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ブログは自分のために書きなさい

私の仕事観、仕事術、書評などを中心に自分の軸を確認するためにブログを書いています。

変化する趣味趣向-庭いじりに落語-

2009-03-09 | コミュニケーション
我が家は築20年を過ぎているので、先人が植えた庭の草木もそれなりに立派に育っている。

手入れをしないととんでもないことになってしまうので、仕方なく庭木いじりを始めたが始めてみるとこれはこれでなかなかに面白い。

特に枝の剪定は、日ごろ仕事で様々なことを取捨選択し、選択されている身としては色々なことを考えさせてくれる格好の機会だ。

枝自体に悪い枝というものはない。ただ、生えてきた角度や位置が人間の目から見てそぐわないというだけでバッサリやられてしまう。

そこに悪気はない。

また、並行して伸びている枝を鋏むとき、どちらでもいいときなどは、鋏む人のセンスやそのときの気分に任されるのだから枝のほうとしては堪らない。世辞を言うわけにも行かないのでただただ切られるの待つだけだ。どちらが残るかは運しだいというわけだ。

こうして枝ぶりが整うと野暮な庭も立派にみえてくるから不思議なものだ。

剪定作業中はiPodで落語を流している。朝夜の通勤時間に一、二席聞くのが習慣になってきた。とりあえず志ん朝フリークになった。最近は米朝もいいなと思うようになってきている。そのうち寄席にも通うようになるだろう。

白鳥や喬太郎を贔屓にできたらいいなと思うこのごろである。

CSRを推進させるついでという仕組みづくり

2009-03-09 | コミュニケーション
フェア・トレードとは何か
デイヴィッド ランサム
青土社

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暦の上では啓蟄を過ぎたが、まだまだ寒い。

昨年末からバタバタしていて、書こう書こうと思いつつなかなか書く気になれず、ネタばかりがたまっていたが、ここに来てようやく一息つけるようになった。

さて、オフィスに有料のコーヒーサーバーがあるのだが、その中にケニアンドーンという銘柄のコーヒーがある。

これは読んで字のごとく、ケニアの夜明けがきますようにっていうことで、一杯飲むたびにケニアのコーヒー農園で働く人やその地域の人たちの生活改善をサポートすることになるらしい。

エコもそうだがCSRなども声高にやらねばならぬ的な運動は誰もが参加するには敷居が高いし長続きもしずらい。

その点、このようについででなにかしていることになるという仕組みがあれば、結構な人が協力的に参加してくれるものだ。

ただね。やはりこういう取り組みだとケニアのコーヒーを飲みながら、現地の人たちのことを想像するのは簡単ではない。ついではあくまでついでなのだ。

Nスペで地味に流れていたインテリジェンス

2008-11-26 | コミュニケーション
インテリジェンス 武器なき戦争 (幻冬舎新書)
手嶋 龍一,佐藤 優
幻冬舎

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最近のNスペはブッシュからオバマへの端境期とあって、米国の外交軍事面のプログラムが多いような気がします。(あくまで気がするだけですけど)

2週間前くらいに放映された、米国原子力空母が核兵器を搭載して日本に入港していたことを公開された米国の機密文書から明らかにしたこと。これはかなりのインパクトを持ったファクトだと思いましたが、報道の仕方が恐ろしく地味でしたね。

また、この前のアブグレイブ捕虜収容所の虐待に関しては、番組の最後のほうで当時の国務長官だったラムズフェルドがこの事件で激怒したポイントがあまり目立たない形で流れていました。

ひとつは、捕虜虐待の状況が写真で記録されてしまったことにより、情報を引き出すための最新の尋問の仕方が暴露されてしまったこと。

もうひとつは、戦争の際に人材を供給するアウトソース企業が存在し、派遣されたスタッフが行き過ぎた尋問を行っていたこと。(今年、本になってましたね)

