goo blog サービス終了のお知らせ 

くに楽

日々これ好日ならいいのに!!

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾参

2015-02-15 23:12:37 | はらだおさむ氏コーナー
阿姨(ア・イ)の里帰り

 
ことしの春節(旧正月)は例年より20日ほど遅い2月の19日からとあって、中国をはじめアジアの華僑圏ではこれからが迎春の準備で忙しくなる。
 中国では数人に一人の里帰りで、3億におよぶひとたちの大移動がはじまる。



 わたしが阿姨なることばにはじめて出会ったのは、80年代も終わりに近いころであった。
 上海での委託加工先の窓口商社の担当者がお産で休暇をとり、お祝いと称して旧フランス租界にある広大な邸宅を訪問した。もとはテニスコートもあった庭も、半分以上が接収されて市の幹部のオフィスになっている由だが、緑に覆われた3階の洋館は主人の両親とその親戚など四世帯の住居としても優雅なものであった。
 彼女は出産前から復職の準備に杭州の田舎から中卒の少女を雇っていた。この子守役の阿姨さんが、ダメなの、普通話(プートン・フワ=標準語)が
なってない、こどもにへんな訛りがついたら困るから、まず阿姨さんの教育でタイヘン、二年間は出社できないと上司に頼んだばかり、仕事はダイジョウブよ、わたしが家からサポートしておくからとのご託宣であった。
 上海の幹部には全托(月~土、終日託児)と称する保育施設が設けられていたが、彼女の家庭は婦女聯など党の組織の恩恵にはあずかれない“出身”であったのだろう。

 中国の小学校の登・下校風景をご覧になったことがあるだろうか。          
 校門の前は見送り、出迎えのひとたちであふれている。
 若い両親は仕事が忙しくて、こどもの登・下校の面倒をみることができない。必然的にその仕事は年寄が担当となる。だいじな一人っ子の孫はまさに“十二の瞳”に甘やかされて大きくなる。
 長らく日本に滞在して子供を日本の小学校に通学させたことのあるわたしの友人たちも、帰国するとこの“習慣”は守らねばならない。肉親の老人がいないとだれかに駄賃を渡してお願いすることになる。日本の子供たちのように集団登下校させたらいいじゃないか、子供たちも日本ではそうして過ごしてきたじゃないか、集団の登下校もチームワークなど学ぶこともあっただろうと話したこともあるが、学校もそうだが、年寄は反対するよ、日本でもよく誘拐や殺人があるじゃないか、中国でも人攫いがある、安心できないよ、といわれると耳が痛い。

 わたしは中国に駐在したことがないので、生活体験はない、ましてや阿姨さんと接触したこともないが、いまの中国ではこのお手伝いさんは結構社会のニーズに応じて、機能しているらしい。
 仕事が忙しい若い夫婦は、家事もあまりする時間がない。子供は老親が面倒見てくれるとしても、家の掃除・洗濯・炊事などを契約ベースのパートでもやってくれるとか。阿姨さんの派遣会社が身元保証人にもなるようなので、日本の家政婦などより普遍化しているようである。
 ネットサーフィンすると、日本の駐在員の家庭でもよく利用されているとか、阿姨さんの料理が上手なので、主婦のわたしはほかのお稽古事に励めてラッキーとか、子供がなついて喜んでいるとか・・・そこで春節、阿姨さんの里帰り、となる。子供も学校が休みなのでわたしも日本へ里帰りできるが、主人の休暇は多くないので、ウウ~ン・・・。
 阿姨さんは四十前後のひとが多いよう、夫も出稼ぎでこの春節に田舎の老親や面倒を見てもらっている子供たちと一年ぶりに会うのが楽しみ。荷物が多くなるので春節休暇(祝日)より早く、長く(一月以上)里帰りしたいのがホンネ。こちらの希望どおりの休みがもらえないなら、やめさしていただきます、となる。

 駐在員の家庭相手なら、それこそ話し合いでなんとかなるが、困るのが老人の家庭。中国でも核家族がふえてきて、孤老のひとたちも多い。
 数年前、藤村幸義さん(元拓殖大学教授)の『老いはじめた中国』(アスキー新書)を手にして、中国の老齢化の実態に括目しはじめた。一人っ子政策の影響がここにも現れてきているが、いまや上海を筆頭に「老齢社会」(六十歳以上の人口が総人口の十四%を越える)の波が中国の諸都市を覆い、あと数年で全中国が「老齢社会」となり、その後も高齢化が進んで2050年には65歳以上の人口は六億人を越えると見込まれている。日本はすでに高齢化率21%以上の「超高齢社会」になっているが、日本以上に社会福祉制度の普及が遅れている中国の、これは大きなアキレス腱、環境問題の改善とあわせて大きな社会問題となる。

 中国の老人ホームは見学したことがないのでその実際は承知しないが、映画『再会の食卓』(小著『徒然中国』P218)で紹介した路地裏のひとたちの暖かい交流の場所が次第に少なくなってきている。
   上海の路地奥には隣近所の人があふれ、子供たちの歌が流れる。
   ♪チャン ティーン ワァイ グーダオビエン・・・♪
   そして、あの人が大きなボストンバッグを提げてやってきた。
  「再会の食卓」には一族郎党がすべて、娘と婿、孫と独身の息子が集い、地元街道委員会のおばさんが歓迎の杯を挙げる 

  九十年代のいつごろだったか、わたしは南京西路/華山路の百楽門大酒店に数日滞在していたときのこと。ふと窓から下の交差点に目をやると、爺さんや婆さんが手をつないで座り込んでいた。地元の世話役だろうか、年寄たちに話しかけているが、老人たちは動こうとしない。車は誘導されて、この交差点を迂回している。周辺には大勢の市民が詰めかけていた。ホテルの従業員に聞くと立ち退きに反対している、らしい。老人たちの言い分は立ち退いてもいいが、
 全部一緒でなければいやだ、ということらしい。老人たちの座り込みは三日続き、公安がひとりずつ抱きかかえてこの座り込みを排除した。手荒な態度はとらなかったが、その翌日から周辺の住宅の打ちこわしがはじまり、数日のうちに空き地となった。
  帰国後上海出身の、大学で教鞭をとっている友人にその光景を話した。
  彼も長男でいずれ父親と一緒になろうと、マンションを二戸購入済であったが、いまの住まいの友達たちと離れるのが嫌だと同意しない、という。いずれ
 立ち退きで市の宛がうマンションに移されるのだが・・・と嘆いていた。
  もう一度映画『再会の食卓』(P220~21)の場面を振り返ろう。
  元の老街の家は取り壊され、隣近所の人たちもそれぞれがどこかのマンションに移っていった。
人のつながりが無くなり、と・・・ナナの携帯が鳴る。
二年だけよ、と念押しするナナ。
彼がアメリカに行くことになった。
わかった、そこへ行く。
孫も出かけて、部屋には二人だけ・・・そして、ジ・エンド。

 いまの中国で阿姨を自費で雇えるひとはそれほど多くはないだろうが、孤老のひとは阿姨が早く里帰りから戻ってくるのを待ち望んでいる。
年をとると、ひとり住まいは淋しいのである。

大家 春節好! 身体健康! 新年愉快!

(2015年2月13日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾弐

2015-01-17 20:49:15 | はらだおさむ氏コーナー
あのとき

20年前のあのとき。
 わたしの家は倒壊し、上海からの留学生・衛紅さんは下宿先で崩れ落ちた大黒柱の下で息絶えていた。
 電車も電話も通じずに、四日目にやっとたどり着いた事務所でこの悲報を耳にした。上海から駆けつけられた両親や上司の慟哭のなか、おわかれのくるまは過ぎ去っていった。

 それから三月ほど経ったころ、上海からの専門家数名を案内して神戸の街を視察することになった。
阪神間の電車はまだすべて不通で、わたしたちは大阪の港から乗船して神戸へ向かうことになった。六甲の山々は緑に映え萌えたっていたが、ところどころに切り裂かれたあとが痛々しく残っていた。
JR三宮駅前は、そごう百貨店の解体がはじまっていて粉塵が舞い散り、マスクをしていても息苦しかった。
三宮商店街から、ダイエー三宮店の倒壊現場を過ぎ、元町から須磨まではJRの車窓から崩れ落ちた神戸を見つめていた。須磨からは長田まで歩いて戻った。道すがら、その破壊のすさまじさに声もなく、シャッターを切るごとに頭(こうべ)を垂れ、手を合わせた。
長田の商店街で開いていた喫茶店で腰を下ろした一行は、開口一番、上海でこの規模の地震がおこったら半数以上の建物が崩壊、死者は数えきれない大惨事となるだろう、幸いこれまで大きな地震はなかったが、沿海には太平洋プレートが走っており、公表すると問題になるが上海市周辺にも活断層はいくつかある、高速道路の支柱は日本よりはるかに細く、やわらかい地盤に高層住宅の建設がはじまっている、などなど、上海の現状への不安が口をついて出た。
わたしも、あのとき、あの日、そしていま大阪の府営木造住宅での仮住まいから、どうしてわが家を再建するか悩んでいると語りはじめた。
はなしは、自然と衛紅さんのことに移っていった。

