
上の写真は水無川方向に流れた火砕流の跡です。
この中にまだ見つかっていない被災者の命が眠っているのかと思うと
何とも言えない気持ちになります…。
1990.11.17に噴火し、1995.4まで活動が続きました。
火砕流が世界で初めて鮮明な映像として継続的に記録された火山としても有名です。
特に大規模な人的被害をもたらしたのは1991年6月3日午後4時8分に発生した火砕流。
取材に当たっていた報道関係者16名、火山学者3名、
警戒に当たっていた消防団員12名、報道関係者に同行したタクシー運転手4名、
警察官2名、選挙ポスター掲示板撤去作業中の職員2名、農作業中の住民4名
の合わせて死者行方不明者43名と多数の負傷者を出す大惨事となりました。

火砕サージの被害を受けた旧 深江町大野木場小学校がそのまま保存されています
熱風の温度は800度近く。流れ下るスピードは100km/時超。
被害の様子から当時のすさまじさが窺えます。
実験室でしょうか。床が燃え落ち土台がむき出しに。熱で窓枠がゆがんでいます。

被災家屋保存公園で保存されている土石流による被災家屋。
水無川および島原市千本木地区の被害は甚大なもので、
かなりの家屋や家畜が埋まり、海へ押し流されたりしました。

被災地は、現在、緑も復活し、新しく住宅も建てられ砂防ダムも建設中です。
市内には資料館が点在し、
地元の方々の普賢岳と共生していくという復興の歩みが見て取れます。
大野木場砂防みらい館では実際に体験した地元の方が説明なさってました。
知り合いの方が亡くなったときの生々しい状況など聞くと、
胸の奥ををギュっと摑まれたようななんとも言えない気持ちになりました。
おすすめは「普賢岳災害記念館」。
雲仙普賢岳の噴火活動による自然の脅威と被災体験を次世代に伝えることを
目的とする施設で見ごたえがあります。
ここでは、2005年6月に発見・修復され
火砕流で殉職した日本テレビのカメラマンが撮影していた
映像「 雲仙大火砕流 378秒の遺言」を見ることができます。
避難を警告する警官らや、それを無視し火砕流が襲来する直前まで
取材を続ける記者らの姿や音声が記録されています。
火山の麓に住むということは、時に甚大な被害をもたらします。
そして、同時に恩恵ももたらします。
豊かな湧き水、温泉、豊かな土壌、そして雄大な風景。
自然と共生していくためにも
日頃の防災が本当に大切なんだとしみじみ考えさせられた一日でした。