ちょっと前に“緊急告知”したように、9/3、映画『デルタ 小川国夫原作オムニバス』静岡公開を記念して、小沢和史監督のスペシャルトークを行った。
まぁ、言い出しっぺということで、私が司会、というか代表質問者。
十数名の聴衆の中で、『デルタ』本編をちゃんと観てるのはMさん一人だけ、『ハシッシ・ギャング』は、私の他に、Hさんも観ているけど、多分それだけ。
だから、中身について感想を語り合うわけにはいかず、あんまりネタバレもなんだか。
そう言う状況で、私は、さしあたり、“小説の映像化”という、よくあるテーマの話から入りつつ、そこそこ個別のシーンの事なども。
カントクは“映像化”だけでなく、「音もあるでしょ」という。
映像と音があって映画になってるのだよねぇ。たしかに。
それから、オリジナル脚本ではなく、原作物であること、とか、オムニバスの他の作家との関わり方とか、そもそもの企画についてとか。
或いはちょっと私生活に踏み込みそうな“裏話”とか。
まぁ、本当に、公開の雑談のようなことを1時間以上やっていたわけだけれど、そのなかで、今回私がかなり気になっていたことが、カントクにもビンゴだったようで、終わったあともすこし、Mさん、柚木さんも含めて話が続いた。
細かいことは記憶が飛んでいるし、私は私の興味で水を引いてしまっているので、以下、回想というより、私の再構成。
小川国夫が(東京ではなく)藤枝で仕事をしていたのは、意図的らしい、という話がある。生前「実家で仕事をしているのは自分だけだ」というとうなことを仰っていたとか。
これは大変興味深い。
海外のことは知らず。
日本文学史には、常に“中心”が存在した。
それは、基本的には“都”だ。
旅の文学にしても、歌にしても、遠く離れても都を思う心が基軸になっている。
やがて、文化の中心が江戸に移れば、また、江戸を心の中心軸に置き換えて、それぞれの場所からそこへ向かうベクトルをしっかり持った“地方”がうかび上がる。
近代になっても、地方は、東京から療養や避暑や観光に訪れる空間であって、そこで暮らしている人を描いたとしても、多くは東京人の視点を必要としている。
で、小川国夫には、それがない(んじゃないか)。
では、根無し草なのか、或いはローカル文芸なのか、というと、そうではない。描かれた風景は、大井川流域だったりするのだけれど、そこに、はっきりと、普遍が存在する。
それを可能にしているのは、旧約聖書や神話世界、或いは、ヨーロッパ放浪経験ではないかと、おおざっぱに言えばそう言う話。
異境を放浪し、神話の世界に没入した振り子が、戻る勢いで、故郷へ、そして胎内へ、そうして、神話の根源的普遍世界へと逆回転しているような。
この辺のやりとりはなんだか妙に愉しくワクワクした。
カントクも私も、実は真面目な小川ファンではない。
静岡には生前の小川国夫を愛しつづけている人が沢山いて、色んな“目撃談”もあるし、声を掛けられた想い出を語れる人もいる。
そう言う印象情報と、どこか気むずかしそうな象徴的な文章は、一見繋がらない気もするのだけれど、いっぽうで、やっぱり文章にも妙に引きつける魅力がある。
カントクも私も、ある意味成り行きで読んでみて、「なんだこりゃ、すごいな」と思った、という変な感想が一致した。
東京での上映は、嘗て小川国夫を愛読した世代と、飴屋法水ファンを筆頭に、現代アートに敏感な若い人たちと、ひろい世代で賑わったらしい。
私と同様、それまで小川国夫を読んでいなかった若い人たちが、この映画をきっかけに、手に取ってみてくれたら良いな、と思う。
村上某を読む速さでは、多分読めない。
しかし、その言葉の一つ一つの重さに気づいた時、静岡の小都市/片田舎に、とんでもない世界を書いていた人がいた、ということを、ちゃんと考えなきゃ、と思ってくれるんじゃないかと思う。
“敢えて”地方で活動しているアーティスト。
“やむなく”のひと。
“中央”にいても、ドメスティックな発想のまんまの人。
あり方はどうあれ、表現者の多くが[中央/地方][中心/周縁]という座標軸をどこかで持ち続けている。
小川国夫は、そう言うパラダイムそのものを疑っていたのかも知れない(とか、読んでも居ないので、“仮説”です)。
小沢監督は、今は東京で会社員をしながら、しかし、撮影となるとなぜか、オリジナルでも静岡に来てしまったり。
故郷、ということだけなのか、空間の論理とか、磁場とか、よくわからないままなんだけれど。
途中、Hさんが、地域の特性はあとから付与されるんじゃないか、という話をしだして、そう言う話が大好物の私は飛びつきたかったんだけれど、逸れまくりそうなので戻しました。
この辺はまたあとでつづけたいです。
と、その場にいなかった人には全然伝わらない話ですが、まぁ、残念でしたね、ということで。
何はともあれ、18日から藤枝で上映が始まります。
初日には、また監督挨拶もありそうです。
是非、観に行きましょう。
そして、みんなが見たあと、また語り合いましょう。
たのしゅうございました。
小沢さん、柚木さん、来場者の皆さん、ありがとうございました。
多分私が一番楽しみました。
まぁ、言い出しっぺということで、私が司会、というか代表質問者。
十数名の聴衆の中で、『デルタ』本編をちゃんと観てるのはMさん一人だけ、『ハシッシ・ギャング』は、私の他に、Hさんも観ているけど、多分それだけ。