92年の「天皇訪中」のあのとき。
わたしは仕事で上海に来ていた。
上海で仕事を手伝っていただいていたのは、日本風に言うならば上海市役所の国際交流部日本課の方々であった。衛紅さんもそのメンバーのひとり、北京の外務省関係部門への転籍も話題にあがっていた。
89年のあの事件のあと、翌年四月の「浦東開発宣言」で上海を取り巻く対中投資環境は激変、わたしの仕事も多忙を極めていた。あの事件で西側諸国は「対中経済制裁」を科していたが、わたしたちは上海浦東の「国有地使用権の有償譲渡」政策に中国の一大変貌を読み取り、海部内閣の「天皇訪中」推進を支持していた。
神戸新聞(2008年2月20日)の「平成『象徴の軌跡』第2部 負の遺産(1)」(以下「神戸」)は、つぎのような書き出しではじまっている。
国論を分ける事態を前に、天皇陛下の苦悩は深まった。
「本当に訪問できるのだろうか」
・・・自民党の一部は「朝貢外交」と猛反発、保守系文化人らは『陛下の政治利用だ』と新聞に反対の意見広告を出した。
出発二ヶ月前にずれ込んだ閣議決定の八月二十五日、官邸前で右翼団体のトラックが炎上。「命懸けだった」と話す加藤紘一官房長官は、支えになったのは、伝え聞いていた陛下の「前向きな意向」だったという。

  92年10月23日、「天皇訪中」は実現、日航特別機は北京の首都国際空港に到着した。
  楊尚昆国家主席主催の歓迎宴が人民大会堂で開催され、同主席は次のように述べたと「朝日」縮刷版(92年10月24日、以下「朝日」と略)は伝えている。
    ・・・遺憾なことに、近代の歴史において中日関係に不幸な一時期があったため、中国国民は大きな災難を被りました。・・・前のことを忘れず、後の戒めとし、歴史の教訓を銘記することは両国国民の根本的利益に合致する。

  これを受けた天皇陛下の「お言葉」で「過去」に触れた部分を「朝日」はつぎのように囲みで紹介している。
    両国の関係の永きにわたる歴史において、我が国が中国国民に対し多大の苦難を与えた不幸な一時期がありました。これは私の深く悲しみとするところであります。

  これが「朝日」一面の概要だが、「毎日」縮刷版では二面から三面にかけて関連記事が紹介されている。以下その見出しだけを拾うと「天皇陛下のお言葉(全文)」「対韓国と異なる表現」「楊主席のあいさつ(要旨)」「『加害者』の立場、端的に」「中国の市民は好感」などとなっている。
     「朝日」33面での関連記事の見出しはつぎのように組まれている。
     「『過去』のくだりに宴緊張」「『お言葉』訳文 追う楊主席」「スピーチ終え会場和む」「中嶋峯雄さん 天皇の気持ち 素直に反映」

     西安を経て両陛下を迎える上海の歓迎ぶりのひとつとして、当時電力不足で夜間の照明に制限のあったバンドがその日から夜遅くまで照り輝くことになった。上海市人民政府あげての大歓迎で、皇后のアテンド・通訳は衛紅さんであった。天皇アテンドのわたしの友人たちは、握手した右手を三日間洗わないよと、おどけてわたしに左手を差し出したりしたが、衛紅さんはどうであったろうか・・・。

     「神戸」はつぎのように記している。
      最後の訪問地上海。厳戒態勢の北京では見られなかった市民の歓迎の輪が広がった。文化人や学生とも交流した陛下は帰国前、記者団に話した。
      「晩餐会では中国への人々への気持ちを率直に述べました」「人の心は誠意を持って接すれば国境を超えて通じます」
  
     「天皇訪中」後は円高も重なって、日本からの対中投資は進み、西側諸国も対中経済封鎖を解いていく。
     それから二年後、江沢民政権は「愛国教育」を推進することになる。

     あの日から二十年が経った。
     震災後、復興の先頭に立っておられた貝原前知事は昨年末不慮の交通事故で亡くなられた。後継者でもある井戸現知事と五百旗頭氏(元神戸大学教授、防衛大学学長、現・ひょうご震災21世紀研究機構理事長)との対談が「ひょうご 県民だより」(一月号)で掲載されている。
「震災6ヵ月後に策定した“創造的”復興計画は、単に元に戻すだけでなく21世紀を先取りするような地域像を確立していこうというものでした」(知事)、「大衝撃を受けたことをしっかりと記録し、伝え、将来の世代にも担ってもらおうとする努力が大事です」(五百旗頭)。

     あれから二十年が経った。
     「阪神・淡路」はかたちの上では復興したが知事の指摘する“創造的”復興にはほど遠い。そこへ「3・11」があり、日本列島をとりまく“マグマ”は更なる試練を追い被せて来ることであろう。

  衛紅さんの悔しさは、いまもわたしのこころにも響いている。
                     
                       (2015年1月17日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾壹

2014-12-22 23:25:56 | はらだおさむ氏コーナー
あなたへ

日中首脳会談のとき、高倉健は死の床にあった。
その死亡が公表された11月18日、中国の報道官は、30歳以上の中国人でかれを知らない人はないと、日本の高名な俳優・高倉健の死を伝えてかれの功績を称え、名残を惜しんだ。

日本と中国が国交を正常化したのは、文革のさなかの72年であった。
そのころ習近平現主席もまだ農村に下放中であったはずだ。
文革が終わったのは76年9月の毛主席死亡のあと、10月に四人組が逮捕されたのちのことである。
その後、華国鋒政権から小平主導の改革開放路線へとギアチェンジして、毛沢東は功績第一、誤り第二と総括され、あたらしい時代を迎える。
80年代のおわり近くまで中国の政治を前面で主導していたのは胡耀邦総書記であった。中曽根総理と胸襟を開き、三千人の日本の青年・学生の訪中を(独断で)とりきめ、山崎豊子の「大地の子」執筆取材調査に便宜を図り、文革後の中国政治の全般をとりしきった(かれは89年のあのとき、憤死した)。
当時でも、いまでも、中国人にとって一番有名な日本人は高倉健であり、山口百恵である(中野良子は中国で日本より名が売れている)。
ジャ・ジャンクー監督の映画「四川のうた」(中国名:二十四城記)は改革開放のなかで展開される国営企業解体のストーリーで、山口百恵のテレビドラマ「赤い疑惑」の主題歌がとりあげられている。
ジャ監督はプレスミーティングでつぎのように語っている。
「中国で80年代を生きてきた人にとっては、山口百恵さんは共通言語です。
これまで中国の社会は、集団でどうやって生きていくかという、あまり個人が大切にされない時代で、禁欲的な社会でした。・・・そのようななかで彼女が主演した『赤い疑惑』というテレビドラマを観て、中国の大衆は、個人的なラブストーリーをこうやって語っていいのだな、とわかりました。・・・」
中国人の就学生が東京の彼女の自宅周辺をうろついて、お巡りさんから尋問を受けるということもあった。

高倉健の『君よ憤怒の河を渉れ』(中国名『追捕』)が中国で上映されたのは
1978年のこと。まだほとんどの人が人民服姿であったが、若い女子工員の服の袖からちらほらとカラーのものが見えはじめたころでもある。『追捕』のチケット代は給料の半月分ほどもしたが、それでもどの映画館もあふれんばかりの大ヒットとなり、全中国で半数以上の人が観たといわれている。
 中国の国民的スターになった高倉健の作品は、その後中国で『新幹線大爆破』『幸福の黄色いハンカチ』『遥かなる山の呼び声』『海峡』『居酒屋兆治』が公開された。このなかでわたしが観ているのは「黄色いハンカチ」と「居酒屋」の二本だけである(『追捕』はいまユーチューブで見た)。
 中国で上映される外国映画はすべて吹き替えで、字幕ではない。
かっこいい、中国語をしゃべる高倉健に、中国の若い女性はこころ痺れる思いがしたことであろう。
 この吹き替えについて、後年その指導に当たられた‐文字どおりの老朋友からその裏話をお聞きしたことがある。
 「居酒屋」であったろうか、「ごめん」ということばを若い翻訳者が「対不起(トイプチ)」と訳した。たしかに三字、口の動きはあっている。しかし、場面はどうか、外から内へ居られますかと伺っているシーン、ここは「在家嗎(ザイチャーマ)」としてはどうか・・・と。なるほど、これは字幕の翻訳より大変な作業とおもったが、これで中国の観客がすぅーと映画の世界に入り込めるのかと感心したものである。

