2009年の長野マラソンでは自己ベストこそは更新はなりませんでしたが感動のゴールをすることができました。以降の長野遠征への基礎ができたのです。
一方で、この長野では覚悟を持ってレースに挑んだものの記録更新が達成できなかったことで、記録面での限界とともにクラブエースとして限界を感じました。私は後進の育成とともに若手へのバトンタッチを決意したのでした・・・。
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2010年は我がクラブにとって大きな転換期となりました。これまでのメンバーが揃って故障等によりセミリタイアしてしまいましたが、新たなメンバーがクラブに加わってきたのです。中でも陸上部出身という(といっても短距離系出身でしたが…(笑))若手がクラブに加わったことはクラブにとっても大きな出来事となりました。
この若手は同年10月のタートルマラソンのハーフマラソンでデビュー。この時こそは私がなんとか勝利できたのですが、翌年1月の千葉マリンマラソンのハーフでは1時間20分台を叩き出しエースとしての階段を登り始めたのです。
あっという間に世代交代が進んでしまいましたが、自身は前年の長野ですでに記録面での限界を感じていたため、はっきりクラブエースへの未練というのも全くありませんでしたので素直に嬉しかったですね。
正直、私自身が「記録面」の重圧から解放されたかったのですね。また、この頃から思いはすでに現在カウントダウン態勢に入った「フルマラソン完走100回」といった「セカンドステージ」が始まっていたのかと思います。
(ただし同年当時はまだそこまで「フルマラソン100回」自体は考えていませんでしたが…(笑))
ちなみに2010年はフルマラソンの完走回数は40回まで到達しており、2月のいわきサンシャインマラソンに初出場、また4月の長野には2年連続で出場してどちらも3時間40分台で完走していました。(3月の荒川市民マラソンは強風により大会中止に)
さらには11月の大田原マラソン(制限時間4時間)は同大会最後の完走を果たしております。
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年は変わって2011年。
この年の春は東日本大震災が発生して板橋Cityマラソン(この年から荒川市民マラソンから名称変更したのですがまさかの2年連続で中止に…)、長野マラソン、そして春日部大凧マラソン(ハーフ)とエントリーしていたレースが軒並み中止になるという事態も起きたのですが・・・。
若手との決定的なエース交代となったのは同年11月の大田原マラソンでした。
私はすでに頼もしい存在となっていた初フルマラソン挑戦の若手とともに出場したのですが・・・。
私はなんと20kmくらいから痙攣がひどくなってしまい、33kmでついに両足ふくらはぎと太ももが同時に攣ってしまい完全に歩行も不能状態となってしまったのです。(当時から私の痙攣癖はかなり酷くなっており、これも記録面での限界を感じた大きな理由でした)
私は無念のリタイアを決意し、1996年の横浜マラソン(ハーフ)以来2回目となるDNFとなりました。
一方、若手は初フルマラソンでなんとサブスリーを達成!
レース後の反省会にて私は(クラブ会長として)正式に若手に対して「エース襲名」を行ったのでした!!
こうして私は2011年、クラブの主軸からの荷から完全に開放されたのでした。
もともと私などがそんなに長きに主軸を張っていてはいけないと思っていましたが、ようやくバトンタッチができたことで、いよいよ私も“新たなランナー人生”を歩み始めることになったのでした・・・。
(続く)
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“Marathon 100 times finish countdown”
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