すみません。
追悼記事ではないです。
でも、改めて、ご冥福を。
あ~、ついでにいうと、今年は久しぶりに加奈崎芳太郎ライブを静岡で企画しようと思っています。
知らない音楽を見つけるきっかけは、断然ラジオ。
70年代、とにかくNHK-FMっこだった。
まだFM雑誌が複数あった時代。
あぁ、そういえば80年代はFENだったなぁ。
CDはアマゾンで買うことが当たり前になってしまった。
書籍でもそうだけど、「見つける」楽しみは断然店舗だと思うのだけれど、品揃えという意味で、全く太刀打ちできない。
それでも、やっぱり、きっかけはラジオ。
土曜の朝ピーター・バラカンの番組で聴いて、気になっら注文。
ネットラジオというのも結構な誘惑。AccuRadioをたまに聴くと、やっぱり何枚か買ってしまう。
ダウンロードはしてないけども。
ここ半月くらい頻繁に聴いてるCD.
“Stages”by Ruthie Foster。
これも、ピーター・バラカン。
色々検索してみると、「ORGANIC SOUL」とか、「ほのかに漂うソウルフルでスピリチュアルなフィーリング」とか、キャッチフレーズ的な解説コメントもあるし、インディーズからメジャーへのサクセスストーリーみたいなものも匂ってきて、ふむふむ。
amazonも、アメリカのでこの人検索するとかなりレビューがあるけどまぁ、英語は解らぬ。
英語が解らないので、ホントのところはさっぱりなんだけれど、この人の歌は“批評”したくなる。
聞き違いでなければ、ラジオでも流したAnother Rain Songは、サム・クック風を意識して作ってるらしい。
このライブアルバムは、冒頭いきなり「ラ・クンパルシータ」で始まるし、他にも「マスター・ブラスター」とか、色々“古典”の“引用”、或いは意識的な“模倣”があるように感じる。
聴いたことのあるメロディや歌詞の一節。
カントリーもゴスペルも、いわゆる“ソウル”も、そういうアメリカの民衆音楽の古典をみんな引き受けてる感じ。
こういう微妙な“既視感”は、たぶん、言葉を誘発する。
吉田拓郎のボブ・ディランの“模倣”。
加藤和彦、山下達郎、桑田佳祐……。
古賀メロディや漣翻訳も含め、日本のポップスも、引用と模倣の歴史なのだし、リミックスだのカットアップだかサンプリングだか、色々手法は開発され続けている。
だから、別に新しいわけではないのだけれど、この人を聴いてると、言葉にしたくなる。
勿論、声の力、歌の力も、只者ではない、というのは前提。
で、「だから」と言ったら強引すぎるかも知れないのだけれど……。
ここのところしつこく書き続けてきた引用や模倣の話も含め、そういう参照軸なり補助線なりがあって初めて引っかかりが出来、“論”への欲求が生まれるんだろう。
無論、その引っかかる“何か”は人によって様々なのだけれど。
Ruthie Fosterにもどる。
たとえばかなり思い切った古典のアレンジ。
Stephen Collins FosterのOh Susannaは全く別の曲に聞こえる。
本人のは見つからなかったんだけど、Samantha Schultzが“pays tribute to Ruthie Foster and her version of this song”と言うことで歌ってる動画があったのでリンク。
で、こんどはSamantha Schultzが気になって、購入。
この人もすごいね。
タワーレコードの推奨コメント。
現在17歳のサマンサ・シュルツが16歳(07年)の時に発表したデビュー・アルバム。ジョニ・ミッチェル~ボニー・レイット好きにはツボにはまるブルース、フォークなどの影響を感じるアコースティックなサウンド。自身のペンによるオリジナル楽曲の数々の完成度は非常に高い。堂に入ったヴォーカルも絶品。
ふむ。
ちょっとリッキー・リー・ジョーンズも入ってるかなという感じで。
これ、かなりよいです。
自分の目の前にあるモノは、みんな、だれかの選択を通っている。
だからだめ、と言う事じゃなく、誰のセレクトなのかと言うことをしっかり認識すればいいのかな。
そういう中からでも、自分が主体的に選んだと言う意識があれば、人に勧められるんだよねぇ。
追悼記事ではないです。
でも、改めて、ご冥福を。
あ~、ついでにいうと、今年は久しぶりに加奈崎芳太郎ライブを静岡で企画しようと思っています。
知らない音楽を見つけるきっかけは、断然ラジオ。
70年代、とにかくNHK-FMっこだった。
まだFM雑誌が複数あった時代。
あぁ、そういえば80年代はFENだったなぁ。
CDはアマゾンで買うことが当たり前になってしまった。
書籍でもそうだけど、「見つける」楽しみは断然店舗だと思うのだけれど、品揃えという意味で、全く太刀打ちできない。
それでも、やっぱり、きっかけはラジオ。
土曜の朝ピーター・バラカンの番組で聴いて、気になっら注文。
ネットラジオというのも結構な誘惑。AccuRadioをたまに聴くと、やっぱり何枚か買ってしまう。
ダウンロードはしてないけども。
ここ半月くらい頻繁に聴いてるCD.
