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コマメディア ー史上最弱の仏弟子 コマメー

仏教ファン、瞑想バカのフリーライター森竹ひろこ(コマメ)の仏系ブログ。最弱なので、おてやわらかに!

【報告】プラユキ師「夜のお話と瞑想の会」 2015年6月19日(金)

2015-06-26 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



 2015年6月19日(金)、お茶の水の昇龍館ビル(通称サンガビル)で、タイで出家された日本人僧プラユキ・ナラテボー師をお招きして「夜のお話と瞑想の会」を開催いたしました。この日は梅雨らしい降ったりやんだりの天気でしたが25人ほどが参加され、週末の夜のリラックスした雰囲気のなかで会が進みました。

 今回のお話のテーマは事前にリクエストを募り、「どうすれば、日々やる気を継続した ”仏教モードON” の状態で生活してけいますか?」といった大阪のaさんからの質問を受けて、「仏教モードONで日常を生きる」に決定しました。

 そもそも日常生活における「仏教モードON」とは、どんな状態でしょうか。プラユキさんはそれを「八正道」と「正念正知」の実践だと定義されました。そしてお話は、実践のためのポイントである「意欲(チャンタ)」と「精進」について、瞑想から日常生活の例などをまじえながら、わかりやすく解説されました。


 なかでも、怠け者の私にはとても身につまされた、私たちを「仏教モードOFF」に向かわせる心のトリックについてのお話をシェアします。
プラユキさんによると、自分で怠け者とラベルを貼ること自体が、心のトリックにひっかかる前段階だそうですよ。(ギクッ!)

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気分の奴隷

私たちは「やる気がないからやらない」と、よく言ったりしますね。
実は、これは気分の奴隷になっている状態といえます。
でも、私たちは心の奴隷ではありません。
やる気がなくても行動を起こすことはできますよ、これがミソです。
行動するうちに、だんだんやる気もわいてきます。

私たちは生まれ育ち、その環境のなかで、自分なりの習慣といってもいいし、
脳機能ともいえるものを作ってきました。
たとえば、何度も意欲を起こしてやっていくという習慣をつくれば、
やる気が自然とやってくる体質になります。
あるいはやる気がなくても、やる習慣ができてきます。

ある人が「やる気はエンジンではなくて、速度メーターだ」と言っていましたが、
これ、おもしろいなぁと思いました。
たしかに最初にやってしまえば、メーターが上がります。

仏教的に意欲は自分で培っていけるとされていますが、
精神医学でも、これを運動興奮(作業興奮)という言葉で説明しています。
まったくやる気がなくても、強制的に体を動かすことで、
脳のドーパミンの分泌が促され、やる気がでてくるそうです。
例えば、お掃除をやる気がなくても、やると夢中になったり、
ジムに行くのが面倒でも、行って体を動かすと心身が元気になったりする、
ということです。


概念の奴隷

もうひとつの心のトリックは、「私は怠け者だからやらない」です。
このトリックも、はまりやすいよね。
実は、この「怠け者」はラベルにすぎず、
私たちはそうしたラベルとは無関係に行動することができます。
でも、このようなラベルをはって抽象化すると、
自身の行動の可能性をうばうことになりますよ。
「私は怠け者です」「私はダメ人間です」「私は悪人だ」「私は自信がない」
……全部ラベルです。
私たちの過去の失敗体験にフォーカスを当てて私の特性と認識し、
それが自身の行動を支配する内的な原因と理解してしまうと、
本当はできる行動もできなくなります。

これは仏教的な言い方をすれば、自己概念(自我)にもとづいた思考への執着です。
自我は、「私はこうである」という認知をまとめたものです。
それは喩えると、お花をまとめたブーケ(花束)のようなものです。
ブーケがお花が育つ原因になっているわけではないし、
ブーケがお花をまとめあげることもできません。
同じように、概念は私の行動を制限したり、支配したりすることはできません。
だから概念に囚われなければ、今ここで本当にやるべきことができますよ。

このように、できないようにしちゃう心のトリック、
気分の奴隷、概念の奴隷にならないということを、まずおさえてください。


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プラユキさんのお話を聞いて仏教モードがONになったところで、手動瞑想をメインに、合わせて歩く瞑想の指導が行われました。こうして、仏教モードのメーターがさらにアップしたところで、今日の「お話と瞑想の会」は終了です。


 終了後の懇親会は十数人が出席。自己紹介のあとは、質疑応答をまじえながらのフリートークになりました。アットホームな雰囲気のなか、21才大学生男子の恋愛に関する質問から、いつしか恋愛トークに。プラユキさんはもちろん恋愛を否定しません(というか、むしろ不邪淫戒をおかさなければ推奨か!?)。自分を、そして相手も育てる仏教的な視点に立って、ユーモアを交えながらお話をされていました。
 そういえば、上座仏教の僧侶をお招きした仏教瞑想会で、このように和気あいあいと恋愛話で盛り上がることはほとんどありませんね。でも現代社会を在家で生きる私たちにとって、恋愛はとても切実なもの。本当は仏教の文脈のなかで、もっとオープンに聞きたいし、話したいことなのかなと感じました。
 いつか恋愛をテーマにした「お話と瞑想の会」を、プラユキさんにお願いしてみようかな……


ところで、大阪のaさんは遠方のため参加がかないませんでしたので、法話の音源データをお送りしました。その感想が届きましたので、本人に了解いただき、その一部を掲載します。aさん、学びのシェアを、ありがとうございます。

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音源データ、無事にダウンロードして、
添付して頂いたテキストを片手に勉強することができました。
いつも本で読んでいるプラユキ師の、生の法話が聞けて嬉しかったです。

想像していた通り、とても優しくておだやかな口調で、
聴いていて心が落ち着きました。

私は仏教モードが途切れた時、その思考に気付くことを放棄してしまっていました。
それが仏教モードOFFの状態だったのかと思います。
“実践編”でお話があったように、
その思考に気付き「すぐにリベンジ」することが自分には欠けていたと思います。
そして何より「行動」する大切さを学びました。
「やる気がなくても行動はできる」は、
なかなか厳しい言葉であり真理でもあるなと唸ってしまいました。
この言葉を胸に、日々実践したいと思います。


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【お知らせ】 「ティク・ナット・ハン師の仏教思想と実践」の報告記事の、公開を終了しました。

2015-06-17 | (報告・感想)気になるイベント、講演会
朝日カルチャーセンターで開催された、「ティク・ナット・ハン師の仏教思想と実践」の報告記事を、たくさんの方に読んでいただき、ありがとうございました。このたび「ティク・ナット・ハン プラムヴィレッジ僧侶団来日ツアー」が無事修了したことをうけて公開を終了しました。

カルチャースクールのコンテンツという特性がありながら、ツアーへの協力と案内ということで期間限定で公開させていただくことができました。承諾や黙認(?)していただいた講師の方々に感謝するとともに、朝日カルチャーさんのご好意にも深く感謝いしたします。

