別館 兄弟仁義

超常現象ドラマの兄弟愛と家族愛をうっとおしくつつくブログ

スーパーナチュラル シーズン5 その13ダッシュ

2014-01-01 22:22:04 | シーズン5
ネタばれ覚書だけで長々だったので分けました。
毎日少しづつ書いてるので、手直しする暇がない。このまま載せるぜ。


今回言いたいことは山ほどある

この回が本国放送され、ネット配信で見た人たちがゴウゴウ言ってたのは、主に兄への同情でしたね。
兄貴がかわいそ過ぎると。
ハイ、確かに。常に兄とシンクロし兄擁護隊に所属するわたくしもまた、ディーンの辛さは見ていて身に沁みましたよ。
ですが。

弟にも理由がある。というのは正しい言い方ではなくて、人の想いはそれぞれ、その人にとっての正当であるかなんだよね。
それがもう、年と経験から(笑)わかってきてる私には、サムを責める気にはなれない。
一見すれば、家族と離れたことばかり幸福の記憶として残っているサムは薄情な甘ったれだけど。
下の子の願いってのはそういうものなのだろうと思います。
私は下も上もない一人っ子ですが、主に上の子の状況に置かれることが多かった。DVDを友人宅で見ましたが、彼女は姉がいる妹。
サムの気持ちがわかるし当然だと思うと。半面、イタいともいつも言う(笑)

ジョンパパとディーンが必死に守ってくれたことは、サムにとっては有難いことよりも束縛であり、やりたくないことばかり強要される定住生活すらできない家族。モーテルでの買い食いだけの感謝祭より、暖かで清潔な食卓と豊かな手作り料理を初めて経験した日。飼えなかった犬と好き勝手に暮らした2週間。独力で入学した大学に出発した、独立の夜。
サムにとってはそれらが、ようやく手に入れた“自由”という名の幸福に感じられたのは確かでしょう。

一方、ディーンの喜びは家族と共にあること。幼い弟の喜ぶ顔と母を慰めた記憶。家族とのささやかな思い出が兄の幸せ。
こちらの方が利他的で、同情はしやすい。
けれどサムが言った通り、家族への見方は育った環境が違わせる。そして性質もまた、上の子下の子だからに限らずの違いもある。
サムはママの手作りサンドイッチを食べたことはないし、ミニカーやおもちゃのそろった子供部屋の記憶もない。
けれどディーンは、その失われ与えられるはずだった愛情の代わりに必死に弟に与えようともしてた。
サムがガールフレンドの家で初めての感謝祭のディナーを食べてる頃、ディーンはどうしてたのか。
親父がいたら家族3人でいることになっただろうから、きっとパパは狩りで不在の感謝祭の年だったんでしょう。
天国でのデカいサムがワイシャツにネクタイをしてたのは、11才のサムがその姿だったから。
普通の家庭に招かれて恥ずかしくないアイロンをかけたシャツを用意し、幼い弟のネクタイを結んでやったのは誰なのか。
ジム神父やベビーシッターではないと思うよ。兄貴はそのとき15歳。
彼もガールフレンドとよろしくやってたはずはない。だって11才の子なら家族が迎えに行くのが向こうの常識だから。
帰る場所がモーテルであったら、サムは隠したかっただろう。でも一人で帰ろうとしたらGFの親が送ろうとするよね。
モーテルで一人待ち、時間を見計らって迎えに行った兄がいたと思うのはたやすい。
ディーンはどんな気持ちでいたんだろう。

弟のためにすることが兄の喜びなのは兄貴の勝手。と言っちゃあ身も蓋もありませんが。
確かにサムに非はない。ディーンも自己犠牲とは思ってなかったろうし、そうではない。
上の子が与えたいと思い、下の子はないならつかみ取ろうとした。そのの差。価値観は違うのはしょうがない。
手に入れられないものを自力でつかみ取ろうとし、家族の束縛から逃れようとしたのがサム。

しかしウィンチェスター家は特殊事情だから、2週間の家出(モーテルでも)でも、その頃にはもうサムが特殊な子供だと気がついてたかもしれない父親は死ぬほど心配しただろうし、同じく心配の上に父親から責任を追及されただろう兄はほんとに辛かったはず。
板ばさみ。

