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羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

2011年01月21日 | 津野町に関する記事

羽迫博己さんの、土佐人の銅像・・・吉村虎太郎

 

yosimura-t4.jpg天保8年、芳生野村庄屋吉村太平の長男として生れた。
 文久元年に武市瑞山とともに「土佐勤皇党」を組織して
   勤皇に奔走するようになりました。
 文久二年には防長を歴訪、九州に渡り平野國臣にあい、
   「島津久光の入京を機に挙兵する。」ことを約束して
   帰藩、武市瑞山を説得すれど断られ、坂本龍馬に脱藩
   をすすめつつ、自らは宮地宜蔵と二人で脱藩、平野の
   義挙に加わろうとしたが、寺田屋の変にあい、舟牢で
   高知に送り返され十二月まで獄窓で過ごしました。
 文久3年、明治天皇の叔父中山忠光卿にすすめて
   大和義挙を計画、忠光卿を隊長に自らは総裁となって、
   いわゆる「天誅組」を組織し、天皇の大和行幸に
   先駆けて、大和を平定して錦旗を迎え奉ろうとし、
   奈良県の江戸幕府直轄五条代官を襲撃しました。
 その後朝議が一変し、大和行幸がとりやめになったが、
   初志を貫徹しようと、高取城を焼討をはかりましたが
   負傷し惨敗に終わりました。
 辞世の句『吉野山風に乱るるもみじ葉は、我が打つ太刀の
   血煙とみよ』を残し、二十七歳の若さで散華しました。
 この義挙は、数多い維新の動きの中で、千余の兵力を
   持って堂々たる倒幕第一陣であり、この烽火により
   全国に倒幕の運動はくり広げられることになり大政奉還
   を見、四民平等の維新は成就された。

 

虎太郎の顔は弟の写真と姉の話から、原田画伯が書いた
   肖像画をもとに川島三郎製作者のイメージで造られた。

       除 幕: 昭和43年12月22日
       題 字: 吉村虎太郎先生像
       規 模: 本体4㍍・台座5㍍・総高9㍍
                   事業費: 6,000万円

 

土佐の銅像と 津江美和さんの写真

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