甲府市観光課スタッフBLOG

甲府市観光課スタッフが市内の観光スポットやイベント情報など、甲府の魅力を発信します!

日本一の気品・風格をもつ山梨の「甲州だるま」

2021-01-18 16:35:45 | 日記

みなさんのお家にはだるまがありますか??山梨のだるまは甲州だるまと呼ばれ、毎年二月初旬に行われる「大神宮祭」「厄除地蔵尊祭」などの縁日で売られる招福物・厄除けの縁起物です。約400年の歴史が刻まれた甲州だるまは、武田信玄公をモチーフにしたともいわれ、気品・風格は日本一と称されています。

 

甲州だるまができるまで

原型づくり(木型に短冊状の張子紙を湿らして貼り、型を取る)

彫りが深い、鼻が高い、目が横長の楕(だ)円形であるといった甲州だるまの特徴は、この木型が要ですね。

張子紙を短冊にして張り合わせることも、甲州だるま特有だそうです。

ふのりで張子紙の継ぎ目を抑える

乾かす(自然乾燥で2~3日間)

背割り(切り開いて木型を出す)

膠(にかわ)で貼り合わせる

★粘土で形成した丸い土台に固定して原型が完成!

ここから色をつけていきます

胡粉(ごふん)と膠を調合したものを塗り、強度を高める

乾かす

固まったら全て朱色を塗る

隈取を重ねて絵付け

 

黒墨で顔を書き、金を入れる

眉毛・顔髭が鶴亀の格好を表し、だるまの大きさに関わらず同じお顔であるということも甲州だるまの特徴なのだそう。

★完成★

なんとも骨の折れる工程ですね

職人の大沼さんはどの工程も大変丁寧に、慎重に作業を続けていらっしゃいました。

 

「木型や筆などの道具や、紙や糊などの材料も、

作り続ける職人さんがいなければ途絶えてしまういわば伝統工芸品。

そのどれか一つが欠けても甲州だるまは作れません。」

大沼さんは、先代から引き継いだ木型の修繕、市川三郷町からの張子紙仕入れ、などだるま作りの作業を通して、伝統を守るとはどういうことかを感じているとおっしゃっていました。

 

さて、だるまと言えば「赤色」ですが、最近ではさまざまな色のだるまが作られ、

黄色だるま金運

緑だるま:健康運

ピンクだるま恋愛運

など色ごとに違ったご利益にあずかれるそうです

一つ一つに願いを込めて、守り続ける「甲州だるま」

さまざまな色や大きさがありますので、ぜひ手にとってみてください。

 

 

甲州だるまのお問い合わせは、

甲府市役所 観光課 電話:055-237-5702まで。

 


甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫る最終回~馬骨出土地点と梅翁曲輪編~

2020-10-07 12:00:00 | イベント情報

前回お伝えしました、『謎の多い北の曲輪群編』では、武田氏の勢力拡大に伴い増設された曲輪など、館の北側の施設についてご紹介しました。
今回は、馬骨が出土した地点や、梅翁曲輪についてご紹介します!

下の写真で言うと、馬骨が出土した地点梅扇曲輪の部分。それではスタート!

 

 

馬骨が出土した地点
まずこちらが、馬骨が出土した馬埋葬跡です。

 

ここで出土した馬は、西曲輪ができる1551年以前に埋葬されていたと考えられます

発掘調査によると、四肢が折り曲げ、北枕・西向きに手厚く埋葬されていたそうです。
また、歯の擦り減り具合から、柔らかい良質の餌を与えられていたことが分かったそうです!
手厚い埋葬、歯の擦り減り具合に加え、重い荷物を運んだと思われる形跡がなかったことから、上級の武士を乗せた軍馬だったのではないかと言われています。

(人間の埋葬方法と同じなので、大切にされてきたことが推測できますね。)

戦国時代の馬の全身骨格が出土したのは、全国でもここだけなんです!

