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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・飛翔の像

2011年02月05日 | なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・飛翔の像

飛翔の像

文久2年3月、高知城下をあとにした坂本龍馬と沢村惣之丞
   (関雄之助)の脱藩ルートは、梼原の宮野々関から
   九十九曲峠を越え、城川町土居を経て、宇和島・長浜
    方面から、長州へ渡ったとされている。
       ~新しい脱藩ルートの確認~
    宮野々関~韮ヶ峠~野村町~河辺村~五十崎町~
                       大洲~長浜~長州
 平成9年4月、龍馬と惣之丞、道案内をした那須俊平の
    群像建立計画が持ち上がり実現した。
 
     除 幕: 平成10年7月16日
     題 字: 飛翔の像
     規 模: 本体~2,35 ㍍、台座~2,3 ㍍
           総高~4,65 ㍍
     事業費: 1163万円

顕彰碑

新しい時代の予感が28歳の龍馬の心をとらえた。
 脱藩という大罪を犯して、大望のために土佐を捨て、
   河辺村榎ヶ峠に至ったのは、文久2年3月26日。
 近代日本の誕生に命を賭けた龍馬の旅は、
   ここ河辺村から始まった。
 この坂本龍馬脱藩の道は、平成8月11月1日に文化庁
   の「歴史の道百選」に選定された。
 私たち河辺村民は、この道を文化遺産として大切に
   保管することを誓い、ここに龍馬、総之丞、俊平の
     顕彰碑「飛翔の像」を建立する。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その3)

2011年02月05日 | なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その3)

坂本龍馬

高知の郷士 坂本八平、妻幸の次男として生れる。
 江戸は千葉定吉の門に入り北辰一刀流を修める。
 武市 山と交わり勤皇党に血盟加入、文久2年春同志
   澤村惣之丞と脱藩、勝海舟らに啓発される。
 薩長同盟の締結、大政奉還の推進など、維新の指導者として
   活躍したが、慶応3年11月15日、盟友中岡慎太郎と
   共に京都近江屋で倒れた。

中平龍之介

梼原村地下浪人 中平佐平、妻登根の長男として生れる。
 那須俊平に剣を学び、同士と気脈を通じ、
   勤皇の志を篤くする。
 文久3年脱藩、長州忠勇隊に入り禁門の変に参戦した。
   激闘の末、重傷を負い自決した。

澤村惣之丞

高知潮江村の地下浪人の家に生れる。
 文久2年春坂本龍馬と共に脱藩、勝海舟の神戸海軍塾に
   学び、亀山社中に加わって、
   坂本龍馬の片腕となって活躍した。
 慶応4年1月、幕府軍の敗退を知って長崎奉行は解散した。
   その奉行所を占拠して市中の治安維持に当たっている
   とき薩摩藩士を誤殺、「この大事なときに薩摩と土佐の間
   に溝を生じてはならない」と従容として自決した。

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)

2011年02月05日 | なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その2)

吉村虎太郎

芳生野村庄屋 吉村太平、妻雪の長男として生る。
    安政6年、梼原村番人 大庄屋として赴任した。
  武市瑞山らと勤皇党を結成し、文久2年、脱藩して京に
  上つたが、一時捕えられ牢舎に入るも、出所後、再び京に
    上り、翌3年、天誅組を組織し、大和にて兵を挙げた。
   しかし、8・18の政変で孤立無援となり、鷲家口(奈良県)
    にて幕軍に阻まれ天誅組は壊滅する。
     虎太郎も、壮烈な戦死を遂げた。(1837~1863)

掛橋和泉

梼原村 那須常吉、妻歌の次男として生れ、
   同村神職掛橋家に養子として入った。
 すぐ隣の庄屋 吉村虎太郎と親交を重ね、
   勤皇の志を固めた。
 文久3年春、同士が相次いで脱藩、家が裕福であった和泉は、
   家財を費やして彼らを援助した。
 これが養母の知るところとなり、その詰責を受け、同士に
   類の及ぶことを恐れて自決した。(1836~1862)

前田繁馬

松原村庄屋 前田広作の長男として生る。
 那須俊平に剣を学び、吉村虎太郎・
   那須俊平らと交わって勤皇の志を固めた。
 文久3年吉村虎太郎の挙兵を知り脱藩、天誅組に
   入って大和に進撃したが、政変によって隊は壊滅、
   初瀬(奈良県)で戦死した。(1835~1863)

那須俊平

梼原村に生まれ、同村郷士 那須忠篤の養子
 となり、武芸を好み、特に槍術に長じ
   「土佐一の槍の達人」と称された。
 文久2年4月、養子の信吾は藩佐幕派の
   吉田東洋を斬って脱藩した。
 俊平も元治元年脱藩、長州の忠勇隊に入った
   同年、58歳の身で禁門の変に参加し、
   奮戦の末戦死した。(1807~1864)

