BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

学説

2020-08-02 | 日本語学2020





日本語文法の説42
2019-08-02 | 日本語文法

文法学説を規範とするものとすれば、対する記述とする文法学説は学説として成り立つか。常に記述である、科学であるとするだけではないはずであるから、そこには理論ができ、演繹されることになるが、そのたび記述は実証の故を以て理論学説をはずれる現象を覆うことになる。5大文法を国語で見ると、その後の学説が現代に続く。何があるか。師説はすでに、宮地裕学説にある。とすれば、京都学派とも言うべき、文法学になるかどうか、対抗する東京学派には、森岡健二学説が、同じ形態文法か、形態素文法で議論があるものの、この根っこには国立国語研究所の時代がある。アメリカ大陸流言語研究が構造言語学と、>20 世紀に入って〈構造言語学〉が興ると,これに基づいて文法研究も趣向を変えた。すなわち〈伝統文法〉が概して前述の〈規範文法〉としての色彩を有したのに対し,当該の言語で行われている文法の現状をありのままに記述する方針をとるようになり (これを〈記述文法〉という),研究対象もヨーロッパ以外の諸々の言語 (アメリカ・インディアン諸言語など) に広げて, 〈科学としての文法〉の面を強めた。 世界大百科事典  生成文法のあいだに起こった流行である。記述言語は瞬く間に、国語の実証研究と合わさって流派となる。言語学研究会に教科研文法を聯語論とともに展開してきている。国語の古典研究から、日本語の構文論を目指した渡辺実学説は関西からでることになり、国語構文論を体系とした。文法学説は大阪から筑波へと、寺村秀夫学説がシンタクスを唱えるようになる。

記述文法
現実の言語現象の究明を目標に、ある時期における一言語の文法現象をありのままに記述しようとする文法。

hellogさんの説明は英語学、そして,マルティネ引用が分かりよい。次は、学生にたしなめるという前提での要点である。

747. '''記述'''と'''規範'
user.keio.ac.jp/~rhotta/hellog/2011-05-14-1.html
 ・ 一般に科学はあるべき姿を論じるのではなく,現実の姿を観察し,理論化し,解説(記述)しようとするものである.言語学も例外ではない.
 ・ いかなる言語社会も(いまだ記述されていないとしても)記述されるべき文法をもっているが,すべての言語社会が規範文法をもっているとは限らない,あるいは必要としているとは限らない.実際に,規範文法をもっていない言語社会は多く存在する.英語の規範文法も18世紀の産物にすぎない.
 ・ 規範は価値観を含む「道徳」に近いものであり,時代や地域によっても変動する.個人的,主観的な色彩も強い.「道徳」は科学になじまない.


現代日本語百科   けふも  お元気ですか

文法となると  
日本語百科
2014-08-14

文法にはどういうものがあるか。フリー百科辞典に拠れば、関連項目には文法学、文法理論に続けて 4大文法を挙げる。これが師説に日本語文法、5大学説の謂いがある。近代の黎明に翻訳折衷とされた大槻文彦の文法学説を加え、文法を理論にして追求した山田孝雄、そのときに詞と原辞を理論とした松下大三郎、そして、学校文法に採用された文節の橋下進吉、学校教育にやはり影響する時枝誠記などである。

文法は現代日本語文法として解説が行われるが、その流れには国語教育文法が一方で日本語教育文法と対峙するようになり、言語学の理論の影響を受けながらも、またその一方では記述文法が行われるようになって、日本語現象の説明に文法が捉えられようとして、1960年代より、およそ半世紀が経過してきている。いまとなってみれば、理論と実践という、日本語の学問、研究において文法は体系を追求する

文法と名称の付く用語を挙げると、さきの関連項目には以下のようになる。この並びは意図するのではないが、その順に従いグループをつけた。いくつかの視点を取れば、さらにグループわけとなるが、それぞれに解説が必要となるところである。文法論を形態論、統語論とすれば、これにさらに個別言語の文法としてのそれぞれ、解説が加わる。現代日本語文法、4大文法のほかに以下のようである。

規範文法、伝統文法、機能文法、実用文法、一般文法
認知文法、記述文法、説明文法、普遍文法、派生文法
教科文法、歴史文法、比較文法、構造主義文法、句構造文法
口語文法、文語文法、格文法、解釈文法、談話文法
関係文法、読解文法、表現文法、語文法、形式文法
変形生成文法、方言文法、古典文法、依存文法