こちらのほうもかなり重要な情報だと思いましたが、あまりにもさらっと流されていたので逆に気になりました。

オバマ就任まで約二ヶ月。あと1、2回はこの手の番組が組まれるのではないでしょうか。

過去の体験は常に美しく記憶される

2008-11-16 | コミュニケーション
米国人が知っている日本人としておそらくTOPにランキングされる人物としてオノ・ヨーコさんがいる。

彼女の日本語でのインタビューを見るたびに、ああこの人の日本語は美しいなと思う。

それは、彼女の日本語がずっと前に時を止めてしまっているからだ。

幼い頃、日本を離れ、南米などに移住した人たちの日本語も美しかったり、古かったりする。それも同じことだ。

スモッグもオゾン破壊もされていない澄み切った空を表現する言葉があったとしてもそれを現在の霞んだ空しか見ることのできない子供たちに教えるということにどれだけの意味があるだろう。それはノスタルジックな傲慢でしかないのではないか。

学生の頃、いや子供の頃、強烈な印象を残した数々のTVのヒーロー番組や怪獣映画は常に美しいものとして記憶されているものだ。

しかし、現代はその美しさを保持することをよしとはいてくれない。

30年、40年前の映像を意図も簡単にTV画面に蘇らせてくれるからだ。

で、つい郷愁にかられて見てみるとがっかりするものだ。

こんなものだったかなーと。

平成のデジタルエフェクト処理満載のライダーやウルトラヒーローをこんなの僕が見た○○じゃないと否定することも同様で過去にプレイバックしても何にもならない。



いつの間にかフォントに飼いならされている自分がいて

2008-11-14 | コミュニケーション
梅田さんの意図したとおり、続々と

日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で

について論考がUPされているわけですが、

こういうことは自然と意識下にあるものを浮かび上がらせてくれるもので、

最近、ケーブルチャネルで放映される古い映画(ゴジラとか家族ゲームとかなどなど)をHDDに録画してみるのですが、

なんとなくしっくりこないんですね。画面が。

なんかささくれるというか、生っぽいというか。

微妙に神経にさわるのですね。

で、なんなのかと。

映画の冒頭に出てくるキャプチャーが手書き(いや活字といえばよいのか)

ようはデジタル出力のフォントではなく、アナログなんですね。

アナログなので、それなりに迫力があって、微妙に一文字一文字が歪んでて、

多分、作った人の思い入れが出ているというか。

デジタルにはない味があるわけで。

これがもっと昔の毛筆で手書きでとなると、字そのものに生命が宿るというか、

筆跡自体に意味があるようになるだよなと。

デジタル化されて処理できる情報の量は確実に増えているのだろうけれど、

もしかしてそれって無駄に情報を処理しているだけなのかもと、

速読して素早く解釈できれば良いという物でもないのではないかと、

そんな意識が芽生えた。

日本語が亡びるときっていってもなー

2008-11-11 | コミュニケーション
梅田氏のブログが微妙に燃えているが、あの書き方ではそれも無理ないことだと思う。

しかもその後のTwitterでのコメントはどうしちゃったのというくらい冷静さを欠いている。

新書のベストセラーを出すほどの影響力のある人があの書き方はないだろう。

氏は自著で絶対多数の知というものがあって、量はいつしか質を超えて智となるという持論を展開しているが、今回書き込みはこれをいともたやすく否定したことになる。

ネットを信じろ(?)というのであれば、なぜ本という古い媒体を手にしないと話ができないようなルールを提示してしまうのか理解に苦しむ。

もう読んだというのであれば、自分なりの論を速やかに提示すればよい。それをもって更に論が発展すればよいではないか。

それとも、自分が論を発することで他者の論が弱まるとでも思っているのであれば、それは氏の驕りだろう。

そうではなくて、この本を手にとってみてほしいというシンプルな気持ちであれば、書き方もシンプルに良いと思うからぜひ手にとって読んでみてほしいと素直に書けばよいのに。なにか捻くれた表現になっていて自ら誤解を呼び込んでいるとしか思えない。

古代エジプトのヒエログリフはいまや誰も正確には発音できないのではないか。ただし、ロゼッタストーンのおかげで意味はたどることが出来る。当時のファラオが何を思い何に恐れていたのかも読み解くことが出来る。

