宮沢賢治、好きです。
↑唐突w
ビレバン通販で、文豪マフラーなるものがあることを知りまして。
賢治リスペクト勢(笑)としましては、いつお迎えしてやろうかと虎視眈々と狙ってましたw
そこにSEX POTさんの星のパーカーがきちゃったわけですよw
今しか、これしかない!と思いましたw
そんなわけで、マフラーとパーカーお迎えするにあたり、改めて銀河鉄道の夜を読み返しました。
映画も見てみたり。
子どもの頃に読んだのと結構印象変わったりしたので、ちょっと書いておこうかなー、と。
したら、
ちょっとで済まなかったという、ね…w
以下長いので、本当に暇な人だけお進み下さいw
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うちは高校入るくらいまで漫画禁止でした。
お小遣いもなくて、必要なものはその都度お金もらう感じで。
漫画は禁止でしたが、活字はOKでした。
伝記とか物語とかを買ってもらって読んでました。
宮沢賢治は母が勧めてくれたように記憶しています。
表紙に肖像画が描いてありまして。
中身読むまでは、このちょいハゲのおっさん(笑)、何か偉いの?みたいな感じにしか思っておらずw
読んでみてがらっと変わりましたがw
自分のことは顧みず、銀河鉄道の夜的にいえば、ほんとうのさいわいを求め続けた人なんだなあと、大変感銘を受けました。
尊敬する人はと聞かれたら、さらっと宮沢賢治と出るくらい、賢治リスペクトですw
賢治の作品ということで、伝記を読んだ後で銀河鉄道の夜を読んだのです。
賢治の生き様を知っていたので、銀河鉄道の夜は人のために、ほんとうのさいわいのために生きる物語だという力強いメッセージの印象が強かったです。
読んだ当時は、生と死、別れという悲しい要素に全く気付いていませんでした。
私の一番身近な死は、小学生の頃に叔父が亡くなった時でした。
銀河鉄道の夜を読んだのはその前です。
まだ死と別れというものを理解していなかったのかもしれません。
生への力強いメッセージという印象は変わらないのですが、少ないとは言い難い死と別れを見た後で改めて読んでみて、悲しい要素を含んでいることにも、気付いたのです。
そこでふと、カムパネルラはなぜサウザンクロスで降りなかったのか、と思ったのです。
石炭袋では、カムパネルラにはお母さんやきれいな野原が見える。
でもジョバンニには見えない。
それまでも薄々、この銀河鉄道はこの世のものではないという空気はあったけど、カムパネルラとはもう一緒には行けないんだと思い知らされる、とても悲しいシーンなのだと気付きました。
ジョバンニには見えなかったかもしれないけど、カムパネルラには見えていたのでしょうね。
見え方が違っただけで、2人は同じものを見ていた。
石炭袋とは、死そのもののイメージなのではないかと思うのです。
真っ暗で、夢も見ずに深く眠っているような。
死とはそんなものなのかな、と漠然と思っています。
カムパネルラのお母さんは、おそらく既に死んでいるのでしょう。
命を捨てることでしかザネリを救えなかった自分を、カムパネルラは許せなかったのでは。
だから、サウザンクロスでは降りなかった。
自分が降りるべき場所ではないと思った。
カムパネルラははじめ、しきりにおっ母さんはぼくを許してくださるだろうかと、気にしている。
ジョバンニに、僕たちどこまで行くんだろうという問いを投げかけられ、カムパネルラはどこまでも行くんだろうと、ぼんやり答える。
この時点では、自分はどこに行けばよいのか、カムパネルラはまだ理解していなかったのでは。
おっ母さんも許して下さるかわからない。
乗っていた船が氷山にぶつかって海に沈んだ青年。
さそりの火。
そんな話を聞くうち、自分の死を、ほんとうにいいこととして受け入れたのではないかと思うのです。
おっ母さんが見えたのは、おっ母さんが許して下さったから。
あるいは、おっ母さんが許して下さるという確信を、カムパネルラが持てたからなのではないでしょうか。
でも、ジョバンニには、そこはどう見ても天上には見えなかった。
ジョバンニは、カムパネルラとどこまでも一緒に行きたかったから。
石炭袋は、ジョバンニの向かう先ではない。
ジョバンニが持っているのは、どこまででも行ける通行券。
石炭袋のその先の、ほんとうのさいわいを、ジョバンニは目指して行くのでしょう。
銀河鉄道の夜は全部で第4稿まであると言われています。
一般的に読まれているのは、最終稿と呼ばれる第4稿だそうです。
第3稿までは、銀河鉄道の旅は、ブルカニロ博士の実験中にジョバンニが見た夢という設定になっています。
ブルカニロ博士イケメンですよね!
最後に胡散臭い(笑)切符に、牛乳を買うための銀貨を挟んでジョバンニのポケットに入れてくれるところ、イケメンすぎる!
そのブルカニロ博士が、夢から目覚めたジョバンニに語る内容がとても興味深い。
地理も歴史も、その時代の解釈によって変わってゆく。
でも、その時はそれがほんとう。
天の川も銀河鉄道も自分さえも、そう感じているそれがほんとう。
信仰もほんとうのさいわいも、それは同じ。
映画版では春と修羅という詩集の序として掲載された詩がエンドロールで朗読されます。
あれは第3稿のこの、ブルカニロ博士の台詞を彷彿とさせます。
カムパネルラのほんとうのさいわい。
ジョバンニのほんとうのさいわい。
カムパネルラを許し受け入れたのは、カムパネルラのお母さんではなく、ジョバンニだったのかもしれません。
だとしたら、サウザンクロスでカムパネルラを降ろさなかったのは、ジョバンニなのでしょうか。
石炭袋を越え、ジョバンニとカムパネルラが出会えることを願ってやみません。
石炭袋を越えて出会った時、カムパネルラはジョバンニを許すのでしょう。
ふたりに、石炭袋を越える翼を。