なお、参加された方で終了後の集合写真をまだDLしていないけど希望する方は、私の方でお送りしますので、メール、もしくはこのブログからメッセージでお伝えください。

【報告】「PVの高僧30名vs 日本の青年僧100名 対話会」に参加しました

2015-05-12 | (報告・感想)気になるイベント、講演会




 ティク・ナット・ハン プラムヴィレッジ僧侶団来日ツアーの一環として、5月12日に行われた「プラムヴィレッジの高僧30名vs 日本の青年僧100名 対話会」が行われました。主催が「全国曹洞宗青年会」のため、曹洞宗の僧侶を中心に、応募された20名ほどの他宗派の僧侶が参加されていました。
 私は在家ですが仏教ライターという立場で、取材者として参加いたしました。


 開場時は、日本の禅宗特有の引き締まった空気も流れていましたが、禅歌(プラムヴィレッジオリジナルの呼吸の歌)をみんなで歌い、そして穏やかな言葉による誘導瞑想と進むうちに、だんだんとプラムヴィレッジらしい和らいだものへと変化していきました。

 法話はティク・チャン・ファップ・ユンが「自分の家に帰る」というテーマで説かれました。参加者とも世代が近く、また米国の大学卒業後、建築関連の仕事をされていた経験もあるファップ・ユン師の言葉は、日本の青年僧にも共感をもって受け入れられたのではないでしょうか。

 質疑応答では、プラムヴィレッジの理念や、自分の負の感情の対処方法などいくつかの質問がされました。なかでも「父と母への恩義を感じない日本の若い人が増えてきたが、そういった人にどう対処すればいいか?」といった質問に対する、尼僧シスター・チャンコンの答えが印象的でした。
 それは要約すると「プラムヴィレッジでは親を愛しなさいとは話しません。子どもたちはプラクティス(実践)をするなかで親に対する理解も生まれ、誰に言われるでもなく自然に感謝できるようになるのです」といったもので、まさにプラムヴィレッジのありかたを象徴しているよう。僧侶が子どもを未熟な存在として導くのではなく、その可能性を信じてともに実践して学んでいく姿勢は、日本の多くの青年僧には新鮮な驚きを与えたようです。


 昼食の食べる瞑想、くつろぎの瞑想と続き、その後のシスター&ブラザーを囲んで行われるグループディスカッションは、自分の関心のあるトピックに参加する形式です。
 「現在社会における僧侶の役割」、「マインドフルネス、集中、洞察」「解脱の成就」など今の日本の仏教を反映するような、8つのトピックが掲げられていました。どれも興味深いのですが、私は現在が仏教の大きな過渡期だと感じているため、青年僧侶の率直な意見をお聞きできればと、トピックス「仏教の再生」のグループに参加。一人ずつ発言をされましたが、参加者が抱えているテーマは新しいお寺のあり方から、修行の葛藤まで幅広いのですが、それぞれが真摯に僧侶としてのあり方を模索されていました。彼らがこれからの日本仏教を支え、主柱となっていくことを頼もしく感じます。

 最後は歩く瞑想で、街中を少々歩いて終了。参加者に感想をお聞きすると、多くの方が曹洞宗とプラムヴィレッジのあり方は表向きでは違っていても、そのエッセンスは同じことを実感され、とても好印象で受けとめていたことに、少々驚かされました。自分たちのやっていることの意味を再確認された方や、活動や修行を進めるうえで新たな視点を得られた方もいました。
 参加された青年僧侶たちがここでの学びを活かし、日本の仏教をより魅力あり、また人々の助けとなるように構築されていかれるのを、楽しみにしたいと思います。




(おまけ)
20年前にティク・ナット・ハンが来日された時も、今回と同じような若手僧侶との対話会をもたれました。そこでは「日本仏教に具足戒を復活させよう」といった衝撃的な発言をされたそうですが、今回は現在の日本仏教を根本から覆すような発言はプラムヴィレッジのモナスティク(僧侶)からはなかったようです。
 とはいえ、今回の来日ツアーのリーダー的な存在のティク・チャン・ファップ・アンをインタビューした時は、なかなかラジカルな話題も出ました。こちらは、(株)サンガの出版物に掲載予定ですので、お楽しみに。


※順番的には蓑輪顕量先生が講師を務められた、朝日カルチャーの「ティク・ナット・ハン師の仏教思想と実践3」を先に掲載するところですが、今回は一般に募集をかけていないイベントということもあり、リクエストをいただき先に執筆しました。




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【報告】正田大観先生の現代語訳「小部経典」が発売!記念祝賀会のご報告です

2015-04-08 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



 本日4月8日は花祭り(北伝仏教的には、お釈迦様の誕生日)。それにあわせるかのように正田大観先生が現代語翻訳された「小部経典」全十巻が、Kindle版で発売開始されました。

 小部経典の名前は冒頭の「小誦経」に由来しますが、その名前に反して圧倒的な文字量を有し、パーリ語経典の経蔵「五部」のなかで半分近い分量を占めています。その全訳には多大な労力を注がれたことと、敬服いたします。

 小部経典には「スッタニパータ」や「ダンマパダ」などメジャーな経典もふくまれますが、それでも全10巻中、6巻が初の現代語訳になります。正田先生に初の現代語訳のなかであえてお勧めをうかがったところ、スッタニパータの注釈書である第八巻の「マハー・ニッデーサ(大義釈)」と、第九巻「チューラ・ニッデーサ(小義釈)」をあげられました。
 また、ブッダゴーサの「清浄道論」の原型であるといわれる、サーリプッタ長老が修行方法を説いた第10巻の「無礙解道(パティサンビダー・マッガ)」も初の現代語訳の目玉といえそうです。

 五世紀前半の学匠ブッダゴーサは、現在の上座仏教の思想的な原型をつくりあげたとされる人物で、その思想形成には大小の「義釈」と「無礙解道」から多大な影響を受けたといわれています。そういった意味でも今回の現代語訳は、上座仏教を学ぶ人にも、瞑想の実践者にも、広く恩恵をもたらすことでしょう。





 翻訳の原本には、現在では最高水準のパーリ三蔵テキストといわれる、1954年の第6結集版を改訂した「ワールド・ティピタカ」を使用され、その縁もあり、タイに本拠地を置くワールド・ティピタカ財団の主催による出版記念祝賀会が4月4日に開かれました。
 現在、正田先生は関西を拠点に活動されていますが、祝賀会は東京で行われました。そこで、学びのガイドを務められる「みんなの仏教教室」の学人のみなさんをはじめ、ご縁のある方々に先生の晴れの姿(!)が少しでも伝わればと、写真をまじえながらレポートいたします。





 祝賀会はワンギーサ長老がご参加されたこともあり、まずは三帰依、そして「五戒文」、「仏陀の九徳」「法の六徳」、「僧伽の九徳」、「三宝に対する懺悔」などを全員で唱えることから始まりました。特に文言の書かれた紙などの用意はありませんでしたが、ほとんどの参加者が空で唱えられていたのは、さすがです。
 その後、出版元Evolvingの糸賀社長が書籍の概要を紹介されました。




 続いてワンギーサ長老が、正田先生の功績を祝福されました。長老は仏法ブログ「困った時はダンマパダ、スッタニパータで悟りを開く」で、毎日法施をされていることでも知られていますね。
「正田先生のパーリ語は本当に忠実です。私たちが辞書をひきながら原文を読むときに併読すると、深く理解できます。
 南伝大蔵経には文語体の訳がありますが、現代文はないものも多いので、パーリ経典を勉強する方には大きな助けとなるでしょう」