文法学
文法理論
• 四大文法(橋本文法、時枝文法、山田文法、松下文法)
• 現代日本語文法




6 コメント

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記述文法とパソコン (Mr.Moto)
2020-08-15 10:25:08
おそらくは日本国内に二十人はいないと思われる記述文法の研究者の一人です。つーか「五人いりゃあ多いほうだろうな」と思いますが。
その原因は、「プログラムを書ける文法屋がない」のと、「Java くらいしかテキスト処理に向いたプログラミング言語がない」のと、「文法理論が整理されていない」のという三点だと思います。
「なぜ現代文法では、動詞の終止形と連体形が同じ形なのか?」「なぜ形容詞の連体形は、『連体』なのに用言『です』にかかるのか?」「現代文法における『仮定形』は文語文法における『已然形』だが、だったらなぜ文語文法の『仮定形』はどこかへ行ってしまったのか?」みたいな話は、人間が頭の中で考えていたらなかなか決着がつきません。「コーパスデータをシステムに食わせて例外を探す」ということを執念深くつづけていかないと、例外は出現頻度が高いせいで、例外は人間の頭の中を素通りしていってしまいます。
記述文法とコンピュータ(形態素解析システム)、というのはいい組合せだと思うんですけどね。
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記述文法の研究者 (🐼ksk_ym)
2020-08-16 11:50:48
記述文法学
コメントをありがとうございました。記述文法研究会と、シリーズの論考を見て、現代日本語文法をなさる方に敬意を表して感謝申します。ところで5人というと、3人は思い浮かびますが4人目は?その記述文法研究会が記述文法と形態素解析システムを領域範囲にするのであれば、著名な一人がくわわって、それでコンピュータには述語論理で優れた方々、五指に余るほどかと言っても、ちょっとわからいので恐縮ですが、どうぞよろしく、ご意見かた、お願いします。
頭のなかを探して…
なぜ現代文法では、動詞の終止形と連体形が同じ形なのか?正面に据えた国語研 日本語の文法 上 で
なぜ形容詞の連体形は、『連体』なのに用言『です』にかかるのか?1952年文化庁これからの敬語
現代文法における『仮定形』は文語文法における『已然形』だが、だったらなぜ文語文法の『仮定形』はどこかへ行ってしまったのか?順接仮定条件の表現とthe subujanctive 翻訳語法の影響による

