電車の中。立っているときには本を読んで、座っているときには眠ることに決めているんです。往きも帰りもほとんど座れますから、まあほとんど寝ていますね。日ごろの睡眠不足の解消の場でもあるんですが。
でも、30分ほどしか乗っていませんから、あまり睡眠不足の解消にはならんのですが、やはり眠たい。恥ずかしながら、高いびきをかいて寝ちゃうわけです。ほとんど意識を失ってますから、乗り過ごしも日常茶飯事。
そんな中でも、珍しく起きている場合もあるわけです。そういうときには、まあしょうがないから雑誌などを読むわけです。「法律のひろば」とか「ジュリスト」などなど。露骨にジャマする人もいますね。あれはなんでしょうかね。劣等感なんでしょうか。(おいおい、だったら、漫画なんか読むんじゃないよ、と言いたいがこわいから…。)
「外形標準説」(?)の功罪でしょうか。読んでるわが身にしてもたいしたことないんだけどね。
そんな中で、今日は隣に座った女子大生らしき女性(専門学校生かも)、レポート作成なの準備なのか、ノートをめくっていました。失礼とは思いながら、のぞき見。退屈でしたからね。
「ドーナツの歴史」。ノートの中のはしり書き。ほう、どんなものにも「歴史」があるんだなあと妙に納得しちゃいました。それでその後、ちらちら見ていると全体の文章はわからなかったんですが、「こうけんしてしまった。」との記述。
「こうけん」ぐらい漢字で書けよ、なんて忠告したくもなるんですが、「なんだよ、このおっちゃん」と言われるのもイヤですから、見てるだけなんです。
でも気になるのは「~してしまった」という記述。これは意外にもそのようになってしまったというようなマイナス・イメージの言葉だと思います。いい意味では使わないんじゃないですかね。「今日は、勉強してしまった」などと間違っても言わないでくださいね。
人との対話は難しいものがあります。それなのに「なぜ人々は対話をしなければならないのか(対話の内在的価値)」あるいはまた、「どのように対話を遂行すべきか(対話の技法)」というのは必ずしも自明ではないようです。
『法的対話論(「法と対話の専門家」をめざして)』(大澤恒夫著)は、そういう意味での一冊。ある種の「弁護士像」を提示するものですが、合格して実務に入る方はぜひ読んでみてください。