だから、中身について感想を語り合うわけにはいかず、あんまりネタバレもなんだか。
そう言う状況で、私は、さしあたり、“小説の映像化”という、よくあるテーマの話から入りつつ、そこそこ個別のシーンの事なども。
カントクは“映像化”だけでなく、「音もあるでしょ」という。
映像と音があって映画になってるのだよねぇ。たしかに。
それから、オリジナル脚本ではなく、原作物であること、とか、オムニバスの他の作家との関わり方とか、そもそもの企画についてとか。
或いはちょっと私生活に踏み込みそうな“裏話”とか。
まぁ、本当に、公開の雑談のようなことを1時間以上やっていたわけだけれど、そのなかで、今回私がかなり気になっていたことが、カントクにもビンゴだったようで、終わったあともすこし、Mさん、柚木さんも含めて話が続いた。
細かいことは記憶が飛んでいるし、私は私の興味で水を引いてしまっているので、以下、回想というより、私の再構成。
小川国夫が(東京ではなく)藤枝で仕事をしていたのは、意図的らしい、という話がある。生前「実家で仕事をしているのは自分だけだ」というとうなことを仰っていたとか。
これは大変興味深い。
海外のことは知らず。
日本文学史には、常に“中心”が存在した。
それは、基本的には“都”だ。
旅の文学にしても、歌にしても、遠く離れても都を思う心が基軸になっている。
やがて、文化の中心が江戸に移れば、また、江戸を心の中心軸に置き換えて、それぞれの場所からそこへ向かうベクトルをしっかり持った“地方”がうかび上がる。
近代になっても、地方は、東京から療養や避暑や観光に訪れる空間であって、そこで暮らしている人を描いたとしても、多くは東京人の視点を必要としている。
で、小川国夫には、それがない(んじゃないか)。
では、根無し草なのか、或いはローカル文芸なのか、というと、そうではない。描かれた風景は、大井川流域だったりするのだけれど、そこに、はっきりと、普遍が存在する。
それを可能にしているのは、旧約聖書や神話世界、或いは、ヨーロッパ放浪経験ではないかと、おおざっぱに言えばそう言う話。
異境を放浪し、神話の世界に没入した振り子が、戻る勢いで、故郷へ、そして胎内へ、そうして、神話の根源的普遍世界へと逆回転しているような。
この辺のやりとりはなんだか妙に愉しくワクワクした。
カントクも私も、実は真面目な小川ファンではない。
静岡には生前の小川国夫を愛しつづけている人が沢山いて、色んな“目撃談”もあるし、声を掛けられた想い出を語れる人もいる。
そう言う印象情報と、どこか気むずかしそうな象徴的な文章は、一見繋がらない気もするのだけれど、いっぽうで、やっぱり文章にも妙に引きつける魅力がある。
カントクも私も、ある意味成り行きで読んでみて、「なんだこりゃ、すごいな」と思った、という変な感想が一致した。
東京での上映は、嘗て小川国夫を愛読した世代と、飴屋法水ファンを筆頭に、現代アートに敏感な若い人たちと、ひろい世代で賑わったらしい。
私と同様、それまで小川国夫を読んでいなかった若い人たちが、この映画をきっかけに、手に取ってみてくれたら良いな、と思う。
村上某を読む速さでは、多分読めない。
しかし、その言葉の一つ一つの重さに気づいた時、静岡の小都市/片田舎に、とんでもない世界を書いていた人がいた、ということを、ちゃんと考えなきゃ、と思ってくれるんじゃないかと思う。
“敢えて”地方で活動しているアーティスト。
“やむなく”のひと。
“中央”にいても、ドメスティックな発想のまんまの人。
あり方はどうあれ、表現者の多くが[中央/地方][中心/周縁]という座標軸をどこかで持ち続けている。
小川国夫は、そう言うパラダイムそのものを疑っていたのかも知れない(とか、読んでも居ないので、“仮説”です)。
小沢監督は、今は東京で会社員をしながら、しかし、撮影となるとなぜか、オリジナルでも静岡に来てしまったり。
故郷、ということだけなのか、空間の論理とか、磁場とか、よくわからないままなんだけれど。
途中、Hさんが、地域の特性はあとから付与されるんじゃないか、という話をしだして、そう言う話が大好物の私は飛びつきたかったんだけれど、逸れまくりそうなので戻しました。
この辺はまたあとでつづけたいです。
と、その場にいなかった人には全然伝わらない話ですが、まぁ、残念でしたね、ということで。
何はともあれ、18日から藤枝で上映が始まります。
初日には、また監督挨拶もありそうです。
是非、観に行きましょう。
そして、みんなが見たあと、また語り合いましょう。
たのしゅうございました。
小沢さん、柚木さん、来場者の皆さん、ありがとうございました。
多分私が一番楽しみました。
カフェ・ダダリ、行ったこと無いんですよ~!
こどもたちの最大の楽しみがディズニーランドなのはいやだなぁ。
『長谷川コレクションに寄せて』
子供たちにディズニーランドがあるように、
大人たちには最大の楽しみとして現代芸術がある。
そこがタクラマカン砂漠であるかのように、南極であるかのように、
おとなたちは現代芸術の中を旅する。
カフェダダリに集まる人々は、この特権的な悦楽への道を知っいる。
小川國夫(作家) (パンフレットより )