予算を削るところを模索中なのだろうけれど、今年の芸術祭、無料配付資料はちょっと読みづらい。
で、つい後回しにしてしまったんだけど、この芝居については、後でも良いから読まないわけに行かない感じ。
この芝居、あるいは作者について言及する人は、大抵、初演当時物議を醸したセンセーショナリズムの“誤解”から説き起こしている。
私自身、そういう前情報は入っていて、どんな過激な、救いのない、目を覆うような情景が繰り広げられるんだろう、と言う、変な身構えがあった。
実際、SPACの紹介文でも、「ヒリヒリするような絶望が漂っている」と書いてあるし。
で、実際にみてみると、まぁ、若い人にはちょっとどうかと思いながらも、現在の“娯楽”状況から言えばもう、“事件性”は無い。
しかも、絶望は「漂っている」とはいえ、最終的には希望の光が見える気がして、何だ、ヒューマンな話じゃないか、と、少しはぐらかされた気がする。
それは、こっちの勝手な思いこみでしかないことは、そんなわけで、配られた資料を読めばちゃんと解る。
演出したダニエル・ジャンヌトーという人は、乱入する兵士を愛とは何かを教える天使だと解釈した。
そして、作者自身、暴力性や残酷さが主題なのではなく、「暴力が現に存在しているにもかかわらず書き、そして愛しつづけ、希望をもちつづけようと思ったら、それを避けて通ることはできない」のだ、と言っているらしい。
そういう補助線を書き込んで、自分の感じたことをもう一度見直してみる。
あぁ、さっきの頁から粗筋も引用しておこう。
イギリスの地方都市、高級ホテルの一室。中年のジャーナリスト、イアンが若い娘ケイトを連れて入ってくる。イアンはケイトにセックスを迫るが、ケイトにはその気はない。イアンはケイトをレイプし、目的を遂げる。
ケイトの入浴中、突然部屋に異国の兵士が侵入し、街を占拠したと告げる。ケイトは窓から逃れ、イアンは兵士にレイプされて眼球を食べられる。やがてホテルは爆破され、盲目となったイアンのもとにケイトが戻ってくる・・・。
“筋”を言うなら、ホテルの爆破(兵士は死ぬらしい)以降のイアンの行動と、ケイトが帰ってきてからの僅かなやりとりが書かれていない以外、この粗筋で足りる。
問題は描写であり、言葉、だ。
前半は、ゴシップジャーナリストと、彼に愛想が尽きつつ、心配している元恋人の、セックスを巡る回りくどいやりとり。
最終的にケイトが負けるらしい。
ここだけなら、ドメスティック・バイオレンスや、男の身勝手な欲望(の論理……スイッチオン・オフの話とかね)とか、いかにもありがちな、チープなお話。
そこに乱入する兵士。
俄然緊張高まる。
この兵士には、駆け引きがない。
食欲と性欲を露わにする。
戦場で起こっている“事実”。
暴行されて殺された恋人のこと。
それが、イアンに“愛”を教えることになったのだ、と、まぁそういわれればそうかも知れない。
切実な身体感覚の中で生きること、みたいなもの?
