BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

題目

2020-08-02 | 日本語学2020
2年前。

松下大三郎、題目態
2019-08-01 | 日本語文法
日本文法助辞「は」と口語法助詞「は」 20180731

1年前に投稿したブログ記事である。松下大三郎は、題目態について、有題的斷定を説明する。分説題目態、合説題目態を、区別する。また、助詞「は」「が」の用法の違いを指摘するところがあって、のちには、いまも取り上げることで、大野晋などによって説明される用法は、すでに松下の視点からすれば、明白なことだった。


日本文法助辞「は」と口語法助詞「は」

 いまここに形態論の用語にある接辞のうち、日本語類型による膠着現象に特徴を持つ、国語で助詞と分類される付属語「は」について、日本語助辞waとする。この表記は日本語助辞「は」について、発音の混同を避けて便宜、助辞waと用いる。ハ行音のワ行音への点呼は語中語尾における現象である。助辞waについても、音韻変化によって文法機能辞の熟合すなわち熟語として、語形式とみることができ、音のままに表記する。

 日本文法の説明に助辞について、この用語をもってする先行文献があるので、触れておかなければならない。松下大三郎氏による日本文法研究書の緒言に触れるところである。そこには、「助辞」として言及し、それまでの文法の分類で品詞扱いをすることへの疑義を指摘している。明治30年、西暦で1905年にはすでにその発想を得ていたことがわかる。その後に「標準日本文法」を著わし、大正13年、昭和3年を経て昭和5年、1930年には「改撰標準日本文法」として訂正版を刊行している。

 上述の緒言を載せる『改撰標準日本文法』を、松下大三郎氏は世に問うているが、その「はしがき」に見えるように修正を3回加えて成書となる。松下文法はいわば形態文法の先駆けとして文法研究史に記されるようになったが、いまはふたたび言及され取り上げることが少ない。ここに、その著作から日本文法の助辞に言及するところについて、断句、詞、原辞の説話構成の過程の説明を見て、次に引用する。松下文法の原辞は助辞を含む。助辞は不完辞であり、連辞また単詞を構成する。  原辞を総論に述べていて、次のようである。

  原辭は詞の材料であつて説話構成上に於ける言語の最低階級に在る。例へば「鉛筆」は詞であるがその「えん」と「ひつ」とは原辭である。又助辞の如きものも原辭である。   原辭に完辭、不完辭の別がある。不完辭とは他の原辭と結合して始めて一詞になるもので單獨では一詞をなさない原辭である。例へば漢字の音や助辭の類はそうだ。   23ページ

 その原辞「は」については、まず題目態とし、次いで提示語また提示修用語として述べている。 題目態は題目の提示態であり、叙述の語に対して判断の対象を提示する。例文に、次のようにする。

(一) 東京に博物館が有る。・・・・・・・無題的斷定  

(二) 東京には博物館が有る。・・・・・・有題的斷定        598ページ

この二文の違いは題目すなわち判断の対象を設けるか、設けないかであって、(一)は、単純な連用格、詳しくは依拠格となる。(二)は、題目態となり、この「東京に」といふ概念を判断の対象概念として提示し、「博物館が有る」という客体概念を材料として提示し、判断対象とすることを示す題目態となる。

 また松下文法の題目態には分説題目態、合説題目態、単説題目態がある。分説「は」、合説「も」、単説には助辞がない。助辞「は」については、分説とする。この用語の解釈には松下文法の言語観をとらえる必要がある。総論に述べるところから、いわく説話構成の法則にあるのが文法であり、その説話の構成に体系的に統一された法則が存在するのである。  言語は説話の構成上に現われて、思念には観念と断定の二階段をもち、それが言語の原辞、詞、断句の三段階にあらわされる。ここに説話は字義どおりに、言語を運用する行為であると考えられる。  

題目態に掲げる例文によると、平説態の「酒を飲まず」「酒に酔う」「人と交わる」を、題目態の分説にすると「酒をば飲まず」「酒には酔う」「人とは交わる」となり、合説にすると「酒をも飲まず」「酒にも酔う」「人とも交わる」となる。それぞれ、他動格、依拠格、與同格である。一般格の例文は「主人不在なり」とある。分説にすると「主人は不在なり」、合説にすると「主人も不在なり」である。

  分説題目態「・・・・は」は事情の異なる他物と相分かつて之を提示し、合説題目態「・・・も」は事情の類する他物と相合せて之を提示する。單説題目態は異同を分合する意味のない題目態である。そうしてその記号がないから注意しないと平説態と紛れ易い。 600ページ  松下文法はさらに『標準日本口語法』を昭和5年、西暦1930年に著わす。『改撰標準日本文法』に先立つ2か月前の刊行である。その著述において「は」は静助辞のうち、提示助辞と分類されて、題目の助辞に「は」、「も」をあげている。その用法は、分説的題目を表す助辞となる。

 そこに例示する「私は 本会の理事です」、「私が 本会の理事です」について、題目語「私は」に、既定、不変、不自由と傍書して図示するのに対し、平説語「私が」に、同様の図示は、未定、可変、自由とする。平説語は解説の一材料にあり、題目語は解説の圏外にあるとする。これは、助詞「は」「が」の用法の違いを指摘する。就職口での面会では「私は」と「私が」を間違えないように注意しなければならないと述べている。

