羽生結弦選手 応援ブログ~kosumo70

日々の出来事や、フィギュアスケート、羽生選手の情報や感想など。
楽しく羽生選手を語りたいと思います。

オーサー氏の過去・・

2016-07-10 13:22:19 | 日記
 あるるさんのツイより
 これを見てスケーティングスキルの良し悪しって
 結局何だろうと思ってしまった

 しまさんのツイより
 ちっちゃい頃から変わらないと

 
 シンガポールの表紙・・
 詳しくは、こちらです。

 有隣堂さんのツイより
 【やってみました】『蒼い炎Ⅱ~飛翔編~』が再入荷しましたので
 どんどん積み上げてタワー!全ジャンルのランキング台の1位を占拠!!
 ポスターを少し可愛く。今週は品薄だったにも関わらず実用2位、
 総合4位にランクインしています。さすがです

 少し可愛く・・って、カワイ過ぎでしょ!

  

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 ユヅルとハビエルズの”ナイスボーイズ”
 刺激し合って届いた、奇跡の300点

 ブライアン・オーサーコーチインタビュー

 心のコントロールが難しかったユヅル
 ハビエルは米国観客を味方につけた


 ――おめでとうございます。門下生がワンツーフィニッシュ!
 予想していた結果でしょうか?

 そうですね。ハビエルとユヅルの2人の練習を見ていれば、もはや他の選手
 とは全くレベルの違うステージで競い合っているので、予想はつきました。
 ただ、ユヅルはフリーでもっと良い滑りをすると思っていたので、そこは
 予想外でしたね。かなり落ち込んでいました。

 ――羽生選手、ショートは素晴らしい演技でした。

 ショートの演技は、ユヅルの今季の成長を“本物なんだ”と証明する演技
 でした。でもあのショートの後、誰もがユヅルが優勝して当然だと
 思いましたし、それが却って、モチベーション、重圧、期待などを
 コントロールすることが難しい状況に、彼を追い込んでしまったのだと
 思います。

 ――フリーではミスがありましたが、思い当たる原因はありますか?

 ユヅルは今回、試合会場入りした時からずっと、些細なことに敏感に
 なっていました。それは、330点超えのパーフェクト演技という、
 とても繊細で高度なものを目指す以上、仕方がないピリピリ感だったと
 思います。普通にノーミスするだけでは越えられない壁なので、小さな
 ことにも気を配り続けていた。ユヅルにとって、何が起きても緊張
 しやすい状況でした。

 ――コーチとしてはどんな声がけをしたのでしょう?

 とにかく「慌てないで、落ち着いて、深呼吸して」というのを
 繰り返しました。そして

 「すべてのエネルギーを、外ではなく、自分に向けるんだ」と。
 
 周囲から期待されているという意識があると、周りの反応や行動も
 気になるものです。とにかく自分だけを信じるように言いました。

 (canonインタビュー

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 セデルさんのツイより
 2011年2月18(金)4CC台北男子SP①
 Jスポでは放送されなかったかもしれない場面、当時の地上波📺版。
 何度もUPしてますのでウザイと思いますが当時を知らない、CS見れない❗
 とかで、ご覧になったことが無い方はどうぞ。

 2011年2月19(土)4CC台北男子FS②

 こちらです。

 2011年2月19(土)4CC台北男子FS③

 こちらです

 2011年2月19(土)4CC台北男子FS④
 
 こちらです

 セデルさん、貴重な動画ありがとうございます。

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 2016DOI より「始まりの舞台」SEIMEIの歴史はここから
 yuzupinoさんが動画をあげてくださいました。

 こちらです。

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 ブレイクタイム

 羽生選手をもっと知るには・・まず、コーチを知ることから
 始めようかと・・・!

 オーサーコーチも、選手だった頃があって
 長い苦しい歴史もありました。過去の、オーサー氏の動画を見ると
 なんか、ハビ選手に滑りというか雰囲気が似てるんですよね。
 (皆様は、どう感じられましたか?)最後に動画がありますので
 見てください。

 あっ、中国杯へ行った時にパスポートの手続きをし終えて
 フロントのガラス越しに、オーサー氏が歩いてる姿が見えて
 オーサーと手を振ったら、こちらに気付いて笑顔で手を振って
 くださいました。ちょっと嬉しかった!

