コメントするなら読んでからということで、私なりに一連の本を読む。
で、『私塾のすすめ』も読む。
印象に残ったのは対談の相手だった斉藤さんの「ネットのない時代に自分は本と向き合うことで内省的自己対話をしながら自己を深めていく作業を行ったが、これはネットのある時代でも有功である」というコメントだった。
本から受ける影響を受け止めて自己へ向かって発言し自分で受け取るといういとなみを続ける中で自己は化学変化を起こし発酵しいつしか他者がわかるほどの自己変容を自己にもたらす。
これが従来のやりかたで有功なのはわかるが手間も暇も必要でちょっとやそっとじゃできない。
で、インスタントにするとなると短時間に不特定多数の他者からのショートレビューを受けることでメタファーとしての自己が自動的に作られ、それをよりしろに自己変容が起きるかをみるという試みをしてみたくなる。
自己の変容だからそれによって化学変化が起きるかどうかは自分にしかわからない。他者では試すことができない。第一その意義を他人に理解してもらった上で依頼するなんてことはできないし、他人からのフィードバックでは確信がもてない。やはり自分を実験材料として試すほかはない。
で、人体実験として群衆の知やそれ以外のものを含むすべての情報をシャワーとして浴びることを決意し実行に移した。
結果は、自分にしかわからない。仮説としては、変化がなかったからもうやめるともいえるし、なんらかしらの効用が存在することを確認できたので次のステップへ移行するというようにとらえることもできる。
見える変化としては、ブログからtwitterへ移行しているようにみえる。
で、どうかといえば、ネットで自己を深めるのは厳しいというか向かないということなのだろうと自分では感じている。
彼はネットの中に著しい想像力の欠如を感じたのではないか。
twitterのようなつぶやきの連鎖は壁を覆う蔦のようで一見すると周囲を支配しているようにみえるがその実は容易に排除できる存在であろうし、それ以上でもそれ以下にもなり得ない。
彼はいまでも僕と君の間で対話を続けているのだろうか。