“Stages”by Ruthie Foster。
これも、ピーター・バラカン。
色々検索してみると、「ORGANIC SOUL」とか、「ほのかに漂うソウルフルでスピリチュアルなフィーリング」とか、キャッチフレーズ的な解説コメントもあるし、インディーズからメジャーへのサクセスストーリーみたいなものも匂ってきて、ふむふむ。
amazonも、アメリカのでこの人検索するとかなりレビューがあるけどまぁ、英語は解らぬ。
英語が解らないので、ホントのところはさっぱりなんだけれど、この人の歌は“批評”したくなる。
聞き違いでなければ、ラジオでも流したAnother Rain Songは、サム・クック風を意識して作ってるらしい。
このライブアルバムは、冒頭いきなり「ラ・クンパルシータ」で始まるし、他にも「マスター・ブラスター」とか、色々“古典”の“引用”、或いは意識的な“模倣”があるように感じる。
聴いたことのあるメロディや歌詞の一節。
カントリーもゴスペルも、いわゆる“ソウル”も、そういうアメリカの民衆音楽の古典をみんな引き受けてる感じ。
こういう微妙な“既視感”は、たぶん、言葉を誘発する。
吉田拓郎のボブ・ディランの“模倣”。
加藤和彦、山下達郎、桑田佳祐……。
古賀メロディや漣翻訳も含め、日本のポップスも、引用と模倣の歴史なのだし、リミックスだのカットアップだかサンプリングだか、色々手法は開発され続けている。
だから、別に新しいわけではないのだけれど、この人を聴いてると、言葉にしたくなる。
勿論、声の力、歌の力も、只者ではない、というのは前提。
で、「だから」と言ったら強引すぎるかも知れないのだけれど……。
ここのところしつこく書き続けてきた引用や模倣の話も含め、そういう参照軸なり補助線なりがあって初めて引っかかりが出来、“論”への欲求が生まれるんだろう。
無論、その引っかかる“何か”は人によって様々なのだけれど。
Ruthie Fosterにもどる。
たとえばかなり思い切った古典のアレンジ。
Stephen Collins FosterのOh Susannaは全く別の曲に聞こえる。
本人のは見つからなかったんだけど、Samantha Schultzが“pays tribute to Ruthie Foster and her version of this song”と言うことで歌ってる動画があったのでリンク。
で、こんどはSamantha Schultzが気になって、購入。
この人もすごいね。
タワーレコードの推奨コメント。
現在17歳のサマンサ・シュルツが16歳(07年)の時に発表したデビュー・アルバム。ジョニ・ミッチェル~ボニー・レイット好きにはツボにはまるブルース、フォークなどの影響を感じるアコースティックなサウンド。自身のペンによるオリジナル楽曲の数々の完成度は非常に高い。堂に入ったヴォーカルも絶品。
ふむ。
ちょっとリッキー・リー・ジョーンズも入ってるかなという感じで。
これ、かなりよいです。
自分の目の前にあるモノは、みんな、だれかの選択を通っている。
だからだめ、と言う事じゃなく、誰のセレクトなのかと言うことをしっかり認識すればいいのかな。
そういう中からでも、自分が主体的に選んだと言う意識があれば、人に勧められるんだよねぇ。
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