ここで別の主題が入り込む。
ゴシップジャーナリストであるイアンは、平和な街で起きる猟奇的な事件が読者を喜ばせる事を知っている。そして、戦場で実際に起きている悲惨な現実など、誰も本当は興味を持たないのだ、ということも。
兵士は、ジャーナリストはそれをこそ伝えよという。
……あぁ、ホレーショが死んじゃったハムレットを思い出した……。
忌み嫌っていた“障害者”になったイアンは、身体に刻まれた傷とともに、戦場と地続きの現実社会で生きていくことの悲惨を語る人になるだろうか。
イアンとケイトは、この世界でどういう“愛”を分かち合って生きていくのだろうか。
この作品には、希望がある。
最後に、赦しがあり、感謝がある。
悲惨な現実の中で、それを受け入れた上で、それでも生きていく意志がある。
少なくとも、残された二人は、自ら死を選ぶことはないだろうと思う。
問題は、では、我々は、その目撃した惨劇を、芝居以上の何かとして、リアルに体験し、自らの血肉の中に刻み込んで今を生きていく覚悟をしたのか、といえば、やっぱりどうも怪しい。
ベトナム戦争以降(だと思う)、映画の中にも、戦争が兵士に及ぼす影響を正面から扱った物が増えた。
しかし、それらの映画の中の戦闘シーンの悲惨さは、スペクタクル以外の何かになり得ていただろうか。
必ずしも、暴力そのものを描写しない映画も含め、もっと“体感”させるために、様々な工夫があるにはある。
ホテルの一室でまやかしの愛を語りあうように生きる我々にとって、戦場の現実は、どこまで行っても知識でしかない。
それは、多分幸福なことなんだろうな、と思いつつ、想像力の限界を感じないわけに行かない。
照明・音響・道具、共に秀逸でした。
ク・ナウカファンとして、やっぱりこの人達は良いなぁ、と思った、という話は省略。
吐き気を催すような戦場体験、というので、ノーノの『森は若々しく生命に満ちている』を思い出した(リンク先も併読推奨)。
ここまで、午前中にアップしたんだけれど現在時セットし忘れ。
******************
ここから、昼食後に追加。
なんだか書き足りない。
ブンガク的というか、心理学っぽい解釈をするとですね、イアンが“ワキ”、ケイトが“前シテ”、兵士が“後シテ”みたいな分身構造か~! とか言いたくなる欲望があるんですよねぇ。
イアンは出ずっぱりで、ケイトと兵士は生きてる間は同時にいない。
解説の
この作品もよくよく読んでみれば、シェイクスピア、イプセン、ベケットといった西洋演劇史の古典に大きなインスピレーションを得ていることに気づく。
ってのも、気になる気になる。
ぜんぜんわからん。
話戻る。
例えば、戦争体験を聴くのと、聞き書きを読むのと、再現映像を見るのと……。
我々は、他者の記憶をどうやって自分の身体的記憶として持つことが可能なのか、という話。
具体的な“再現”と、“幻想”や“寓話”のこと。
言語/認識以前のこと。
もう一回『転校生』にもどらないと。
で、つい後回しにしてしまったんだけど、この芝居については、後でも良いから読まないわけに行かない感じ。
この芝居、あるいは作者について言及する人は、大抵、初演当時物議を醸したセンセーショナリズムの“誤解”から説き起こしている。
私自身、そういう前情報は入っていて、どんな過激な、救いのない、目を覆うような情景が繰り広げられるんだろう、と言う、変な身構えがあった。
実際、SPACの紹介文でも、「ヒリヒリするような絶望が漂っている」と書いてあるし。
で、実際にみてみると、まぁ、若い人にはちょっとどうかと思いながらも、現在の“娯楽”状況から言えばもう、“事件性”は無い。
しかも、絶望は「漂っている」とはいえ、最終的には希望の光が見える気がして、何だ、ヒューマンな話じゃないか、と、少しはぐらかされた気がする。
それは、こっちの勝手な思いこみでしかないことは、そんなわけで、配られた資料を読めばちゃんと解る。
演出したダニエル・ジャンヌトーという人は、乱入する兵士を愛とは何かを教える天使だと解釈した。
そして、作者自身、暴力性や残酷さが主題なのではなく、「暴力が現に存在しているにもかかわらず書き、そして愛しつづけ、希望をもちつづけようと思ったら、それを避けて通ることはできない」のだ、と言っているらしい。
そういう補助線を書き込んで、自分の感じたことをもう一度見直してみる。
あぁ、さっきの頁から粗筋も引用しておこう。
イギリスの地方都市、高級ホテルの一室。中年のジャーナリスト、イアンが若い娘ケイトを連れて入ってくる。イアンはケイトにセックスを迫るが、ケイトにはその気はない。イアンはケイトをレイプし、目的を遂げる。
ケイトの入浴中、突然部屋に異国の兵士が侵入し、街を占拠したと告げる。ケイトは窓から逃れ、イアンは兵士にレイプされて眼球を食べられる。やがてホテルは爆破され、盲目となったイアンのもとにケイトが戻ってくる・・・。
“筋”を言うなら、ホテルの爆破(兵士は死ぬらしい)以降のイアンの行動と、ケイトが帰ってきてからの僅かなやりとりが書かれていない以外、この粗筋で足りる。
問題は描写であり、言葉、だ。
前半は、ゴシップジャーナリストと、彼に愛想が尽きつつ、心配している元恋人の、セックスを巡る回りくどいやりとり。
最終的にケイトが負けるらしい。
ここだけなら、ドメスティック・バイオレンスや、男の身勝手な欲望(の論理……スイッチオン・オフの話とかね)とか、いかにもありがちな、チープなお話。
そこに乱入する兵士。
俄然緊張高まる。
この兵士には、駆け引きがない。
食欲と性欲を露わにする。
戦場で起こっている“事実”。
暴行されて殺された恋人のこと。
それが、イアンに“愛”を教えることになったのだ、と、まぁそういわれればそうかも知れない。
切実な身体感覚の中で生きること、みたいなもの?
