コニタス

書き留めておくほど重くはないけれど、忘れてしまうと悔いが残るような日々の想い。
気分の流れが見えるかな。

発表すべき成果

2010-01-07 19:47:44 | 
ちょっと前の記事に書いたように、年度末と言うこともあって、“発表会”が色々。ほかにも“成果物”のまとめとか、みんな追い込みです。
前期の授業だった“静岡の文化”は、イベントとしては既に終了(これと、これです)、まとめ作業中です。
で、もう一つ、昨年の内に成果報告会があった“天晴れ門前塾”について、書きかけたまま放置していたので、そこから、学ぶことと発表することの関係とかの考察をば。




09年の12/18夜。静岡県教育会館でした。
第5期。
なんだかんだ言っても、多分、門前塾各期の最終報告会は皆勤。ちがうかな。

いずれにしても、第1期の熱気は継続せず、特に4期・5期は、発表のレベルだけでなく、活動そのもの是非が問われるような状態。
このフォーマットは、明らかに賞味期限を過ぎている。
なんというか、OS換えた方が良いんじゃないか、という感じ。

しかし、なぜそんなことになったのか、という課題が、今回非常に鮮明に見えたのではないかと思う。

今期の「組」は、以下の4つ。

奥野組:“表現”を意識する         SPAC舞台俳優 奥野晃士
田宮組:田宮会長から学ぶ人生学       田宮模型グループ会長 田宮俊作
林組 :ジェンダーから観る恋愛・結婚    初代アザレア所長 林のぶ
満井組:「こうすれば、大学生活が楽しくなる」満井就職支援財団理事長 満井義政


発表会は、去年とほぼ同じ形式で、前半ステージでの報告、後半は「展示」。
なんだけれど……。

発表会なのだから、どんなテーマであっても「表現を意識」するのは当然だ。
しかし、それがテーマになっている“奥野組”以外は意識されていないように見える。
いや、“工夫”のあとはある。演出もある。しかし、それは、誰に、何を伝えようとしたんだろうか。

これは、門前塾だけの問題ではない。
授業で、学会で、そして多分、ビジネスの現場でもあることなんじゃないか。
ただ、日本のなぁなぁ社会は、それで成り立ってしまっている感じがあるのだよね。
でも、だめでしょ、それじゃ、と言う話。


三つの班は発表会で何をしたか。
簡単に言えば“活動紹介”。
何処に行った、誰と会った、と言う話を、写真付きで報告。
展示ブースでは、その時の資料などもあるのだけれど、基本「○○をしました」と言うことに留まっている。
成果物として絵本を作り、朗読して見せた班もあったのだけれど、そういうことをすると逆に、身に付いていない事がはっきり現れてしまう。
ジェンダーバイアスを疑え、と言う目的で作った絵本で[男:くん/女:ちゃん]が当然のこととして使われていたり(議論した末での結論なら認めないでもないけれど、あとで訊いたら誰も自覚がなかったらしい。きっと「教わりませんでした」ってことなんだろう)。

活動前でも作れるような、項目を書き出したパワーポイントを表示して読むだけ。
しかも、操作画面を出したり消したりも見苦しい。
その活動の“目次”は解りました。で、そこで何を得たのか、それで、何が、個々の「身についた」のかが伝わってこない。

「やったこと」だけで満足してるのかな。
しかし、“満足感”も伝わらないぞ。


では、奥野組は何を“発表”したのか。
即興劇を披露しただけでした。
趣旨説明も活動報告もほとんど無く、我々はいきなり紙に単語を書かされ、それを散らしたステージで、全員の即興劇。
抱腹絶倒、後、感心。

観客は、僅か数ヶ月の間に、どんなトレーニングがあったのか、全く知らされないのだけれど、この、臨機応変のチームワークが、簡単にできるはずの物ではないことは、直ぐに理解できる。
おそらく筆記体で書かれた難しい外国語も、とっさの判断で人名に仕立ててしまう所など、恐れ入る。
我々の見たいのは、これだ。

いや、本当に、教育者としての奥野さんの力量には舌を巻くしかない。老若男女、ざまざまな“生徒”を対象としたワークショップやリーディング・カフェで培ってきた物は、ダテじゃないですね。
素晴らしい!


