらしさに中国の各地から購入の要望が関連の貿易公司に殺到した。まだ外貨準備の乏しい当時のこと、中国国内の病院のすべての要望に応えることが出来ない中国政府は、追加購入を条件にその本社工場の見学を申し込んだ。会社内部では工場と貿易部門との間でいくばくかのやりとりがあったらしいが、応じるとすれば完全にオープンでしっかりと見ていただこうということになった。
 詳細は忘れたが、わたしも工場の見学に立会い、東京の貿易部門との商談も傍聴した。一行は十数名であったか、工場見学は三チームほどに分かれて実施されたが、本社の工場長と主任技術者が案内するチームはいつのまにか中国側は団長と通訳のみに。中国の技術者は三々五々と分散して、設置された製造ラインの機械に貼りつき、写真を撮り、機械のメーカー名を筆記している。予定時間をはるかに過ぎても工場から離れようとしないので、工場長は団長を招いて先に会議室にもどり、休憩することになった。
 やおら顔ぶれもそろい、おしぼりと茶菓の接待などがあって小憩のあと、工場長の挨拶があった。
 いくぶん皮肉交じりであったが、みなさん方の熱心な見学に感心しましたとジャブを入れたあと、工場長からこの製品開発のいきさつの話になった。
 基本設計の導入はアメリカのD社からで、技術者がひとり来日(かれの報酬は当時の日本人の平均の十数倍)、芦屋の住宅に三年間滞在、週に三日ほど京都の本社に会社のクルマで出勤したが、詳細設計などに関わる質問にはそれは契約条項に無いと一切答えることはなかった。会社としては協力工場の技術力を結集して自力で周辺技術を開発、この製品の完成を図る以外に方法は無かった。苦労したが、技術の開発は他力に依存することは出来ない。いまではアメリカのD社の技術レベルを上回り、逆に周辺の製造技術はD社に売るようになっている。モノをつくるのに、近道は無い。みなさんがたの研鑽をお願いしたいという工場長の言葉に、団長は短い答礼を述べて席を立った。

 「あのとき・あのころ 第二部」(はらだおさむの体感的日中経済交流小史)でもふれているが、日本ミシン部品訪中団が派遣されたのは86年4月からであった(日本ミシンタイムスと共催)。以後今世紀のはじめまで11回実施されている。その都度参加部品メーカーは異なるが、この交流はいまの日中ミシン団体主催の展示会への相互参加などにつながっている。ミシンメーカーの中国進出は80年代後半からであるが、部品メーカーは本体メーカーと不即不離の関係もあり、独自の行動が取りにくい側面もあった。
 表題の「ネジをかむ」現場を見たのは、80年代末の第3回訪中団であったろうか。天津のミシン工場を見学のとき、団員のひとりが部品箱のネジをつかんで口に入れ、「まだやなぁ、これはあまい」とつぶやかれた。わたしはなんのことかわからないのでお聞きすると「ネジのヤキがあまいのや」とのこと。つまり「焼入れ」が不十分という意味らしい。ミシンのネジは自動車の部品と違って何度も締めたり緩めたりするので、硬いだけではダメ、柔らかすぎてもダメ、小さい部品やけどむつかしいもんでっせ、と教えていただいた。
 九十年代のはじめまで中国のミシンメーカーは家庭用ミシンの製造が主力であった。ミシンは嫁入り支度の三種の神器の一つであったが、衣料の大量生産・大量販売が中国社会でも定着し始めると、工業ミシンへの生産転換がはじまった。中国ミシン協会(当時)とわたしたち日本ミシン部品訪中団との接触・交流が深まり、工場見学が技術交流会にもなり、技術導入の要請などに変わってきた。
 90年代も後半に入ると、工業用ミシンの部品のなかで、中国で最も技術導入したいものとしてネジがあげられるようになってきた。わたしもお手伝いをして西安や上海の工業用ミシンメーカーとの技術交流や合作商談などもしたが、その関連で、日本のネジメーカーの金属熱処理の工場を拝見する機会があった。熱処理の炉は上海の新設のラインと同じようにコンピューター管理であったが、現場の監督者の話では、いくらコンピューター管理でも熱処理は微妙なもので炎の動きと温度計が微妙にズレルこともある。それを見ながら調整するのが人間の目であり、熟練度である。この現場では年末の30日に火を落として、正月4日に炉を点火、それから360余日の終日、火を落とすことなく24時間交代で炎をチェックしている、ということであった。上海の熱処理工場では月曜日の朝点火して、金曜日の夕方5時に火を落としている。炉が万遍なく熱せられているのは週2~3日くらいか、これでは熱処理をうまくコントロールできないのではないかと思えた。わたしはネジメーカーの社長にいまの状況では日本からネジを輸出する方が製品の品質を保障できる、中国の労務管理が機械的に労働法遵守を呼びかけているかぎり、品質的に均等なネジを市場に供給することは出来ないだろうと述べて、対中投資は時期尚早とアドバイスした。
 それから十余年、いま状況がどのようになっているかは知らない。

