神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。(テモテ第一2章5節)
知り合いの牧師から聞いた、クリスチャンになった彼のおばあさんの話です。このおばあさんは、クリスチャンになる前は、熱心な仏教徒だったそうで、1日三回、毎日欠かさず、仏壇に祈っていたそうです。時には、おばあさんに、釈迦の幻が現れて、「今日は、どこそこで事故があるから、近づくな。」などと、アドバイスをして、おばあさんを助けてくれることもあったそうです。その牧師は、おばあさんにイエス様の話をしたのですが、おばあさんは、「私には、釈迦がいるから。」と言って、なかなか真剣に話を聞いてくれなかったそうです。
時が経ち、おばあさんも年を取っていき、ある年には、「もう、今年中に、死ぬだろう。」と自分で言うほど、体調が悪くなっていました。そして、おばあさんは、だんだん死に対して恐怖を覚えるようになりました。それと同時に、以前は聞いてくれなかったイエス様の話をまじめに聞いてくれるようになったのです。
・天地を創造されたまことの神様がご存在すること。
・人間も神様の愛の対象として神様の創造物であること。
・ところが、わたし達人間は神様の前に罪人であり、このまま死んでしまうと、死後、生前に犯したすべての罪を神様に裁かれて、地獄に送られてしまうこと。
・けれども、私たちを愛する神様は、人間を永遠の地獄から救うために、ひとり子のイエス様をこの世に送ってくださったこと。
・罪の無いイエス様は、わたし達すべての人間の罪を背負い、十字架にかかって、父なる神様からの罰を私たちの身代わりとなって、受けてくださったこと。
・そして、神である証拠に、死後、三日目によみがえり、多くの人の前に現れてから、天に昇られたこと。
・わたし達が罪を悔い改めて、イエス様が、自分の罪の身代わりに死んでくださった唯一の救い主と信じれば、罪が許され、永遠の天国に行けるようになること。
おばあさんは、イエス様の救いについて、完全に理解できました。けれども、おばあさんには、大きな迷いがありました。それは、イエス様を信じて救われたいけれども、今まで、おばあさんを助けてくれた釈迦を裏切れないと言うことでした。本当に、真剣に悩んでいました。そして、「どうすれば、どちらが本当の神様だとわかるの?」と、たずねたそうです。そこで、孫である牧師は、こんなたとえ話をしたそうです。
ある家が火事になりました。何階かの窓から、小さな子供が顔を出して叫んでいます。その家の前に、二人の男がやって来ました。ひとりは、窓の子供に向かって、何やら注意しています。もう一人の男は、迷うことなく燃えている建物に飛び込んで子供を助けに行きました。さて、この二人のうち、どちらがこの子の父親でしょうか?
この話を聞いたおばあさんは、考え込んでしまいました。けれども、その翌日、「昨晩、イエス様を信じた。」と、牧師に報告したそうです。牧師は、そのときのおばあさんの顔は、実に晴れ晴れしていたと、語っていました。
さて、あなたが慕っているものは、本当に神様ですか?そして、あなたが信じる神様は、どんな犠牲を払って、何から、あなたを救ってくれるのですか?
あなたの永遠のために、どうか、もう一度、よくお考えになってみてくださいますように。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
わたし達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一4章9,10節)
知り合いの牧師から聞いた、クリスチャンになった彼のおばあさんの話です。このおばあさんは、クリスチャンになる前は、熱心な仏教徒だったそうで、1日三回、毎日欠かさず、仏壇に祈っていたそうです。時には、おばあさんに、釈迦の幻が現れて、「今日は、どこそこで事故があるから、近づくな。」などと、アドバイスをして、おばあさんを助けてくれることもあったそうです。その牧師は、おばあさんにイエス様の話をしたのですが、おばあさんは、「私には、釈迦がいるから。」と言って、なかなか真剣に話を聞いてくれなかったそうです。
時が経ち、おばあさんも年を取っていき、ある年には、「もう、今年中に、死ぬだろう。」と自分で言うほど、体調が悪くなっていました。そして、おばあさんは、だんだん死に対して恐怖を覚えるようになりました。それと同時に、以前は聞いてくれなかったイエス様の話をまじめに聞いてくれるようになったのです。
・天地を創造されたまことの神様がご存在すること。
・人間も神様の愛の対象として神様の創造物であること。
・ところが、わたし達人間は神様の前に罪人であり、このまま死んでしまうと、死後、生前に犯したすべての罪を神様に裁かれて、地獄に送られてしまうこと。
・けれども、私たちを愛する神様は、人間を永遠の地獄から救うために、ひとり子のイエス様をこの世に送ってくださったこと。
・罪の無いイエス様は、わたし達すべての人間の罪を背負い、十字架にかかって、父なる神様からの罰を私たちの身代わりとなって、受けてくださったこと。
・そして、神である証拠に、死後、三日目によみがえり、多くの人の前に現れてから、天に昇られたこと。
・わたし達が罪を悔い改めて、イエス様が、自分の罪の身代わりに死んでくださった唯一の救い主と信じれば、罪が許され、永遠の天国に行けるようになること。
おばあさんは、イエス様の救いについて、完全に理解できました。けれども、おばあさんには、大きな迷いがありました。それは、イエス様を信じて救われたいけれども、今まで、おばあさんを助けてくれた釈迦を裏切れないと言うことでした。本当に、真剣に悩んでいました。そして、「どうすれば、どちらが本当の神様だとわかるの?」と、たずねたそうです。そこで、孫である牧師は、こんなたとえ話をしたそうです。
ある家が火事になりました。何階かの窓から、小さな子供が顔を出して叫んでいます。その家の前に、二人の男がやって来ました。ひとりは、窓の子供に向かって、何やら注意しています。もう一人の男は、迷うことなく燃えている建物に飛び込んで子供を助けに行きました。さて、この二人のうち、どちらがこの子の父親でしょうか?
この話を聞いたおばあさんは、考え込んでしまいました。けれども、その翌日、「昨晩、イエス様を信じた。」と、牧師に報告したそうです。牧師は、そのときのおばあさんの顔は、実に晴れ晴れしていたと、語っていました。
さて、あなたが慕っているものは、本当に神様ですか?そして、あなたが信じる神様は、どんな犠牲を払って、何から、あなたを救ってくれるのですか?
あなたの永遠のために、どうか、もう一度、よくお考えになってみてくださいますように。
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
わたし達が神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(ヨハネ第一4章9,10節)
(特別伝道集会メッセージより)