 ワールド・ティピタカ財団の副理事長も来日し、その偉業を讃えられました。副理事長はタイ王室の親戚筋にあたるそうで、物腰や話し方が洗練され、しかもとても気さくな方でした。(右の女性は日本担当役員で、通訳をされていました)
 「7年ほどで、個人でこのような大役をみごとに成されたのは、並大抵のことではないと思います。
 正田先生の現代語訳により、若い人たちでも、仏教の知識のない人でも、ブッダの教えに触れることができるようになりました。これはたいへんなお布施、ダンマ・ダーナです」




星さんのスピーチ中、贈呈された「サンガジャパン別冊2 タイ・ミャンマー人物名鑑」を
熱心に見入る副理事長


 その後、書籍化の実現に奔走された著述家の星飛雄馬さんによる経緯の説明を兼ねた祝辞、そしてパーリ語の先生でもある小野道雄さんの心のこもった祝辞がありました。





そして正田先生ご本人のスピーチです。(抜粋)
 「私は15年前に日本テーラワーダ仏教協会に入会して、皆さんとのおつき合いが始まりました。いつも皆さんにはお世話になってばかりです。そこで何かお役に立てればと、大学でパーリ語を勉強していたので、10年以上前に教えることを始めました。
 そして2008年、タイ王室から協会に『ワールド・ティピタカ』が贈与されましたので、宝の持ち腐れにならないように、協会の皆さんへの恩返しになればと翻訳に取り組むことにしました。翻訳するにあたって、ニーズが高いセクションは何かを考えたら、それは「小部経典」ではないかと思い至りました。
 おかげさまで翻訳が完成できましたが、完成といっても本当に完成ではないのですね。おそらく十回ぐらいは、出来たものを見直したり、手を加えたりしていました。それでも今も見たら、赤を入れて訂正するようになるはずですよ。
 だから、厳密には完成とは言えないのですけれど、でも、いつまでも関わっているわけにもいきません。まず「清浄道論」の下書きができているので、それを完成させて、そして残りの人生を「増支部」の翻訳をがんばってやっていきます。そして、幸いにしてまだ命がありましたら、「相応部」をしようかなと思っています。
 今日は、本当にありがとうございました」




その後、ワールド・ティピタカ財団から活動の紹介がありました。
 財団は現在、文字だけでなく、お釈迦様の言葉を正確な発音で再現するプロジェクトを展開されているそうです。
 また、贈呈した「別冊サンガジャパン2」を手に、表紙のロゴを指し「Samgha」の m を西洋では n と書くことが正しいとされているが、鼻に抜ける発音なのに、 n を使うとそうではなくなってしまうため、 m が正しい。西洋人が正しいと信じている n ではなくて、 m を使っているのは勇気があることだと、絶賛されていました。音声プロジェクトを進められているだけに、発音にはこだわりがおありですね。
 でも、別冊の内容については一言も触れられませんでした。登場するタイの僧侶は森林派が中心ですが、タイ王室と縁の深い一派であるタマユットニカーイの僧侶や、経典研究で業績を残した学僧がほとんど取り上げられていなかったためでしょうか。タイの人から見てもマニアックな一冊のようです……


 途中、昼食をはさみ、終始温かい雰囲気のなか、祝賀会は3時間ほどでお開きとなりました。
 正田先生の偉業を随喜させていただくとともに、心に残るよき会を主催されたワールド・ティピタカ財団にお礼を申し上げます。




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【報告】宗教を超えた“後藤さんの解放を祈る集会”が、首相官邸周辺で行われました

2015-01-28 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



宗教者の一番の力とは
 現在、ISIL(イスラム国)に拘束されている後藤健二さんは、聖書をいつも手元に置いているほど敬虔なキリスト教徒だそうです。その後藤さんが近所に住んでいた時に通っていた、代々木上原教会の教会員・鈴木玲子さん(76)の呼びかけで、宗教を超えて解放を祈る集会が首相官邸前で行われました。
 主催は鈴木さんが参加する、「殺さない、殺させない」という祈りのもとに活動する、宗教者たちの草の根ネットワーク「平和を作り出す宗教者ネット」。「私たち宗教者の一番の力は『祈り』ではないでしょうか。宗教を超えて皆で後藤さんの無事を祈ることこそ、今私たちができることです」と鈴木さんは集会の趣旨を訴えます。

多様な宗教関係者が官邸前に集結
 当日は首相官邸前には80人以上の人が集まりました。その多くはいずれかの宗教の信者や、集会の趣旨に賛同した一般の人たちですが、法衣を着た宗教者もちらほら。なかにはスキッパー(帽子)をかぶったユダヤ教徒と思われる人の姿もありました。
 信仰の対象が異なる宗教者が共に祈ることについて鈴木さんは、「信じる最後の対象は違いますが、平和を願い、命を重んじていることは同じです」と毅然と語られました。
 
 また、報道陣の多さに驚かされました。NHKをはじめ在京キー局のほとんどが取材に来ていたようで、関心の高さがうかがえます。




(あえてお顔のわかりにくい写真を載せています)

イスラム教の祈り

 まずは、日本のイスラム教宗教法人の局長である、パキスタン人の男性が「イスラム教では無罪の一人を殺すのは人類全員を殺すこと、一人を助けるのは人類全員を助けることと同じであると教えています。拘束されている日本人は無実です。殺してはならない」と、解放を強く訴えました。
 続いて、ムスリム(イスラム教徒)のインド人男性がコーランから「罪のない人を殺すな」といった内容を詠唱し、これ以上罪の連鎖がないよう祈りました。





キリスト教の祈り
 次はキリスト教のプロテスタント。日本人の牧師さんが旧約聖書のイザヤ書を読みあげ、「主よ、どうぞ囚われている全ての人々を、解放にお導きくだい」と祈り、命の危機にあるのは後藤さんだけではないことに、目を向けさせてくれました。
 そしてカトリックの神父さんも憎しみと悲しみの連鎖を断ち切ることを訴え、ともに祈りました。





仏教の祈り
 最後に日蓮宗系の日本山妙法寺の武田隆雄僧侶(62)が登場。僧侶は集会前に衆議院第二議員会館で行われた会合で、「命を守るということで宗教者が一致して同心になれば、この世の悪は多けれど我々の一善に勝つことはできない」と参加者を鼓舞されていました。
 ここでは仏教の祈りという紹介で、信者がお太鼓を叩くなか「南無妙法蓮華経」のお題目をパワフルに唱えられました。




(紙を手に読み上げているのが、呼びかけ人の鈴木玲子さんです)

集会の意義
 その後、「後藤さんを救おう」「命が一番大事」「憲法九条を守り、非暴力を貫いて下さい」などのコールが行われ、集会は滞りなく終わりました。
 憲法九条に関しては、この場で政治的なコールを先導することに、やや違和感を受けました。私自身は九条に親しみをもっていますが、今回のような集会ではあらゆる信条の人に優しく門戸が開かれていることが、まずは大切だと思えるのです。

 集会自体は心静かに祈るという雰囲気ではありませんでした。しかし「見える形で、祈りを伝えたい」という趣旨により、首相官邸前という今日本でも最もホットな場所で、多くのマスコミに囲まれての集会となったことは理解できました。
 また、それぞれの宗教者が祈るとき、他の宗派の人もともに祈っている姿は深く印象に残りました。

