前回までは1992年のデビューから2000年にかけてのランナーとしての創成期ならびに成長期、そして2000年から2011年の長きにわたり続いたクラブの主軸(エース)としての時代、また個人としては良くも悪くも記録の安定期について振り返ってきました。
クラブの主軸の座は若手へと引き継ぎ(運営面での会長は引き続き担っていますが…)、私の走りの目的がタイム面から新たなる目標である「フルマラソン完走100回」へと大きく転換していくのでした…。
今回からは“フル100回完走目標”へと軸足が移っていった“現在の私”のスタートとなる成熟期編として2012年以降を振り返ってみたいと思います。
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タイムの衰え・・・
これまで少なくともフルではサブフォーを維持してきた私にとって、明らかに衰えが始まったといえるのが2011年以降でした…。
原因はまあ、もちろん加齢による走力の衰えもあるのですが…(笑)
ひとつにはこの頃から痙攣癖が以前にも増して酷くなったことも挙げられます。これまでも30km以降からの痙攣というのは日常的に起きていたのですが、この頃からは明らかに25kmくらいから、さらに酷いとハーフくらいから始まってしまうのです。
一度痙攣が始まってしまうと大幅なペースダウンが余儀なくされてしまうのですね…。
そして2011年の大田原では重度の痙攣で最後は歩行も困難となりリタイアとなってしまいました・・・。
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年は変わって2012年。
私はこの年、ランナーとして走り初めて(初レースから)20周年、すなわち「ランナー成人式」を迎えることになりました。
その記念レースの舞台としては4月の“長野春の陣”、長野マラソンを設定したのであります。
その前にまず1月には“悪夢の大田原”のリベンジレースとして勝田マラソンに出場しました!
勝田も元パートナーと一緒に出場していた頃は恒例レースでしたが私にとってはどうもコースが“鬼門”というか苦手な印象があるのですが…。(実際、この後は同日開催の館山にシフトしていっている)
この年の勝田も20kmくらいにあるアップタウンからピクピク感が始まり25kmからば爆発…。
なんとかゴールはしてリベンジは果たしたもののタイムはサブフォーはおろか4時間半も切ることができず明らかに衰えを感じました…。
続いて長野への前哨戦としてこの年から荒川市民マラソンから名称変更となった3月の板橋Cityマラソンに出場したのですが、やはりなんとか4時間30分を切るのが精一杯の状態でした。
私にとってはこれにより非常に危機的状況を迎えてしまったのです。
1997年のつくばで初フル完走以来、少なくともシーズンで一度はサブフォーを維持してきたのですが、長野でサブフォーを逃したらそれがついに途絶えてしまう可能性が出たからです…。
私にとって2012年の長野春の陣は“ランナー成人式”という晴れ舞台としてだけでなく、サブフォー維持の崖っぷちのレースとして迎えることになりました・・・。
(続く)
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“Marathon 100 times finish countdown”
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