別館 兄弟仁義

超常現象ドラマの兄弟愛と家族愛をうっとおしくつつくブログ

スーパーナチュラル シーズン5 その20

2014-01-01 22:29:41 | シーズン5
覚書は終了してますが、20とキリがいいので(^_^)

“結末は難しい。ファンは満足せず、必ず‘穴’がある”byチャック
チャックは預言者かそれとも神だったのか…? は別として、神=クリプキを代弁した言葉ではあるでしょう(笑) 怖ろしいのは地獄の穴か、望むオチか否かという穴か(笑)

シーズン1から5年、兄弟の長い旅は“ひとまず”の終着を迎えました。チャックの言う通り、善と悪、天使と悪魔、運命、そしてついには神という試練を与えられた二人は、それらを乗り越え人々を救ったイケメンヒーロー兄弟としてよりも、常に自分達の選択をし、それがいつも“家族”を元にしていたことを心に残してくれました。正誤は問題ではない。
すべてにおいて共通の’正しさ’はなく、天使すら善だけではなく。
ルシファーは常に自分視点だけで考え、満たされない自己愛からの不満を正当化しようとし、ミカエルもすべての不都合は弟のせいと決めつけ、“良き息子”という立場を全面に押し付ける。
人間はたびたび間違いを犯す。しかし直そうとすると言ったのはガブリエルでした。過ちにしろ失敗にしろ、そこから新たな選択をしようとするのが人間。運命だからしょうがない。そう言って変わろうとしない高位の存在。どんなに追い詰められても選択し直す、神が後から創りし息子たち。
自分達の悩みや苦しみに捕らわれても、基本彼ら兄弟は利他的。他者のため、家族のため、そして互いのため道を捜し続けた。
ウィンチェスター兄弟の選択の結果よりも、選んだ動機こそが、神が望んだ人の姿ということ。チャックの言う“神のテスト”というのはそういうことなのではと私は感じてます。

そして、サムがルシファーと共に(ミカエルも巻き添えに)穴に落ち地獄の檻に繋がれたのも、贖罪でも自己犠牲でもなかったと思っています。ラスト地上に姿を見せたサム。それはシーズン6からの展開になるわけですが。
当初のシーズン5終了のままだったら、サムが地獄に落ちておしまいはないと思うんで(^^; 別の結末が用意されたんでしょうねきっと。
クリプキが当初この物語を考えだした時は、話の中盤まで浮かんでいてそこには天使の存在はなかったと言ってます。米TVドラマ視聴率主義はシビアそのもの。シーズン5で完結したいという彼の構想は可能性としてはかなり低かったわけで、シーズン1,2の頃は次があるかファンも毎度戦々恐々でしたね。
なので、今回のラストも始めから予定されていたものではないわけです。物語は続くとともに一人歩きを始め、様々な人の意見も入るし、俳優の個性や演じ方によってもどんどん姿を変えていく。ディーンにジェンセン本人の資質が加わってきたのは見ていると明らか。
ディーンのナイーブさはジェンのものやわらかさとは違うんだけど、少なくとも兄の泣き顔のうつくしさはジェンを泣かせてみてわかったことだろう(笑)
そしてダーク化していくサムは、太陽のようでいて策略家なジャレの姿もちらつく(笑)

サムがルシファーを檻に戻せるかは、魔王が中に入ってきてもと同化しないこと、すなわち自身の怒りを制御できるかにかかっていたわけです。そしてそれには必ず、ディーンのサポートがある。
兄もまた、弟を守るのが自分というアイデンティティを外し、大人として厳しい選択をするサムを対等に支えることを選んだ。
シーズン始めの頃からずっとあるかもと言われていた“兄弟対決”。それを見たいと期待していた人たちからは、「アダムにとられた!」と不評だったようですが。
ディーンがあくまでサムを支えると決めた時点で、ミカエルと同化するストーリーにはならないと思う。
二人が闘う方が見栄えがするでしょうが、すでに散々殴り合いは見たよ^^; シーズン4の終わりとかで。今回もサムがディーンを痛めつけるという萌え(?)場面はあったわけだし。
これが特撮がたっぷり入れられる映画ならともかく、天使と悪魔も素手で殴り合ってたTVドラマです(笑) コンスタンティンみたいな映像は無理。
お互いに器になり、中から相手を想って葛藤するなんてのも、もう今まで葛藤しまくってるのでいいのですよ。私は兄がミカエルに入らず、弟二人の器の闘いに割って入っていくのが、ジェン演じる兄貴にふさわしいと思いました。

