BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

構文論

2021-01-29 | 日本語学2020

構文論を辞書で説明する、それを見て、そのいずれにも、言語現象の意味は見えない。
>精選版 日本国語大辞典の解説
〘名〙
① 論理学で、言語中の記号間の形式的関係だけを取り扱う理論。
② 言語学で、文中にある語や要素のあいだの順序・一致・支配などの文法関係を明らかにして文の構造を取り扱う文法学の一部門。統語論。シンタックス。

世界大百科事典内の構文論の言及
【記号】より
…セマンティクスの用語もときに用いられる),結合論syntactics(記号と記号の関係,結合法則。構文論,シンタクティクスの用語もときに用いられる),実用論pragmatics(記号とそれを使用する人との関係。語用論,プラグマティクスの用語もときに用いられる)の3部門に分けられる。…

【形式言語】より
…その理由で,人工の言語であるプログラミング言語に深く関わることになる。自然言語の分析に関する学問には,音素とその結合を扱う音韻論phonology,音素結合あるいは語の形態を論ずる語形論morphology,文の構成規則を明らかにする構文論syntax,および文の意味を扱う意味論semanticsがある。これらのうち,構文論の分野で1956年ころ,アメリカの言語学者チョムスキーが構文規則に対して数学モデルを与えたことにより,言語が厳密に形式化されるにいたった。…

【言語学】より
…このように,単語に関係する研究分野は,従来,〈形態論〉と呼ばれてきた。 次に,単語それ自体に関することを除き,単語から文にいたる過程を研究する分野を従来から〈構文論〉〈統語論〉などと呼んでいる(本事典では〈シンタクス〉の項を参照されたい)。単語がいきなり文をつくりあげるというより,なんらかの中間的なもの(〈句〉とか〈節(せつ)〉とか呼ばれるものや,〈文節〉などと呼ばれるもの)を形成し,それが最終的に文を構成するといった状態にあるので,どのような中間的なものがあり,それがどのような範疇(〈名詞句〉とか〈述語〉とかは,このような範疇の存在を主張する術語である)に分属しているかといったことが,この分野の中心的研究対象になる。…

【シンタクス】より
…あるいはさらに広く,文のもつ文法的諸性質に関する研究といってもよい。〈研究〉の意の場合には,訳して構文論,統語論,統辞論ともいう。形態論とともに文法の一部門をなす。…





http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kudohiro/modality.html
現代日本語の文の叙法性 序章

日本語構文は
2021-01-25 | 日本語学2020

日本語構文論 入門 2002年度 レジュメ
http://www.ab.cyberhome.ne.jp/~kudohiro/syntax02.html#08
>文は、伝え合い(communication)の機能を果たす言語活動の場における最小の単位である。極端な例をあげれば、「これは何?」と聞かれたのに対して「絵。」と答えた場合、あるいは、なにか思いついたように「絵!」と叫んだ場合、それは、1音=1語=1文である。言語場の中で、それは立派に言語活動の単位として機能している。伝え合いの単位であるために、文は、必ず <話し手> が <聞き手> に対して、 <何を> 伝えるかの面と、 <いかに> 伝えるかの面とをもつ。独白ないし思考活動は、内面化された(自らを聞き手とする)「伝え合い」だと、ここではひとまず、みなしておく。一語文では、形態的に未分化だが、通常の文では、ことがらを写しとり描きだす <構造的な面> と、話し手が聞き手にどのように伝えるかという <陳述的な面> とに、分けて考えることが出来る。もっとも、この二つの面が、表現形式の面で 常に 分節的(segmental)に分離できるとは限らないが、表現内容の面では、相対的に独立した二側面として 分けられると考える。
 文法論としての文論は、個々の言語活動としての側面は切り捨てる。たとえば、「きのう、ぼくは君をずっと待っていたんだよ」という文(発話)を扱うとして、その文(発話)の表わす、時間と空間に定位された一回一回の場面的な指示(「きのう」「ぼく」「きみ」が何を指すかなど)や、話し手のその場限りの感情的な態度や発話の意図(親しみか、詰りか、皮肉か、恨み言か、など)は、理解や観察の対象ではもちろんあるが、分析の対象としては取り上げない。慎重に ときには いとおしみつつ 切り捨てる(捨象する)。しかし、

  一人称シテ主題 + 二人称ウケテ + 過去 の 行為 の 説明と告知
   ぼく(が)は     きみを     きのう 待っていた んだ よ

と、図式化できるような、文の意味と機能の <型(pattern)> は、文法論の分析対象であり、そうした文の型の中に一般化して やきつけられた <話し手性> = <主体性(subjectivity)> という機能の刻印は、具体的な場から抽象したとしても なお、文から消え去りはしない。文論の分析対象となる。
 A.H.Gardiner(1951)や E.Benveniste(1964)など 古典的な著作も力説しているように、文はたしかに、言語(language, langue)の単位ではなく、言語活動(speech)あるいは(談)話(discours)の単位である、のかもしれない。また現に、語彙と文法という言語の手段によって構成される文(発話)は、現象的には 多種多様であり、量的には 無限の拡がりをもつが、しかし、体系性を もたないわけではない。現象的に 無限に多様な文(発話)は、 <陳述的なタイプ> として、 <構造的なシェーマ> として抽象され 類型・図式化されて、有限の <型> として 体系化されている。文は、まさに言語活動=伝え合いの単位として機能するために、言語の <構成体の型> として、間主体的・社会的に作り出され、慣習的・制度的に存在させられるのである。いわば、アクチュアルな言語活動を支えるポテンシャルなエネルギーとして、それは 存在する。言語体系としての語彙と文法は、F. de Saussureが考えたように「言語活動の外に」「人間の脳裏に」存在するのではなく、具体的な言語活動の 中に 内在し、その中で 多少の変容を受けながらも、しなやかに したたかに 生きつづける。
 私たち 言語研究者が、言語活動の所産としての 具体的な言語作品群の中に、言語の諸法則を 探り出し、一般化を試みなければならない理由は、まずは、ここに ある。
[工藤浩1989「現代日本語の文の叙法性 序章」(の訂補版)より]


1 コメント

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コンピュータ的な意味では (Maria)
2021-01-30 20:32:46
Maria です。
プログラミング言語の世界ですと、「外部変数」と「局所変数」という言葉があります。論理学だと「自由変項」「束縛変項」にあたるわけですが。
「吾輩は猫である」は、「吾輩」も「猫」も「外部変数」の扱いだと最初に考えます。
ここで「である」について考えると、外部世界において「猫」が「吾輩」を含意するならこの宣述は正しく、「吾輩」が「猫」を含意する場合においては必ずしも正しいとは謂えない、みたいな「閉じられた世界における真偽が、外部世界から持ちこまれた項によってどう判定されうるか」という「外界」⇔「内部世界」の関係においてどう捉えられるか、という形で議論の俎上に載せるのが「述語論理」だと解釈しています。
つまり、内部的に「X≡Y」と述べられていて外部的に「A≡B」であったなら、「X=A」「Y=B」という条件を内部に持ちこんだとしても、その宣述は真だろう、という話です。
プログラムでは、「中で X < Y っつってんだから、外から3、2とか渡されたらエラーだと判定するに決まってんだろうがよ?!」みたいな「エラー判定」の話であることが多いので、論理とか哲学とかで真面目に議論することはめったにありませんが、「プログラムの証明論」みたいな話で、「定義域がこれこれで値域がこれこれのときに、常に正しい答えが返ってくるだろうか?」みたいなことをマジメに論じている方々もいらっしゃいます。
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