その言葉が長子にはつきものなんですよ。
サムの「親父の尻拭い」発言に友人は笑ってたけど、ここは私には笑えなかったですよ。
身に覚えがあり過ぎる^_^;
弟や妹をかばうことはなくても、両親のいさかいの際に板ばさみになる経験は有り余る(笑)
こういうとき、自分が取り持たなくてはという感覚は、長子か一人っ子特有でしょう。
そんな気はない兄か姉がいたとしても、じゃあ自分が何とかしなくちゃという気持ちになる下の子は少ないだろう(笑)

さらには、兄は弟と父親の間の板挟みでもあったわけです。

理想の夫婦なんてものはない。妻亡きあと、ジョンの中で自分たち夫婦を理想化したのは良くあること。失われたものはいつでも美しい。
ディーンの見た天国が、パパとママと弟のいた世界ではなく、パパ不在のママを慰めるところというのも意味深い。
シーズン2で、ジンという半神に理想の世界を夢で見せられた時も、パパは“まともに”死んでる世界だった^_^;
それだけディーンにとっても、ジョンはプレッシャーであり幸せを感じるには厳しい相手だったんですね。
ジョン役のジェフリー・モーガンのスケジュールがいっぱいってのは置いといて(笑)
自分が守る相手がいること。その守るべき者と共に暮らすことに幸せを感じるのがディーン。
父親は守る対象じゃないし、常に厳しい方向に向かおうとするジョンは、男として尊敬する対象であっても幸せを喚起する人ではない。
シーズンを重ねるごとに明らかになってきた、ディーンの守りの本質。サムの攻めの本質。
それが長男次男という立場に加えて、二人の求めるものの差をつくりだしている。

心情的には兄派だけど、だから弟も責められない。それがサムだから。
兄貴に向かってほざくご高説を他者の前では出さなくて、デカイ体で犬顔で黙ってることには何度でも突っ込むけどよ(笑)
それもまた、ザッツ弟なんだよね。他者と対峙するとき兄貴がいれば弟ポジションでいるという。


もうひとつ興味深かったのは、天国のありよう。
ディーンの言う通り、たとえ幸せな体験であってもしょせんは過去の追体験。出てくる人たちもメモリーの幻でしかなく、一人ぼっちで見る夢にすぎない。
そうと知らなかったら、ディーンもサムもあの天国で満たされたかもしれない。一時的には。
だけど幻とわかっているアッシュもパメラも満足してるのは、彼らが一匹狼的な資質が大きいからなのかな。

この天国は、神が創ったものなの? これが天国、至上の幸せと思って人間に示している天使どもが偏ってるのも無理もないわな^_^;
使い古された言葉だが、人間は人と人の間にいるから人間。ヒトというのは生物でしかない。
人と人が向き合い、関わることによる苦しみや悲しみも含めた幸せを、幸福と感じるように創られた。
大天使の家族愛や天使の感覚を見ていると、おそろしく独りよがりなのは、みなそれぞれが自分ワールドの住人だからかもしれない。
ガブリエルやキャスはそこから抜け出たけどね。
神が人間を作り、天使より愛したのもそのためではなかろうか。
ま、天界を作ったのも神なら、責任とれよってところですが(^_^;)

これはクリプキ筆頭に、脚本家製作側の意図を感じますねえ。
すなわち、こういう天国を好む人間は今いくらでもいるわけで。実際の人間関係を疎い、バーチャルな世界に半ば住む。
メール他のやり取りはまだしも対相手がいるけれど、ゲームの世界などはどんなにパターンが複雑に多様に用意されようが、結局は一人ですべての登場人物を動かす人形遊びにすぎない。
そういう世界だけにどっぷりひたった者が起こしている数々の問題は、昨今の話ではないよね。
この天界、天国像は、スパナチュオリジナルというわけではないし。
先年の『ラブリー・ボーン』の原作でも、天国は望む世界のバーチャルワールドらしい。映画では“永遠の狭間”にいる設定にしてたけど。