 日経の村山さんは、日本が二十余年前、バブル破綻のなかでに演じた銀行の実態をふまえて、中国の“愛国青年”に訴えている。中国の銀行には半沢直樹のような人間が必要なんだ、不動産と国有企業への融資を優先するのではなく、中国の中小企業を育成、その成長を支援する銀行マンが必要なんだ、“愛国青年”よ、中国の銀行に入って中小企業を育成するためにがんばれ、中国の半沢直樹になれ!と。

 わたしは業務から離れて十余年、いまの経済の実態は承知しないが、日本のバブル崩壊時、不動産投資の失敗で銀行の合併が進捗、その損失の穴埋めのため低金利政策が施行され、国民にそのシワ寄せが来ていることだけはわかる。
 中国も日本も、政治の失敗を国民に転嫁させるようなことはさせてはならないと老婆心ながら思う次第である。
(2014年1月29日 記)

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [7]

2014-03-06 10:53:30 | はらだおさむ氏コーナー

合弁企業経営管理研究会


 いま手元に88年2月、当協会発行の『渉外税法知識』(中国財政部税務総局条法局編集員会編著)の訳本がある。

訳者は公認会計士の三戸俊英(現当協会会長)・近藤友良(同監事)の両氏である。

三戸先生は86年9月に実施された大阪市経済交流訪中団(9/7~16、上海-アモイ-広州-香港)に参加、「その後の自分の中国とのかかわりに大きな影響を受け」(『上海経済交流』92・9、10周年に想う⑥)、帰国後は故高橋正毅弁護士などと当協会の合弁企業経営管理研究会の主宰メンバーとして活躍される。

この研究会は現地進出企業の実務担当者と専門家で構成され、隔月開催で基本法はあるが実施細則も不備な状況のなか、進出済みの現地法人が現場で抱える諸問題を専門家が吸収、それを中国の諸規則と照合、日本における専門的対応と判断を加えて研究することを指向していた。

企業はタバイエスペック(当時)、ナリス化粧品、三和化研などが常連メンバーであった。

この冊子は研究会の事例研究のなかで、「中国税法」の研究・理解が焦眉の課題と認識の上翻訳に着手されたもので、訳者は「本書は《渉外税法知識》(1987年2月中国経済出版社)のうち、法令を抄録した後半を除く、前半のQ&A部分を訳出したものである。

現行の中国渉外税法に対するわかりやすく、権威のある解説書となっている」と紹介している。

出版に先立ち内容の理解を深めるため、87年10月実施の第22次経済交流団のA団(団長高橋正毅弁護士)は専門家を中心に構成、上海会計師事務所と渉外律師事務所と交流した。

上海会計師事務所との会合では日中双方が向かい合って並び、上海友協のRさんが黒板の前に座って通訳を務めたが、条文の解釈をめぐってそれぞれの席で喧々諤々の論争が起こり、これでは通訳が出来ない、日中双方でお互いに意見をまとめて代表質問をおこない、それに対して回答をまとめた上で発言してほしい、と名議長役を演じたのが印象深い。

高橋・三戸コンビはその後日本と中国で対中投資に関する法律・税務の専門講演会を頻繁に開催、当協会でもこの合弁企業管理研究会を発展的に解消して協会内の組織として中国総合研究所の設立準備が進められたが、高橋弁護士の急逝で定款にその名を記しただけに終わった。

無念なるかな、とご冥福をお祈りする次第であるが、この研究会の初一念は,いまも当協会のメンバーに脈々と流れ、受け継がれてきている。
                                 (2004・8・27 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾

