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Kopiの部屋

日常の出来事・ささやき・趣味など♪

震災その後 気仙沼へ

2012-09-24 22:34:02 | 東日本大震災

9月上旬に約1年ぶりに気仙沼方面へ行った。

瓦礫はほとんど片付いているが

なんにも無い。

知らない人が見たら、そこに建物や田畑があったとは気づかないだろう。

未だに道路や線路が寸断されてたりする。

大規模火災があった鹿折地区。

打ち上げられた巨大漁船がそのままに。

保存するかしないか意見が分かれているらしい。

手前の草が生えてる場所にも、もちろん建物がたくさん並んでいた。

参考までYou Tubeの映像→こちら

 

 

南気仙沼?

瓦礫は片付けられたが…。

 

気仙沼向洋高等学校。

下の写真は約一年前の同じ付近から撮ったもの。

校舎4階まで水がきた。

 

 岩井崎の潮吹き岩は、もう潮を吹かなくなったようだ。

 


大震災 まもなく一年

2012-03-10 00:08:02 | 東日本大震災
最近、テレビでは東日本大震災の特集が多くなった。
もうすぐ一年。

先月、宮城の実家に急遽帰省する用事があり、久しぶりに仙台空港を利用した。
実は前回は羽田経由で新幹線を使ったため、震災後初めての利用だった。

空から見た海岸は所々大きくえぐられ、防砂林はなくなってるか内陸側に倒された格好に。
大地も津波に削り取られたような状態が広範囲に見られた。

仙台空港についてからレンタカーを借りるため、
空港まで迎えに来てくれたトヨタレンタカーの車に乗り込み店舗まで。

途中、未だに残る傾いたりガランドウになった建物。
街路樹だろうか?折れたのか地面スレスレの幹のみ残っている。

空港まん前の道路標識も明らかに傾いている。
トヨタレンタカーはプレハブのもので、新しい店舗は近くに建設中。



現在、東北の高速道路は被災地支援・観光復興で無料になっている。
実家へは、仙台東部道路→三陸道を通っていく。
無料化のせいか産業地域ではトラックが多く所々で渋滞。

仙台東部道路を走って行くと時々、津波の傷跡が未だに残る。
そして、今回改めて気づかされたのが
意外に海に近いということ。と言っても4~5キロはあるのだが。
なぜ、そんな数キロ先が海ということがわかるのか?

まばらな松林が遠くに見えるからである。
松林までの大地がほとんど何にもないので近くに感じるのか。
震災前は、松林は建物なり木々で隠れていたんだろうか?
正直、気にもとめたことがなかったのでわからない。
でも、こんなに近かったのかと驚いた。



話は変わるが、今日、仙台の友人から連絡がきた。
「譲っていたベビージムは、まだ手元にあるか?」と。
知人に3人目の子どもが生まれたが、
実家に預けていたベビー用品が全て津波で流されてないらしい。

ちなみに、友人の勘違いで友人のベビージムは私の元にはない。
でも、「見つからなかったら、ぜひ息子のを譲りたい」とは言っておいた。


あの日から1年経とうとしている。
でも、田舎の方は未だ復興とはほど遠い地域もあって…。

少しでも早い復興を祈りたい。。。





宮城へ帰省 今思うこと

2011-09-15 00:22:56 | 東日本大震災

今回の帰省は主人が言い出しました。

でも余震がまだ毎日あるし、私は反対でした。

私:「なぜ帰りたいの?」

主人:「被災した仙台が見たい」

私:「見たいがために帰るのか!」

主人:「生まれ育った地が被災してるのに行かない方がおかしい!」

など、何度もケンカしました。

 

実際、行ってみて思ったことは

「多くの人に被災地を自分の目で見てほしい!!」

でした。

テレビやインターネットだけではなく

実際、見て歩いてほしいのです。

そして、津波の恐ろしさ人々の辛さを感じてほしい。

 

私は行く前と後で、かなり印象が変わりました。

心がずっしり重くズキズキ痛んで、未だに夢を見ることがあります。

実際、被災された方々の心労は計り知れません。。。

 