 Is That A Skate Guard In Your Pocket Or Are You Happy To See Me?
 ブライアン・オーサー・インタビュー
 ライアン・スティーブンズ著

 みんな、オペラについての昔ながらのこんな言い回しを聞いたことが
 あると思う。

 「太ったプリマドンナが歌うまで、オペラの幕は降りない」ってね。

 そう、このブログも同じ……ブログでカナダ月間を開催するなら、
 ブライアン・オーサーのインタビューなしに締めくくるわけにはいかない。
 そういうものだ。

 そもそも、ブライアン・オーサーをどう紹介すればいいのだろう?

 エリザベス・マンリー、ロビン・カズンズ、トーラー・クランストン、
 アニタ・ハートショーンとフランク・スウェイディングのように、

 彼はぼくがスケートをはじめるきっかけとなった、すばらしいスケーターの
 ひとりだ。カナダ選手権のノービス・クラスで優勝、カナダ・ジュニア選手権
 で優勝、カナダ選手権で優勝(しかも、8回連続)。

 スケートカナダでは3回、優勝し、さらにオリンピックでは2個の銀メダル
 を獲得、1987年には世界選手権で優勝している。

 その後はプロに転向し、もっとも成功した評価の高いスケーターのひとり
 として、20年近く演技を披露し、スターズ・オン・アイスに出演して各地を
 回ってきた。

 2007年に表舞台から身を引いて、コーチ業に転身。

 ふたりのオリンピック金メダリスト(キム・ヨナと羽生結弦)のコーチを務め、
 そのほかにも、ハビエル・フェルナンデス、クリスティーナ・ガオ、
 アダム・リッポン、エリック・ラドフォード、エレーネ・ゲデヴァニシヴィリ、
 フェドール・アンドレーエフなど、ほんとうに多くのスケーターを育ててきた。

 さいきんでは、ピーク・パフォーマンス・スケーティングという
 iPhone用スケーティング・アプリも発売!
 この男にできないことなんてあるのだろうか。ぼくには想像もつかない。
 なにより、彼はほんとうに好人物なんだ!

 インタビューを紹介する前に、ぼくのブライアン・オーサー物語を
 伝えなくちゃいけない。もう知ってるかもしれないけど。
 2007年のカナダ選手権が、ここ、ハリファックスで開かれたんだけど、
 その年にはほんとうにすばらしい演技が見られたんだ。
 ペアと男子フリープログラムのあいだに、ぼくがたしか、友だちのジェイソン
 といっしょにリンクのいちばん上の通路を歩いていると、ブライアンが
 そこに立っているのが見えた。だれかと立ち話をしていたものだから、

 (いつだって社交的な)ぼくはそのまま、彼のもとへ飛んでいって、
 自己紹介をした。この機会を逃してなるものかってね。
 そのときの対応が、これ以上ないってくらい、いい人だったものだから、
 ついついチケットにサインをお願いしてしまった。ごめん!
 だって、自分にとってのアイドルに毎日、会えるわけじゃないだろう。
 少なくとも、そう思ってたんだ。ブログをはじめるまでは……。

 ともかく、ブライアンがジェフリー・バトルといっしょに羽生結弦のショーの
 ために日本にいるあいだに連絡をとったら、時間を割いて、インタビューに
 応じてくれたんだ。そのことには、いくら感謝してもしきれない。
 この記事、みんな、気に入ってくれると思うよ!
 (ソース元はこちらです)

 2回のオリンピックの銀メダリスト、
 1987年の世界チャンピオン、3回のスケート・カナダ・チャンピオン、
 8回連続のカナダ・チャンピオン。また、プロスケーターとして
 スターズ・オン・アイスに出演したり、すばらしい演技を披露してきた約20年。
 いま、振り返ってみて、あなたのキャリアでもっとも特別な瞬間、あるいは
 印象的な瞬間はいつですか?