全身骨格が出土したことにより、当時の馬の大きさや年齢もわかっています。
推定年齢は14歳で、体高は126cm程度。
現代の一般的なサラブレッドと比べると小さく、ポニー程度の大きさでした。

 

戦国時代の馬についての情報を伝えるうえでは、とても貴重ですね!
この馬骨の実物大レプリカを、信玄ミュージアムの特別展示室(有料)でご覧になることができます👀

信玄ミュージアムへお越しの際は、特別展示室もご覧ください。


※現在、新型コロナウイルス感染対策といたしまして事前予約制となっております。
詳しくは信玄ミュージアムへお問い合わせください。

信玄ミュージアム 
電話番号055-269-5030
ファックス番号055-269-5031
 
また、信玄ミュージアムと甲府市歴史文化財課の情報発信ブログでは、信玄ミュージアムの最新情報やイベントを発信しています!

 

 

 

次に②梅翁曲輪をご紹介します!

梅翁曲輪は、武田氏が滅んだ後、豊臣氏の時代に増設された区画です。
名前の由来は、加藤光泰の家老・井上梅雲斎(いのうえ ばいうんさい)の名前に由来するのではないかと言われています。

(加藤光泰とは、豊臣秀吉の家臣だった人です。)


井上梅雲斎とは…?

井上梅雲斎については、『甲斐国志』に「井上梅雲斎栄秀」(いのうえばいうんさいえいしゅう)と書かれています。
加藤光泰の重臣の一人だったようです。
武田氏時代から含めて、「梅翁」の名前の語源になるような人物は見当たらないので、松木堀で区画されていた曲輪に井上氏が居住していて、後世の人が言い伝えであそこに井上梅雲斎と名乗る武将がいた、ということで名づけられたのではないかと思われます。
〇〇斎と名乗るような人物は、だいたい隠居した人か仏門に入った人が多いので、年齢的には上の方だったと考えられます。翁(おきな)とあることから、それを裏付けているのかな、と思います。


梅翁曲輪を囲うように松木堀という堀があり、梅翁曲輪南側の守りを担っていました。

当時の松木堀にも、敵が侵入してきた際に木橋を外すなどして、外部からの侵入を防いでいた工夫がなされていたそうです。

昭和中期の頃からは住宅化が進み南東部は埋め立てられましたが、南西部は地元の灌漑用水のため池として使用されています。


松木堀周辺は遊歩道が整備されているので、ゆっくり散策することができます。
武田神社へお越しの際は、松木堀周辺の散策もいかがですか?

以上が馬骨出土地点と梅翁曲輪編でした。


武田神社と馬・・・

この光景で思い出す行事と言えば…?
毎年、武田信玄公の命日、4月12日に開催される武田二十四将騎馬列ですね

(※この写真は昨年開催された、武田二十四将騎馬行列の様子。左側に見えるのは武田神社の堀です。)

毎年全国各地の多くの方からご応募いただき、抽選で選ばれた参加者の皆さまが信玄公や二十四将に扮し、馬にまたがって甲府市内を練り歩きます。

そして、沿道からは行列を一目見ようと、多くの方で賑わいます

今年は新型コロナウィルス感染症の影響から開催が中止となりましたが、次回開催の際はぜひ、お越しください


信玄ミュージアムご協力のもと、全6回で紹介した<甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るシリーズ>ですが、
今回で最終回となります。

皆さまに武田氏館跡の魅力や見どころをお伝えするとともに、私たちにもたくさんの新しい発見がありました。

武田信玄公のお膝元・甲府市は今回のシリーズでお伝えしたものの他にも、まだまだ魅力が盛りだくさん!