連日の炎暑、皆様ご自愛のほどを祈ります。
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記述文法の研究者 (Mr.Moto)
2020-08-16 21:16:54
お便りありがとうございます。
記述文法の研究者というと、大野 晋先生とか寺村秀夫先生とか坂井秀寿先生とか佐伯 梅友先生とかゾロゾロ名前は出てくるのですが、鬼籍に入られていらっしゃる方が多いので悩みどころではあります。
「かな漢字変換」の分野は記述文法と縁が深いのですが、アスキーの VJE のグループはインプレスとの分離によってソフトウェア開発分野から撤退してしまいました。
アップルは「ことえり」開発チームがいたのですが、日本市場からの撤退によって消滅してしまいました。
JAST SYSTEM の「ATOK」も、改善の兆しが見られません。
東芝も撤退してしまいましたし、京セラも京都大学も力を入れていません。
Google あたりの、「データさえ食わせておけばなんとかなる」という態度が、正直な話、不快です。
まず、「おこなった」「いった」「おこのうた」といった、出現頻度の高い表現についてのケアが粗雑です。「乞うた/講うた」「問うた」が一発で出ず、「こった」「とった」で出てくるのが不快です。「漢字一文字の五段サ行およびザ行の動詞(「す」「ず」)は、『る』を伴うことがある」(「接す/接する」「発す/発する」「達す/達する」「案ず/案ずる」など)に対するケアが杜撰です。
「不規則表現は出現頻度が高いんだから、まずコーパスデータから拾って網羅して、公開して『例外があったら知らせろ』と宣言する」のが筋ってもんじゃねぇか?と思うんですが、バブル経済の崩壊の崩壊時の企業というのは金玉(キンギョクではなくキンタマです。「粋珠」が、本義に照らすと、おそらくは正しい表記だと思っていますが)が小さいというかケツの穴が小さいというか、そのあたりの公開を渋るんですよ。「そんなもんはアルゴリズムやアイデアや言語学上の仮説でしかないんだから、特許の対象にならないだろう」と言っても、「いや、それはトレード・シークレット(営業上の秘密)だから、洩らしたら訴える」とかいって脅しをかけてくるわけです。うちは親が認知症だったので、私が在宅していないときを狙って親に電話でそういう脅しをかけられると狼狽してしまって宥めるのに苦労しました。
現在のところ、「益岡・田窪文法にあらずんば日本語文法に非ず」というのが通念なので、学会の自然言語処理の分科会で動詞の活用形に関する発表をしても、座長から「『基礎日本語文法』を読んでから来てください」と鼻であしらわれるのがオチです(実際に経験しました)。
「データの裏付けをベースにして議論をする」という文化は、「記述文法をコーパスデータとして解析する」という文化のないところでは、邪魔でしかありません。それが国文法の世界であり、それが四半世紀以上続いています。
 とはいえ、これから国文法の世界に踏みいれようとする学生さんたちに、そんな話はしたくありません(笑)。「ディジタルネイティブ(もう、生まれたときには Mac があった)世代には、希望を持ってほしい」と言いたいところです。
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ありがとうございました (🐼ksk_ym)
2020-08-19 12:27:18
興味ある話をうかがいました。記述説明のこと、漢字変換のこと、コーパス資料の分析、そして、現代語文法の迷路と、示唆を受けました。まず記述文法研究は立場で言うことがあるので、寺村学派の系列は、仁田義雄氏をはじめ、森山卓郎(現、早大)など、帰納法です。演繹は現代語という、じつは、国語学で鍛えて、実証主義なので、文献をベースにする時代でした。そもそも、推理小説を読む寺村文法の用例ですから、時代が国語による文献実証の記述という延長です。同様に教科研、日本語としての分析に、高橋太郎氏は、奥田靖雄、鈴木重幸、そうですね、みなさんが活躍した過去に連なります。いずれも現代語の研究に用例を重視します。国語学は記述において学校文法の教科書関係で、古典語をベースにするので規範文法ととられやすい、実は歴史文法で、時代を言えば、記述説明する文法です。そこで時代が下って、コーパスによる用例採取は、現代日本語書き言葉均衡コーパス BCCWJ、日本語話し言葉コーパス 、CSJ、KOTONOHA Corpus、1億語とかが言われて、実用的にBCCWJ を、絞り込んでいっても、このデータがはじき出すものはなんだろうかと思います。
書籍 (1971〜2005年、22,058件、約6,270万語)
雑誌 (2001〜2005年、1,996件、約440万語)
新聞 (2001〜2005年、1,473件、約140万語)
白書 (1976〜2005年、1,500件、約490万語)
教科書 (2005〜2007年、412件、約90万語)
広報紙 (2008年、354件、約380万語)
Yahoo!知恵袋 (2005年、91,445件、約1,030万語)
Yahoo!ブログ (2008年、52,680件、約1,020万語)
韻文 (1980〜2005年、252件、約20万語)
法律 (1976〜2005年、346件、約110万語)
国会会議録 (1976〜2005年、159件、約510万語)
利用の立場でしか見えないことなので、例外規則の検索のようになってしまうのは、数量だけで、解決するのは可能でも、一般を超えますね。