私達夫婦の親戚でも、犠牲者がいたことがわかったり、

実家では津波にあって助かった知人たちの話も聞きました。

 

①家ごと流されたが漁船が流れてきて飛び乗って一家全員助かった。

②車で逃げたが渋滞で車を捨て、途中民家の二階に上がらせてもらった。

見ず知らずの家族だったが救助まで2日間一緒に過ごさせてもらった。

③運転免許センターに行った帰りに多賀城で被災。流された車が電信柱にぶつかり、

車から出て電信柱につかまって水に浸かりながら6時間耐えた(当時は雪)。

どれも壮絶です。

 

南三陸町の志津川のスーパーで働いていた叔母とも会いました。

彼女は当日、運よく研修で町外にいたので、実際、津波には遭っていませんが

未だに一度も志津川を訪れていないのだそうです。

「なぜ?」とは聞けませんでした。

毎日通った町の変わり果てた状態を見たくないのでしょうか。

 

時間が経つとともに

防災意識や被災地のことなど、薄れていくでしょう。

でも、少しでも多くの方に現地を感じてほしい。

忘れてはいけない。

頑張れ宮城!負けるな東北!

以前のように、

それ以上に美しく強い東北に復興できるよう信じたいです。

 

 


宮城へ帰省 石巻

2011-09-14 21:25:02 | 東日本大震災

日和山から見た北上川方面。

津波の直後は橋にヨットや瓦礫などが引っかかって通れなくなったそうです。

 日和山のすぐ下の門脇小学校。

南浜町・門脇町の住民の多くが、最初は、門脇小学校に、自動車で避難してきたそう。

そこに津波が押し寄せてきて、校庭に駐車していた自動車を

校舎に打ち寄せ、その衝撃で発火して、

校舎に引火したものらしい(「石巻の震災被害」HPから引用)。

9月13日現在、石巻の死亡・行方不明者は約3929人。

 

全児童108人のうち7割の死亡行方不明になっている

大川小学校(旧桃生郡河北町)。

あまりにやりきれない…。

校舎の屋根まで水が届いたそうです。

ウィキペディアによると ↓

「地震直後、校舎は割れたガラスが散乱し、余震で倒壊する恐れもあり、学校南側の裏山は急斜面で足場が悪いことから、約200m西側にある周囲の堤防より小高くなっていた新北上大橋のたもとを目指して移動し始めた。その直後、堤防を乗り越えた巨大な津波が児童の列を前方からのみ込んだ。列の後方にいた教諭と数人の児童は向きを変えて裏山を駆け上がるなどして、一部は助かったと言われている」

すぐ側にある裏山。

こちらに避難していれば…。

児童たちが避難に向かう予定だった新北上大橋。

しかし、ここも津波に飲み込まれました。

橋の向こう側は崩落していていて現在通行止め。

北上川は川幅が広がって圧迫感をおぼえました。

本来あるはずの葦などが全くなくなり

道路のすぐ側が川。

水面も近く川沿いの家は今にも浸水しそうに見えます。

 


宮城へ帰省 三陸沿岸

2011-09-14 20:15:08 | 東日本大震災

実家の隣町、南三陸町~気仙沼まで沿岸を見てきました。

 

大津波で町が壊滅状態になった南三陸町。

登米市米谷方面から向かいました。

海から数キロなのに

山の沢沿いの杉の木が茶色い。

こんなところまで津波が来たのかと驚愕せずにはいられない…。

そして

少しずつ車など瓦礫が。

駅から10分ほどの合同庁舎は建物は残ったががらんどう。

防災センター。

屋上に避難していた町職員30人のうち20人が流されたそうです。

生き残った町長の話は壮絶です。

「アンテナにしがみついた3人は助かった。わたしら7人が鉄製の柵にすがっていたんですが、3分くらいだと思いますが、自分たちの頭を越える波が何回も行ったり来たりした」

↓ 参考画像です。

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&p=%E5%8D%97%E4%B8%89%E9%99%B8%E7%94%BA+%E9%98%B2%E7%81%BD%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC

 