天使が人間という器に入らないと闘えないというのに散々突っ込みましたが(笑) 目もくらむような闘いのシーンなどはドラマ予算じゃ無理。でも、むしろそこが面白い点にもなったとも思いますね。
ヨハネ黙示録の四騎士の擬人化は、特典で脚本家陣が自賛するナイスアイデアでした。でもそれを言うなら“器に入る”天使と悪魔というのも、憑依の形で擬人に準じたものではないでしょうか。
動植物や物質など、感情のあらわせないものや無いものを“ヒト化”して語らせる。もしくはそのものの性質を“ヒトの個性”になぞらえるのが擬人化。
天使も悪魔も本来ヒトの形は持っていないエネルギー体だと読んだことがあります。居るか居ないかはこの際置いといて(^^ゞ 宗教画などに描かれたのは、悪や善なるものを画家の目で人間レベルに降ろしたもので、それも一種の擬人化と言える。
四騎士にそれぞれ象徴するテーマがあったように、スパナチュでは悪魔は欲望を、天使はエゴを大まかに表していたように思います。今シーズンは悪魔にも増して厄介だったのが大義名分を振りかざしてくる天使。兄が悪魔より手に負えないとか言ってたな。

自分達の抱える問題や性質の一端がゆえに器に選ばれた兄弟。けれど大口叩く天使達もまた、虫けら同然に思っていた過ち多い人間の選択~自分達の選択をした兄弟に封じ込められてしまう。
地上で狭い“カタチ”に入るというのは、本来の自分の持つ狭量な感情とも向き合うことなのかもしれない。ガブリエルもカスティエルも、兄弟に出会ったことと共に、自分たちもまた器に入って地上の世界に触れたことも彼らの変化に大きく関わっているようです。
ルシファーととミカエルも、天界地界の壮大なエネルギー体からちっぽけな器に入ったことにより“性格”ができ、自分と兄弟の感情に初めて向き合ったんじゃないでしょうか。小さい体に大きな感情を詰め込んでいる人間。それはあんたたちが思うより自己修練なんだよ。生きてるだけで(笑)
闘いは水入りになったけど、地獄の檻で天使兄弟の関係性は変化したんだろうか。気になるところ(6で描かれるのかは謎)

最後に残されたのは、サムとディーンの“真の願い”はなにか、ということ。
懸命に生き、選んだ結果が弟が永久に地獄に留まること。俺には何もないのか、一人ぼっちだ!とキャスに神への怒りをあらわにするディーン。その彼にキャスが言ったのは、君が望んだことだと。楽園も地獄もない、普通の日々。「君が欲しいのは自由か、平安か」
サムの自立を認め助けるのがディーンが最後に望んだことで、それはかなっているわけです。そしてサムも、怒りを制御しルシファーを閉じ込める。兄に救われてばかりの弟ではなく、一人立ちした男としての選択をし、そのリスクも受ける。それもまたかなっている。
それ以上のことになると、二人はイメージも望みもしていなかった。それはあんな状況におかれれば無理もないし当然だけど。
かつてサムが夢見た“普通の生活” それはもう色褪せ意味の無いものになり、ディーンの望んだ三人での生活も父の死により消えた。
そのあとに二人は、大変な状況に対処する以外にはなくて、望みはそれらがなくなることくらいだったでしょう。
でも、そこには“思いもかけない幸運”なんてものは起こらないんですよね。
人は、なりたいものになる。望むようになる。
願った通りにならないのは、それが何かの代わりに欲しがってるものか、自分を傷つけた人に対しての復讐や見せつけとして望んでいるにすぎないからとも言われます。そして他者にこうしてほしい、こうなってほしいと操作するものもかなわない。相手自身の望むことがあるから。
本当に自分が望む姿をわかるには、それまでの“過程”の願いを越えなければ。

絶望と失意の兄は、リサのもとを訪れます。リサは自立した強い女性で、傷つき疲れ果てたディーンを受け入れてくれる。
ディーンは彼の本質にある、守り育むもののある家庭に入り、ひとまずの平安を得る。
それがキャスの言ってた“平安”ならば、ディーンの“自由”とは何だろう。
兄弟共に地上で限りある生命をまっとうする。闇を狩る仕事から解放される。…ことだろうか。
“自由”には義務から解き放たれるイメージがあるけれど、本当は自由こそある種の責任を負うものでもある。

シーズン6ではディーンが弟と、リサとベンという二つの家族の間で葛藤するとか。6は人さまの見たネタばれ感想をちょっと覗くだけですが、そんな話を小耳に。それはどちらがより大切な存在か、リサ親子はサムの一時の代わりにすぎないのか、ではなくディーン自身が幸せの形をはっきり自覚して決めることだと思うんだよね。
そしてサム。自分の“怒り”を制御することを望んだ彼は、それがかないました。そして地獄の檻から出たきたサムがどうなっているのか。