この兄弟が、谷あり谷ありの人生(~_~;)でも、互いを捨てず、信じられなくなっても離れずにいる暑苦しいまでの物語は、なにもイケメン兄弟愛に萌える腐も一般も含めた女子のためにだけ向けているものじゃない。
つまりは“共有”していくのが人間であるということ。
幸福観も価値観も違い、諍い傷つけあいながらも、二人は少しづつそれを認めすり合わせ、成長し、助け合っていく。
違っても一緒にいる。依存しあうことも、そこに付け込まれることも受け入れながら、同じ時と体験を共有することの意義。

大体が、地獄から出て巨大な力を持つルシファーは、なんで人間の器に入らないと最終戦争が始められんのか。
ミカエルも、他の天使たちも同様。
精神体みたいな形だろうが、羽と頭が複数ついてようが、そのまま戦えばいいじゃない。
それが、やつらの言う、臭い器に乗り移る必要性というのがいまいちわからない。
そこらへんの説明は、今シーズン始めあたりにルシとかが言ってたか? 忘れてるのかな私。
しかし、忘れちまうくらい、さほどインパクトがある理由じゃないのだと思う。

つまりはこれは、限りある狭いカタチ、感覚を知る人間というちっぽけな容器に入ってこそ、生の体験ができるという昔からの定番ではないのか。
『ベルリン 天使の詩』しかり。
痛みや苦しみを感じ、悩み、成長する人間に入ること。それこそが“地上”を支配するための大きな一歩。
だとしたら、器になる兄弟の感情こそが一発逆転起死回生のキーではないのかと。


サムの天国には兄が登場せず、兄の天国にいたのは幼い頃の素直なサミー。同じ天国を共有しない兄弟を見るのは辛いところだけれど。
実はここも引っかけでもあると思う。
どんな厳しい人生を歩んでいても、幸せの記憶は一つや二つではないはず。つまりは今回の二人の天国も、何種類かあるうちの一つにすぎないのではなかろうか。
何度も死んで、生きかえさせられ、それを覚えてない―記憶を消されてるという二人。
何回天国に行ったか知りませんが、そのなかにはパパジョンと三人でいた風景や、ディーンは家族四人でいた時のこともあったはず。
二人の天国が一致してる時もあったと思うのです。

それが今回は、互いの喜びの記憶が程遠いままに現世に戻されたのは。
のっぴきならない終末も近い今こそ、互いの違いを全面的に認め受け入れる時に至ったからなのでは。

家族無視のサムの幸福は、ディーンにとっては辛いけど。弟にとって“自立”し、“一人前の男”として認められることが重要で、それが今まさに最も兄に求めていることだということに、気づくべきなんだよね。
そして弟も。シーズン4で、兄貴は以前の兄貴じゃない、弱くなったとか言ってたが、兄の本質が守ることであり自分のようにつかみ取るものではないこと。それから自分の怒りをそのまま出せば、周りを傷つけるばかりかのっぴきならない状況を招くということ。
それを肝に銘じるときが来たと。
互いの裏側の、知っていて避けようとしていた部分をさらけ出し認め合う時でしょうね。アラサ―兄弟、遅いのは特殊環境にあったから許したる(なにさま)
原題は『Dark Side of the Moon』 月の裏側。


すでに最終回まで一応見たので、この後の展開も知っていますが、この互いと己の資質を認識したうえでの選択というのが、この先に用意されてる。

最後に、幼少の弟から貰って以来、片時も離さず身に着けていたアミュレットを捨ててしまうディーン。見ていて辛いけど…
あれは、同じ天国を夢見ない薄情な弟と、すべてを見通せながら何もしない神への双方への怒りと絶望でしょうね。

神の考えについてはまたラスト近辺で述べるとして。

この先、数回は兄の辛い心情が続きますが。
二人が同じ、“ガーデン”を見たこと。
それをディーンもサムも、意識してないけれど。
一致する喜び。共有した時間。
今は過渡期で忘れてるその記憶が、これからの兄弟を救うよすがになるのだとは、先にネタばれしておきます。
そして、人によって違うガーデンに至る風景が、二人とも“道”であることも。


(2010.12.17)



スカパーにて視聴後(2011.5.10)