2014-02-19 08:31:32 | はらだおさむ氏コーナー
ネジをかむ


『日経中国網』に村山 宏編集委員が執筆の「日本人小声説」というコラムがある。不定期だが毎月一~二本執筆・掲載されており、そのなかで「中国の“愛国青年”は半沢直樹に学ぶべき」(2013年11月18日)という一文には心ひかれた。
昨年の日本のテレビ番組で視聴率のトップを占めた“半沢直樹”(やられたら、倍返し)を主題に据えたその着眼点とイントロは、一般読者の好奇心をそそる巧みな筆さばきだが、そこでとりあげられている日本の中小企業のネジ、ボルト、スプリングや工具などが中国の市場にとってどれほど必要不可欠のものかと読者の関心を引きつけている。

 ずいぶんとむかしばなしになるが、いまから半世紀前の1963年10月、北京で開催された日本工業展覧会の出品物のほとんどはココムの規制対象品で、そのころ“竹のカーテン”で包囲されていた中国に対して日本の通産省(当時)から“持ち帰り”条件で認可されたものであった。あとから聞いた話だが、ある精密機械の出品者は日本に持って帰ればいいのでしょうと中国の技術者の要望に応じてその機械を解体して詳しく技術説明したという。かれは中国側から深く感謝され、閉会後半月ほど中国各地の関連工場の見学(兼観光)を“国賓待遇”で案内され、歓迎されたという。かれの話では、その機械の構造や使用されている部品を中国の技術者に説明したところで、そう簡単には作れるものではないので、日本の政府が“持ち帰り”などヘンな条件をつけずに中国に売却するか提供する方がよほど出品者にとっては身軽だったのに、ということであった(サムライはいつの世にもいる)。

 80年代の末から90年代の初めにかけて、日本の精密医療器械がまず北京や上海などの大病院に設置され、その効能のすばらしさに中国の各地から購入の要望が関連の貿易公司に殺到した。まだ外貨準備の乏しい当時のこと、中国国内の病院のすべての要望に応えることが出来ない中国政府は、追加購入を条件にその本社工場の見学を申し込んだ。会社内部では工場と貿易部門との間でいくばくかのやりとりがあったらしいが、応じるとすれば完全にオープンでしっかりと見ていただこうということになった。
 詳細は忘れたが、わたしも工場の見学に立会い、東京の貿易部門との商談も傍聴した。一行は十数名であったか、工場見学は三チームほどに分かれて実施されたが、本社の工場長と主任技術者が案内するチームはいつのまにか中国側は団長と通訳のみに。中国の技術者は三々五々と分散して、設置された製造ラインの機械に貼りつき、写真を撮り、機械のメーカー名を筆記している。予定時間をはるかに過ぎても工場から離れようとしないので、工場長は団長を招いて先に会議室にもどり、休憩することになった。
 やおら顔ぶれもそろい、おしぼりと茶菓の接待などがあって小憩のあと、工場長の挨拶があった。
 いくぶん皮肉交じりであったが、みなさん方の熱心な見学に感心しましたとジャブを入れたあと、工場長からこの製品開発のいきさつの話になった。
 基本設計の導入はアメリカのD社からで、技術者がひとり来日(かれの報酬は当時の日本人の平均の十数倍)、芦屋の住宅に三年間滞在、週に三日ほど京都の本社に会社のクルマで出勤したが、詳細設計などに関わる質問にはそれは契約条項に無いと一切答えることはなかった。会社としては協力工場の技術力を結集して自力で周辺技術を開発、この製品の完成を図る以外に方法は無かった。苦労したが、技術の開発は他力に依存することは出来ない。いまではアメリカのD社の技術レベルを上回り、逆に周辺の製造技術はD社に売るようになっている。モノをつくるのに、近道は無い。みなさんがたの研鑽をお願いしたいという工場長の言葉に、団長は短い答礼を述べて席を立った。

