狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

悪者の道は暗闇のようだ

2020年10月19日 | 聖書
 悪者の道は暗やみのようだ。
 彼らは何につまづくかを知らない。(箴言4章19節)


何年か前に、スペインのパルセロナでテロ事件がありました。 主犯は22才のモロッコ人だったと記憶しています。 その事件についての報道で、犯人グループの青年たちを教えたことのある先生が書いた、一通の手紙を見ました。 その手紙は、犯人を弁護するのものでも、事件に対する個人的な意見でもなく、その先生の目に映った教え子だった彼らの姿でした。 彼らは、環境に順応した、ごく普通の青年たちだったそうです。 そして、その手紙の最後で、この先生は、「私たちは、一体何を間違ってしまったのでしょうか?」と訴えていました。

 悲惨なテロ事件は相次いでいますが、この世で起こっている悲惨な事件はテロだけではありません。 残念なことに私たちの周りでも、家庭内暴力、校内暴力、いじめなど、悲惨なニュースは増える一方です。 そして、それらについて、「何を間違ったのか?」「何がつまづきとなったのか?」というコメントが集まります。 すると出てくる答えは、「教育が、管理が行き届いていなかった。」「教育方法が間違っていた。」「もっと、教育の予算を増やすべきだ。」などなのです。 しかし、どんなに、力を注いでも一向に改善に向かわないのが現実です。

 一体、何が間違っているのでしょうか? 聖書に答えがあります。あまりに簡単な答えなので、人々は見過ごしていますが、答えは、「人間が、神を無視して生きているため。」です。 人間が、それぞれ自分の思い通り、好き勝手に生きていることが原因なのです。 私たちは、神を無視して、物事を決めます。 神を無視した行動をとります。 どんな決断をするにしても、どの道を行くにしても、神様の意向を無視しているのです。 「神なんて必要ない。」「神なんて、役に立たない。」[もう少し努力をすれば・・・。」「もっと調査して研究を重ねれば・・・。」「もう少し予算をアップすれば・・・。」

 いいえ、どんなに努力を重ねても、どんなにお金をつぎ込んでも、問題は解決しません。 なぜなら、この世の中のすべての悪の原因は、人間の「罪」にあるからです。  

 それは、決して他人事ではありません。 「罪」は、あなたにも、わたしにも、すべての人間の中に宿っているからです。

私たちは、罪人なのです。 わたし達も、それぞれの人生で、神を無視し、自分たちの思い通りに生きているのではないでしょうか? そして、自分の思惑通りにいかないことがあると、「何を間違ったのだろう?」と考えます。 そして、「もっと努力が必要だ。」「もっと勉強が、もっと研究が、もっとお金が、もっと時間が・・・」と、神以外のあらゆるものに、答えを見つけようとするのです。 決して、「神様は、どう見ているのか、どう思っているのか、何とおっしゃっているのか?」と、聖書を開こうとしないのです。

 もう一度、最初のみことばを見てみましょう。

 悪者の道は暗やみのようだ。

 この「悪者」ということばは、「罪人」と置き換えることができます。

 罪人の道は暗やみのようだ。

 私たちは、暗やみの中、行き先さえ知らずに歩いているのです。 思いのままの方向に行き、壁に当たれば後戻りし、方向を変え、再び進んで、「まあ、明日は何とかなるさ。」と考えます。 けれども、どの方向に行っても同じ暗やみなのです。

あっちに行ってはつまづき、こっちに行ってはつまづき、の繰り返しです。 私たちは、一番重要なものを忘れているのです。 暗やみに必要なもの、それは、光です。


 すべてのものは、この方によって造られた。 造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

 この方にいのちがあった。 このいのちは人の光であった。

 光はやみの中に輝いている。 やみはこれに打ち勝たなかった。(ヨハネ 1章3~5節)
 
 すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。
この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。(ヨハネ 1章9,10節)

この光とは、イエス・キリストです。
神の御子イエス・キリストは、今から約二千年前に、人間の姿をとってこの世に来られ、私たち人間のすべての罪をその
身に背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、罪の刑罰を受けてくださいました。 そして、死後三日目によみがえられました。
だれでも、悔い改めて、このイエス・キリストを、自分の罪のために死んでくださった唯一の救い主と信じるならば、すベの罪が許され、神の子供とされ、永遠の天国へ行く者とされるのです。

そして、イエス様は、私たちの光となって、私たちひとりひとりを忍耐と愛を持って導いてくださるのです。

日曜礼拝メッセージより)


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