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狭き門より入れ

スペイン在住クリスチャン。聖書にある救いとは?罪の赦しとは? 礼拝などから、福音メッセージを載せています。

たとえ話

2021年08月09日 | 聖書
昨日の礼拝のメッセージの中の、ある“たとえ“ が印象に残ったので記します。

“極寒の地の、とてつもなく広い空間の片隅にストーブがある。 温まろうとするなら、ストーブの前に行くべきなのに、ストーブから、一番遠い所に居て、寒い寒い、ストーブの性能が悪いと文句を言っている人を見たら、あなたは、どう思うか?“
こんなたとえでした。

私たちの創造主であり、私たちを愛し、私たちにとって最善の道を用意し、そこに導こうとされる神様。
ところが、その神様を無視し、自分を自分の神として思いのままの道を歩み、思い通りの結果を、あるいは幸せを得られないと、神様に文句を言う私たち。こんな人間の姿を表すたとえでした。

「御子(イエス•キリスト)を信じることが者はさばかれない。信じない者はすでにさばかれている。神のひとり子の名を信じなかったからである。
そのさばきとは、光が世に来ているのに、自分の行いが悪いために、人々が光よりも闇を愛したことである。
悪を行う者はみな、光を憎み、その行いが明るみに出されることを恐れて、光の方に来ない。」(ヨハネ 3:18-20 )

確かに、神様は聖なる方であり、私たちの罪を裁かれます。 罪を犯さずに生きていけない私たち人間は、神の裁きを恐れます。
けれども同時に、神様は愛なる方です。その恵みにより、私たちをその罪の裁きから救うために、最愛なる御子イエス様が私たちの罪を背負って十字架にかかり、私たちの身代わりとなって、本来私たちが受けるべき罰を受けて下さるようにしてくださいました。
私たちは、自分が罪人であると認めて悔い改め、イエスキリストを救い主と受け入れることにより、永遠の裁きから、救われるのです。

神様は、私たちが罪人であることを、私たち以上によくご存じです。その上で、私たちを許そうと、待っておられるのです。

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。 それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われるためである。」
(ヨハネ3:16-17)


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あなたに必要なのは…

2021年08月06日 | 聖書
「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」
(使徒の働き 4:12 )


世界があなたに与えることができないものを、この世界で探し続けないでください。

あなたに必要なのは 何だか知っていますか?

あなたに必要なのは神との和解です。

あなたに必要なのは罪の赦しです。

あなたに必要なのは神が下さる永遠のいのちです。

そして、それらは、イエスキリストを通してのみ与えられるものなのです。


Sugel Michelen. (ドミニカ共和国生まれのキリストの伝道者、説教者)
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チャンスを逃すな!

2021年07月28日 | 聖書
「すると見よ。 道端に座っていた目の見えな二人の人が、イエスが通られると聞いて、“主よ、ダビデの子よ。 わたしたちをあわれんでください“ と叫んだ。
群衆は彼らを黙らせようとたしなめたが、彼らはますます、“主よ、ダビデの子よ。私たちをあわれんでください“ と叫んだ。」(マタイ 20 : 30-31 )

イエス様が道を通りかかった時、もし助けを求めなかったら、この二人の盲人は、その後どうなっていたでしょうか。 もう二度とイエス様と会えるチャンスが訪れず、視力を取り戻すことができなかったかもしれません。

群衆のなかには、イエス様が本当に彼らを癒すことができると信じていなかったので、あえてイエス様に叫ばなかった人々もいたかもしれません。 あるいは、周囲の人々の目を恐れてイエス様に叫ばなかった人々もいたかもしれません。
しかし、この二人の盲人は、叫びました。
彼らは、イエス様が再びそこを通るかどうか知りませんでした。 彼らにとって、それは、一生のうち、たった一度だけのチャンスだったかも知れないのです。
同様に、私たち一人一人の生活の中で、それを逃すと、二度と訪れない、見逃してはならないチャンスというものがあります。
今、このブログを読むと、救いの福音があなたに示されます。 あなたには、今後、イエス様があなたに近づき、あなたの心の扉を開くように働きかけてくださるかどうかは、わかりません。 しかし、確かな事は、イエス様は今、この瞬間、あなたに語りかけているということです。

「見よ。 わたしは戸の外に立ってたたいている。 だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」(黙示録3:20)

聖書は繰り返します。

「今日、もし御声を聞くなら、あなたがたの心を頑なにしてはならない」(ヘブル 4 : 7)

誰かが言いました。「“明日“という言葉は、悪魔の言葉だ。」と。
明日のことは、誰にも保証できません。 決定を明日に延ばしたために大きな損害を受けることがあるのです。

一人一人が今、十字架でのイエス様のあがないの御業に信頼して、イエス・キリストを救い主として受け入れるように招かれています。 そして、この瞬間、あなたの永遠の未来を決定することができます。
イエス様は、私たちの身代わりとなり、私たちが死後受けるべきだった、全ての罪の罰を、十字架上で、その身に受けてくださいました。 それは、私たちが、全ての罪を許されて、永遠の地獄から救われ、永遠の天国に行けるようになるためだったのです。
どうか、このチャンスを逃さないで、今、この救いを受け取ってくださいますように!