 「あのとき・あのころ 第二部」(はらだおさむの体感的日中経済交流小史)でもふれているが、日本ミシン部品訪中団が派遣されたのは86年4月からであった(日本ミシンタイムスと共催)。以後今世紀のはじめまで11回実施されている。その都度参加部品メーカーは異なるが、この交流はいまの日中ミシン団体主催の展示会への相互参加などにつながっている。ミシンメーカーの中国進出は80年代後半からであるが、部品メーカーは本体メーカーと不即不離の関係もあり、独自の行動が取りにくい側面もあった。
 表題の「ネジをかむ」現場を見たのは、80年代末の第3回訪中団であったろうか。天津のミシン工場を見学のとき、団員のひとりが部品箱のネジをつかんで口に入れ、「まだやなぁ、これはあまい」とつぶやかれた。わたしはなんのことかわからないのでお聞きすると「ネジのヤキがあまいのや」とのこと。つまり「焼入れ」が不十分という意味らしい。ミシンのネジは自動車の部品と違って何度も締めたり緩めたりするので、硬いだけではダメ、柔らかすぎてもダメ、小さい部品やけどむつかしいもんでっせ、と教えていただいた。
 九十年代のはじめまで中国のミシンメーカーは家庭用ミシンの製造が主力であった。ミシンは嫁入り支度の三種の神器の一つであったが、衣料の大量生産・大量販売が中国社会でも定着し始めると、工業ミシンへの生産転換がはじまった。中国ミシン協会(当時)とわたしたち日本ミシン部品訪中団との接触・交流が深まり、工場見学が技術交流会にもなり、技術導入の要請などに変わってきた。
 90年代も後半に入ると、工業用ミシンの部品のなかで、中国で最も技術導入したいものとしてネジがあげられるようになってきた。わたしもお手伝いをして西安や上海の工業用ミシンメーカーとの技術交流や合作商談などもしたが、その関連で、日本のネジメーカーの金属熱処理の工場を拝見する機会があった。熱処理の炉は上海の新設のラインと同じようにコンピューター管理であったが、現場の監督者の話では、いくらコンピューター管理でも熱処理は微妙なもので炎の動きと温度計が微妙にズレルこともある。それを見ながら調整するのが人間の目であり、熟練度である。この現場では年末の30日に火を落として、正月4日に炉を点火、それから360余日の終日、火を落とすことなく24時間交代で炎をチェックしている、ということであった。上海の熱処理工場では月曜日の朝点火して、金曜日の夕方5時に火を落としている。炉が万遍なく熱せられているのは週2~3日くらいか、これでは熱処理をうまくコントロールできないのではないかと思えた。わたしはネジメーカーの社長にいまの状況では日本からネジを輸出する方が製品の品質を保障できる、中国の労務管理が機械的に労働法遵守を呼びかけているかぎり、品質的に均等なネジを市場に供給することは出来ないだろうと述べて、対中投資は時期尚早とアドバイスした。
 それから十余年、いま状況がどのようになっているかは知らない。

 日経の村山さんは、日本が二十余年前、バブル破綻のなかでに演じた銀行の実態をふまえて、中国の“愛国青年”に訴えている。中国の銀行には半沢直樹のような人間が必要なんだ、不動産と国有企業への融資を優先するのではなく、中国の中小企業を育成、その成長を支援する銀行マンが必要なんだ、“愛国青年”よ、中国の銀行に入って中小企業を育成するためにがんばれ、中国の半沢直樹になれ!と。

 わたしは業務から離れて十余年、いまの経済の実態は承知しないが、日本のバブル崩壊時、不動産投資の失敗で銀行の合併が進捗、その損失の穴埋めのため低金利政策が施行され、国民にそのシワ寄せが来ていることだけはわかる。
 中国も日本も、政治の失敗を国民に転嫁させるようなことはさせてはならないと老婆心ながら思う次第である。
(2014年1月29日 記)

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [6]

2014-02-09 11:08:50 | はらだおさむ氏コーナー

経済交流視察団  

『上海経済交流』の協会設立10周年記念号(1992年6月、No.28)には見開き2ページで10年の動きがまとめられているが、前半5年間の訪中団だけを拾い出してみると、82年(1団7名)、83年(5団39名)、84年(8団60名)、85年(21団206名)86年(9団74名)の計44団386名の多きに達している。

大阪日中や上海友協のご尽力があればこその訪中団の実現であるが、経済交流協会としては事務局は私一人、50台の前半のまだ活力あるころであるとはいえ、われながらよくこなしたものである。

