授業も終わったし、たった一人のゼミ生を除き、私が日頃よく話す学生というのは、“活性化”プロジェクトのメンバーにほぼ限られている。
連中は“今時の学生”という社会人の思いこみに反して非常にアクティブで、話していても反応が良いし、実際愉しい。
“なりたい自分”をしっかり持って、着実に活動している者もいる。
しかし、そう言う連中でも、コト、恋愛に関しては「悟ってますから」という(特に男子ね)。
私も確かに学部生の頃はそうだったと思うからえらそうなことは言えないけれど、40過ぎて“改心”して、今度は“伝道者”になった。わはは。
予め自分の限界を設定して、背伸びしない。手の届かないところに欲しいモノがあったら、踏み台を持ってくるとか、マジックハンドを用意するとか、やり方は色々あるはず(あ、“サトリ”を口にしていたS君は、割り箸におでん串を括り付けて溝に落ちた肉を救出したじゃないか!)なのに、気づかなかったことにしてしまう。
そんな話をした翌日くらいに、“サトリ世代”というのが近年のキーワードなのだと何かで読んだ。
あぁ、彼らはトレンディーな学生だったのね。
話を聞いていると、彼らの“サトリ”は、触媒さえあれは簡単に解けるような物のようだから、まぁ、心配はしていないんだけれど、私の視界に入ってこない学生たちの中には、本当に自分を過小に設定して生きている人がいるのかも知れない。
増えたか、と言われても判らないが「難しそうなんで」「無理ですよね」、と言う類の言葉の方が「やってみなけりゃ」より多い、というのは確かだろうな。
2月2日に社会学科の山下秀智先生の最終講義があった。
演題、というか、この授業の最終回の内容は「二種深信について」。
この、浄土教のキーワードを説明するために、山下先生は、まず、論理学の大きな枠組みを説明し、弁証法という思考法について解説された。
その上で、『無量寿経』、そして「二種深信」へと進む。
「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)
二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)
*「歎異抄第1章を読む 二種深信について」(21世紀の浄土真宗を考える会)から引用(この解説やコメントの立場を支持しているとか言うのではありません、念のため)。
上のリンク先でも触れられている、このいかにも“東洋的”(?)な“矛盾”を、山下先生は、ヘーゲルの論理学、矛盾論を援用しながら、キルケゴールの絶望と信仰の関係と、煩悩即菩提という、大乗仏教のキーワードとを繋げてみせる。
おぉお。
わかった気になった。
でも、書いてるとやっぱり解ってない……。
元々、「文学研究」のために読みかじった仏教書類が面白くて、かなり気に入っているのだけれど、こういう「理解」の仕方もあるのか、と。
私には、もちろん悟りの道はまだまだ遠い。
しかし、“悟り”切った若者たちよりは、少しましな所にいるんじゃないかと思う。
それと、もう一つの“深信”がどうして織物のように一体なのかは「???」だけれど。
目を逸らすのではなく、まず直視し、「あきらめる」ことじゃないのかな、と。
昔は一般教養で論理学をやったものですが、と言う前置きも、非常に気になった。
作文も大事だけれど、少なくとも“論理・思考”は必修にしておいて欲しい。
連中は“今時の学生”という社会人の思いこみに反して非常にアクティブで、話していても反応が良いし、実際愉しい。
“なりたい自分”をしっかり持って、着実に活動している者もいる。
しかし、そう言う連中でも、コト、恋愛に関しては「悟ってますから」という(特に男子ね)。
私も確かに学部生の頃はそうだったと思うからえらそうなことは言えないけれど、40過ぎて“改心”して、今度は“伝道者”になった。わはは。
予め自分の限界を設定して、背伸びしない。手の届かないところに欲しいモノがあったら、踏み台を持ってくるとか、マジックハンドを用意するとか、やり方は色々あるはず(あ、“サトリ”を口にしていたS君は、割り箸におでん串を括り付けて溝に落ちた肉を救出したじゃないか!)なのに、気づかなかったことにしてしまう。
そんな話をした翌日くらいに、“サトリ世代”というのが近年のキーワードなのだと何かで読んだ。
あぁ、彼らはトレンディーな学生だったのね。
話を聞いていると、彼らの“サトリ”は、触媒さえあれは簡単に解けるような物のようだから、まぁ、心配はしていないんだけれど、私の視界に入ってこない学生たちの中には、本当に自分を過小に設定して生きている人がいるのかも知れない。
増えたか、と言われても判らないが「難しそうなんで」「無理ですよね」、と言う類の言葉の方が「やってみなけりゃ」より多い、というのは確かだろうな。