それは、叡智を後世に伝えるためには、別の言語で併記して翻訳するしかないと当時の人間が考えたわけで、その意味で歴史は連綿と繰り返されてきたのである。

この時期世界最大の図書館はエジプトにあったらしい。

権力と富が集中する場所にこそ、叡智も集ることの証だろう。

その意味でこれからの日本の政治、経済が衰退の一途をたどるようであれば、日本語を維持していくもの難しくなるだろう。

旧来はアナログの媒体による記録が、これから先は全てデジタル化されて記録される。つまりはデータベース化され、それは検索して利用されるようになる。

検索した結果現れない情報は現存しないということになり、その情報はこの世から消えてなくなってしまうのである。

そいうことがある日突然大規模に起こらないとも限らない。

でも救いはある。ひとは全てをデジタル化することに賛同しないだろう。

アナログ媒体による記録が未来のロゼッタストーンになる可能性は十分にある。

しかも翻訳変換に優れた時代にもなっているに違いない。

オセロのごとく白から黒へ一気に記録を塗り替えることも可能となるだろう。

ボクラのミライはそんなに暗くないと思うんだけどな。

JUDOとイノベーション

2008-09-02 | コミュニケーション
先週末の夜、ひっそりとNスペで柔道100Kg超級の石井選手を取り上げていました。

いろいろと見方はあると思いますが、人一倍の練習を積んでいることはよくわかりましたし、言動の源はそこにあると思いました。

志は柔道。しかし、自分が戦っているのはJUDO(ジャケットレスリングかもしれないグローバル化した格闘技)だと石井選手はコメントしていました。また、変化に適応できるものが強いのだとも。イチローの哲学が述べてある書籍を手に取っているなど、番組として編集しているとはいえ、彼が自分の頭で考えて取り組んでいるという事実が重要かと思いました。

自分なりに考え、勝利に一番近づく方法だと納得できるからこそ、辛い練習にも耐えられるのだと。以前読んだ北島選手の本にも同様のことが書かれていたことを思い出しました。

いい意味でもそうでなくても彼は日本柔道にイノベーションを起こしてくれる貴重な人材なのだと思いました。

女性が活躍する理由

2008-08-29 | コミュニケーション
夏休み。

伊勢参りのついでというか子供達のメインである志摩スペイン村にGO。

広い園内ではあるが、待ち時間ほとんどゼロなので、一日で全制覇も可能だ。

それなりに面白いが、それなり以上でもない。

で、帰りの車中。妻と何が足りないかという話になった。

具体性を持った指摘が妻から速射砲のごとく出てくる。

小生は応戦するので手一杯。

妻いわく、おもてなしが足りないのだと。

おもてなしってなんだと思う?

詰まる私。

1.まず入場ゲートから音楽が足りない。TDLと比べて寂しい感じがする。

2.スタッフが足りない。歓迎されている気がしない。

3.トイレなど当たり前サービスが並み。

TDLは高い散歩だけど、まあいいかと納得できる。それがここにはない。

確かに。漠然と物足りないと思っていた私と違って、妻は的確に欠けているものを子供と遊びながら掴んでいたのだ。

現代のイノベーションはユーザ目線が大切といわれる。

私もユーザ目線で即座にコメントできるように訓練が必要だなと感じた瞬間であった。

サービス提供に際し、設備投資を抑えても人件費を抑えるのは誤りというトレンドがそこまできているのではないか。

フラット化する生活

2008-08-28 | コミュニケーション
夏休みも終わって、さて普段どおりにと思ってもなかなかもとに戻らないことに気がつく。

もちろん優先事項の高いイシューから処理していくので何かに支障をきたすということはない。

が、細かい部分は後回し。特に自分に関することは。

いつのまにか情報化の波に呑まれて自分自身の生活の兵站線がのびきっていることに気がつかない。

全てを元通りにしようとすると、すごい負荷かがかかるし、それで得られる効果も低い。

ここはいったんリブートしてスタートしたほうがよいようだ。

で、そのうち余分な時間が出来てくるからそこで過去を穴埋めする。

個人の生活にまで工程管理が必要な社会。それが現代なのだろう。


ゲームに見るコミュニケーション3社3様

2008-07-16 | コミュニケーション
通勤相手の新幹線こだまにはWiiの車内広告が定期的に更新されていることをご存知だろうか?

