文法力をつけたいが、無味乾燥な文法書など読みたくない。
そんな読者のために、人気小説の翻訳書に見る誤訳・悪訳をとりあげ、文法面から解説してゆく。題材は最近映画化された『チョコレート工場』の原作者で、日本がロケ地になった映画『007 は二度死ぬ』の脚本家でもあるロアルド・ダール(Roald Dahl)の短編から任意に選ぶ。いずれも原文で10 ページに満たない短いものだから、読者も自分で訳してみて、この解説を参考に、市販訳との優劣を競ってみてはいかがだろうか。
冒頭に誤りの種別と誤訳度を示したうえ、原文と邦訳、誤訳箇所を掲げます。どう間違っているのか見当をつけてから、解説を読んでください。パズルをとく気分で、楽しみながら英文法を学びましょう。
今回取り上げるのは、原書THE COLLECTED SHORT STORIES of Roald Dahl(Penguin)に所収のThe Soldier。俎上に載せる訳文は、早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)『あなたに似た人』(田村隆一訳)所載の『兵隊』。
悪訳度:
*** 致命的悪訳(原文を台無しにする)
** 欠陥的悪訳(原文の理解を損なう)
* 愛嬌的悪訳(誤差で許される範囲)
兵隊
[ストーリー]
夜だ。すべてが憩える夜。だが俺はイヌを連れて散歩に出ている。頭の中を、いろいろな思い出が駆け巡り、現実と夢幻の境も定かでなくなってくる。足の裏にとげがいつの間に刺さったのはいつのことだったろうか。そんな嫌な思い出より幼い日の海辺での楽しい日々を思い起こそうか。家へ帰ってみると、さっきと様子が違う。玄関の鍵の位置が逆、二階に上がると妻でなさそうな女が寝ている。確かめるためぐっと近づくと、女はいきなり平手を俺に食らわせて、階下にいそぎ警察に電話し始めた…。
●論理:**
It must be nearly midnight, he thought. That meant that soon it would be tomorrow.
Tomorrow was worse than today. Tomorrow was the worst of all because it was going to become today---and today was now.
そろそろ真夜中だな、と彼は思った。もうすぐ明日になってしまうのだ。明日は今日よりも悪い。明日が今日になるだけに、いちばん悪いぞ---いまは今日だが。
[解説]
この訳文では、発話者の意識の流れが読めない。言葉を補足する。
修正訳:明日は最悪だ。だって今日になってしまうからだ…また、このひどい今日
に。
●ニュアンス:*
But how could that splinter have got into the sole of his foot without him feeling it?
It is not important. Do you remember hunting …
それはそうと、どうしてあの破片が、知らないうちに自分の足の裏に入ってしまったのか。
いや、そんなことは大したことじゃないよ。ほら、波打ち際で、…
[解説]
前を読まないとわからないが、辛い今日のことをつい思い出してしまうのを、必死で止めようとしている箇所。それが分かるように、訳す。
修正訳:いや、そんなのどうでもいいことだった。
●名詞:*
celery
オランダミツバ
[解説]
この訳書が出た当時(1976 年)は、西洋野菜は珍しかったのだろうか?
修正訳:セロリ
●代名詞:*
'All right,' he called. 'You don't have to answer if you don't want to. But remember I know you're there.'
Someone trying to be clever.
「いや、結構です」と彼は言った、「気がむかなければ、返事をするにはおよびませんよ。
でも、これだけはおぼえていてくださいよ、ぼくは、あなたがそこにいることを、ちゃん
と知っているんですからね」
誰かがおれをだまそうとしてるんだ。
[解説]
このclever、どう訳していいか、私も自信がないが、「だまそうと」はまずいだろう。この
あと、someone に対する言及は全くないのだから。
修正訳:小利口そうな奴め。
●誤用:**
He stood on the porch, feeling around for the door-knob in the dark.
ポーチでたたずむと、暗がりのなかで、彼はドアのハンドルを手さぐった。
[解説]
「手さぐり」「手でさぐる」とはいっても「手さぐる」とはいうまい。
修正訳:まさぐった
●名詞:*
the tiny bits of emerald glass
翠緑玉の小玉
[解説]
海岸で子供が見つけて遊ぶ「宝物」を列挙している箇所。翠緑玉は「すいりょくぎょく」と読み、エメラルドのことだが、一般の読者には難解。the tiny bits は小玉でなく、ガラスの破片だろう。
修正訳:エメラルド色のガラスの破片