さて、漢字変換は国研の漢字タイプライタになる、穿孔テープのときから、仮名漢字変換の苦労のようですね。長い研究開発があって、ここで素人目に、形態素レベルでの精度が上がってきているようなので、とか、勝手を申してお許しください、解析ツールを便宜、サイトで打ち込んで、恩恵を受けています。最後に、益岡田窪文法には、日本語と言語の対照の視点から異同のみを規則化するようで、主格補語と、補語述語の構造に命題文法のすり合わせは、かなり、無理がありますね。寺村文法解釈が三上章説の枠から出ない、英語文ベースのままに理論がない、国文法が山田文法のままに理論を出ることがない、そういう状況です。これからは国文法を日本語文法と置き換えて学ぶ学生が、索引資料の整った古典語作品できたえられれば、現代語をあつかうのに、言語現象の理論に、コーパスをよくする、自分のものにすることになるでしょうか。妄言多罪。
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寺村先生のこと (Mr.Moto)
2020-08-26 15:12:33
寺村先生は、現・大阪大学の英米科を、占領下の日本で修められた方だということは、あらためて感得いたしました。
> 国語学は記述において学校文法の教科書関係で、古典語をベースにするので規範文法ととられやすい、実は歴史文法で、時代を言えば、記述説明する文法です。
私もそう思います。正直な話、「『源氏物語』が読めればオッケー」という感じはあるんですが、『枕草子』となると(学生さんにとっては、なかなか)ハードルは高いと思います。時代は下って『雨月物語』とか『方丈記』とか『徒然草』とかいうあたりになると、「古典文法」(ぶっちゃけ平安時代)とは別扱いになってしまいますので(『とりかえばや物語』とか『堤中納言物語』とか、面白い作品はいろいろあるのに)。
構文上(形態素レベルではなく、構文的なレベルで)の興味としては、「だったら、具体的にどこが違うのか」という話にはなるわけです。早稲田大学で「能の楽曲で、作者が世阿弥なのか観阿弥なのか、それ以降の作者なのか?」というのを調べたことがあります。当時はパソコンも非力だったし、文献もデータ化されていなかったのでけっこうツラかったんですが。
古典作品においては、その時代なりの「規範」があって、文学作品というのは、「その『規範』から、どうやって抜け出てやろうか」という話もあると思います。
『土佐日記』の作者はネカマか、っちゅー話はあるわけですし(笑)。
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Unknown (🐼ksk_ym)
2020-08-28 17:53:54
思い出の話を、お許しください。口から出まかせではないのですが、思い出したら・・・寺村先生の、上8校舎の時代、そのころからを知る人は、スタッフほか、いないでしょうね。同僚たちはその外国語学校よりも、彼は、と、そう呼んで、京大法学だからね、と言わんばかり、それで、どうだったか、転出をなさったか。わたしは駆け出しに過ぎず、空きになった科目の担当で大変、なにしろ、米国からの留学生たちがその科目で寺村先生の解説、理論を聞こうとして来て、目の前で聞くことができる、仕合わせとか言っていたので、それが英語による講義だったかどうか、大人気、クラスの日本語を教えなかったようで、日本語を教えるわたしにあおりがありましたよ。それは、よくあることで、フランス語の先生が日本語を教えに来て、フランス語ばかり、日本語を教えているのか、フランス人学生は鋭いので自分たちに仏語会話練習をするなと、総スカンとなったことがありました。寺村先生の御高説はその後にたびたび受けて、「はやく」を副詞だと言ってのける、形容詞の副詞的用法というかどうかですが、聞いている方々、日本語教師は目を丸くしていました。
わたしは日本語学のほか、中古文学をも専攻して、古いところ、80年代になって、計算機の興味が尽きず、PC800シリーズだった、源氏本文別本、陽明文庫を入れ始めて、プリントアウトはカタカナで、スペースに苦労しそこにタグを入れる予定が、マイコンと言っていたころ、サーバーは給与計算器の頃だったので、桐壺の途中だけ入れて撤退、情報処理はデータがないのでは何も言えないのでしゃべることではありませんが、おもしろいことをやったのは、中国にでかけて、84年にポータブル電脳と称して税関通過、印刷やタイプライタや無線機は没収ですから、キャノワードのワープロを出張のときに北京へ持ち込んだことがあり、夜な夜な教材の原稿を印字してアウトプットしたり、そのメモリはなんとカセットテレコと、危ないこと、楽しいことをしていました。そのとき、聞きつけた人民中国編集の方々が文書編集機の講習会だぞ、というので取り囲まれて、記事のレイアウトなどを要求してきて、これは違う、書院ではない、目の前のみなさんはオアシスを寄贈品で持ってきて、電源が安定的にとれないから、冷や汗で過ごしたら、そこに残ったのは単1乾電池のヤマでした。これもまた恥ずかしい、あのころはチャレンジだけでした、いまも、さきにも。
大学のレポート課題のお話は、ずれるかもしれませんが、源氏宇治十帖の本文の品詞構成、語の使用度を統計処理して、本編と違うといった、異作者説を実験した(統計数理研究所ころの 村上征勝氏)ころのことでしょう。応用して、小説、金色夜叉の続きにも、豊饒の海の5部作めなどにも、作者に弟子すじがいるとあって話題になったころでしょうか。
長くなりました。
文法は学説による考え方で、規範は歴史文法から、通時論でそうなります。記述が現代語のゆえに規則を立てるなら、いずれ収集した用例から規則を網羅して、統一的記述の立場を共時に作り出します。寺村先生は国文法の徹底した批判をしながら、活用表はシンプルになったのか、自立語付属語の解決をしたのか、形態論の記述で、判定詞、取り立て(助詞)などと、自立語の品詞名で分析をした現代語文法論の多くは、シンタクスが意味の世界であるとの記述のゆえでしょう。

BackLogの皆様、所長さん、Mr.Motoさん、Maria Bethanyさん、残暑厳しく ご自愛を祈ります
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