現在、新たなシリーズを企画中ですので、お楽しみに

 

 


甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart⑤~謎の多い北の曲輪群編~

2020-09-01 16:58:57 | イベント情報

前回は、館の西門から西曲輪編」をお伝えしました。

今回は、武田氏の勢力拡大に伴い増設された曲輪など、館の北側の施設についてです。

それでは、以下の写真の①~④について、ご紹介していきます。

 

ずは『御隠居曲輪』(ごいんきょくるわ)です。

武田信虎公が駿河に追放され隠居した後、信玄公の母である大井夫人が隠居して暮らした場所とされているところです。

現在、この曲輪に建造物はありませんが、曲輪を囲うように堀の跡(現在は水路となっている)や土塁があり、御隠居曲輪の区画は確認することができます。

また、御隠居曲輪の西側には梅の木が植えられています。

実は、当時も館には梅の木が植えられていたようで、和歌を詠むときの題材になったり、梅の花を観賞していたようです。

(初春になるとお庭いっぱいに梅の香りが広がったことでしょう。)

 

砂利道を挟んで御隠居曲輪の反対側には、『馬出』(うまだし)があります。

馬出の位置は、ちょうど主郭の北側にあり、桝形虎口の前にあたります。(枡形虎口については、前回のブログを参照)

馬出とは、虎口と呼ばれる出入口を守るために、堀と土塁で作られた陣地のことです。
当時は、戦の時に兵士や馬がおり、館に攻めてきた敵と戦ったり、虎口から出撃する城兵を敵から隠すために使用されたりしていました。

 

次に、無名曲輪』(むめいくるわ)です。

この曲輪は、①御隠居曲輪と④味噌曲輪の間にあり、記録や古絵図にも正式名称はなく、謎に包まれています。名前がないので無名曲輪と呼ばれているそうです。

 

次に、稲荷曲輪』(いなりくるわ)です。

この階段を上った先に、稲荷曲輪はあります。

こちらの曲輪は、社が一棟あるくらいの比較的小さなスペースで館の鎮守を祀った施設となっています。(甲府市美咲所在の御崎神社古地)

この稲荷曲輪にあった「御崎神社」は、武田氏が滅び、豊臣秀吉の時代になり国主の拠点が甲府城に遷移していく際に、甲府市美咲の場所に移転したそうです。ちなみに「美咲」という地名は、移転してきた「御崎神社」の「みさき」の音が由来となっているそうです!

 

最後に、味噌曲輪』(みそくるわ)です。

味噌曲輪は、食糧・物資の貯蔵施設であったと考えられています。(古絵図などには蔵屋敷や小山城とも記載されています。)

(お味噌汁の「味噌」の字であることから、食糧を貯えるところだったのだと連想しやすいですね。)

こちらは、味噌曲輪の東側の出入口になります。

当時は下の写真のように、味噌曲輪の東側の赤点線付近に木橋がかけられており、敵が侵入してきた時には、橋を壊すなどして敵の侵入を防いだそうです。

 

そして味噌曲輪の南側には、『馬出』(うまだし)があります。

※ 現在、発掘調査中の場所です。何が発見されるか楽しみですね!

この場所は、西曲輪の北側から味噌曲輪に入った場所で、馬出が西曲輪の北枡形虎口をコの字型に囲うようにありました。最初は外部と接していましたが、味噌曲輪の増設に伴い、この馬出は曲輪内に取り込まれていったそうです。

(西曲輪については、前回のブログをご覧ください

 

また、味噌曲輪の北側には、「逍軒屋敷(しょうけんやしき)」と呼ばれる地名が残る、信玄公の弟である武田信廉(のぶかど)公の屋敷がありました。

信廉(のぶかど)公は出家して、逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)と号していたことから、その屋敷跡が「逍軒屋敷」と呼ばれたそうです。

(信廉公は、容貌が信玄公そっくりだったと言われ、信玄公の影武者だったという逸話があります。また、絵を描くことに長けており、父・信虎像や母・大井夫人像を描いており、画家としても活躍したそう。)

 

ここで、要害山のお話。

味噌曲輪からは、武田氏の詰城であった要害山城があった『要害山』を見ることができます。要害山は、躑躅が崎の地に武田氏館が移転した翌年に築城された山城で、今年、築城500年の節目を迎えました。

要害山は、標高780m、登山口から頂上まで30分ほど。また、登山道が整備されており滑落等の危険性が少なく道迷いの心配もないため、初心者でも登りやすい山です興味のある方はぜひ、登頂してみてはいかがでしょうか。

来年は、信玄公生誕500年となりますが、要害山の頂上に着くと、「武田信玄公誕生之地」と刻まれた東郷平八郎の書による信玄誕生の地の石碑があります。登山記念に撮影はいかがでしょうか!