彼らが本当に、自分達の望むものを見出し、それを得れるのか。
シーズン6のテーマがそんな小難しいものとは誰も言ってませんが(笑) そんなことを私としては見ていきたいですね。
ドラマにせよ映画にせよ、受け取り方も様々だけど、むしろ自分が受け取りたいものを意識して見るものだと思う。
イケメン兄弟がくっつき直せばそれで私は幸せなの!という人は、それだけを念じて見れば良し(笑)


兄弟がオジー・オズボーンのコンサートに行ってノッたり、カンサス大学の試合を見て騒いでいる様子を浮かべると幸せになる。私が。
そんな日常こそが、二人にとって一番の幸せであったのだと思う。つかの間の休息かどうかは問題じゃない。
大切なのは、それを望み続けること。



それともうひとつ。チャックが神だったのか!? という点。
まあそんな感じに描写されていたし、そう取って良いようなことをクリプキも言ってたようです。
でもそれが何となくしっくりこない人も多いみたいで、預言者も役目を終えれば消えるだろうから、彼はやっぱり預言者じゃないのかという人もいるようですね。

私個人としては、神でいいんじゃないのかと。
というか、それはどうでもいいかなと(笑) いや、クリプキもそういう感じだと思うよ。
友人なんて、天使はイケメンを器にしたし神ならもっと驚くべき器であってほしいみたいなことを言っていたが(笑)
悪魔は無理やり、天使は了承を得て人を器にするならば、神は本人が自覚せずに寄代になれるんじゃないかと思うので、チャックは神本人というより神の器と考えてもいいと思うんですけどね。まあどうせなら、ジョンを器にすればまさにウィンチェスター神一家で収まりますが。JDMが出演無理だからな(笑)
でも実のところ、神でも神の器でも預言者でも、どれでもかまいません。

神というと、たいそうなイメージを抱きがちだし、天使と同じく異教の神々も自分達を御大層なものとしてたけど。
宗教には疎いので神のイメージも曖昧ですが、キリスト教的にはかつて読んだ遠藤周作氏の『イエスの生涯』が浮かびますね。
イエスは神自身ではないでしょうが。著書の中でのイエスは、くたびれやつれた普通以下の青年でしかない。ただ彼がしたことは、苦しむ人の側にいること。何もできずとも、ただ寄り添うこと。
“寄り添う者”としてのイエス像というのを学生の時に読んで、ものすごい感動した。大泣きしました。
神はそうとは見えない存在の中にいる。それは人でなくてもいいんですが、森羅万象に神は宿るという東洋的思想とはまた別です。
見守るもの。そして見届けるもの。私の中のそういう神さま像と、傍観者であり語り部として締めてくれたチャックは、神でしたと言われても違和感なく受け止められますね。ヘタれ作家というところがスパナチュ的ブラックユーモアじゃないかと(^-^)


5年間で成長したのは中の俳優さん自身も。そして二人とも、シーズン6を前にして目出度く結婚もされました。
当初の予定のシーズン5終了と共に、ジェンは長年のフィアンセと満を持して。ジャレは突発的情熱で(笑)
普通のファンも、腐のつくファンも、そこは一抹の寂しさはあるでしょうが。
二人は早くカワイイ二世を作ってほしいしね。それにテキサス男子は一家の長になることで、男として一人前になる感じがある。
ボーナストラックの100回目エピソード記念パーティーも見ました。毎度語られる主役俳優の相性の良さと共に、この番組に関わるすべてのスタッフがファミリーであることをつくづく感じさせます。家族を大事にするジェンとジャレが、この役に呼ばれたことも必然。
家庭を持ったジェンセンがリサとベンと暮らすディーンを演じ、元悪魔の奥さん(笑)をめとったジャレッドが地獄帰りのワケありサムを演じるシーズン6もまた、必然的にリンクしていて面白い。期待してますv
なんてったって、家族物語だもん、スパナチュ。

1,2の頃は継続をいつも心配していたこのドラマが、今や全米で7番目人気に。放送局や制作規模からすると予想外の大出世(LostやHeroesとは違うのだ) 小粒でピリリと辛いスーパーナチュラル。
ボビー演じるジム・ビーバー氏が、長年俳優をやってきたが、これほどファンが献身的に支えてくれるドラマに出会ったことはないと言わしめたスパナチュファン。ファンもまたスパナチュファミリーの一員。
その、極東小国兄擁護委員会弟見直し隊支部一員として(笑)、これからもスパナチュを応援し続けます!


それでは、またシーズン6がDVD化されるだろう秋に兄弟に会えることを待ちつつ…

さてと。ギャグリール(NG集)見返そ(笑)



(2011.1.1)

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