ここで出てくる天国は、人が幸せだった人生の追体験している。いわば各人の思い出ワンダーランド。
ディーンの言う通り、実は出てくる他者も思い出の中の幻想にすぎず、実は一人ぼっちで楽しかった思い出に居座り続ける。
それが本当に幸せかよ、と兄は言う。
それはディーンがすでに、幼い弟、優しい母親との記憶を味わったあとで、それが幻想にすぎないことを思い知らされていたから。
パメラ姐さんはそれでも地獄に行くよりは遥かにマシと言うけれど。比較対象が悪すぎるだろう。
地獄に行ったディーンがそう思ってるんだからね(^_^;)
人は、愛するもの、共に居たい人と一緒にいるのが天国に一番近い。兄貴は少なくともそう思ってる。
アッシュもパメラも、どちらかというと一匹狼体質。だから彼らの天国に他者が常にはいなくてもいいのかもしれない。

そう考えると、アッシュが天国でパメラを見つけ、ジョンとメアリー、ジョーとエレンを見つけられないのは、家族や愛するものと一緒にいる天国を選んでいるものとの波長が違うからじゃないだろうか…?

なんて考えてしまう。

それにつけても、兄貴は真っ先に弟なんだよ当然(笑)
ついでママ。
ジョンパパが現れてないのは…
まああの天国バージョンは、過分にザカリアがディーンの傷をえぐるために設定した感じもあるからね。

弟の天国に兄の“あ”の字もないことは、何度見ても<`ヘ´>なわけだけど。
人の天国は人によって違うことを知れば、仕方がないことでもある。
これは兄に限らずどんな人間でも、人生において体験してることなんだよね。
自分とあの人の天国は違う。

実世界でも人はそれぞれ、自分の“天国”-そうでありたい世界-を保とうとしてる。
自分が見ている世界と、他者の目から見る世界は違っている。
同じものを見、同じ場所にいて同じ体験をしていようが。
それぞれの世界をすり合わせ、人は生きているのかもしれない。

今の現実世界を見ていてもそう思ったりする。


サムは自分が特殊な運命の持ち主と知らぬ子供の頃は、知らせずに守ろうとした父親と、母親代わりですらあった兄との保護下も、自由も人権も認められない牢獄でしかなかった。普通の生活ができないこと、何も知らされないこと、すべてが自分は認められずないがしろにされ子供扱いされているとしか感じられなかった。
だから彼の天国、良い思い出は、すべて家族がいない“一人でできたもん”なのだ。
初めてのまともな家庭での感謝祭。初めての一人暮らし。スタンフォードに旅立つことは家族からの自立。
そう、サムの幸せは自立と直結していた。

けれど家族から離れて暮らすこと、経済的に頼らないことが=自立ではない。
わだかまりとこだわりを越えて、根底にある家族への信頼を感じた時に、人は一人立ちできる。
長い道のりを経て、辛すぎる経験をしたサムは、そのことに気づいてきた。

兄もまた、弟と母の幸せが自分に責任があるという、行き過ぎの長男体質からの罪悪感や自己否定を拭わなきゃならない。
でないとクソオヤジ天使(ザック)につけこまれることになる。
子供時代の一番良い思い出と共にある弟のプレゼント、アミュレットを捨てるディーン。弟の中には自分が大事にする思い出が無いならば、それは色褪せた宝物。
気持ちはわかる。
でもね。幼い弟はもういない。すぐそばに今の弟がいるじゃないか。
理想の弟でなくても、信頼しきれない前科を作ったとしても、今の弟を受け入れるしかない。
そのために、5年後の世界から戻って、また共にいようと誓ったはず。

違いを乗り越えて繋がる。家族だから難しく、家族だからより強くなれる。
それをしようとしない大天使兄弟に見せてやれウィンチェスター魂。



だが弟! 「昔から親父の尻拭いをしてたんだね」には何度見てもド突き入るぜ!
兄貴はお前の尻拭いの方がはるかにしてるだろうが
前も書いたが、その尻拭いが兄貴の中の良き思い出、天国のひとつなんだよ言葉に気をつけんしゃい

自分の言動が兄貴を傷つけた時の常套文句、「そんなつもりじゃなかったんだよ」

どんなつもりでも駄目だろ(^_^;)


それでも傷ついたディーン(ジェン)の表情がうつくしすぎるので見入ってしまうという罠。




同じような内容ですが、合体しました。

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