 ともあれ、この時期にイスラム教、キリスト教、仏教、そしてユダヤ教(推定)の関係者が宗教を超えて集い、ともに後藤さんの解放を祈ったことは、大きな意義があったのではないでしょうか。実際その絵はインパクトがあり、広く報道で取り上げられていました。
 現在、後藤さんの解放に向けて、多くの人がISISに情報やメッセージを発信し続けているそうです。この集会がその一助となることを心から祈ります。



では、私たちはどのような言葉で祈ればいいの?
 ところで、特定の宗教を持たない日本人は、祈りの言葉を持たない人も多いのではないでしょうか。
今回の一連の事件に対して自分も祈りたいと思った時、どんな言葉で祈ればいいのでしょう。

 個人的には仏教の「慈経」や「慈悲の瞑想」がお勧めですが、宗教的なものに抵抗がある人には、このブログでシェアした宗教を超えて共有できる祈りの言葉を紹介します。それは、べトナム戦争の平和運動の指導者であったベトナム出身の禅僧、ティク・ナット・ハンの詩「私を本当の名前で呼んでください」をベースに、現在の私たちの心にストレートに届く形で書かれた祈りの言葉です。この、深い洞察と慈悲にあふれた言葉で、祈りを捧げてみませんか。

「山下良道師の友人の朴さんが書かれた、祈りの言葉をシェアします」




まずは祈り、そして心を落ち着かせて、次にやるべきことへと進んでいきましょう。
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【報告】今年も灯明とともに!プラユキ師「新春のお話と瞑想の会」

2015-01-21 | (報告・感想)気になるイベント、講演会




 1月17日、お茶の水の昇龍館ビル(通称サンガビル)で、タイで出家された日本人僧プラユキ・ナラテボー師をお招きして「新春のお話と瞑想の会」を開催しました。

 今回のテーマは仏道の大切な2つの車輪に例えられる「智慧と慈悲」。第一部の法話では、まず実相世界(真実諦)と自我世界(世俗諦)の存在構造を解説。そして構造を理解したうえで、しなやかな自我を作り世界を豊穣化していく道のりをお話いただきました。
 師によると、世界の豊穣化とは自他の抜苦与楽であり、それは慈悲の実践であるとのこと。その流れでされた「慈悲の瞑想」の解説のなかで、「なるほど~」とうなった言葉をシェアさせていただきます。今まで「私は幸せでありますように」と自分の幸せを祈るのが苦手だった人も、この視点に立てばやり易くなりませんか。

テーラワーダの伝統では、私を客観視していきます。自分も一切衆生のなかの一つの存在として認めて、それに対して思いやりをかけていきます。     byプラユキ師






 第二部の瞑想実践では、チャルーン・サティ(手動瞑想)とアナパナ瞑想を指導いただき、ラストにはブッダの臨終の言葉である「自灯明、法灯明」の紹介がありました。灯明とは”気づきの光”の例えでもあると説かれ、「はっきり物事を見極められる気づきの意識は、最高の光になります。まさに遺言として残すにあたいするメッセージです」と締められました。あえて新年にブッダの遺言を伝えらたことで、心を引き締めてこの1年を過ごす決意をされた方も多かったのではないでしょうか。




 終了後は、プラユキ師を円く囲んで懇親会が行われました。ここでは、師が一人一人と気さくにふれあい、次々と質問が飛び交う和やかな会となりました。
 今年のサポートイベント第一弾は大盛況のうちに終えることができました。プラユキ師、参加されたみなさん、ありがとうございました



今年はサンガビルが仏教瞑想のメッカになる予感。仏教なのにメッカ……
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小池龍之介住職の「イエデ式リトリート」に参加しました

2015-01-07 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



年の始め、1月2日から5日まで3泊4日で、
小池龍之介住職の「イエデ式リトリート(坐禅瞑想合宿)」に参加した。
会場は小池氏が住職を務める山口県嘉川市の正現寺。
住宅と畑にかこまれた環境に建つ、こぢんまりとした寺院だ。

募集人数は15人と少人数だったため、小池住職の目が行き届き、
落ち着いて修行に取り組むことができた。(逆に言えば、サボれない)
リトリートはセミ沈黙行のなか行われたが、質問など必要なことを言うのはOK。
ただ、口に出す前に、本当に言う必要があるのか自問するようにアドバイスを受けた。

サイトには以下のようなスケジュールが掲示されていた。
:::お稽古の時間割:::
5:00:起床
5:30-7:30:瞑想の時間
7:30-8:30:掃除作務
8:30-9:00: 軽い朝食
9:00-12:00:瞑想の時間
12:00-13:30:昼食、後片付け
13:30-17:00:瞑想の時間
17:00-20:00:入浴、自習、個人面談
20:00-21:00:瞑想の時間
21:30:就寝

実際は作務の時間が午後になり、午前のこの時間帯は瞑想になったが、
それ以外はだいたい時間割にそって行われた。
瞑想は座る瞑想(アナパナサティ ボディースキャン系)と歩く瞑想が
1時間ずつ交互に行われ、途中で短い休憩が入る。
また、夕方から夜にかけての自習時間も、小池住職は入浴されている時以外は、
本堂に詰めて瞑想指導や法話をされていたので、
1日の大部分を瞑想で過ごすことに。(個人面談は行われなかった)

リトリート中の小池住職は、より生き生きとされているように見え、
やはりこの方の本分は瞑想実践者なのだと感じられた。


自分と寄り添うための準備
座る瞑想は「ただ呼吸を見守るだけ」。
感情などがわき上がっても、
自分は安全な部屋にいて窓から見える隣の人に起こっていることのように、
落ち着いた状態で見ることが肝要。
自分と自分の分離……
小池住職は気づきを純粋に機能させるためには、
そこに感情が働いていないことが必要だと言われる。
そのため、気づきとともに自分としっかり寄り添うための前提条件が、
自分を一人の他者として落ち着いて見られるようになる、分離。

本来のリトリートは10日間行われ、終盤まではこの分離の練習を徹底的に行い、
後半の7,8日目あたりから、心を見る瞑想に入るそうだ。
この10日間の流れは、ゴエンカ師のヴィパッサナー合宿にも通じるところがあるが、
今回は4日間のため、分離の練習のみ行われた。

誰が呼吸をするのか
また法話での「Breathing in,Breathing out の主語は“I”ではなく、"it" である」
という指摘には、アッと思った。
一昨年(もう、そんなにたつのですね!)に朝日カルチャーで行われた、
藤田一照師と山下良道師の「アップデートする仏教」出版記念対談で、
藤田師が青空を "it" と表現されたことが思い出されたからだ。

(以下、その時の対話を再録)
山下師「『俺が受け入れよう』と思ってもできない。それができるのは自分の中の青空だけ」
藤田師「良道さんの青空と言っているものは、人間が自然に備わっているもの。
    自分が言葉にすると『自我意識を成立させているit』」
山下師「itですか?」
藤田師「『あれ』とか『それ』とかのit。言葉にしなくてもわかるでしょ、って感じのit。
    3.0を1.0や2.0に誤訳しないように、言葉で断定しない」