 訪中団は商談(含む対中投資)と視察に大別され、後者には後援・アテンドなどによる参加も含まれているが、たとえば商談の場合、1回の訪中・滞在は平均10日間で3団ほどを上海で実施している。

そのなかで結果的には実現しなかったが、今から見ても残念な上海交通大学とのロボット商談がある。

当時のノートを見ると、84年2月に同大学に事務局のある中国工業機器人(ロボット)委員会の関係者9名と第一回目の会談が中国側の要請で開かれ、生産現場における危険作業、搬送作業、品質の精度向上などのため日本から工業用ロボットの生産技術の導入を求められている。

7月には同大学南洋科学研究所が窓口となり、中国の自動車メーカーの塗装、溶接ラインに日本の工業用ロボットを採用したいと3社の名前が挙がり、帰国後わたしは各社を訪問、日本ロボット工業会事務局とも相談して、上海でミニ展示会兼商談会の開催を提案している。

同8月の<経済日報>は「中国はロボットを必要」とする論評を掲載して、劣悪・危険・有害な職場にロボットの導入をアピール、機は熟して85年2月開催で準備は進められたが、通産省はパリのココム委員会に打診のあと申請を却下、日中双方の要望は一蹴されてしまった。

アメリカのメーカーはその一年後、上海でロボット展を開催している。

ココム委員会の役割を確認したひとコマである。

 大型の訪中視察団ではS銀行法人部主宰の北京・上海視察と日本商業流通産業訪中団(上海・西安・北京)があった。

後者は参加メンバーの某小売問題研究所の所長から頼まれてそこの主任研究員という肩書きで団に潜り込み、上海と北京では所長から依頼を受けた調査事項のアレンジをした。

この団にはダイエー、ジャスコ、西友ほか日本を代表する流通企業からの参加者があったが、当時のホテル事情もあって私はいつも所長とスイートルームでの同室であった。

二泊した西安で連夜数名の団員が先生を訪ねて応接間で夜遅くまで話し込んでいた。

後で思うとダイエーの第一次お家騒動の前触れであったのであろう、大卒一期生の中堅幹部が中内社長がアメリカ帰りの長男を役員に据えようとしていることへの反発であった。『カリスマ』神話はそのころからほころび始めていたのである。

 京都「四班会」の訪中団ではじめて敦煌―ウルムチ―トルファンを訪れたのも楽しい想い出である。

今と比べると何もないそのころはトラブル続きで、時折ギスギスしたこともあったが、夜毎団長の部屋から流れる横笛の調べにこころ癒されるものがあった。            
       (2004・8・27 記)

(追記)
当時のノートには折々の訪中団の旅費精算の下書きがあるが、たとえば人民元レートは84年2月 120円、同8月 110円、同9月 100.3円、
同10月の訪中団旅費/人は上海4泊5日で215,000円、内航空運賃はエコノミー往復で104,600円と記されている。まさに隔世の感があり、高い費用をかけて経済交流に参画された先達諸公に感謝する次第である。
       (2004・8・29 記)





 <あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [5]

2014-02-06 15:15:48 | はらだおさむ氏コーナー
虹麻繍品廠(1)


 「拝啓 上海市長殿」のビジネスは難航した。

中国側に「対外開放」はしたが実施細則もなく、「前例」のない手探り状態のなかでの商談であった。

一番の問題点は、日本側の「現物出資」、中古の設備をどう評価するかということであった。

窓口の上海市対外信託投資公司に専門家を帯同しての来日調査を要請したが、契約成立後でなければ海外出張は認められないと、交渉はデッドロックにのりあげた。

日本側からは設備の写真やスペック、とくにスイスから輸入されたこの刺繍機械の特徴などの資料が中国側に提出されてから半年あまりたったころ、貿易商談で来日中の中国工芸品公司の担当者から突然工場見学の申し入れがあった。

後から分かったことであるが、この音沙汰のなかった数ヶ月間、工芸品公司の欧州駐在員を通じて、この機械の新品、中古品の価格からその性能に至るまですべて調べ上げていたのである。