 いまは世界の映画界でその名を知られた大演出家のチャン・イモウは西安の映画館でこの『追捕』を食い入るように観ていた。高倉健とそのストーリーの展開、そしてそれをつくりだした日本とその映画界。まだ『黄色い大地』のカメラも撮っていない青年の張芸謀であったが、かれの瞼に高倉健が焼付いていたーそして、いつか高倉健を主人公とする映画を自分の手で作り上げたいという思いがこみあげていたのであった。
 それから20余年の年月が流れ、日中合作映画『単騎、千里を走る』(中国名『千里走単騎』)のカメラが日本(東京)と中国(雲南省麗江市)を舞台に廻りはじめた。
 日本語で「千里を走る」といえば、ついついその前に「悪事」をつけた常用語がひらめくが、この「千里走単騎」は「三国志」に由来する京劇の演目であるとか。この映画では高倉健がひとり中国の僻地に向かうことからはじまる。
その出発点となる雲南省の麗江は風光明媚の土地で、わたしも90年代はじめからいろんなグループと三度現地を訪れた。
 
 はじめは雲南省の省都昆明市にあるニエアル(中国国歌「義勇軍行進曲」の作曲家)の墓地や遺跡などを訪ねたあとのオプションツアー。聶耳は1930年代に上海の映画界で活躍、日本経由でソ連へ向かう途次、神奈川県藤沢市の湘南海岸で遊泳中死亡した、享年24歳。その視察のあと、麗江へ飛んだ小型機はかなり離れた郊外に着陸したが、そこから市内までの悪路に閉口した記憶がある。
 
二回目は友人たちを誘って、麗江経由大理のたびを企画した。
 ナシ族のガイドの案内するトンパ文字の世界にすっかりはまりこんだ。
 三度目は世界遺産に認定されたあと。観光客が世界各地から押し寄せていた。玉龍雪山の最高峰は未踏の処女地とか耳にしたが、その五千メートル近くまでクルマとロープウエイを乗り継いで上がれるようになっていた。タイなどからも国際線が通じ、大勢の若者たちが押し寄せてきていた。雪が珍しいかれらはロープウエイを降りるなり雪合戦に興じ、高山病で倒れていく。わたしは酸素ボンベを握りしめ、あのラッパ旗手のように、(死んでも)離さず、であった。

 ついつい、高倉健から離れてしまった。
 映画は麗江からまだ奥地へ、奥地へと入っていく。
 チャン・イモウはできるだけ多く現地の人を登用したため、北京からの撮影隊はもちろん、通訳が足らずに監督やスタッフも立ち往生が続いたらしい。
わたしはこの映画は日本で見たので字幕であったが、なるほど、日本での撮影部分を除くシーンは現地の言葉が氾濫していた。中国でこの映画はあまりヒットしなかったようだが、どうなんだろう~吹き替えも、字幕もなかったとしたら、中国の観客でもお手上げになったのではないだろうか。
 高倉健の遺作になった「あなたへ」は、二年前の作品である。
 わたしが観たミニシネマは、中年の女性で大入り満員であった。
 かれは、中国でも日本でも、女性の心を捉えて離さない。
 この映画の副産物として、兵庫県朝来市の竹田城が天空の城-日本のマチュピチュともてはやされ、城壁の一部が崩れ落ち、入場制限の措置がとられる始末。いまはオフシーズンだが、来春にはまた高倉健を偲ぶ登山者が押しかけることであろう。
 
 あなたへ、お伝えしたいことがある。
 高倉健の亡くなる一月ほど前の10月15日、習近平総書記は作家協会をはじめとする映画、演劇、音楽、美術、書道など10団体72名の著名人を集めて「文芸工作座談会」を開催、重要講話を述べたと伝えられている。日本ではほとんど報じられていないようだが、毛沢東が延安で述べた「文芸講話」の再来である。いまは八千万人の中国共産党員の学習会、学習指導の主要テーマとなっているらしい。
 高倉健の死を惜しみ、嘆き、彼の功績を称える中国。
 日本でなら言論の自由の抑制、思想統制と騒がれるであろうこの「新文芸講話」の発表。
 そのどちらもが中国、そのうらとおもて、内と外、タテマエとホンネ。
 日中首脳会談で二年ぶりに両国政府間の交流の扉は開きはじめたが、領海に張りつめた氷を溶かすのはだれか。それはひとりとひとりの民間交流からはじまる。


あなたとわたし、大家 新年 好!     

(2014年12月14日 記)

『徒然中国』発刊されました

2014-12-13 09:36:56 | はらだおさむ氏コーナー
このブログでも、おなじみの
『徒然中国』が発刊されました

      『徒然中国』発刊
            みてきた半世紀の中国       

      著 者 : はらだおさむ
      出版元 : 桜美林大学北東アジア総合研究所
      定 価 : 1500円

 本書は日中関係学会のホームページに長年、「徒然中国」として
定期的に掲載されてきたエッセイをもとに著者原田氏が新たに手を
加え随所に写真を入れて読みやすく編集した日中間の記録である。
    (
        本書「出版後記」より)



皆様 どうぞご購入を!




 はらだ おさむ
    harax2@jttk.zaq.ne.jp

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之八拾

2014-12-01 23:14:24 | はらだおさむ氏コーナー
モンテンルパの夜はふけて

 
もう40年ほども前になるか、業界団体の親睦旅行でマニラへ行ったことがある。あとにもさきにも、フィリッピンにはこの時にしか足を運んでいない。  
現地ガイドの案内でお上りさんよろしく、くっついて歩く。
町の広場に高山右近の像が立っていた、クリスチャン大名で有名なかれがキリシタン禁教後も棄教せず、国外追放になりここマニラに到着、イスパニアの植民地であった当地で大歓迎を受けたとの由。NHKの大河ドラマ「勘兵衛」で少しは理解も増えたいまなら、もっと熱心に耳を傾けたであろうが、そのあとのマニラ湾の夕日の美しさだけがいまも目のそこに焼きついている。
 翌日はモンテンルパ、乗馬もできる、眺望がすばらしいと誘われて出かけることになったが、だれかの、あの歌のところじゃないか、戦犯の刑務所があったところとの声に、渡辺はま子の名が、この歌が飛び出してきた。
ここに収容されていたBC級戦犯の多くは、キリノ大統領(初代)の恩赦で帰国を許されたが、NHKの紅白にまで登場した彼女の歌声は、海を越えてこの地にも伝わっていたという。
大阪万博のあとであったろうが、メンバーの胸にはまだあの戦争への「思い」が残っていた。

前にも書いたが、わたしは「小学校」を出ていない、正確に言えば「小学校という名の初等教育」を受けていないというべきだろうが、昭和16年(1941)
 4月、新設の「国民学校」一年に入学、昭和22年(1947)3月、最後の「国民学校」六年を卒業、校舎も、教師も、教科書も揃わない「新制中学」という義務教育の三年制中学校に進学した。<ほしがりません 勝つまでは>から<6・3制 野球ばかり 強くなり>の、あまり勉強をした記憶のない三年間の中学生活であった。
  わたしは6人兄弟(姉妹)の上から三番目、高校入学まで着るものは兄のお古ばかりで、タマにはサラの服買うてェ~や~とお袋を泣かせたこともあるが、友達たちも似たり寄ったり。父親が戦死や未帰還の家庭も少なくなかった。
  3年の秋10月 中華人民共和国成立、高1の1950年6月 朝鮮戦争が勃発した。戦没学生の手記『きけ わだつみのこえ』を読みふける日が続いた。
  いま活躍中の世界のリーダーで、このときすでに生を享けておられた方は
 もう数少なくなっていることであろう。  