那須信吾

佐川村浜田宅左衛門、妻悦の第三子として生れる。
 梼原村郷士那須俊平の養子となり、
   その娘為代と結婚した。
 文久2年4月、土佐藩佐幕派の巨頭吉田東洋を斬り、
   その足で脱藩し京都に潜伏した。
 翌3年、吉村虎太郎らと天誅組を挙兵するも、幕軍に
   阻まれ壊滅。 鷲家口(奈良県)で戦死した。(1829~1863)

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

2011年02月05日 | なんでも情報

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・維新の門(その1)

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 梼原町出身の維新の志士を顕彰するため、町内には吉村

   虎太郎の居住した庄屋跡と掛橋和泉邸が保存されて

   おり、前田繁馬、中平龍之介、那須俊平・信吾の招魂碑

   のほか、一ヵ所にまとめて建立した六志士の墓もある。

 また吉村虎太郎らが脱藩した宮野々関には記念碑が

   建てられている。

 文久二年(1862年)澤村惣之丞とともに脱藩した

   坂本龍馬も、3月25日夜那須俊平宅で一泊、翌日

   那須俊平・信吾父子の案内で国境を越えたことが

   明らかになっている。

 郷土出身の六志士とゆかりのある坂本龍馬・澤村惣之丞

   を加えて八人の群像建立計画が、橋本大二郎知事を

   名誉会長にすすめられた。

 銅像は特徴を持ったそれぞれの姿態で、自然石を

   組み上げた台座に建てられている。

 製作者の浜田氏は「ただ立っているだけでなく、未来に

   向かって駆ける志士をイメージし、竜馬は旅たちへの

   覚悟や決意をこめた姿にしました。」と語っている。

 

     除 幕: 平成7年11月11日

     題 字: 維新の門

     字   : 橋本大二郎高知県知事

     事業費: 1億373万5,000円(全額寄付)

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 幕末の風雲急を告げる文久二年春、坂本龍馬は勤皇郷

   梼原から那須俊平・信吾父子の案内で盟友

   澤村惣之丞とともに、回天の偉業を夢みて脱藩した。

 この地からも吉村虎太郎、前田繁馬、中平龍之介が

   国境を越え、維新動乱の渦中に身を投じた。

 また、これらの志士を身を賭して支える掛橋和泉があった。

 それから年を経ること六年、明治維新は成り、

   近代国家が誕生するが、そのとき既に八人の志士は

   壮烈な死を遂げていた。

 いま山中に残る脱藩の道を行くとき、新しい時代の

   到来を信じ、大きな夢を抱いて峻険を駆け抜けた

   男たちの決意が偲ばれる。

 ここに志士の足跡が残る地を選び、八志士の群像を建て

   「維新の門」と名づけ、その功績と英姿を永遠に伝える。

 近代日本の黎明は、この梼原の地より輝いた。

 その郷土を誇りとする青年達の情熱と維新の里の発展を

   希求する町内外の数多くの有志の熱き想いが、

   この群像を建立する。

                     梼原町長 中越準一

 

 

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・片岡直輝・直温

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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・片岡直輝・直温

  

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片岡孫五郎直英は土佐勤皇党に加盟し、資金面で
   志士たちを援助した。
 吉村虎太郎脱藩時には、資金を調達してその活動を助け、
   また坂本龍馬脱藩の道案内をした人物である。
 自らも再度長州に密行し、その兵制を取り入れて有志隊の
   組織作りに奔走中、慶応三年57歳で死亡。
 父の没後、兄の直輝(1856~1927)は内務官僚から
   大阪ガス社長等関西財界の重鎮となり、
   1920年貴族院議員に勅撰。
 弟の直温(1859~1934)は官界から大阪財界に転じて、
   日本生命の創立の一員からのち社長に、
   1930年貴族院議員に勅撰。
 昭和十年十二月十二日、碑文は徳富蘇峰、台座の文字は
   斉藤内大臣で、銅像を造るも戦争で金属回収された。
 平成八年葉山村四十周年を記念して、銅像に代わるもの
   として写真版が取付けられ、別に兄弟の写真を
   取付けた顕彰碑が造られた。

 

   顕彰碑文は橋本大二郎知事、顕彰碑は吉良史子村長

 

 

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昭和十一年四月に下半山村民の手によって、兄直輝が
   椅子に腰をかけ弟直温が寄り添って立つ銅像が建立
   されたが、第二次世界大戦中、金属回収のため銅像
   は供出され、台座のみを残して今日に至った。
 顕彰碑の建立はこれに代わるものである。
 昭和三十一年九月三十日葉山村の発足にあたり、
   片岡家より贈与された土地に当時の役場庁舎が建設
   されたが、この場所はかって坂本龍馬、中岡慎太郎が
   脱藩するにあたって、片岡孫五郎直英にかくまわれて
   雌伏したと伝えられている。
 顕彰碑の建立にあたり、故人の歴史に対する献身と
   その勇気を称えるものである。

         平成八年九月二十八日
                       吉良史子葉山村長

 

 

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