羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎
天保8年、芳生野村庄屋吉村太平の長男として生れた。
文久元年に武市瑞山とともに「土佐勤皇党」を組織して
勤皇に奔走するようになりました。
文久二年には防長を歴訪、九州に渡り平野國臣にあい、
「島津久光の入京を機に挙兵する。」ことを約束して
帰藩、武市瑞山を説得すれど断られ、坂本龍馬に脱藩
をすすめつつ、自らは宮地宜蔵と二人で脱藩、平野の
義挙に加わろうとしたが、寺田屋の変にあい、舟牢で
高知に送り返され十二月まで獄窓で過ごしました。
文久3年、明治天皇の叔父中山忠光卿にすすめて
大和義挙を計画、忠光卿を隊長に自らは総裁となって、
いわゆる「天誅組」を組織し、天皇の大和行幸に
先駆けて、大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、
奈良県の江戸幕府直轄五条代官を襲撃しました。
その後朝議が一変し、大和行幸がとりやめになったが、
初志を貫徹しようと、高取城を焼討をはかりましたが
負傷し惨敗に終わりました。
辞世の句『吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の
血煙とみよ』を残し、二十七歳の若さで散華しました。
この義挙は、数多い維新の動きの中で、千余の兵力を
持って堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火により
全国に倒幕の運動はくり広げられることになり大政奉還
を見、四民平等の維新は成就された。
虎太郎の顔は弟の写真と姉の話から、原田画伯が書いた
肖像画をもとに川島三郎製作者のイメージで造られた。
除 幕: 昭和43年12月22日
題 字: 吉村虎太郎先生像
規 模: 本体4㍍・台座5㍍・総高9㍍
事業費: 6,000万円
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