24年も前になるのかと、いま改めて調べてみて驚いた。
阪大の医学部長から総長を務められ、そのあと大阪府日中友好協会の会長としてご指導いただいた山村雄一先生のことである。1990年6月10日ご逝去 享年72才とある。そんなにお若かったのか・・・といまにして思う。
  中国のあの事件で、気ぜわしい日々が続いた日中関係のなかで、当時南森町にあった大阪日中の事務局によく顔を出していただいて、事務局員と気さくに話し込んでいただいた先生。事件のあとも上海やスワトウでの投資案件で飛び回っていたわたしは、三度ほどしか機会がなかったが夜の街にもお供させていただいたことがある。
  葬儀のとき、♪海行かば みづく屍、山行かば・・・♪の葬送曲が流された。
  昭和16年(わたしは国民学校一年生)、阪大医学部卒のあと海軍軍医中尉として南方方面へ派遣、従軍されたとある。このメロディを耳にして同年輩の役員で席を外された方もおられたが、先生の遺言で流されたこの葬送曲には、この戦争で命を落された仲間たちへの先生の追慕、口惜しさが込められているのではないだろうか。このときいただいたテレホンカードには扇面に自筆の「愛 信 恕 山村雄一 落款」がカラー印刷され、その下に「故 山村雄一会長を偲ぶ 大阪府日中友好協会」とある。いまでも名刺入れから時おり取り出して見つめる、わたしの“お宝”である。

  原爆被爆者でもある平山郁夫画伯(元日中友好協会全国本部会長)の画趣は、かなりむかしからのお気に入りで、生まれ故郷の広島県瀬田町の平山郁夫美術館から、滋賀県の佐川美術館などに足を運び、薬師寺の大唐西域壁画殿の落慶法要にも駆けつけた。
  日中の全国本部会長としてもずいぶんお力添えをいただいたが、「反ファシスト戦争勝利50周年」の95年には、「世界文化遺産の南京古城壁修復日本協力委員会」の代表に就任され、以後三年間この事業の展開に尽力された。
  わたしは南京には80年代に中山陵を中心とする観光で数度出かけているが、その後建設された南京抗日館には入館していない。“南京”についてわたしなりに学習はしているが、この“参観”は気が進まない。
平山先生の「南京古城壁修復事業」ならお手伝いしたいと申し込んだのは、もうその事業も終わりに近づいたころであった。上海でドッキングした数名との共同作業、重いものは若い人が運んでくれてわたしは手空きの都度、城壁の上から周辺を見回した。夜はあたらしくできた商店街から小運河の付近まで足をのばしたが、その賑わいのなかで歴史を振り返るのは息苦しかった。

  わたしにとっての中国で、その回帰点は92年になるだろうか。
春には小平の「南巡講和」があり、秋には「天皇訪中」があった。
いずれもが中国の改革開放にとって大きなターニングポイントになるものだが、そのころから江沢民政権が設定した「愛国教育」とその基地の建設が進む。
  わたしは基本的には「歴史教育」はそれぞれの国の問題であって、他からとやかく口にすべきことではないものだと思っているが、日中友好協会設立50周年記念集会が北京で開催された2000年の秋、盧溝橋にあった愛国教育基地で731部隊のカリカチュアルな展示物に戯れる子供たちを見て、案内の北京の方にクレームを申し入れた。展示品は、日本風にいうならばこのようなチャンバラ的なものであっていいのか、ヤッタ、ヤラレタというような展示で刷り込まれた子供たちのアタマ―「対日観」はどうなるのかと・・・。

  日本での「歴史教育」はどうなのか。
  現場には即していないので詳しくは存じ上げないが、一般的には教科書に順じながら古代からスタートして、明治あたりで時間切れ、「大正・昭和~」は自分で読んどきなさい、というケースが多いとか。戦後も数十年となれば結構「歴史」になるのだが、本人がよほど意識して勉強しないかぎり、日本と周辺諸国との近・現代史は空白状況となる。
  渡辺はま子の「ああ モンテンルパの夜はふけて」は知らなくてもいいが、日本がポッダム宣言を受諾して昭和天皇の「終戦詔勅」で敗戦、連合国による「戦争責任」裁判で絞首刑を含む判決と刑の執行により、「戦後日本」のスタートが国際的に認知された。「靖国参拝」が問題になるのは、A級戦犯として処刑された「戦争犯罪者」14名の処刑30年後の78年に、「昭和天皇」の不快感も無視して宮司の一存で(ホント?)このひとたちが「合祀」されたことにはじまる。爾来問題はクリアされずに繰り返され、国際的な波紋は広がってきているが、日本の敗戦を認めたのは米・英・中であり、その戦争責任を追及したのは「連合国」の法廷であった。
  エライ日本の政治家の先生方は、わたしのような愚生のわかることをご存知でないはずはないが、となると、「靖国参拝」にこだわるのはどういうわけになるのか。
  「夢が夜開く」のは、歌の世界だけであって欲しいものである。

                  (2014年11月11日 記)


 

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾九

2014-11-05 23:11:56 | はらだおさむ氏コーナー
中国へ行く

最近この『徒然中国』を本にしないかというお話があって、その序文のおわりに次のようなことを書いた。

 ・・・「点と線」の〝走馬看花〟で北はハルピンから中朝露国境の琿春、南は海南島、西はカシュガルからパキスタン国境の近くまで足を伸ばした。省単位でみれば西蔵と青海省(3千メートル以上の高地はドクターストップ)、内蒙古(定員不足)の三地方を除けば一応その全域に足跡を残したことになる。一泊二日も含め訪中歴二百数十回、もうフライトで動き回るのも疲れてきた。これからのたびは、古文書の世界が多くなることだろう。

初訪中は、1964年2月。
もちろんまだ日中の国交は正常化されていない。
香港の旅行社で入国ビザを申請、取得までの数日、はじめてのホンコンをフエリーや車で巡りまわった。案内してくれたのは東京のメーカーの紹介で知り合った小さな土産商の次女(中2)、日本語はコンニチワとオジサンしか知らなかった。
数十日の北京滞在(商談)のあと、寝台列車で上海へ・・・閑古鳥の鳴く和平飯店に数日滞在、公司の招待宴のとき、主賓の案内で上海大厦の屋上へ出て、この先がむかし日本人が多く居留した虹口(ホンキュウ)区と紹介された。南京路の商店には公私合営の看板が掲げられ、客足もまばらであった。
 上海から広州までは飛行機で。
 虹橋空港から小型機に乗り込んだのは日本人(わたしひとり)、中国人(三人)、その他外国人(十余人)。昼食や給油で杭州、南昌に立ち寄り、広州の白雲飛行場に着いたのは夕刻の4時、まだ真夏の太陽が照り輝いていた。
 翌4月15日開幕の広州交易会に参加の日本人200名に名を連ねて交易会開幕レセプションに参加、上海からの機内で同乗の外国人と顔を合わす、オ~、ボンソワール マダム、ボンソワール ムッシュウ。
 翌日から地図を片手に広州市内を歩き回った、汗まみれの初訪中、29歳の春であった(拙著『私の見た中国のクルマ』所収「中国見たまま、聞いたまま」を再読・回想)。
  深圳の海関で、おかっぱ髪の兵士とツァイチェンと握手をしてご機嫌よく橋を渡って香港サイドに入ったとき、問題がおこった。担当官の早口の英語が聞き取れない、筆談の英会話になった。北京に戻ってイギリス大使館で香港入境ビザを取って来い(当時ホンコンはイギリス領)ということ、えぇ~そんなこと、でけまへん・・・、結局48時間以内にホンコンから出境することというビザをもらったが、香港政庁での罰金支払い命令がついていた。
  また土産商の少女に香港政庁に連れて行ってもらうことになった。
  小物のお土産を買いながらよもや話のとき、帰路オキナワへ立ち寄ると聞き及んだ店主は、フライトは台北経由になるから止めたほうがいい、「中共」へ行ったことはすぐわかるからそれはリスキーだ、逮捕されるかもと忠告があった。わたしとしては二度と海外旅行?など出来ると思えない今回の訪中、事前にアメリカ占領下のオキナワをこの目で見たいと渡航証明書を取得していた。ダイジョウブですよ、と自分に言い聞かせて搭乗したが、さすがにタイペイの中正飛行場(現桃園国際空港)で二時間のトランジットは長かった。
  降下中の機内から見るオキナワは、米軍の基地そのものであった。
  税関にひとしい窓口ではわたしのパスポートを見るなり、「中共」からの帰りですか、とつぶやかれた。旅券に国交未回復の「中共」への出入の記録はないが、香港の入出境記録は残っている。香港から先、どこへ行ったか、「中共」しかないではないか・・・早速那覇の身元引受人へ電話確認され、トランクはボンド、二泊三日の滞在許可は出たが、身元引受人の到着まで、その場で監視されていた(「日本」の方が台湾より「中共」帰りには厳しかった!!)。