 日本文法助辞「は」について、松下文法の述べるところをとらえてみた。昭和初期に話し言葉としての観察を記述する文法書の解説は助詞「は」「が」の用法の違いに知るべきことが多くあって、それは口語法での嚆矢であるにかかわらず、その後、口語文法書に継承されることはなかった。いま、現代語文法の助詞「は」の用法に解説されるところと比して見なおされるべきである。

 日本語文法の口語法として記述する文法教科書から、国語文法の基礎を説く湯沢幸吉郎氏の『口語法精説』を見ておきたい。昭和28年、1957年に著わされた、学校文法に即した平易な記述文法である。助詞「は」を副助詞に分類している。「は」の項目には(発音ワ)の注意がある。次のように説明を述べ例文を挙げているが、その説明だけを摘記する。

  「は」は他と区別して特に取り立てて言うに用いる助詞で、いろいろの場合があるが、その主なものは次のごとくである。

   (―例文(a) 略―以下同じ 筆者注)

  事物の性質を説明する場合に、その事物を表す語について主語の文節を作るのが普通である。

    「は」は、二つ以上のものを対照して挙げるのに用いる。

(b)   連用修飾語に付くことがある。この場合、格助詞を用いないで体言に付くことがある。

(c)   「は」は、補助的文節連なる文節に付けて、意味を強めるのに用いることがある。

(d)   「は」は主語と述語を具えたもの(〇印)を述語とする主語に付く。右第一例で言えば「象は」は主語で、それに対する述語は「鼻が 長い」である。そうしてその述語は、主語「鼻が」、述語「長い」からなっている。

(e)  上記の口語法の助詞「は」の文法解説は現代日本語に連なる口語文法の機能をよくとらえるものである。簡潔に記述するところ、凡例に「国語文法の基礎知識、および口語の文法的事実に関する知識の修得に資するために編した」と言う。国語の助詞をとらえることは、文法現象の事実に、日本語文法の重要な要である。いま助詞について解説する、研究の大方を示すものをみて、日本語助辞waをさらに分析してみようとする。


2 コメント

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「は」と「が」 (Mr.Moto)
2020-08-30 12:13:43
三上章『象は鼻が長い ― 日本語文法入門』以来、(「形容詞も述語なのだから」という理由で)文法格の一意性(「私は餃子とラーメンを頼んだ」は正だが、「私は餃子をラーメンを頼んだ」は不正。(「餃子とラーメン」という、ひとくくりの名詞句が述語によって要求される))という観点から「は」と「が」の扱いについては議論がありました。
> 松下大三郎は、題目態について、有題的斷定を説明する。分説題目態、合説題目態を、区別する。また、助詞「は」「が」の用法の違いを指摘するところがあって、のちには、いまも取り上げることで、大野晋などによって説明される用法は、すでに松下の視点からすれば、明白なことだった。
というのは、大野晋『日本語の文法を考える』(岩波新書)に対する正当な評価・批判であると私は考えます。
つーても「述語から要求される文法格の一意性」を、どうやって実証するかというのは、かなりの労苦を強いられる行為だと思います。そもそも、述語が一意に要求する格がいくつあるかが分かっていません。
「住職は雪舟を縄で柱に縛りつけた」
で、四つです。じゃあ、要求する格が五つ以上の述語はあるのかないのか?という話になります。
「が」にはとりたて詞としての用法がありますが、「我が家」「おらが春」などの「の」のような修飾的な意味の「が」と、どのように区分するのか?といった課題があります。
まぁ、日本語を母語としている人は、なかなか日本語の表現なり文法なりに対して批判的(「否定的」ではありません。「正文批判」のような、分析的な眼差し(メザシではなくマナザシです)です)な目を向けるのは困難だとは思いますが、寺村先生は英語から法律の条文に目を向けられたという点に着目すると、「あ、寺村先生は “こっち側” かな?」と思ったりもします。
先日亡くなった李登輝さんは、日本人のレポーターが「日本語がお上手ですね」とお世辞を言われて、「ぼくは二十二歳まで日本人だったから」と苦笑していらっしゃったそうです。で、「難しいことを考えるときは、頭の中が日本語になる」とも仰っていたそうです。
日本語というのは、日常語としてもけっこう便利であり、学術語としても実用的です。「日本語は、非・論理的である」というのは、いわれなき非難だと思っています。イスラエルとかハンガリーとか南アフリカとかのコンピュータ・サイエンスの専門家がディスカッションをしていて、ふと我に返って「なぁ、うちら何語で話しとったっけ?」「いや、フツーに日本語やないですか?」という話がありました。いや、私は横で見てましたけど。なぜか京都弁(というか、「けいはんな方言」)でした。「へてから」「そやかて」「あんなぁ!」とか言ってたし(笑)。
「規範文法の基礎は、いわゆる京都弁(けいはんな方言)であって、いわゆる『標準語』や関東地方の方言は、いまひとつ『熟(こな)れていない』」と、私は感じています。
とはいうものの、大森・日本橋・人形町あたりの「東京湾沿岸部」の方言や文化は大好きなんですけどね。
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「は」と連用修飾詞 (Mr.Moto)
2020-08-31 14:07:27
あぁ、また懸案が増えてしまいました(^_^;)。
> (b) 連用修飾語に付くことがある。この場合、格助詞を用いないで体言に付くことがある。
に関しては、
「美味しくはないが不味くもない」
を、どう解釈すべきかという点で悩んでおりました。
「美味しいわけではないが不味いわけでもない」
とはたして同義だろうか、という点について、ちゃんとした説明をできずにいます。
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