コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

疲・労

2008-11-19 10:31:24 | 
芝居の感想を書きかけているのだけれどまとまらない。

こっちもまとまってないんですが、ちょっと面白そうなので。


週末、山手線の車中CMで、マクドナルドのを観たわけですよ。
TVでもやってるらしいんですが、私はほぼTV観ないので、初めて。
マクドナルドCMギャラリーの、「24時間マクドナルド『月夜の下で』篇」。



電車の字幕版だとわからないんだけれど、ちょっとミュージカル仕立てで、店員が疲れた(?)サラリーマンに向かって「ご苦労様です」という。


これ、マクドナルド、あるいは広告制作会社で議論にならなかったんだろうか。

授業の学生に聞いても、「ご苦労様」は“下向き”と言う“常識”があると言う人がちらほら。
やっぱり。

今、ちょっと検索してみると、「ご苦労」には横柄な印象があるので使わない方が無難、「お疲れ様でした」は汎用性があるのでこれならいつでも、と言うような形で定着しているように見える。

社団法人中央調査社のページに06年の「文化庁の「国語に関する世論調査」結果」の紹介があるので見てみましょう。
データはともかく、まとめは
 ビジネスマナー本などでは、ねぎらいの言葉は、上司に対しては「お疲れ様(でした)」、部下に対しては「御苦労様(でした)」を使い、上司に対して「御苦労様」を使うことは、失礼だとされているが、10代や60歳以上においては、上司に「御苦労様(でした)」の割合が比較的高かった。また、「お疲れ様」を、部下にも使っている人が半数以上を占め、「御苦労様」を上回っていた。身分や立場に関わらず、ねぎらいの言葉には「お疲れ様」を使う人が多いという実態が明らかとなった。
と言うこと。
これは、「ビジネスマナー本」のような“常識”に囚われた人達だけがおかしな事をやってるように見える。
つまり、誰がいつ決めたんだか判らないけれど、これはビジネス敬語として簡略化された用法なんじゃないか。

じゃぁ、どういう使い分けがあって然るべきなのか、と言うことに関しては、賛否両論ある物の、数年前(と思ったらもう10年も前か?!)大ブームになった『敬語表現』(大修館書店 蒲谷宏・坂本恵・川口義)が触れている。
これも、入力する手間を省くために、引用している個人のブログをリンク(この人は、他の例も引きながら、批判も含め解りやすく論じてくれている)。

ご苦労様です・でした
 自分の利益になることをしてもらったことに対するねぎらい
 例:注文したビールを配達してくれた酒屋の店員に対して

お疲れ様です・でした
 行動そのものの苦労に対するねぎらい
 例:みんなで苦労した仕事が終わったときに、お互いに

この本の説明が正しいかどうかというのはもう少し検討するとして、私も、[お疲れ/ご苦労]を上下関係だけで区別する考えには反対だ。

歴史的なことを言うと、感謝・ねぎらいを表す挨拶語としての「ご苦労」は、江戸時代からあるけれど、「お疲れ様」は新しい気がする。
私のHDに入っている本文ファイルを検索して出てくる例だと「ご苦労」は『仮名手本忠臣蔵』の
一間の内より塩冶判官。しづ/\と中立出。詞 是は/\御上使と有て石堂殿御苦労千万。先お盃の用意せよ。
あたりが古く、『膝栗毛』や『浮世風呂』など、口語文献中心にたくさん見えるし、近代小説では一葉、漱石と用例に事欠かない。

それに対して「お疲れ様」は、圓朝の『菊模様皿山奇談』
「えゝ段々お疲れさま……続いてお淋しい事でございましょう」
や漱石の『明暗』
 彼が銜え楊枝のまま懐手をして敷居の上にぼんやり立っていると、先刻から高箒で庭の落葉を掃いていた男が、彼の傍へ寄って来て丁寧に挨拶をした。
「お早う、昨夜はお疲れ様で」
「君だったかね、昨夕馬車へ乗って此所まで一所に来て呉れたのは」」

あたりが古いようだが、それほど多くは出てこない。

これらの用例を精査して、上下関係によるのか、行為の内容によるのか、検討してみる必要がある。
もう誰かやってると思うんだけど。
ただ、この本でも言っているように、おそらく、「ねぎらい表現は、本来上から下に向けられるものなので、そうでない場合には、感謝やお礼などの表現に変えたほうが好ましい」と言うことなんじゃないかと思う。目上の人には「お忙しい中有難うございました」じゃないのかな。


さて、話をマクドナルドに戻そう。

マクドナルドが“一般常識”を敢えてはずして、何か提案する気ならおもしろいんだけれど、そう言う企業ではないだろう。
とすると、既に“一般常識”に変化が起こったということなのか。
しかし、『敬語表現』流の考え方からしても、店員が客に「ご苦労様です」と言うことは考えにくい。

なら間違いなのか?
それにしてはネットなどで話題になってない感じなのが不思議。
こういう事に引っかかる人がいなくなった?
それも寂しい。

あぁ、こうやって議論させるのが目的だったらすごいな。
でも、効果ないねぇ。


ちょっとすぐに思い出せないんだけれど、区別が難しいからなるべく使わない方が無難、と言う理由で死語への道をたどりそうだな、と思った言葉が他にもあった記憶がある。
「日本語の豊かさ」を削ろうとしているのは誰なんだろう。

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