  ここで北京滞在中お世話になったAさんのことを記しておきたい。
  前年度の北京日本商品展覧会に出品したメーカーの役員の紹介で、Aさんにお目にかかった。
  当時Aさんは保健所の産児制限の指導員であった(とお聞きしていた)。
  北京生まれ北京育ちの日本人、日本へは徴兵検査のとき本籍地に行っただけ、いまは北京郊外出身の女性と結婚、たしか二女二男をもうけ、四合院内の一角で睦まじく暮らしておられた。日本と国交正常化すれば中国に帰化するつもりとも話しておられた。
  輸入商談は一週間ほどでおわり、あと輸出商談のきっかけをつかみたいと滞在を延長していた。当時日中間の航空便は香港経由で片道一週間は要した。週一~二度の郊外(当時の感覚)の公司との商談のあと、北京動物園の泥だらけのパンダに“きょうもダメでした”と報告して、バスでホテルに帰る日々、わたしには時間がありあまっていた。そうした折、Aさんの職場に電話するとすぐホテルへ来られて雑談、よく市内の名所や酒坊などを案内していただいた。

  初訪中で種まきした輸出入の商談はその後順調に伸びて、北京に駐在員事務所を開設した七十年のはじめ、仕事の合間にAさんの四合院内のおうちを訪ねたが引っ越されていて、その後の消息は不明であった。
  文革も終結して一段落したころであったろうか、会社へAさんからの手紙が届いた、東京の消印がついていた。お会いして驚いた、現地応召の復員軍人として家族全員を連れて日本へ帰ってきたという。その後出張で上京の都度お会いしているなかで、文革中の苦労話もあったが、一番驚いたのはかれが公安の手先であった、という告白であった。日本の商社の駐在員や出張者と接触、その言動を文書にして上部に報告していたという。公司の前では中国を礼賛、Aさんには中国の悪口ばかりいうひともいた、こういう二枚舌の人にはいい報告は書けなかった。あなたの場合は、裏表がなかった、中国への疑問は同感できることも多かった。日本へ帰国したのは、文革で見た中国の姿に失望したから、あなたに身分を隠していたことをお詫びしたいと。ご逝去の報が届いたのはこの告白からしばらくのちのことであった。

会社勤めのころは、どちらかといえば企画とキャッチャーの仕事が多かったので訪中は出張ベースで年2~3回。回数が増えたのは、対中投資アドバイザーに転職した80年代の初期から。上海市外事弁公室のご支援で、多いときは月2~3回、投資希望者を帯同して上海を訪問、企業の視察や投資相談を繰り返した。パスポートを増頁しても追いつかず、有効期限内の旅券を更新したこともある。「日本ミシンタイムス」と共催の訪中視察団の派遣は、その後の日中両業界の交流につながり、意義深いものになった。
  90年はまず浦東開発ではじまり、上海と大阪で双方の専門家によるセミナーを開催、その推進の先頭に立った。その後進出企業のフォローアップ、主として労務問題にしぼった現地セミナーを共催、以後中国総工会とタイアップした中国各地の外資企業の視察と交流のたびにも加わった。
  仕事を離れてからは友人・知人との中国のたびが多くなったが、そのなかの旅行記のひとつが『中国の“穴場”めぐり』(日中関係学会編・日本僑報社刊、1500円+税)に収録された、【司馬遷の故郷 陝西省韓城市】(付“山椒の味”)。お近くの図書館にでも購入していただいて、まずは本で中国旅行を楽しんでいただきたい。旅は道づれ、お誘いいただければまたお供させていただく余力があるかも・・・。     (2014年10月15日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾八

2014-10-05 23:02:03 | はらだおさむ氏コーナー
“友好乾杯”のときは過ぎて・・・


 七十の手習いではじめた古文書学習の関係で、各地の史料館や文書館とのおつきあいがふえてきた。史料の収集(蒐集)などの範囲をみているとまさに“10年ひとむかし”、いまはいずれ“歴史”になるという感覚である。
 日本が明治以降、諸外国、特にアジア近隣諸国との交流のなかで犯した“負の遺産”はいまのわたしたちが受け継がねばならないことは当然ではあるが、それはすべてが“負”ではない。

 わたしの中国とのつき合いは“日中不再戦”がその原点であった。
 中国側の視点も「一部の軍国主義者を除く大多数の日本国民は戦争の犠牲者」とみなし、日中両国民の共通の目標として「日中国交の正常化」が掲げられた。
 1956年の「北京・上海日本商品展覧会」、58年の「広州・武漢日本商品展覧会」の会場では、朝夕日本国旗が解放軍の兵士によって掲揚下され、護衛されていた。ところが58年5月、長崎の百貨店で開催されていた中国物産展会場の中国国旗が暴徒に凌辱されたにもかかわらず、ときの岸内閣はこれに謝罪せず、日中間の友好交流は数年間の断絶を余儀なくされた。
 これは、もう古い歴史に属することかもしれない。
 ところが、である。
 2010年の上海万博のとき、出展した日本館では日本国旗を掲揚しなかった。「反日感情を刺激する」、「日本政府の主催ではない」、という曖昧な説明で逃げてしまった。尖閣沖で酔っ払い船長の漁船が日本の巡視船に衝突したのは、上海万博閉幕の一月前のことである。
 日本の無原則、事なかれ主義が、問題を大きくしてきている。
 これは、歴史の教訓である。

 昨秋の『徒然中国』67号「セブンか、エイトか」の末尾につぎのような追記を書いていた。
 < このところ、しきりと思いだすことばがある。
   「もう、『友好乾杯』の時代は終わった」
   八十年代のおわりごろ、故鮫島敬治・「日経」初代中国特派員がよく話されていたことばである >

わたしと同世代の方ならよく覚えておられるであろうが、鮫島さんは文革初動期の68年6月、北京市公安局軍事管制委員会によって逮捕され、翌年12月釈放されるまでの一年数ヶ月拘留された。鮫島さんとは学部は異なるが、大学の一年先輩、岡崎嘉平太さんなどLT関係者からもかれの逮捕に憤りの声が上がったが、中国の対日関係者もすべて「文革」で下放・軟禁中であった。
 わたしが鮫島先輩とのお付き合いを深めたのは、86年9月、上海で開催された第2回大阪・上海経済会議のときからである。鮫島さんは当時日本経済新聞大阪本社副代表・編集局長で、このときは大阪側基調講演のスピーカーであった。講演の骨子も、これからは実務の時代、<友好乾杯>の時代は終わった、であった。
 大阪ではわたしの事務所と『日経』が同じ路線上にあり、地下鉄でも会合でもよくお目にかかった。東京へ転勤されてからも、日中関係学会などでお会いすることがあり、その都度この逮捕事件のことは是非書いてくださいよ、いや、まだ関係者がご生存中なので、と話したりしていた。わたしが編集の『上海経済交流』にはよく目を通していただいて、アドバイスもいただいていた。
 04年12月、二度目の舌癌手術のあと、薬石効なく昇天された、享年72歳、日中経済交流の先駆者であった。

 一年後、『追想 鮫島敬治』が刊行され、功子未亡人よりその贈呈を受けた。
 末尾 第3部に「回想録メモ」があった。未発表の、未完のメモ「プロローグ」37ページ分が掲載されていた。臨場感あふれる逮捕の瞬間、友好商社駐在員の逮捕・軟禁のはなし、廫承志さんやLT関係者のことのほか、その後、当時の取調官との二度にわたる取材・会食のことなど、“大河”執筆の構想が感じられる「プロローグ」である。
 末尾近くには、「この夜の拘留には、手錠も捕縛も用意されていなかった。その後の取り調べ、拘留期間中も、彼らが私の身体に指一本ふれなかったことだけは、明記しておかねばなるまい」と冷静にこの事件を「歴史」としてとらえようとする姿勢が垣間見られる。
 第1部 「追悼」には多くの方の追悼文が掲載されている。
 中江要介(前・日中関係学会名誉会長、今春ご逝去!)さんの<「日中友好」を言わない>がある。鮫島先輩と元中国大使のやりとりが楽しい・・・<鮫島さんによれば「日中友好は口で唱えるものではない。日中間の様々な部門や側面でそれぞれ尽力して相互理解を深めてゆけば日中友好はおのずからついて来るもの(ついて来るべきもの)であるという考え方です。私はこの鮫島さんの考え方に大賛成で、以後今日まで、わが日中関係学会では「日中友好」を前面に押し出して謳うことをせず、地道に真面目に日中両国及び両国民の相互理解に役立つことを堅実に探求しています」とある。宜なるかな!わたしの大好きな『らしからぬ大使のお話』の著者・中江先生、泉下の鮫島先輩もウイ!とうなずいておられることであろう。