最近のWiiの広告をご覧だろうか?

「Wiiフィットで家族とのコミュニケーションが増えた」Byお父さん 

というやつである。

Wiiはファミリーコンピュータ(通称ファミコン)の当初のコンセプトに立ち返って、お茶の間(リビング)で家族がゲームを通してコミュニケーションを図るということに注力しているのだろう。だから小一時間新幹線に揺られるオヤジ族にとってWiiフィットやマリオカートWiiの宣伝は目に沁みるのだ。PS3やXBOXではこうはいかない。

一方、XBOXは米国で人気らしいが、その理由は、ゲームを通じて等友達同士がチャットなどのコミュニケーションをリアルタイムで行える点がウケているという。XBOXは友達同士の横のコミュニケーションを図ることに重きを置いている。

最後にPS3、今ブログや動画サイトをみるとやたらメタルギアソリッド4のプレイ後の感想や映像がアップされている。そしてファン同士はそのようなWebコンテンツを媒介にしてコミュニケーションしている。が、これはWiiやXBOXから比べるとコミュニケーションの距離は遠い。ある意味、ゲームをメタファにした自分自身とのコミュニケーションのログを他者に投げつけているという点ではスタンド・アローン・コンプレックス的ともいえるかも。










ネットコミュニケーションにもデザインが求められる時が来ている

2008-07-15 | コミュニケーション
いままではとにかく繋がることが衝撃だったわけだけど、ネットの世界も10年が過ぎたし、そろそろトータルな意味でデザイン重視になるのではないか・・・。

先日、某音響メーカーにてカーオーディオ機器等のデザインを担当されてきた方の話を聞くことができた。

かいつまんで話をすると、自動車の開発においては重量級のプロダクトマネージャーによる全体のプロデュースが製品開発をする上で重要であるが、カーステやカーナビの場合、デザイン部門が果たす役割は単なるデザインにあらず、自動車の重量級プロダクトマネジャーのそれを結果的に担うことになっていたというもの。

しかしながら、社内でのデザイナーの立場というものはなかなか認知されず待遇改善にはかなりの努力が必要だったとか。

翻って、プロダクトではなくコミュニケーションもそろそろトータルな意味でのデザインが必要な時代になったのではないかと思う。

どの家でも電話機が同じ、リビングに置くルータ機器も同じデザインというのはいただけない。もちろん通信機器だけがデザインが良くなればいいということではない。使い勝手や通信品質にいたるまでに気を配る。(利用者に合わせてバリエーションも必要)

とにかく左脳チックで技術オリエンテッドな世界からネットコミュニケーションもデザイン重視の世界へ移行しなくてはいけないなぁ~と最近つくづく思うのであった。


そういう意味ではケータイは一歩先を行っているわけだ。







ポストモダン・マーケティングと経験価値信仰への疑問

2008-07-15 | コミュニケーション
グリーン活動やエコに対するファッション化に対して以前から何処となくすっきりしなかったのだが、最近特に感じることがある・・・。

マーケティングも最近はサイエンスよりは経験価値を重視するポストモダンがもてはやされていて、その代表例が今をときめくアイフォーンだったりするのだが、どうも何かしっくりこないものがあった。

しかし、サブプライム問題以降、顕在化した諸問題を見るに付け、「あっそういうことか」という、あるひとつの概念が頭に棲み始めた。

経験価値を尊ぶという行為は、物やサービスがコモディティ化することへのアンチテーゼであること。また、付加価値を創造する過程においてイノベーションが必要だという論旨は、はっきりいって富めるもの達が物やサービスを豪勢に消費するためのエクスキューズなのではないかということだ。

経済的に豊かであることは生活する上で重要である。が、米国ではエンロン、そして日本でもライブドアショック以降、それ自体をストレートに顕示すること自体が憚られる状況下において、経験価値という概念が尊ばれるようになったのは偶然の一致ではないだろう。