仏教3.0という概念は持たない小池住職の場合、
無我という文脈からIではなくて“it”という言葉が紡ぎ出されたのだと思うが、
表現が同じことが興味深く思えた。
たしかに自分も、誰が呼吸をするのかも、誰が受け入れるのかも、
断定した言葉で概念化しない方がしっくりくる。

小池住職から指導を受けるのは今年で7年目になるが、
その内容はテーラワーダから、
只管打座の坐禅的なニュアンスも含まれるようになってきたと感じている。
とはいえ、あくまでも一瞬一瞬の気づきを大切にされているので、
根本はテーラワーダなのだろうなぁ。


実践者としての小池龍之介住職
普段の坐禅セッションは実践が中心だが、
リトリートではじっくり法話が拝聴できたのも収穫だった。
あくまでも実践者としての視線から解説された四聖諦や八正道、
伝統的な存在論ではなく、「受」から「有」の流れを重視された
自我論としての十二縁起(この言葉はあえて使われなかったが)など、
聞き応えがあり、また実践をしていく上で役に立つことだろう。

また、「ダンマパダ」や「スッタニパータ」の原始仏典の日本語訳を
独特の節をつけて読経されたり、
浄土真宗のお念仏を坐禅瞑想の実践者としても矛盾しない形で解釈されたりと、
興味深い試みもなさっていた。
小池龍之介住職を東大出の若き僧侶というくくりではなく、
仏教瞑想の実践者、指導者として見直す時期がきているのかもしれない。
そういえばご住職のイベントの参加者は女性が多いけど、
その考え方やあり方は、「捨(客観的で落ち着いた心)」に基づいて結構クール。
そしてご本人は否定をされるかもしれないけど、キリキリとストイック。
本来は男性の方が共感できると思うんだけどなぁ……


喜びもいつかは滅す
瞑想漬けのリトリートとはいえ、ご住職の手作りの菜食の食事はおいしく、
露天の五右衛門風呂は気持ちよく、
薪ストーブを静かに囲む休憩時間は心身がほっこりして……
そんな、生きていることの喜びを感じるシーンも端々にあった。
ああ、もちろん瞑想をすること自体が私には喜びだ。

それらの喜びもご住職によると、修行の助けにはなるけど
いつかは滅していく頼りにならないもの。
心のセンターには常に気づきを置いておくようにと、戒められてしまうだろうか。



※ リトリートは小池住職が全てにおいて気持ちの行き届いた運営をされ、
参加者は恵まれた状態で修行に取り組むことができました。
年の始めに、雑事から離れ瞑想に専念できる環境を与えていただいたこと、
心から感謝いたします。




今年もよろしくお願いいたします
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【報告】プラユキ師 日本トランスパーソナル学会主催の講演&ワークショップに出演

2014-12-09 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



 2014年11月22日、日本トランスパーソナル学会主催で「プラユキ・ナラテボー師来日講演&ワークショップ」が、杉並区産業商工会館で開催されました。心理臨床士やカウンセラーなどの参加者も多く、仏教から現場で役に立つ学びを得ようと、会場は期待であふれていました。


   プラユキさん解脱の境地を語る
 第一部の講演のテーマは「仏教における『パーソン』とは。『パーソナル』を超えるとは?」です。ブッダの教えの基本を紹介しつつ、パーソン(我)からトランスパーソン(自我の超克)への道のりを、仏教の文脈から読み解かれました。
 なかでも普段の瞑想会ではあまり語られない、解脱の第一段階である預流果について触れられたのが、特筆すべきことでしょうか。預流果になると有身見(この身体は自分のものだという思い込み)と疑(仏法僧への疑い)、戒禁取(儀礼や慣習などへの囚われ)の三結が脱落・消滅するそうですが、それをプラユキさんは「パターンからの自由」と定義されました。さらに、その三結が消滅することで、「身体を大切にして生きる」、「言葉や概念を使いこなせる」、「儀礼や慣習に新たな命を吹き込める」ようになると読み解き、解脱という謎めいたものにリアルな視点を与えました。

 
  プラユキさん“スケベ心”を説く!?
 第二部は瞑想実践、続いて日本トランスパーソナル学会事務局長の向後善之さんと対談が行われました。悩める人の力になりたいという思いを待たれて活動するお二人の、笑いと学びに満ちた対談となりました。その一部をご紹介します。




向後さん
 カウンセリングの勉強をしていて最初に言われるのが、鬱が治るのはクライアントさんの力によるもので、ボクらがやったのは見守っただけであるということです。それは水泳のコーチのようなもので、泳ぐのはクライアントさんで、僕らコーチはそばに立っていて、アドバイスや応援をするだけだからです。
でもそう習いながら、いつの間にか「俺のおかげで治ったんだぞ」とか、「俺のカウンセリングをやめたら一生治らないぞ」とクライアントさんを依存させてしまう人がいます。どうして、そうなってしまうのでしょうか。

プラユキ師
 俗に言えば、ちょっとした”スケベ心”が出てしまうことがありますよね。自分の欲とか、承認欲求に無自覚でいると、知らないうちに罠にハマってしまいます。

向後さん
 スケベ心があるということに、気づけばいいのですね。(笑)

プラユキ師
 そうですね。一つ一つ自覚的に行動すればよい回路ができますが、していないと無自覚な行動を重ねていって、気づいた時にはそういう人間になっているという感じがありますね。

向後さん
 完全にスケベ心が消えたら、それは悟りの境地ですよね。

プラユキさん
 聖者の流れに入っている第一段階の預流果でも、貪瞋痴が残っているのですよ。二段階目の一来果で薄まってきて、第三段階の不還果でやっと消滅します。だから、聖者でも貪瞋痴がある人もいるのです。

向後さ
 じゃあ、僕にスケベ心があっても許してあげようかな。(笑)

プラユキさん
 仏教では欲や怒りが終息するまで0か100ではなくて、グラデーションをもって段階的に進む感じでとらえています。

向後さん
 0か100でないと聞いて、とても安心しました。ボクもクライアントさんから「先生のおかげです」と褒められると、「えーっ」って舞い上がりそうになる時がありますので。

プラユキさん
 褒められると、こちらも元気になりますよね。ですから、その言葉を受け止めて、それと同時に「そうやって素直に褒められるあなたって、すごくステキだね」と返すのがポイントだと思います。褒められたら、「いえいえ、ボクはそんなことありません」と頑なに拒否するのではなく、まずは「ありがとう」と受け止めて、さらに展開を相手に向けていくと、お互いが幸せになっていくのではないでしょうか。

向後さん
 あっ、それいいですね。今度使わせていただいきます。(笑)


 法話と瞑想実践、対談とバランスのとれた構成で、あっと言う間に3時間が過ぎました。また、一般向けの瞑想会ではかなわない、専門的な話題もお聞きすることができました。主催された日本トランスパーソナル協会のスタッフの皆さん、コーディネーターの松村憲さん、貴重な機会をありがとうございました。




終了後、学会のスタッフの方たちと、プラユキさんを囲む会に参加させていただきました。ディープなお話が聞けて、興味深かったです。
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【報告】第12回サンガくらぶ「プラユキ師法話会 よく生きること、よく死ぬこと」&カンポンさん募金