 鮫島先輩の逮捕・拘留は、中ソ対立の象徴ともいえる“珍宝島事件”をはさんでいる。
 69年3月、ウスリー川の珍宝島(ダマンスキー島)で中ソが軍事衝突、死傷者が出た。
 当時私たちは物産展活動を通じて、日中国交正常化への世論喚起に努めていたが、それは[中国を知り、知らせる]運動でもあった。この珍宝島事件をめぐって、わたしたちの仲間でも意見が分かれた。この事件を物産展会場でも紹介すべきかどうか、わたしは「日本と中国」に焦点を絞るべき、中ソ問題は物産展会場での紹介対象にそぐわないと主張、年配の方からきみは現場を見ないと判断できないのか、中国の主張には賛同できないのかと難詰されたことがある。
 事件は同年9月、ホーチミン・ベトナム大統領の葬儀の帰途、北京空港で急遽設定されたコスイギン・ソ連首相と周恩来総理との会談で全面衝突は回避されたが、この事件も契機になって中国のアメリカ接近、日本との国交正常化への動きが出てくる。

 先日 NHKで中国の青年たちに好評の雑誌『知日』についての特集番組があった。これを観たわたしの友人・知人から好意的な反応が多く届けられた。そして日中の世論調査で、中国のほうが日本に好感を持つ人が多いのはなぜかとの質問もあった。
 以下は独断と偏見の私論になる。
中国の人はメディアよりも自分の「情報源」を信用する人が多いが、日本人はメディアや政府に文句タラタラながら、結局はその情報に操られているのではないか、自分のアタマでモノを考える習慣、自分の「情報源」を持つ必要が日本人は中国の人より少ないのではないか、というのがわたしの結論である。頼りになるのは「五星紅旗」なのか「日章旗」なのか、はたまた友人や親族なのか、その是非はさておくが、もう友好乾杯の時代は終わった・・・、いまは「日中不再戦」を原点に「戦略的互恵関係」の構築に智慧を絞るべきときであろう。
                   (2014年9月23日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾七

2014-09-02 16:05:32 | はらだおさむ氏コーナー
歌は世につれ・・・


春先に急性肺炎でダウンした。
病癒えて歯科医で定期治療のとき、5年有効の予防注射をしているのにとつぶやいたら、それがカバーするのは20数パーセントの肺炎球菌のみ、原因不明が30数パーセントもあり、口腔内、鼻腔内に巣くう肺炎菌も多い。口腔も筋肉、高齢化に伴い弱ってくる、鍛えなければと新聞の朗読を勧められた。それはねぇ~・・・と口ごもると、カラオケはと。それはダメ、一杯飲みたくなりますよ、という次第でボイストレイニングのコーラスをはじめることになった。
6月から入会したコーラスは女性四十数名(ソプラノ・アルト)男性数名で、まずからだをほぐす準備体操から♪アァアァア~♪と発声練習のあと、『日本のうた』『世界のうた』(野ばら社)から三曲ほど歌う。8月はじめの例会では♪こよなく晴れた青空に・・・あぁ~長崎の鐘がなる~♪を厳粛に合唱した。
カラオケもなかったわたしたちの世代は、「うたごえ喫茶」にたむろして見知らぬ人たちとロシア民謡などを合唱したものだ。先日の例会で男性メンバーのみのコーラス披露を所望されたとき、期せずして「ともしび」を選び♪夜霧のかなたへ 別れを告げ・・・つきせぬ乙女の愛の影♪と合唱して、むかしの“乙女たち”からブラボー!と喝采をうけた。

初訪中のとき(1964年2月~4月)、公司への答礼宴でわたしが歌ったのは♪アジアの兄弟よ はらから(同胞)よ♪ではじまる「東京-北京」であった。あとでホテルに駐在のひとから中国では宴席で歌う習慣がないとたしなめられたが、まだ国交未回復の“友好貿易”の時代、♪友情のしるしは 東京-北京♪が、やがて日中の津々浦々に響くことを期待していたのでもあった。あの宴席におられた(商談ではお目にかからなかった)片腕の方(たぶん戦傷者)がニコニコとわたしを見つめておられた情景は、いまも眼底にひそんでいる。

『世界のうた』には中国のうたが三曲収録されている。
「太湖船」(中国民謡)、「羊飼いの娘」(竹内実訳詩、にはオドロイタ、『岩波漢詩紀行辞典』編著の竹内先生のこと、まことに適任だが、これは知らなかった。作曲は金 砂)と「草原情歌」(中国民謡)。前の二曲は歌ったことがない。

1976年10月、北京。
わたしたち「ベトナム経済視察団」一行は、ハノイから南寧空港経由で北京に到着したばかり、「四人組逮捕」のニュースは南寧で耳にしていた。
この視察団は南北統一直後の訪越団でビルマ(現ミャンマー)~ラオス経由でハノイに入り、ハイフォン、ホーチミン(旧サイゴン)も視察のあとまたハノイに戻って、経済団体や貿易公司などとも接触した。
Mさんは総合商社の幹部でわたしと同年、東京外大中国語科の出身であったが、東欧圏の仕事が中心ではじめての、あこがれの北京入りであった。受け入れ・接待は中国国際旅行社、その夜の訪越団のお別れ宴はわたしたちもやっと口慣れた中国料理に舌鼓を打ち、アルコールに酔いしれてきていた。歌が出はじめた、Mさんも立ち上がり「草原情歌」を口にしはじめたとき、旅行社からストップがかかった。反革命、ブルジョアの歌だ、という、団員の「友好商社」の一部のひとたちも同調、反対の輪が広がる、わたしも「友好商社」の役員だったが、何を言っている、なにが反革命、ブルジョアの歌だ、中国の民謡ではないか、「四人組逮捕」のいまでも、そんな馬鹿なことを言っているのか、と怒鳴り、睨みつけ、Mさんの腕をとり、うながして「草原情歌」を歌いはじめた。♪はるかはなれた そのまた向こう・・・♪歌声は大きくなり、合唱の輪が広がる。♪ツアイナヤオユアンデイ テイファン・・・♪と中国語の歌詞が歌いつながる。もう反対する人はいない、乾杯の声が高まり、拍手、拍手、二番、三番へと歌いつがれていった。

 中国のひとが人まえで歌わないのは、むかしのはなし。
 80年代の改革開放で、“ハエ”と一緒に入って来たテレサテンのうたが中国の人の心を捉え、カラオケのヒットチャートとあいなった。
胡耀邦時代には長老たちの要請で“中国製”のカラオケソングも大分つくられたという。いまは題名も忘れたが、70年末のベトナム懲罰戦争で中国軍が苦戦していたそのとき、傷病兵を痛む“銃後”の恋人の心情を綴った歌がカラオケになり、ずいぶんと巷で歌い継がれた。ミシン部品訪中団が湖南省を訪れたとき、長沙市の宴席でもこの歌が披露され、大いに盛り上がったことがある。
 ところが、である。
 おなじころ、杭州での宴席ではテレサテンがもてはやされ、わたしも一曲♪月亮代表我的心♪を歌わされる羽目になった。“あなたをどれほど愛しているのか・・・本気で愛しているのよ・・・やさしい月の光のように”、まことに、甘ったるい歌で、歌っているほうが恥ずかしい限りであったが、宴席の中国の人からやんやヤンヤの大喝采とあいなった。