ここで別の主題が入り込む。
ゴシップジャーナリストであるイアンは、平和な街で起きる猟奇的な事件が読者を喜ばせる事を知っている。そして、戦場で実際に起きている悲惨な現実など、誰も本当は興味を持たないのだ、ということも。
兵士は、ジャーナリストはそれをこそ伝えよという。
……あぁ、ホレーショが死んじゃったハムレットを思い出した……。
忌み嫌っていた“障害者”になったイアンは、身体に刻まれた傷とともに、戦場と地続きの現実社会で生きていくことの悲惨を語る人になるだろうか。
イアンとケイトは、この世界でどういう“愛”を分かち合って生きていくのだろうか。
この作品には、希望がある。
最後に、赦しがあり、感謝がある。
悲惨な現実の中で、それを受け入れた上で、それでも生きていく意志がある。
少なくとも、残された二人は、自ら死を選ぶことはないだろうと思う。
問題は、では、我々は、その目撃した惨劇を、芝居以上の何かとして、リアルに体験し、自らの血肉の中に刻み込んで今を生きていく覚悟をしたのか、といえば、やっぱりどうも怪しい。
ベトナム戦争以降(だと思う)、映画の中にも、戦争が兵士に及ぼす影響を正面から扱った物が増えた。
しかし、それらの映画の中の戦闘シーンの悲惨さは、スペクタクル以外の何かになり得ていただろうか。
必ずしも、暴力そのものを描写しない映画も含め、もっと“体感”させるために、様々な工夫があるにはある。
ホテルの一室でまやかしの愛を語りあうように生きる我々にとって、戦場の現実は、どこまで行っても知識でしかない。
それは、多分幸福なことなんだろうな、と思いつつ、想像力の限界を感じないわけに行かない。
照明・音響・道具、共に秀逸でした。
ク・ナウカファンとして、やっぱりこの人達は良いなぁ、と思った、という話は省略。
吐き気を催すような戦場体験、というので、ノーノの『森は若々しく生命に満ちている』を思い出した(リンク先も併読推奨)。
ここまで、午前中にアップしたんだけれど現在時セットし忘れ。
ここから、昼食後に追加。
なんだか書き足りない。
ブンガク的というか、心理学っぽい解釈をするとですね、イアンが“ワキ”、ケイトが“前シテ”、兵士が“後シテ”みたいな分身構造か~! とか言いたくなる欲望があるんですよねぇ。
イアンは出ずっぱりで、ケイトと兵士は生きてる間は同時にいない。
解説の
この作品もよくよく読んでみれば、シェイクスピア、イプセン、ベケットといった西洋演劇史の古典に大きなインスピレーションを得ていることに気づく。
ってのも、気になる気になる。
ぜんぜんわからん。
話戻る。
例えば、戦争体験を聴くのと、聞き書きを読むのと、再現映像を見るのと……。
我々は、他者の記憶をどうやって自分の身体的記憶として持つことが可能なのか、という話。
具体的な“再現”と、“幻想”や“寓話”のこと。
言語/認識以前のこと。
もう一回『転校生』にもどらないと。
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