2014-12-01 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



 11月28日、出版社のサンガが主催した「第12回サンガくらぶ プラユキ師法話会」で、プラユキ師のご法友カンポンさんの、治療・ケア費の募金をいたしました。多くの方にご協力をただき、おかげさまで4万5千円を越える寄付が集まりました。ありがとうございました。また、この機会を与えてくれた、プラユキさん、(株)サンガの島影社長をはじめスタッフのみなさんにも感謝です。






 今回は瞑想実践なしの法話会、60人近くの方が集い大盛況でした。
 普段のプラユキ師の瞑想会では宗教色を出さないため読経はありませんが、この日は法話会ということもあり祭壇が設えられ、読経からスタート。読経終了後は場が清まったのを感じられ、テーラワーダ僧侶の本領をかいま見たような気がしました。
 
 法話は「よく生きること、よく死ぬこと」というテーマで、映像などを交えて語られました。流された映像は8月に逝去されたプラユキ師の恩師であるルアンポー・カムキアン師の生前のお姿や法話、弟子たちのインタビュー、そして葬儀の模様をまとめたドキュメント作品。映像は英語ですが、ルアンポー師やスカトー寺住職のプラパイサン師、そしてカンポンさんの言葉を抜粋したものを、翻訳家でもある島影社長のサポートを受けて、編集の川島さんが日本語に翻訳した資料が配布されました。これは英語の苦手な私には、本当にありがたかったです。
 法話ではルアンポー師の揺るぎない仏教者としての死に支度や、死に様に感嘆し、またプラユキ師の恩師に対する思いには、胸と目頭が熱くなりました。
 
 会の簡単な報告は「サンガジャパン」の19号(12月末発売)に、法話の紹介などは20号(4月発売予定)に掲載予定です。






カンポンさんの募金活動について
 タイ人のカンポンさんは、仕事中の事故で全身不随の絶望的な状態になりました。しかし、プラユキ師の恩師でもあるルアンポー師の指導もと、「気づきの瞑想」で心の苦しみから開放され、私たちに仏法を通じて「生きる」メッセージを送り続けています。
 肝臓がんやC型肝炎、肝硬変を発病されて入院中でしたが、先日、余命3ヶ月を告知され、現在はターミナル・ケア(終末医療)を受けておられます。その治療やケアにかかる費用は全て個人の善意により賄われていますが、資金的に逼迫しています。そこで日本でも治療費の寄付の呼びかけをすることになりました。
 集まった寄付金は、カンポンさんの著書「『気づきの瞑想』で得た苦しまない生き方」を翻訳された、タイのマヒドン大学宗教学部講師、浦崎雅代さんを通じて、全額をカンポンさんの治療・ケア費として寄付いたします。



法話会は編集部だけでなく、会社総出で準備をされていました。(株)サンガのチームワークがっあてこそ、この素晴らしい会が実現したのですね。
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仏教瞑想をスピリチャル・ケアの現場に。シンポジウム「死とより良く向き合うために」を聴講しました

2014-11-04 | (報告・感想)気になるイベント、講演会

 11月1日(土)、武蔵野大学で行われたシンポジウム「死とより良く向き合うためにーー伝統的智恵をターミナルケアに活かす」を聴講しました。このシンポジウムは「死とともに生きる(Being with Dying)」ブロジェクトが企画し、日本トランスパーソナル心理学/精神医学会、武蔵野大学仏教文化研究所、武蔵野大学看護学部、日本仏教心理学会が共催に名を連ねています。

 米国では、ウパヤ禅センターが中心になり開発した、仏教瞑想を死にいく人や、それを支える人のケアに応用したプログラム「Being with Dying」が、大きな成果を収めているそうです。
 「死とともに生きる」ブロジェクトは、そのウパヤ禅センターの協力を得て、日本の風土や伝統的な智恵を活かした「新たなスピリチャル・ケア」の創造を目指しています。来春にはウパヤ禅センター代表のジョアン・ハリファックス老師らを招聘して、対人援助者のためのワークショップなどを日本で行う予定です。
 今回のシンポジウムは、日本の医療現場におけるスピリチャル・ケアの現状について議論を交わし、プログラムを日本に紹介する意義や必要性を探ることを目的に開催されました。


 プログラムPart1は「死に関わる医療現場の現状と課題」をテーマに、東京大学名誉教授の大井玄先生が認知症高齢者の遺漏について、20年に渡る在宅ケアの経験をもつ「ふじ内科クリニック」院長の内藤いづみ先生が、ホスピスケアの現状を語られました。

 プログラムのPart2は「日本におけるスピリチャル・ケアの展望」をテーマに、東京大学大学院人文社会系研究科名誉教授の島薗進先生が、東日本大震災での仏教者の活動などを紹介しながら、日本人がもう一度、死生観と祈り(念願)を取り戻すことの大切さを提起。さらに最近研修が始まった、臨床宗教師構想の紹介をされました。
 そして、武蔵野大学教授でありチャプレン(キリスト教聖職者)の小西達也先生は、ケア提供者にとって、「自分自身を見つめること」の必要性を説かれました。

 プログラムPart3ではコマメディア的には一番親しみのある、永澤哲先生が登場。京都文教大学准教授でチベット仏教の研究家、仏教や瞑想に関する著書や翻訳書も多く出されています。私も、尊敬する整体創始者・野口晴哉先生の評論「野生の哲学」や、癒やしのチベット仏教書「心の治癒力」(翻訳)など、何冊も愛読しています。
 発表は「現代社会における仏教のスペクトラム」をテーマに、瞑想と脳の関係、ハリファックス老師の紹介とプログラムの説明などを、限られた時間で雄弁に語られました。

 ハリファックス老師は、アメリカ仏教の僧侶の典型的な存在だそうで、禅から始まり、エンゲージドブッディズム(行動する仏教)を実践。LSDなどの研究もされ、医療人類学者でもあります。こちらで法話の動画を観ることができます(日本語字幕付き) →「慈悲、そして共感の真の意義について」 なんですか、このかっこ良すぎる女性僧侶は!

 プログラム「Being with Dying」は、実修の大きな土台が瞑想だそうです。禅やテーラワーダの呼吸と身体感覚を観察する瞑想、それにチベット仏教の無常の瞑想やトンレン(慈悲の瞑想)、人が死ぬ時に意識の変化を細かく説明した「チベット死者の書」をもとにした死のプロセスの体験などが組み込まれています。欧米、そして最近は日本でもテーラワーダと禅の要素を合わせ持った瞑想が注目されてきていますが、さらに密教も加わります。独特な生死観のあるチベット密教は、ターミナルケアとも相性がいいのかもしれません。
 それにヨガや気功などの、ボディーワークがプラスされます。瞑想との組み合わせにより、脳がストレスに強くなるように組みかえられ、さらに新しい問題に対処する能力が歳をとっても保たれるそうです。