(La buena semilla より)
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神はいない? 憐れみ深い?

2021年07月05日 | 聖書
今日の礼拝メッセージで聞いた話です。

ニューヨークのセントラルパークには、決まった時間内、自由に演説できるスペースがあったそうです。( 今もあるかは知りません。)
ある日、一人の男性が、そこで演説を始め、神を冒涜し始めました。 その冒涜は延々と続き、制限時間になると、その男性は、こう言ったそうです。
「皆さん、ご覧下さい。 私がこんなに神を冒涜したのに、神は私を罰することも、命を取ることもしません。 要するに、神は存在しないのです。」

その男性が、こうして演説を終えると、今度はクリスチャンの男性が、演説の場に立ち、こう言ったそうです。

「皆さん、今、神様は、この男性によって、神は非常に憐れみ深い方であることを、証明して下さいました。」

さて、皆さんは、どう思われたでしょうか?

やがて神様は、この世を裁かれます。

「しかし、今ある天と地は、同じみことばによって、火で焼かれるために取っておかれ、不敬虔な者たちのさばきと滅びの日まで保たれているのです。」
(第二ペテロ 3:7 )

しかし、神様は、聖書を通してこうおっしゃっておられます。

「わたしは悪しき者の死を喜ぶだろうか…彼がその生き方から立ち返って生きることを喜ばないだろうか。 …わたしは、だれが死ぬのも喜ばない。 …だから立ち返って生きよ。」(エゼキエル 18: 23,32 )

「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。 だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。」
(第二ペテロ 3:9 )

神様は、聖なるお方です。 私たちがこの世で犯した罪を、死後、裁かなければなりません。 私たちの行き着く先は、永遠の地獄なのです。 しかし、同時に神様は、愛なるお方です。 私たちを救いたいと願っておられるのです。

そのために、神様は、ひとり子であられるイエス様を、約2000年も前に、この世に送って下さいました。 イエス様は、私たち人間のすべての罪をその身に負って十字架にかかり、神様のすべての罰を私たちの身代わりとなって受けてくださり死なれました。 けれども、その三日後に、死の力を打ち破ってよみがえられたのです。 そして、その姿を、500人以上の人に現されました。

誰でも、罪を悔い改め、このイエス様を自分の救い主として受け入れる人は、すべて罪が許され、永遠の天国に行く者とされます。

死が、いつ訪れるかは、誰にも分かりません。けれども、死ぬことは確実であり、永遠の地獄に出口はありません。
どうか、皆さんが心を開いて、イエス様を救い主と受け入れ、救われてくださいますように…。

(Semakimo)

「救われたいけれど、どうしていいかわからない」、「救われているか確信がない。」、「どの教会に行ったらいいかわからない。」その他、質問などありましたら、お気軽にご相談下さい。

semakimonkara#gmail.com

(#を@に変えて下さい。)


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死後の世界

2021年06月22日 | 聖書
「女から生まれた人間は、その齢が短く、……花のように咲き出てはしおれ、影のように逃げ去り、とどまることがありません。」( ヨブ 14 : 1, 2 )

エジプトの巨大なピラミッドは、その建設当時の知識、技術、建築を驚くべき方法で証明しています。 また、それは、 明らかに、彼らが死後の世界を信じていたことも、証明しています。

おもしろいことに、すべての文明とすべての文化において、また、古代と現代において、そして、無神論者でさえ、死後の世界を信じているのです。

北ベトナムの革命家、ホーチミンが亡くなった時(1890〜 1969年)、彼の遺書は、さまざまな共産党の著名人の前で読まれました。

「私は、仲間のマルクス、レーニン、エンゲルスに、また、会いに行くのです。」

さて、この普遍的な、人間の死後の世界に対する信仰を、どのように説明したらいいのでしょうか?
実は、それは、神が私たちに与えてくださった、自然な意識なのです。

「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」(伝道者の書 3:11 )

人にとって、死は、見ることができない壁です。 しかし、主イエスはその壁を破り、十字架で死に、墓に入れられ、三日目に死からよみがえられました。 死に打ち勝ったキリストは、それを通して、私たちの存在が死で終わらないという証拠を私たちに与えました。

神様は聖書を通して、人間は死後、神によって、この世で犯した全ての罪を裁かれると語っています。

「…人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように…」(ヘブル 9:27 )

この世で犯した罪の問題を解決せずに死んだ者はその罰を受けるために永遠の地獄に行かなければなりません。

けれども、私たちを愛する神様は、私たちを地獄の刑罰から救うために、神の御子、イエスキリストをこの世に送って、救いの道を開いてくださいました。

イエスキリストは、私たちの全ての罪を背負い、私たちの身代わりとなって、十字架にかかり、私たちが受けるべきだった罪の罰を 受けてくださったのです。

誰でも悔い改めて、イエスキリストを救い主と信じる者は、全ての罪が許されて、永遠の天国に行けるのです。

「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。……」(ヨハネ 11 : 25 )

「死よ、おまえの勝利はどこにあるのか。死よ、おまえのとげはどこにあるのか。……しかし、神に感謝します。神は、私たちの主イエス•キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。」( 1 コリント 15 : 55, 57 )


(La buena semillaより)
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