志津川病院

5階建ての4階部分まで津波が到達しました。

病院前にある建物のエレベーター。

 至るところに電信柱が倒れています。

地盤沈下がひどく道路が突然途切れて海水につかっています。

高台なのに屋根の上に車が。

木に布が。この高さまで来たのか。

 地盤沈下で海面がスレスレのところまで。

いたるところ、このようになってます。

歌津魚竜館

気仙沼線 清水浜駅

かなりの駅が無くなってしまったなか残っていました。

でも線路は寸断されています。

どこもトンネルはあるが先は無いという状態。

 

 

気仙沼向洋高等学校(甲子園で始球式をしました)。

景勝地 岩井崎に行く途中で通りました。

私はこの周辺が一番ショッキングでした。

未だに水につかり手付かずのように見えました。

地盤沈下のせいか

海面が道に近く、通っていて恐怖を感じます。

 

宮城県北部出身者なら必ず一度は行く観光地。

一番手前にある土産やは建物は残っているものの1階は空洞。

頑丈な鉄柵は無残に倒れています。

民宿やみやげ物屋は土台だけになっています。

潮吹き岩の前にある横綱像は健在!

土台の下が波で(?)削られていましたが昔のままでした。

右手にある松の木は枯れています。

 

三陸沿岸は過疎地が多いせいなのかわかりませんが

仙台近郊の被災地より復興が遅れているように感じました。

瓦礫はずいぶん片付けられてるのでしょうが

復興にはほど遠い姿のように感じられました。

 

そして、当時の津波がどんなに惨く壮絶だったのか

思い知らされた一日でした。

この街で多くの人が生活していたのに…

あまりにも変わり果てた姿にショックが大きく

その夜は眠れませんでした。

 

被災地でよく見かけたヒマワリ。

何もない中で黄色く輝いて力強さを感じました。

 

そう言えば、母が「今年はたくさんヒマワリを植えたの」と。

放射能を下げる効果があるとか。

 

 


宮城へ帰省 若林区荒浜

2011-09-14 19:49:53 | 東日本大震災

東日本大震災から半年が経ちました。

8月20日から25日まで、宮城の実家へ帰省してきました。

震災の1週間前に実家から福岡に戻って以来の帰省なので

約5ヶ月ぶり。

 

今回は被災地の様子を自分の目で確かめたい

という思いがありました。

 

8月20日 荒浜

 

海からだいぶ離れてるのに

民家の庭木が茶色くなってきた。

修復が済んだ後なのか、ぱっと見は被災してるように見えない。

しかし、道路を進むにつれ田んぼに稲穂が実っていない。

代わりに瓦礫やグシャグチャの車が…。

民家を見ると建物は残っているものの

1階部分は空洞。

道路標識の下部分まで津波が来ていたことがわかります。

かなりの高さです。

海が目の前の民家。

周りにはたくさん住宅があったはずなのに

全て土台だけになっていました。

松林は波をかぶってスカスカに。

 

海岸は瓦礫が積まれていました。

無邪気に遊ぶ息子を見ると複雑です。

心なしか砂浜が短くなったような?

学生のとき以来なので、記憶がおぼろげですが…。

灯篭流しが行われてました。

住民の方々が口々に当時の様子を話していました。

何だかこの場にいるのが申し訳ない…というか。

写真を撮っていいのだろうか…涙がこぼれました。

 

この日、初めて津波の恐ろしさを目の当たりにし

この惨状を忘れないためにも

多くの方に見てもらうために

ブログに載せようと決めました。


地震から三週間

2011-04-01 22:16:39 | 東日本大震災

母から3日前に送った荷物が届いたと電話がきました。

福岡から届くのに1週間から10日と言われてたのに、ずいぶん早い到着でびっくり!