ここでもマインドフルネス
 講義した多くの先生が、「マインドフルネス」を口にされていたことからも、今までのスピリチャル・ケアでは補えきれなかった領域をカバーするものとして、仏教瞑想に期待がかかっていることが、ひしひしと伝わりました。
 先週は「日本マインドフルネス学会 第1回大会」が開催され、各界でマンドフルネスが注目されています。しかし、仏教のプラクティスの一部でしかない、マインドフルネスだけをピックアップする「ワンポイント・メソッド化の危惧」を、私の周辺の聴講した人たちや、また「彼岸寺」に学会のレポートを掲載した原始仏教ガールさんも指摘されていました。そして、私も同じ問題意識を持っています。
 でも、武蔵野大学看護学部部長の「仏教精神にもとづいた、慈悲の心のある看護師を育てる」といった挨拶や、小西先生のマインドフルネスの文脈での「平和な心を持った人が、終末期にそばにいるだけで、よい効果がある」というお話などから、少なくてもターミナルケアの現場においては、精神性も重なり合っている印象も受けました。たしかに、抜苦与楽のためのプラクティスである仏教瞑想は、死の苦しみと向き合う人たちを癒すスピルチャル・ケアとは矛盾が少ないように思えます。
 とはいえ内藤先生の「(現在は)医療が癒しの技でなく、管理の技になっている」という警告も、しっかりと受け止めておきたいものです。

死にゆく人は哀れではない
 シンポジウムは全体を通して、死というものを忌み嫌うものではなく、受容的に捉えられていたことが印象的でした。
 なかでも内藤先生の「死にゆく人は哀れではない、亡くなる人も魂の力は強い。エネルギーを出し尽くした後に、安らかな死がある」という言葉が心に残ります。
 帰りに1人で歩きながら「私は毎日を力一杯生きているだろうか。今生で与えられたエネルギーを出し尽くし、安らかな死を迎えられるだろうか」と、自分に問いかけてみました。ああ、ナマケモノの今のままではダメかも、です……


(おまけ)シンポジウムは最後の最後で、永澤先生のこれに……





瞑想は進めたいけど、頭から草が生えるのはちょっと……
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「プラユキさんの仏教超入門」のご報告

2014-11-02 | (報告・感想)気になるイベント、講演会



 10月25日、タイで出家された日本人僧プラユキ・ナラテボーさんの瞑想会を、都内で開催しました。参加者は30名ほどで、20畳の和室が満員に。男女比は7対3ぐらいで男性が比較的多め、年代は30代~40代の方が中心でした。

「そもそも論」から仏教を解説 
 今回は、「仏教瞑想ガイドブック」発刊後、最初の瞑想会。初参加の方が増えるのを考慮して、法話は「プラユキさんの仏教超入門」というテーマでお話しいただきました。「入門」ではなくて、「超入門」です。
 そこで、あらかじめプラユキさんに2つの問いを、投げかてみました。ひとつは「そもそも、仏教ってなあに?」、もうひとつは「仏教は現在の私たちの役に立つの?」です。
そんな「そもそも論」的な問いを軸にされながらも、さすがプラユキさん。こちらの予想を超えて多方面にわたり、自由闊達にお話しいただきました。

 「そもそも、仏教ってなあに?」の問いに対しては、1971年に刊行され、今も読み継がれる水野弘元先生の「仏教の基礎知識」から、話題の書「アップデートする仏教」まで取り上げ、仏教と私たちの生活との関わりを考察。さらに、それまでインドにあった宗教とブッダの教えを比較して、現実に即したブッダの教えが画期的だったことをご指摘。あざやかに仏教の本質をあぶりだしました。
 そして「仏教は現在の私たちの役に立つの?」の問いには、瞑想の効用や、その理論を、現在の脳科学や認知行動療法の知見などもまじえて解説されました。


充実の瞑想タイム
 後半の瞑想実践では、瞑想のポイントである「五力」の解説をはさみながら、ご指導いただきました。会場が満員なため歩く瞑想は行わず、手動瞑想(チャルーン・サティ)と、座る瞑想(呼吸瞑想)を実践しましたが、特に最後の呼吸瞑想のときは、場がシンと深まるのを感じました。後で、何人かの方から「深くまで行けた」、「呼吸瞑想のなにかが、解ったような気がした」といった感想をうかがいましたよ。人が集まる場が作り出すパワーを、実感しました。



 質疑応答や、終了後の懇親会では、質問者と会話を重ね、最もその人にピッタリくる回答を出される対機説法が見物でした。質問者が大きな気づきを得る瞬間に立ち会えるのは、ライブならでは、です!
 今回はいつにも増して、時間密度の濃い瞑想会だったように思います。なにより会の雰囲気がとても暖かった。これも、プラユキさんのお力に加え、参加者おひとりおひとりのおかげです。ありがとございました。




プラユキさんは現実的な抜苦与楽を重視されているのだなぁと、あらためて思いました。
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ワクワク夏休み3 蓑輪顕量教授P「仏教体験・坐禅合宿」に参加しました

2014-09-03 | (報告・感想)気になるイベント、講演会


朝日に向かい、お題目を唱える妙法生寺のご住職


ワクワク夏休み1
ワクワク夏休み2

3日目
 この日は朝4時半に起床してお寺のある山の頂上へ。闇が消えて空が白ばんでいく1日の中で最も空気が清らかなこの時間帯、静かに日の出を待ちました。あいにく曇りでしたが、雲の向こうに太陽の気配を感じ始めるとご住職は、この地で日蓮上人が朝日に向って初めてお題目を10回唱えたという伝説にのっとり、「南無妙法蓮華経」と同じ回数を唱えられました。ご住職の唱えるお題目はとてもパワフル、日蓮宗僧侶の面目躍如といった感じでしょうか。(この時のことは、別の角度からもブログで触れています→「森林の高僧、智慧の贈り物を残して逝く」


 合宿最後の講義は蓑輪教授が「仏教における心の観察法 ―止と観についてー」というタイトルで話されました。まずは原始仏典を軽く紹介しながら、日本の仏教には「止」(サマタ/集中)と「観」(ヴィパッサナー/観察)の瞑想は伝わっているのか、と問題を提起。
 教授は、以前は日本では「止」が中心かと思っていたそうです。しかし、様々な資料を見ていくなかで、例えば鎌倉の建長寺を開山した蘭渓道隆禅師の坐禅論「大覚禅師坐禅論」では、感覚機能をきちんと受け止めていることなどをあげ、お釈迦さまのものとは存在の形態がだいぶ違うが、「観」もキチンと伝わり実践されていたのではないかと結論されました。

 個人的には一休和尚から、ゆっくりお茶を飲むことが観察のよい修行になると教えられた村田珠光が、それをもとに「わび茶道」を創始したというお話に興味を引かれました。器を手にとり、お茶をかきまわし、口にはこんでいく……そんな様々な動作を気付きの対象とすることを、気を入れ続けるという意味で「気続立(きぞくだて)」と呼んだそうです。食べる瞑想や、ティク・ナット・ハン師の「お茶の瞑想」などと同種のことが行われていたことを知り、ワクワクしました。当時の日本にも日常の動作に根ざしたマンドフルネスの修練があったとは!