(ちなみに要害山城は続日本100名城の1つとなっており、藤村記念館でスタンプを押すことができます。詳しくは、コチラ。)

 

以上、甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart⑤~謎の多い北の曲輪群編~でした。

次は、西曲輪南の出入口と馬骨出土地点です。

現在、信玄ミュージアムにレプリカが展示されている馬骨が出土した地点になります。

それでは、お楽しみに

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


甲府市観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart④~館の西門から西曲輪編~

2020-08-12 11:28:00 | イベント情報

前回お伝えしました、「神社の中に残る武田氏の生活のあと」では、武田信玄公が生活していた館内のようすをご紹介しました。

今回のシリーズでは、大手門の反対側にある西側の門跡、さらに武田信玄公の長男、義信公の新居だった西曲輪についてご紹介していきます!

(西曲輪とは、義信公と今川義元の娘との結婚に合わせて1551年に新造された義信公の居館です)


下の写真でいうと赤枠の部分

に分けてご紹介します。それでは、スタート!

 

まずこちらが、のあたり、当時の西曲輪の正門にあたる場所です。
(※現在は当時の門は残されていません。)

この門をくぐると、長方形の形のようなスペースがでてきました。

赤枠で囲まれた部分、広間のようにも見える四角い大きなスペースですが、この場所にも理由があります

このスペースを囲むように土塁があり、この上に兵士がいて、侵入してきた敵を攻撃するための場所なんです。

(土塁の上から攻撃することで、有利に攻撃できたそうです。攻撃の方法は、投石や銃、弓矢など。
迫りくる敵からお城を守るため、命がけの戦いが想像できます

お城を守るための、重要な場所ですね。

(写真ではお伝えできませんが、入り口を狭くすることで、敵が一度に押し寄せるのを防いでいたそうです。)

今では富士山を眺めることができるスポットとしてもおすすめの場所!
残念ながら取材の時は富士山が見えませんでしたが、土塁の上から眺める富士山も格別です


そして、このスペースには名前があります。

漢字で、虎口と書きますが

 

正解は・・・

‛こぐち’と読みます

 

虎口とは、曲輪と曲輪を結ぶ出入口のことを指し、全国ほとんどのお城で虎口と呼ばれているそう。

そして、この虎口真上から見ると、一升枡の形に似ていることから、枡形虎口(ますがたこぐち)と呼ばれています。

ちなみに、こちらは館跡の南側にあるので、南枡形虎口、北側にある虎口が、北枡形虎口と呼ばれています!
(北枡形虎口についてはこの後、ご紹介します!)

 

虎口をさらに北に進むと、当時はもう1つ門がありました。

場所がこちら

 

当時はここに大きな櫓の門があり、二重の門構えだったそうです!

厳重に守られていた様子が伺えます。

(赤枠の石は門の土台部分だったもの。なんと当時のまま残されています)

武田氏館は、入り口から門まで一直線で構成されていたそうですが、後に技術の進化で甲府城は入り口から門まで、90度に曲がるよう工夫されたそうです!
それにより、敵の侵入をしづらくさせていたんですね。

現在、90度に曲がる工夫がされている場所を見ることができる場所があります。

歴史公園内にある、山手御門です。

この門をくぐると・・・

90度に曲がるようになっています!

 

甲府駅から徒歩3分と、アクセスの良い場所にありますので、お近くにお越しの際は門の構造を意識しながらご覧ください

(歴史公園の詳細につきましては、こちらをご覧ください。)

 

武田氏館跡へ戻ります。

 

南枡形虎口から、北枡形虎口へと進みます。場所はのあたりです。

ここの石垣も、当時のまま残されています!