本社工場と箕面工場の見学のあと、箕面観光ホテルでヒトフロ浴びてハダカ同士の付き合いを始めることになる。

 それからの上海商談は工芸品公司上海分公司(のちの上海抽紗品進出口公司)が中心になって進められる。

窓口担当者は“山福”時代から旧知の実務責任者、工場立地予定先の上海県虹橋郷(現在の虹橋開発区の南)からも担当者が参加、土地と工場建設費用を現物出資することになり、日本50%、公司15%(現金)、地元35%の合弁契約(草案)がまとまった。

普段の交渉は弟の専務に任せていた社長が、サインの段階で突然口を開いた。

「ここは中国さんに1%余計に持ってもらったほうがよろしい」

1%譲ることは、董事の数が先方に1名増えることになる、日本3対中国4で、中国側がマジョリティを握り、董事会で話し合いがつかない

場合でも多数決で議決されてしまう、と反対したが、自説を曲げない。

最終的には私が非常勤董事になって双方のまとめ役になってほしいと頼まれて引き受けることになる。

これは合弁企業経営の実務勉強にはずいぶん役立ったが、後々までこの1%で振り回される羽目になる。

85年1月に調印、同7月機械設備の解体と機械操作の研修に男女20名が来日、本社工場の一隅で3ヶ月ほど自活することになる。

生活と待遇をめぐって、慣れぬもの同士の不協和音が頻発、当時上海友協から大阪中国語学院の講師に派遣されていたRさん(現A大学助教授)も間に入って音を上げるほどであった。    

(2004年7月13日 記) 

<あのとき・あのころ>第二部(1983-2003) [3]

2014-02-03 09:06:14 | はらだおさむ氏コーナー
犬も歩けば・・・

 細井さんのアドバイスで、当時<日中>の役員で、関経連のメンバーでもあった中央電気工業㈱の今村騰会長に<経済>の会長就任を要請、引き受けていただいた(現在も名誉会長をお願いしている)。

原田くん、日中もまず日日が第一やでとの仰せで、月例会をランチョン方式ですることになった。

最近では夜の会合も多いが、はじめのころは11時半ごろから食事をして、そのあとテーブルスピーチと続いた。

いまでは210回を数える、息の長い勉強会のスタートである。

いまでもそうだが、こうした会合で一番苦労するのがテーマの選択とスピーカーの依頼、ロータリーやライオンズならともかく、予算もスタッフもないとあっては、頼りになるのはわたしの“人脈”だけである。

 学友のひとりが大阪通産局の課長をしていた。

<経済協会>の仕事を引き受けるとき、彼のアドバイスを求めたことがある。

原田君、これからは犬も歩けば、「日中」の時代やで、といわれた。

20年以上も昔の話である。かれは<メシが食えますか>と心配もしてくれた。

<キミが応援してくれたら・・・>とジャブを返したら、その後、中小企業事業団の海外投資アドバイザー制度を紹介してくれた。

以後数年間、名古屋以西の中国案件を一人でアドバイスすることになるが、立ち上げの月例会の講師も本人はもとよりいろいろと知人を紹介してもらった。

 対中投資は始まったばかりで、中国の「対外開放」の情報量は少なく、そのせいか昼間の会合でも会員の出席率は結構高かった。

そのうち、現地のナマの情報がほしい、現地視察に行こう、現地で商談会が出来ないか、という話まで出て来るようになった。

<犬も歩いて>エサを探そうとし始めたのである。

単発の視察や商談には上海の友好協会の日本処のスタッフが応対・通訳もしてくれたが、商売も経済用語もまったくわからない。

<山福>時代のスタッフの有難味をかみしめたが、なにごとも一日にして成らずである。

<経済>は継続性の案件が多いので、上海の担当者は固定的な専属は無理にしても、出来るだけ同じ人が対応してもらえるように依頼した。

上海側からもスタッフが限られているので、個別商談など件数の多いときは出来るだけ訪問者の少ないオフシーズンにしてほしい、との要望も出た。

84年の冬であったか、数件の商談で10名ほどが同時に訪中したことがある。

個別商談なので通訳の数もそれだけ要る。

神戸から帰国した日本生まれの女性が“オモチャくらいなら、私にでも・・・”と通訳をかって出てくれたが、値段交渉でFOBやC&Fなどがでてくるとギブアップ、偶々同席のわたしに、原田さん、経済って、難しいわね、とのたもうた。

 かくして<経済>は歩き回りながら、年を重ねる。    (2004年5月23日 記)