 特別な瞬間か! たくさんありすぎて、むずかしいな……。
 1981年にハリファックスで行なわれたカナダ選手権で初優勝したのが転機で、
 そこから世界へと足を踏み出していった。

 世界選手権とオリンピックの表彰台が狙える位置にいると気づいたのは、
 そのときだよ。1979年のカナダ・ジュニア選手権も同じくらい大事な瞬間だ。
 はじめてトリプルアクセルに成功したからね。
 2度のオリンピック出場経験もやはり、忘れるわけにはいかない。
 意欲にあふれ、やる気満々で、五輪のロゴマークの入ったリンクで滑るのは
 誇らしかったよ。
 カタリナ・ビットといっしょにテレビ映画の『氷上のカルメン』に出演した
 のも、最高の経験だった。ちゃんと芝居をして映画製作にかかわるのは、
 あれがはじめてだったから。

 CBCのバラエティー・スペシャル番組、

 "Skating Free"、"Night Moves"、"Blame it On The Blues"
 
 の3本にも出演した。最初のメダルを手にしたのは、
 オンタリオ州サーニアだったな……
 たしか男子の13歳以下の部門だったと思う……
 あとは、1987年にシンシナティーで開かれた世界選手権で優勝したときかな。

 あなたはオリンピックではじめてトリブルアクセルを跳び、
 ひとつのプログラムに2回のトリブルアクセルをはじめて組み込んだ
 スケーターとして、フィギュアスケートの技術面にまさしく革命を起こし
 てきました。あなたが現役だったころの6.0システムと比べて、
 現在のISUジャッジング・システムでは、技術革新がじゅうぶんに
 報われるようになったと思いますか?
 現在のジャッジング・システムについて、どういう面を改善すべきだと思いますか?


 われわれ(コーチとして)はそのときのシステムを受け入れるしかない。
 コーチとしての私の仕事は、自分のスケーターにあらゆる技を身につけさせて、
 どんなシステムでも対応できるようにすることだ。
 実際、いまのシステムは気に入っている。

 "バランスのとれた"スケーターが報われるようになっているからね。
 自分もそういう訓練を受けてきたが、試合に出たら、ジャンプが振り付けの
 ”王様”のようだった。

 スピンは、エッジワークやターンやつなぎと同様、二の次だった。
 大いなる改善が必要なのは、採点の透明性だろう。

 ジャッジを"守る"匿名制は、外的圧力なしに感じたまま採点できるように
 するためなのだろうが、私は逆効果だと思う。

 ”The Story Of My Life”はあなたの代表作のひとつというだけでなく、
 当時のフィギュアのプログラムの中でもっとも感動的なもののひとつと
 して傑出しています。
 この曲とプログラムは、あなたにとってどういう意味があるんですか?
 また、こんなに長年、滑ってきたのは、どういうところが気に入って
 いるからですか?


 ”The Story Of My Life”は母が見つけて、気に入っていた曲なんだ。
 母も私もニール・ダイヤモンドの大ファンでね。
 カルガリー・オリンピックのあと、1988年のシーズンには、この曲が
 ぴったりだと思ったんだ。現役としての最後のシーズンだったから。
 1996年に母を亡くしてから、母に捧げるためにまた滑るようになった。
 同時に、滑ることで、つらい気持ちを乗り越えてきた。
 私には、スケートがなにかを感じたり、表現したりするための方法なんだ。
 毎晩、この曲と友だちと観客がそばについていてくれた。

 世界じゅうのスケーターにひとつアドバイスをするとしたら、なんですか?

 私にできるアドバイスはただひとつ、自分自身を自由に表現すべきだと
 いうことだ。
 スケートというものの美しさを大切にして、その美しさをシンプルに
 表現する方法を、時間をかけて模索することだ。
 (cocoさんが翻訳してくださいました。)
 明日も続きます。

 Brian Orser - The Story of my Life
 
 

 1997 Chrysler Dreams On Ice: Brian Orser: La Vie En Rose
 
 

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 PHOTコーナー

 モノトーンシリーズ・・

 目が二重になる瞬間がイイ~

 

 キリッ・・!

 

 汗が・・集中力・シュウチュウリョク・・! 

 

 瞑想タイム・・

 

 これは有名なお写真、結構見かけます。

 

 はい、どうぞ。

 

 お待ちしてます。新プログラム・・

 
 
 ↑あなたならできる・・
  幸運と神は疾走する そのまま行きなさい。
 待ってるよ~

 

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 【MAD】yuzuru hanyu =You Go Your Way=
 aoyuzuさんからの動画です。

 

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 Jan.-Apr. 2016 WC × "Niyodo" (Piano cover)
 candrastellaさんからの動画です。

 こちらへリンクしてください。

 

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コメント (8)
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