 その後、ご住職手作りのおいなりさんや手打蕎麦などの美味しい昼食をいただき、全員で本堂の掃除、最後に閉会の辞が告げられて解散となりました。

 ワクワクがいっぱいの得難い合宿を企画運営された蓑輪教授をはじめ、ご住職、羽矢教授、ギャナ先生、そしてご家族の方々、この3日間本当にありがとうございました。おかげさまで楽しく、学びも多い、豊かな夏休みを過ごすことができました。


ワクワク夏休み1
ワクワク夏休み2



気付きを入れながらクリックするのも「気続立」の修行のひとつ、です
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ワクワク夏休み2 蓑輪顕量教授P「仏教体験・坐禅合宿」に参加しました

2014-09-01 | (報告・感想)気になるイベント、講演会


講義や瞑想指導の会場となった妙法生寺の持仏堂(本堂)



ワクワク夏休み1
ワクワク夏休み 3

2日目
 この日の朝勤は日蓮宗の定番の経文や、お題目を唱えるプログラムの間に、慈悲の瞑想や呼吸を観察する瞑想(ここでは出息入息観と紹介されていました)など上座仏教の修練が入る、今まで経験したことのないオリジナルなものでした。
 なかでも歩く瞑想をしながら「南無妙法蓮華経」とお題目を唱える“唱題経行”は、上座仏教と日蓮宗の修練を合体させた画期的なもの。本堂で輪になって歩く瞑想をしながら「何妙法蓮華経」とお題目を唱えます。日蓮上人が朝日に向って初めてお題目を10回唱えたというこの地の伝説にのっとり、朝日が見えてから姿を全て現す時間を3分と計算して「南無妙法蓮華経」1回を18秒ほどのスローなペースで唱えました。
 「お題目歩く瞑想」とも言える、斬新すぎる瞑想法にワクワクしながら取り組みましたが、歩く足の動きを確認しながらお題目をゆっくり唱えるのはかなり頭を使いますので、かえって妄想が出にくく集中しやすいように感じました。


 午前の講義は青森公立大学の羽矢辰夫教授が担当されました。羽矢教授は1983年に東京大学大学院を終了。専門は原始仏教で、パーリ語で書かれた原始仏典の研究をされています。一般向けの著書には「ゴータマ・ブッダ」「ゴータマ・ブッダの仏教」(共に春秋社)、「ゴータマ・ブッダのメッセージ『スッタニパータ』私抄」(大蔵出版)などがあります。
 タイトルは「縁起の新しい解釈」。自分の健康のために気功を習ったら、結果として病気の親を助けることができた。勉学のためイギリスに行ったら、大ファンのポール・マッカートニーのサインを見つけて入手できた……などなどご自身の体験を交え、セレンディピティー(思いがけないものを発見する能力)やシンクロニシシティ(共時性)とも絡めながら、偶然のように起こる出来事も「ああこのために、あれがあったのか」と仏教の縁起と結びつけて気づくことを提案。それにより、人生をより肯定的に歩めるのではないかと結ばれました。
 例えば縁起を「ああ、このために体験」と定義をされるなど、「仏教の教えではなく、私の考えであり推論です」と断られた上での講義だったこともあり、質疑応答では熱い仏教男子たち(蓑輪教授ふくむ)から仏法との着地点を探るべく突っ込んだ質問が次々に出て、熱い仏教女子の私はワクワク。羽矢教授はそれらに「一般論としては言えない。自分自身の問題として考えないと意味がない」という一貫した立場で返答されていました。


 午後からはじっくりとギャナ先生の瞑想指導の時間がとられ、歩く瞑想や座る瞑想とともに寝る瞑想も行われました。寝る瞑想は「四念処経」にのなかにも「横たわっているときには『横たわっている』と気づく」とありますが、私は今まで実践指導を受けたことがなかったのでワクワク。
 横向きに寝て「吸ってます、吐いてます、寝ています」と呼吸や寝ている感覚を確認していきます。この時、吸う息で「吸ってます」、吐く息では「吐いてます、寝ています」と倍の長さになります。これを右向きに寝て15分、左向きに寝て15分行ったのですが、案の定10分もすると会場の本堂には、イビキが鳴り響いていました……。         (続く)


ワクワク夏休み1
ワクワク夏休み 3



男子とか言っても、みんなアラフィフなんですけどね……でも心は少年か?
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ワクワク夏休み1 蓑輪顕量教授P「仏教体験・坐禅合宿」に参加しました

2014-08-28 | (報告・感想)気になるイベント、講演会


会場の妙法生寺は別名「あじさい寺」。
盛りの時期は山の斜面をこぼれるほどあじさいが咲き誇るそうです。




 「仏教瞑想論」などの著書があり、「実践!仏教瞑想ガイドブック」の監修者でもある蓑輪顕量教授(東京大学大学院)が、本格的な仏教瞑想の体験をしてもらおうとプロデュースされた2泊3日の「仏教体験・坐禅合宿」に参加しました。坐禅となっていますが、実践するのはサマタ、ヴィパッサナー系の仏教瞑想です。

 会場は教授の実家でもある、千葉県外房の山あいに建つ日蓮宗・妙法生寺。建長5年(1253年)に日蓮上人が朝日に向い、「南無妙法蓮華経」と初めてお題目を唱えたという伝説を持つ寺です。住職は蓑輪教授のお兄さまが務めています。



1日目
 初日は夕方4時からスタート。参加者はお寺に縁のある方から、学生、研究者、OBなど東京大学の関係者、他宗派のモンクス、さらに編集者や、日本マインドフルネス学会の理事、ティク・ナット・ハン師来日招聘委員の方々などバラエティに富み、蓑輪教授のお顔の広さがうかがえました。


 開会の記念講義は来日中のバングラディシュの僧侶、ギャナ・ラトナ・テーラ先生が行いました。ギャナ先生は日本に16年ほど滞在し、愛知学院大学の講師をされていたこともあり、流暢な日本語を話されます。講演は「私たちは人間として心のケアが必要です。心の問題を解決するためには瞑想が一番いいです」と、「清浄道論」や「四念処経」などにふれながら、仏教瞑想の修行方法をわかりやすく語られました。
 なかでも「シーラ(戒律)は守るものではなくて、外側から私たちを守ってくれるものです。シーラを守ることで外側から守られるようになると、瞑想をやるベストな状態になります。サマディー(三昧)に入りやすくなり、サマディーは内側を守ってくれるので、パンニャ(智慧)も生まれてきます」という三学の説明が、個人的には新鮮でした。戒と三昧は内外を守る補完的関係という見方もできるのですね!


 合宿中はハ斎戒にのっとり温石(夕食)は液体だけ。この日は野菜を裏ごししたポタージュ風スープをいただきました。一口飲むと、濃厚な海の香りが広がります。出汁はお寺に寄進された伊勢エビを使用したそうです。なんて贅沢な!
 食事の前には以下の文言の日蓮宗の食前作法「食法(じきほう)」を読み上げ、天地の恩恵や、食材の命に感謝を捧げました。
「天の三光に身を暖め、地の五穀に魂を養う。皆これ本仏の慈悲なり。たとえ一滴の水、一粒の米も、功徳と辛苦によらざることなし。我らこれによって心身の健康を全うし、仏祖の教えを守って四恩に報謝し、法師の浄行を達せしめ給え。 南無妙法蓮華経 いただきます」


 夜7時からギャナ先生の指導のもと歩く瞑想と座る瞑想に取り組み、9時半に就寝。それ以降も本堂である「持仏堂」は小さな灯りがついたまま、いつでも瞑想の自修ができるようになっていました。
 ええ、もちろん私は深夜近くまで座る瞑想や歩く瞑想をしていましたよ。瞑想バカですからね!                                    (続く)

ワクワク夏休み2
ワクワク夏休み 3





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