2月2日に社会学科の山下秀智先生の最終講義があった。
演題、というか、この授業の最終回の内容は「二種深信について」。
この、浄土教のキーワードを説明するために、山下先生は、まず、論理学の大きな枠組みを説明し、弁証法という思考法について解説された。
その上で、『無量寿経』、そして「二種深信」へと進む。
「深心」といふはすなはちこれ深く信ずる心なり。また二種あり。一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫よりこのかたつねに没し、常に流転して、出離の縁あることなしと信ず。二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなく、かの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。 (観無量寿経疏 散善義)
二つには深心、すなわちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声一声等に及ぶまで、定んで往生を得しむと信知して、いまし一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。(往生礼讃 前序)
*「歎異抄第1章を読む 二種深信について」(21世紀の浄土真宗を考える会)から引用(この解説やコメントの立場を支持しているとか言うのではありません、念のため)。
上のリンク先でも触れられている、このいかにも“東洋的”(?)な“矛盾”を、山下先生は、ヘーゲルの論理学、矛盾論を援用しながら、キルケゴールの絶望と信仰の関係と、煩悩即菩提という、大乗仏教のキーワードとを繋げてみせる。
おぉお。
わかった気になった。
でも、書いてるとやっぱり解ってない……。
元々、「文学研究」のために読みかじった仏教書類が面白くて、かなり気に入っているのだけれど、こういう「理解」の仕方もあるのか、と。
私には、もちろん悟りの道はまだまだ遠い。
しかし、“悟り”切った若者たちよりは、少しましな所にいるんじゃないかと思う。
それと、もう一つの“深信”がどうして織物のように一体なのかは「???」だけれど。
目を逸らすのではなく、まず直視し、「あきらめる」ことじゃないのかな、と。
昔は一般教養で論理学をやったものですが、と言う前置きも、非常に気になった。
作文も大事だけれど、少なくとも“論理・思考”は必修にしておいて欲しい。
……「二種深信」自体を理解しきれないにしても、どの部分をどう感じて、「直視してあきらめる」になるのか……
と。
ごもっともです。
私も“二種深信”を想像することは出来ても「これだ!」という感覚を持てているわけではないので。
その上で、若者達の“悟り”と、“諦め”の話。
“さとり世代”と名付けられてしまった若者達は、“諦観”に至る前に戦線離脱しているところがあるんじゃないかと。
“諦観”というのは、「しょうがない」「や~めた」と言うことではなく、物事について、本質まで深くつまびらかに凝視することだと思うのです。
野心、欲望、煩悩……。
私は救いようのない悪そのものである。
それを見つめ、それを深く受け入れること。
その上にこそ(こういう“段階”を想定してしまうところに私の理解不足が露呈しますが)、弥陀の本願はあるのだと。
まぁ、宗教の話にする必要はないのですが。
龍津寺さん、吉野さん、助けて~~。
う言葉でプラスイメージを持たせてしまっている、ということですね。(「サトリ世代」
を知りませんでした)
で、本当の「悟り」は、むしろ戦線に挑み、あれこれ試してみることで、「つまびらかに凝視」して「自分の身の丈」を知る。それが「諦観」に繋がるのかもしれない。それを深く受け入れた先に希望や信仰があるのかな?
...ということは分かるし同意するのですが、そういうことが「無量寿経」や「二種深信」に書いてあるのかどうか。
たぶん、それそのものなのではなくて、その解釈というか「論理と思考」というのと「サ
トリ世代」がリンクしたのかな、と勝手に推測するのですが、いかがでしょう。
そうです。
二つの話を無理やり繋げたのは私です。
どうも、このブログを書くときに「三題噺」までは行かないんですが、「二題噺」みたいな作り方をする事がありますね。
意識してるわけでもないんですが。
自分の内的欲求に対して才能だの社会的制約だのによる限界みたいなモノを設定して「諦める」のではなくて、内的欲求はどこまで行っても抑制できないのだと言う救いのなさを受け容れる、と。
どうしやうもないわたしが歩いてゐる
ですね。訂正。
30年以上経って、山頭火って、そう言うこと? っておもったかも。