我が家は築20年を過ぎているので、先人が植えた庭の草木もそれなりに立派に育っている。
手入れをしないととんでもないことになってしまうので、仕方なく庭木いじりを始めたが始めてみるとこれはこれでなかなかに面白い。
特に枝の剪定は、日ごろ仕事で様々なことを取捨選択し、選択されている身としては色々なことを考えさせてくれる格好の機会だ。
枝自体に悪い枝というものはない。ただ、生えてきた角度や位置が人間の目から見てそぐわないというだけでバッサリやられてしまう。
そこに悪気はない。
また、並行して伸びている枝を鋏むとき、どちらでもいいときなどは、鋏む人のセンスやそのときの気分に任されるのだから枝のほうとしては堪らない。世辞を言うわけにも行かないのでただただ切られるの待つだけだ。どちらが残るかは運しだいというわけだ。
こうして枝ぶりが整うと野暮な庭も立派にみえてくるから不思議なものだ。
剪定作業中はiPodで落語を流している。朝夜の通勤時間に一、二席聞くのが習慣になってきた。とりあえず志ん朝フリークになった。最近は米朝もいいなと思うようになってきている。そのうち寄席にも通うようになるだろう。
白鳥や喬太郎を贔屓にできたらいいなと思うこのごろである。
手入れをしないととんでもないことになってしまうので、仕方なく庭木いじりを始めたが始めてみるとこれはこれでなかなかに面白い。
特に枝の剪定は、日ごろ仕事で様々なことを取捨選択し、選択されている身としては色々なことを考えさせてくれる格好の機会だ。
枝自体に悪い枝というものはない。ただ、生えてきた角度や位置が人間の目から見てそぐわないというだけでバッサリやられてしまう。
そこに悪気はない。
また、並行して伸びている枝を鋏むとき、どちらでもいいときなどは、鋏む人のセンスやそのときの気分に任されるのだから枝のほうとしては堪らない。世辞を言うわけにも行かないのでただただ切られるの待つだけだ。どちらが残るかは運しだいというわけだ。
こうして枝ぶりが整うと野暮な庭も立派にみえてくるから不思議なものだ。
剪定作業中はiPodで落語を流している。朝夜の通勤時間に一、二席聞くのが習慣になってきた。とりあえず志ん朝フリークになった。最近は米朝もいいなと思うようになってきている。そのうち寄席にも通うようになるだろう。
白鳥や喬太郎を贔屓にできたらいいなと思うこのごろである。