通常通りの到着日数でした。

東北自動車道が通れるようになったからですかね。

菓子類や乾麺が手に入らないみたいなので喜んでました。

よかった

ついでに、ダーリンがなかなか手に入らないプレミア焼酎「村尾」を手に入れたので送りました。

 

母は毎朝ガソリンを買いに6時から並んでるのだそうです。

しかも、車内で待つのではなく立って並ぶ

車に乗って路上で待つと渋滞するので

それを回避するためガソリンを専用容器に入れて買うそうです。

それは知らなかった…。

でも乗ってきた車はどこに?近くに停めるのかな。聞くの忘れました。

一昨日は2時間待って並んで5リッター。で再度並んだから相当疲れた模様

とうとう昨日、疲れて寝込んでしまったとのこと。

でも、また明日並ぶと言ってました。。。。大丈夫かなぁ

 

そう言えば、実家地域が南三陸町志津川の集団避難先になったそうです。

数年前、廃校になった小学校(母校)に。

登米市の中でも志津川に一番近い隣町なので一番人気だったそうです。

母は民生委員をしているので、お手伝いをすることになるのでしょう。

避難されてくる皆さんが少しでも安心できる場になるといいなと思います。

 


あれから・・・

2011-03-30 22:29:12 | 東日本大震災

地震から、もう3週間が経とうとしています。

結局、石巻の親戚も無事でした。

造船所で働いていた息子は船が沖に流されたそうですが、自衛隊に救助されたとのこと。

自宅は1階が浸水したので2階で暮らしてるそうです。

ライフラインは完全復旧してないみたいなので、まだまだ不便な生活が続くようです。

 

実家の話だと、先週まではガソリンを入れるのに4時間待ったとか(1ℓ 200円)。

昨日は入れられたのが、たった5ℓだったと母が嘆いてました(1ℓ 170円)。

過疎地なので店に行くにも数キロ。車がないと生活できない町なので大変です。

そこで、宅配便がやっと利用できるというので本日実家に荷物を送りました。

が!!福岡からだと1週間から10日はかかるとのこと。

でも、届けてもらうだけ良しとします。

 

そう言えば、母から近所の人が気仙沼に親戚を探しに、地震直後に行った話を聞きました。

そこらじゅうに遺体とマグロと瓦礫が多数あり、ものすごい臭いなのだそうです。

油などの臭いもあるかもしれません。

とにかく遺体とマグロがすごいのだそうです。

恐らく気仙沼はマグロで有名なので、冷凍マグロが流されたのでしょう。

東京消防庁の知り合いも遺体の数が半端じゃないと言ってました。

報道されない、することができない想像を絶する光景なのでしょう。

 

毎日ある余震も心配です。

実家は最初は被害が軽かったのに、最近はそうでもないそうです。

蔵の壁がほとんど落ちてしまったとか。お墓も。

 

みんな疲労がたまってきてるようです。

身体壊したりしないか心配です。。。

 

 

 


今、思うこと

2011-03-17 17:09:31 | 東日本大震災

宮城野区に住んでる友人から数日前に連絡がきました。

彼女は津波に遭いました。

地震直後は近所の公園に避難していたそうですが、そこでワンセグを見ていた男性が

「津波が来るぞ!逃げろ!」と叫んだそうです。

そして中学校へ。

まもなくすると、すぐ側の川から水が流れてきて

あっという間に校庭に車や瓦礫が流れてきたそうです。

その日は雪。

でも、1階が浸水しているので帰れず一晩毛布もない中で5歳の子どもと過ごしたとのこと。

 

彼女は淡々と話してました。

「今、自分に起こっていることが夢のようで実感わかない」って言ってました。

きっと、時間がたつにつれて実感がわいてくるのでしょう。

精神的にも体力的にもかなり疲れているはず。

今後、体調崩さないといいのですが。

 

ダーリンの兄は東京に単身赴任していたのですが

若林区の避難所にいる家族に会いにバスで仙台に戻ったそうです。

今、家族で避難所生活ですが、その避難所で亡くなっている方も何人かいるそうで。

ダーリンにとって仙台は生まれ育った場所。友人も親戚も多いのです。

でも九州は地震の影響がほとんどなかったので、

仕事の取引先など中には無神経なことを言う人もいるようです。

今回の地震があって以来、ずっと我慢していたようですが

先日、初めて泣いていました。

「ダーリンをいじめるヤツは許さないっ」と言ったら笑ってましたが。。。

一緒に乗り越えていこうね!

 

今回の震災で私も何かできることがないか色々考えてしまいますが

何をしていいのやら、もどかしい自分がいます。

とりあえず募金からでしょうか。。。。