いまのカラオケは個室が主流で目的外使用もうわさにのぼるが、まだ90年代のはじめは、さながら歌唱大会のようであった。上海でわたしがその設立をお手伝いした日本料亭「河久」の併設カラオケ「雲雀」は最新のレザーディスク数千曲が評判を呼び、本命の日本料理を凌ぐ勢い、数十名は入る会場は夕刻から満席で、なかなか順番が廻ってこない、日本からの旅行者はあきらめ気味で酒盃を重ねあう。大きなスクリーンを背にステージに上がった一番手が歌いおわると、二番手も同じ歌を選曲している。まるで歌合戦、優劣を競い合っているかのようであった。
 これはまぁいいと、しようか・・・、
 わたしが吉 幾三の「酒よ」を歌って機嫌よくステージを降りようとしとき、ひとりの中国人がわたしにここはこのように歌ったほうがいい、小節(こぶし)をこう効かせてねと実演指導をしてくれた。日本ならこれはケンカになるところだが、本人は大真面目、後で名刺を見ると日本旅行専門のガイドのようで、吉 幾三の公演にも何回も足を運んだとか・・・いまはむかし、九十年はじめの中国カラオケ事始めのころのおはなし、である。

 先日コーラス仲間(先輩)とはじめて喫茶店で駄弁った。
 わたしが小学校を出ていないと自己紹介すると、その「意味」に気づいたひとりは、そうするとオレは小学校には入学したが卒業は国民学校だったなぁとつづける。そうか、卒業は小学校だったから、あんたより二つ若いか、ともうひとりが・・・。いずれもが傘寿前後の、後期高齢者、先輩諸公からいろいろと話が出る。
 11月の宝塚市の文化祭では、各サークルが出演することになっていると。
もうわたしは出演するものとばかりに、白いシャツに黒ズボン、蝶ネクタイがなければ予備はありますよ・・・。女性は構成上少し調整もあるようだが、男子は全員出演。いま練習中の、♪お江戸日本橋♪ほか二曲と話は続く。これはもう逃れられない。

 例会の最後はいつも全員が手をつなぎ、歌を歌いながらお別れのダンス。
 ♪①いつまでも 絶えることなく 友だちでいよう・・・、③信じあう よろこびを 大切にしよう 今日の日は さようなら また会う日まで・・・♪
          (金子 昭一 作詞・作曲「今日の日はさようなら」)

 わたしの初訪中から、半世紀がたった。
 ひと と ひと、まち と まち、くに と くに、
 あのとき歌った歌を、いま一度うたおう
♪アジアの兄弟よ はらからよ アジアに光をかかげよう・・・♪

(2014年8月11日 記)

徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾六

2014-07-24 08:21:41 | はらだおさむ氏コーナー

アナがない?!



 衣料品量販店で、カラーのステテコを買った。
 帰宅後、開封すると、アナがない・・・電話で問い合わせする、商品名は
「グラフィックステテコ」。従来タイプにはアナがありますが、これにはポケットがついています・・・質問の答えにはなっていない。要は外出でも可といいたいのだろうが、世代によって生活習慣が変わってしまっているのだろうか。そういえば、駅のトイレなどでもズボンを下ろして用を足している青年も見かけるが、これって、幼年時代のママさんのシツケがそのまま身についてしまっているのか・・・開封されていても、ご持参いただければ交換させていただきますがとの電話を切って、このメイドインチャイナを見つめた。

 改革開放以前の日中貿易で、「来料加工」という委託加工形式の取引があった。「来様加工」という形式もあったが、これは見本の提供のみ、前者は材料提供の委託加工で服装関係では生地からボタンやファスナーなどの付属品なども提供した。なぜか知らぬが現地では頻繁に付属品が少なくなって、貿易公司の担当者から追加の要望がしばしば、平身低頭の方もときにはお目にかかったが、無いものは無いで押し切られることも多かった。
 80年代に入って、委託加工の現場にも日本からの常駐者が指導・監督にあたり、90年代のはじめにはそれが合弁企業に発展して、対中投資を押し上げる。
 小島正憲さんの最近のメール通信に「先発か、次発か、後発か」との一文があった。ご自身の体験から「次発」の中国では“大儲け”したが、先発の他地域では失敗したと、その海外投資の体験談が綴られている。
 九十年代のなかごろだったか、武漢の長江沿いにあった小島さんの関係する工場や〇七年には中朝露国境の琿春で、操業中の同社服装工場を見学したことがある。そしていま、そのむかし「先発」で失敗したミャンマーやパングラディシュなどでの再チャレンジが語られている。
 「失敗は成功のもと」、「企業は人なり」ということばもある。
 委託加工から出発して合弁企業で成功された方もあり、韓国などからの撤退で苦労されて中国で花を咲かせた方もある。

 仕事の現場から離れて十数年、いまはどうか知らないが、むかし“渡り鳥産業”といわれた労働集約型業種に手袋があった。その主産地の香川県の行政組織のなかで、地場産業の発展のため世界各地の労働事情の調査をしている部門(人)があり、中国⇒ベトナム⇒西アジア⇒アフリカと渡り鳥産業の展開(見通し)を伺ったことがある。 労働集約型産業は手袋や服装産業に限らない、インテリア業種でも十年ほど前からベトナムへ上海の合弁企業の技術者や管理者(いずれも中国人)を出張させ、その調査報告を日本の本社で判断して、現地への進出や技術移転の検討に活用されていた企業もあった。

 Mコーポレーションは、中国との合弁企業(外資)をはじめて上海証券市場のB株、ついでA株に上場させた企業である。
 以下は浙江省平湖市にある同工場団地を訪れたわたしの訪問記の書き出しである(『上海経済交流』66号・2002年4月、<おじゃまします 上海の日系企業>37)。

以下は浙江省平湖市にある同工場団地を訪れたわたしの訪問記の書き出しである(『上海経済交流』66号・2002年4月、<おじゃまします 上海の日系企業>37)。

2001年9月18日、ビユックの新車は流れるように、上海の郊外を走っていた。
   カ-テレビが一週間前の、ニューヨークの同時テロで崩壊するビルを映し出し、  キャスターのコメントが続いている。
   「これでアメリカの景気はどうなるかなあ」
   携帯電話の受信ヘッドホーンをかけたL総裁が、ハンドルを握ったまま、後部座席のG公認会計士(日本人)に声をかける。

 L総裁はまだ39才の青年実業家、83年21才のとき人民元五百元で起業、従業員23名のスタートであった。90年9月、韓国から撤退したM企業と出会い、その製造能力と納期厳守を見込まれて提携、いまでは上海から100キロ離れた浙江省平湖市に東京ドームの約4.5倍の敷地で5工場、世界の有名ブランドの服装品を年間2800万枚生産している。
 工場建屋(85mx200m)内には日本のミシンや縫製設備がレイアウトされ、日本の技術者が指導・管理にあたっていた。
 敷地内の、ホテルかと見まがうビルは日本の技術者たちの宿舎であり、食堂(和洋中のバイキング)はもちろん、プールやアスレチックルームなども用意され、長期滞在にも配慮されていた。
 五工場のひとつは、特殊印刷工場であった。
警備員のモニター管理のもと、銀行の小切手、預金通帳、航空券、EMS送り状などが印刷されていた。
 これがL総裁の経営多角化への第一段階になるのだが、その後の経緯を瞥見すると服装事業はのちにMコーポレーションに譲渡して、製紙業、自動車産業にも触手を伸ばし、いまは地元の九龍山のリゾート開発に注力中とか。まだ50歳をこえたばかりの実業家、中国経済の発展とともに歩みつづけておられるようである。

 誕生月を迎えて、家電量販店や取引銀行からバースデープレゼントが届いた。
 いずれもが縫製がらみの商品であるが、すべてメイドインチャイナ(で納得!?)。
 経済団体の相談窓口では、中国からの撤退案件が多いと耳にする昨今だが、さてさて、どうであろうか、従業員に占拠されたままの外資企業もあるやとも耳にする。行きはよい良い、帰りは怖い・・・撤退の実務処理はタイヘンなことである。

 わたしが84年から設立のお手伝いをした上海での日系合弁製造企業の第一号は、契約から操業まで二年半を要したため、その八年目に中国側から最低五年の契約期限の延長、十年でも可との提案があった。操業五年目で累積赤字を解消、契約満了時には投資総額の回収は数十%と見込まれたが、日本側は契約どおりの十年での解散を主張、清算処理に移った。わたしはその段階では直接タッチしていなかったので詳細は不明だが、簿価ではゼロの設備の残存価値をどう評価するかということが問題点であったらしい。最終的には3年ほど後の国際入札で台湾企業が落札、その分配金とこれまでの配当金合計は出資額(現物出資)に二十パーセントほど及ばなかったそうだが(製品輸入の販売利益はプラスアルファ)、昨今耳にする撤退課題からみると、三段階評価の「良」とすべきだろうか・・・。
消息筋によると、その設備は2~3年後に台湾企業から中国の個人(元従業員)に転売され、その工場は十余年前立ち退きになって(いま跡地には立派なホテルが・・・)上海の郊外に移転、設備もいまだ順調に稼動中とか・・・。これは中古とはいえメンテさえ怠らねば立派に稼動、カネを生み出す設備で「吉」と出たが、労働集約型企業の撤退は、カネメのものが少ないだけに、その処理は大変なようである。