何処で何をしていたか、も、確かに重要だけれど、教室にいてぼんやり授業を聞いていただけの学生に単位は出せないように、「やった」だけで評価せよ、と言うのは無茶な話だ。


“得た物”を、どうしたら伝えられるのか。
それ、多分課題。
それから勿論、どう受け止めるか、と言うことでもある。
「芝居を学んで何になるの?」と言うようなことを訊いていたおじさんが居たけれど、これが、社会で生きていくこと、そのものですよ、ということでしょ。

奥野さんに限定することでもないと思うんだけれど、大学の授業の中に、もっともっと“表現”に関する物が増えなければいけないんじゃないかと思う(ホントは授業である必要なんてないはずなんだけれど)。


しかし、実はもっと大きな課題がある。
「本当に“得た”」のか、ということ。
更に言えば、本当に求めたのか? 何を?
そこで、何を得ようとしたのか、さえ伝わってこない。
(授業と違って)楽しかった、充実していた。
で?

これは、「静岡の文化」の発表会にも言えることだ。
私が敷いてしまったレールの上で、学生達は、それを考えるチャンスを逃している。
私自身、申し訳ないと思いながら、そこを抜け出す道が、まだはっきり見えていないのだ。

奥野組の若者たちの中にも、正直、かなりの温度差は感じた。
しかし、与えられた環境とはいえ、連中は、決定的な何かを体験したんだろうな、と言うのは伝わってくる。
それがあれば、敷かれたレールでも、取り敢えずの入口にはなるはずなのだ。
大きなヒントがある。

単位のために嫌々出てみた授業で、そういう一撃を加えられないのなら、やっぱり教師が悪いんだろう。

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4 コメント

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はじめまして (あーか)
2010-01-09 09:54:46
第3期の発表会を見たことがあります。
正直、ユニークで面白そうな活動、と感じました。

しかし、いい経験や何かを得たからと言って
それを必ずしも誰かに伝えたくなるとは限らないのではないかと思います。
むしろ、得た物を発表するというのは、何か組織の存在目的など、別の意味合いが強い感じがしました。

今期の発表会を見ていないので何か違うかもしれませんが。
一理 (こにた)
2010-01-09 10:08:22
あるのかな、とも思います。

自分だけの物にしたい?
そう言いたいのではないでしょうねぇ。

「ユニークな……」というのはまさに「組織」全体としての印象ですよね。

私自身「発表会」が組織のためにあるような物をイヤになるほど観ています。
で、確かに、門前塾のはそう言う傾向がどんどん強まって、しかも失敗しています。

一方で、得る物があって、伝えることが出来ている人たちは、そう言うしがらみみたいな物を超越しているように見えます。

む~。
つたわらないかなぁ。

是非、今後もご出席下さい。
うまく言葉にできないのですが… (人工知能)
2010-01-10 00:05:52
門前の活動の中で、こんなことをした、こんなことを学んだ、
というだけにとどまるのではなくて、その「次」が問題なのだろうな、と…。
こんなことをした、こんなことを学んだ、だから私はこう考えた…みたいな、「応用編」が。

>いい経験や何かを得たからと言ってそれを必ずしも誰かに伝えたくなるとは限らないのではないか
というのも、解るような気がします。
しますが、一期に学徒だったときの私は、
ただ単純に「私たちはこう思った!」ということを伝えたかった、と思います。

今の門前の状況は解りませんが、
学校の外に出てはみたけれど、予備校に行っちゃった、みたいな感じなのでしょうか。

しかし以前にも話題にしたことがありましたが、
中にいた当時には解らなかったことに、今になって気づくことは多いですね。
そうなんだよねぇ。 (こにた)
2010-01-10 21:07:31
だから、中々難しいだろうけれど、できれば、「卒業生」たちは継続して関わって(口を出せ、と言うことではなく)欲しいなぁと思うのだよね。

現役の若者たちはちょっとどうしたらいいか解らなくなってる気がする。


あぁそうか。

「何を得たか」を伝える、と言うのも「……がわかりました」みたいで気持ち悪いのだよね。
「わかった」じゃなくて、「かんがえた」なんだよなぁ。
あるイカ、その先に、何をした・している、と言うこと、とか。

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