といって何か結論があるわけではないのだが、とりあえずのメモということで。





おもてなしと合理性の狭間で

2008-07-14 | コミュニケーション
とにかくやってみて間違えたら速攻で直す。以前だったら許容していたスタイルなのだが・・・。

わけあって、インドのベンチャーが提供してるオンラインサービスを利用しはじめて二ヶ月が経過した。

サービス自体は、利用できる時間帯と範囲を考えると大変リーズナブルであり、その点は大いに満足しているといっていい。

また、サービスの内容も逐次更新され、どんどん使い勝手が良くなっている点も評価できる。

一方で月額結構な額を払っているわりにはサポートの質はあまりよくない。もちろん電話やオンラインチャットなどの即時体制はとられているが、その対応はいかにもマニュアルチックというか使えるだからいいじゃないか的な対応だ。

というか、日本以外のサービス基準からしたらまあそんなものかというレベルかとも思えるので一概に批判ばかりしても仕方がないかもしれない。

とはいえ、繋がらないから何とかしてくれという問い合わせに対して、やぶからぼうにこちらで新しいPWを設定したのでこれで試してみてというはいくらなんでも乱暴すぎる。こちらとしてはそちらが新たにUPしたサービスとともにサーバーがこけてログインできない状況になっているので設定を見直してくださいと丁寧に頼んだにもかかわらず、単にログインできないユーザだと解釈したらしい。

数時間後、サーバー側の修正が済んだのか、以前どおりにサービスは利用できるようになった。が、先方から対応したとのアナウンスはおそらく来ないだろう。

彼の国であれば到底許容できないカスタマーサポートぶりである。が、すぐに対応して使えるようにしてくれたのも事実である。

BRICsは今後ますますその影響力を増してくると考えると、どこかでサービスに対するおもてなしのすり合わせも必要になってくるのだろうか。それとも、すりあわせではなく、捨て去ることを迫られるのか。考えさせられる出来事であった。




グリーン・サービスをファッションで終わらせないために必要なこと

2008-07-12 | コミュニケーション
洞爺湖サミットも終了して一連のグリーン活動も一休み。しかし継続が最も重要なのだが、イベント頼みではそれも続かない・・・。

最近、★★★や★★★★のホテルでグリーン・ホテル・サービスを実施するところが出てきているとか。

シャンプー等のホテルの備品の取替え回数やベッドシーツの取替え回数を連泊の場合は毎日ではなく、二日に一度に減らすなど、環境負荷を減らすことを目的に過剰サービスをなくしていこうという考え方だ。

しかし、これも客がそのストーリーを理解してくれるのが前提で、実際は我慢できない客からの要請でグリーン・サービスも形骸化したり、全くそのような背景を共有しない客であれば、そもそも話がなりたたない。

グリーン思考をどうやって宣伝するかはサービス産業にとって難しい問題だ。というのも環境負荷を低減するグリーン・サービスは大抵の場合、サービスのデグレにしか見えないからだ。しかも顧客からみるとサービスがデグレするのだからプライスも下がるのが当然。従って、グリーン・サービスを実現するためにかけるコストに対しての正当な価格を提示することが困難になり、負のスパイラルから抜け出せない。

結局グリーン・サービスはその考えに賛同し、しかも相応の対価を支払う能力のある者がファッション性を伴って実践するという方向に向いていく。

とはいえ何もないよりも現状を肯定し前進することでしか解決策は出てこないのだからファッションから入るエコでもいいのではないかと最近は思うようになった。







米国ではマネージャーも就活で大忙し

2008-07-11 | コミュニケーション
サブプライムから端を発した米国のリセッションは深刻ですでに40万人の失業者がでているらしく今年中に100万人に達するとか。

最近のマネジメント系のポッドキャストはマネジャーも自分のリファレンスをしっかり用意しておくことが大切というものが多い。

いわゆるレジュメ程度ではインパクトとして不十分。

しっかり、プレゼンしてアピールできる自分自身のリファレンスが必要なのだとか。

翻って日本ではこのような観点での研修やセミナーはほとんどないな。

でも確実に今後は必要になるとおもうけど。

自分とは何かを積極的に開示した上でコミュニケーションすることが求められるようになるんじゃないか。

それとも相変わらずKY的なものを重視しなければいけないのか。