 中国語で輸出は“出口”というが、出る口、アナがなければどうするか。
 “没法子(メイファーズ)とギブアップするのか、青年のように下ろして用を足すのか。企業の撤退は、穴のないステテコのようにはいくまいが、トコトン頑張って解決策を見つけねばなるまい。先人の事例から教訓を導き出すことが先決であろう。

 ポケットがついていても、わたしはむかしの中国の農夫のようにスネを出したこのスタイルでは、外には出れない。ものは試しと、湯上りに着用してみた。上にTシャツを着れば、これは夏のパジャマとしてなんとかいけそうだ・・・。

 今号はなんとも、タイソウな買い物の始末記とあいなった(ジ・エンド)。


徒然(つれづれ)中国(ちゅうごく) 其之七拾五

2014-06-30 16:31:16 | はらだおさむ氏コーナー
鉄斎のことなど


ホームに貼られたポスターに「鉄斎-仙境への道」があった。
富岡鉄斎没後90年とある。
きょうは久しぶりの好天気、わが家から二十分余の清荒神清澄寺境内にある鉄斎美術館に出かけることにした。
荒神川にかかる禊橋をこえるとやや急勾配の、蛇行する坂道にかかる。十数年前は毎朝山門まで往復40分ほどの散歩を繰り返していたものだが、いまはもうダメ、山門脇の休憩所で一服して、龍王瀧手前の鉄斎美術館に向かう。
今回展示の数十点の画幅のうち、60歳以下の作品は十余点のみ、80歳以上が三十五点もある。まことにおめでたい「仙境への道」の展示である。入館時にいただいた栞には「老荘思想への憧れ」「鉄斎の仙境図」「長寿の喜び」の小見出しがあり、古希を迎えた翌年(明治39年)、自宅の庭ではじめて不老長寿の薬-霊芝を採取していたとも記されている。

地の利があり、鉄斎の作品に触れる機会も多いので、今回の展示でもそのいくつかは目にしたおぼえがあった。50歳以下の数点のなかで、「漁樵問答図」(42歳)の「賛」について、展示してある解説に目が留まった。筆記用具もなく、その足で駅前の図書館内「聖光文庫」に向かうことにした。ここには鉄斎美術館入館料全額寄贈で購入の、世界の美術図書などが蒐集され、閲覧に供されている。
『鉄斎大成』(講談社)は大部の豪華本で、施錠されたガラス戸の書棚に収まっていた。その第二巻には同じような構図の「漁樵問答図」があったが、いずれも80代の作品で、「賛」も違う。第一巻の「漁樵問答図」は45歳の作品、漁樵ふたりの構図で雰囲気は似ているが、これでもない。冊子『鉄斎研究』(鉄斎研究所刊)を一号からひもといていくと、その第四号に展示されていた42歳の「漁樵問答図」があり、「賛」の釈文まで掲載されていた。
そうだ、この「賛」が気にかかっていたのだ。

  ・・・天下がまさに治まろうとする時代には、人は必ず行いをとうとぶ。
天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず言をとうとぶ。・・・言をとうとえば、いつわりあざむく風が行われる。・・・天下がまさに乱れようとする時代には、人は必ず利をとうとぶ。・・・利をとうとべば、ぬすみうばう風俗がさかんになる。
明治十年三月、この図を描き、あわせて邵尭夫の漁樵対問の語を録する

 なんとも意味深長な「賛」だが、このとき(42歳)、鉄斎は「漁礁問答図」をかりてなにを言いたかったのか。
ひとつき前の明治十年(1877)二月には、西郷隆盛などは鹿児島で明治政府に叛旗を翻してはいるのだが(西南の役)・・・。

鉄斎は古今の漢籍に通じ、誕生日が同じといういわれで蘇東玻を敬慕し、画幅の題材にも多く用いた。それは今風にいえば「オタク」ともいえるようなものであろうか、「東玻同日生」という印をいくつも作って作品に落款し、「百東玻図」という作品集も出している(蘇東玻を題材に百余もの作品を・・・)。西湖全景図の箱書の裏にも「余は天保七年を以て京師に生る  宛も東玻居士に生日を同じうす  即ち十二月十九日なり・・・」と書き付けているほどの、熱狂的なフアンであった。

 蘇東玻 WHO?
 知る人ぞ知る、であるが、トンポーロウはご存知か。
浙江名物の豚の角煮料理の「東玻肉」、あのジューシーな味付けは一度食べたらやめられない、この料理の元祖が蘇東玻(本名蘇軾)であったとか。北宋の詩人・文章家、唐宋八家の一で東玻は号であるが、鉄斎の宣伝が行きわたったのか、日本ではこの号・蘇東玻で知れわたっている。

ずいぶん以前に竹内 実先生からいただいた『岩波 漢詩紀行辞典』(竹内 実編著)をひもとく。
「気軽に携行できる分量でまとめる、というのがはじめの目安であった」よしだが、700ページになんなんとする大著。本文のほかに「表題・名句一覧」「作者略伝」「用語解説」「地名・事項索引」「人名索引」などがついていて、門外漢には利用しやすくできている。
蘇東玻(本書では本名の蘇軾で記載)は、収録総数三百余篇、百数十名の詩人のうち、李白34篇、杜甫15篇につぐ蘇東玻12篇と第三位の収録数で、以下白居易8篇、毛沢東7篇とつづく。
蘇東玻掲載詩の地名は、西湖と海南島が各2篇、江南、杭州、五丈原、蛾眉山、西湖はさておき、海南島の解説を見てみよう。
   ここに流された李徳裕、蘇軾の遺跡はいまも残る。南海の果てまでは政争は波及せず反乱もないとはいえ、みやこの長安や江南の繁華の地にくらべ、暮しはあまりにも原始的で、たえがたいものがあったろう(P625)。

 その時代の海南島のことは、わたしは知らない。
 海南島が広東省から分離して海南省になった記念式典(多分第四年目の92年)があった省都・海口市の会場は、四月だというのに小雨に濡れそぼっていて寒かった。そのころ三亜市にはまだ空港も無く、海口市からの高速道路も途中までの一泊二日のたび。文革時代の名残だろうか、革命バレー劇で有名な「白毛女」や「紅色娘子軍」などの大きな立像が途次のロータリーや公園などに残っていた。
 三亜はハワイと同じ緯度と聞いていて、楽しみにしていたが、ここも異常気象で水温は18度とあって海水浴は禁止、名前ぐらいは耳にしていた蘇東玻の「天涯海角」(天の果て 地の果て)が刻まれた絶壁の見物に出かけた。海浜を歩きはじめて靴を脱ぎ、ベトナム製の菅笠をかぶって、浪が洗う「天涯海角」を見つめる。
 蘇東玻がこの地に流刑されていたときは、いまから千余年ものむかしで、すでに60余才の老人であった、しかし、この詩「半醒半酔問諸黎(なかば醒めなかば酔い もろもろの黎を問う)」には、そんな気配は感じられない。「酒を飲んで酔ったので話がしたく、四人の友人をたずねた」(P627)ではじまるこの詩の友人は、いずれも少数民族・黎族のひとたちで、いまも三亜市の主要構成メンバーである(海南島が省に昇格するまで、三亜は海南リー族・セオ族自治州の都であった)。
 もうひとつの詩「餘生欲老海南村(余生老いんとす 海南の村)」は、思いもかけない皇帝即位の恩赦にあずかったときのもの。蘇東玻64歳、すでに三亜から離れて、大陸側の広西チワン族自治区の村に着いていたときの作。「青山一髪是中原」(青山がむこうに横たわっている。細い髪の毛のように、あるか、なきかだ。しかし、まぎれもなく、あそこは中原の地だ)(P629)と釈放された歓びを詩に綴ったが、都を見ることなく、それからの旅先で天寿を全うしたのであった。

 この旅のおわり、わたしたちはベトナム製の菅笠をかぶって成田空港に降り立った。まるで旅芝居の一行の帰国のようであった。
 数年前までは三亜から船でベトナムへ行くツアーもあったようだが、いまはもう、クローズされているかもしれない。
 浪の洗う「天涯海角」は、何を見つめていることであろうか・・・。
                      (2014年6月5日 記)