 

こちらにも当時は門があり、外側の門は4本、内側の門は6本の柱で建っていたそうです。
(構造的に内側の方が厳重な門だったそうです)

そして南枡形虎口と同じく、北枡形虎口の周囲にも土塁があります。

 

なんと土塁の高さは、当時と同じくらいの高さのまま
土塁の壁にも工夫が施されており、今は草木が生い茂っていますが、当時の斜面はつるつるしていて、粘土質の土を塗っていたので、鎧を着た敵には登りづらい土塁だったそうです!

 

北枡形虎口の入り口にも、敵を侵入を妨げる工夫が
あえて橋の入り口を細くし、敵が1度に押し寄せないようにしていました。
さらに橋の中間に板が取り付けてあり、敵が侵入してくるタイミングで外し、侵入しにくくしていたのです。また、板の取り外しにより、侵入してきた敵を逃さないようにしていたそうです。

 

北枡形虎口から義信公の新居があった場所へ移動します。場所はのあたりです。

ブルーシートの辺りに、義信公の新居がありました

前回のブログでもご紹介しましたが、父・信玄公はそれぞれの区画が分かれており、公務と住む場所は別々になっていました。


しかし、義信公の新居は公務と住む場所が一体となっていたそうです。

 

現在の西曲輪周辺は、春は新緑、秋は紅葉が楽しめる場所となっています
緑に囲まれているので、夏でも風が吹くと気持ち良く、散策にもおすすめ。
紅葉の季節になったら、真っ赤に染まる西曲輪の様子をお伝えします

以上が、西曲輪のご紹介でした。

 

突然ですが、ここで藤村記念館のお話を少し…。

現在、甲府駅北口にある藤村記念館
今では甲府駅北口のシンボルとなっていますが平成22年8月の移設までは、今ご紹介した西曲輪にあったのをご存知ですか?
郷土の民俗・歴史・教育・考古資料を展示しているので、お近くにお越しの際はぜひお立ち寄りください。
(藤村記念館の情報についてはこちらをご覧ください。)

 

次回は「謎の多い北の曲輪群編」です!
現在発掘調査中でもあるエリアなので、併せてご紹介します。

お楽しみに


観光課スタッフが武田氏館跡の歴史に迫るPart③~神社の中に残る武田氏の生活の跡~

2020-07-17 09:50:00 | イベント情報

前回お伝えした館跡の正門・大手編では、跡の正門・大手門、堀など城にかかわる建築的な部分を紹介しました

今回は、神社の中に今でも残されている武田氏の生活の跡を紹介していきます。

下の写真でいうと赤枠の部分!それでは、スタート

 

 

 

(写真①)

(写真①の左下拡大図)

 

まず、武田神社宝物殿前にある説明板(写真①の左下拡大図)をご覧ください。

これには武田信玄公の時代の館内にあった施設が描かれており、当時の建物配置などが分かります。

 

この館は、

区画①:人々が生活していた場所

区画②:公務や来客対応などを行っていた場所

区画③:庭や池などの景観

 

の3つに区分され、それぞれ階段状につくられていました

(区画①は現在の地上と同じ高さですが、区画②は区画①から1メートル下、区画③は区画②から1.5メートル下にあり、3つの区画は階段状になっていました。)

 

一般的な館は平らに区画されていますが、なぜ館跡の区画は階段状になっているのでしょうか?

 

その秘密は・・・

 

 

甲府市の地形にあります

 

甲府市は扇状地になっているため、斜面を段々に切って区画が整備されました。

それゆえ、高低差のある区画になっているのです。

(意図的に階段状にしたのではなく、扇状地という地形から、区画を平らに整備することができなかったのですね

 

それでは、区画ごとに生活の様子を見ていきましょう。

 

まずは区画①についてです

こちらの区画は、3つの区画の中で、唯一500年前のくらしの跡が確認できる場所になります

(区画②・③は、現在は地中に埋まってしまっていて確認できないので、区画①はとても貴重な場所ですね

上の写真の右奥にご注目ください。

なんと、当時使用していた井戸がそのまま残っています(説明板の区画①「台所」の右あたりで、現在の武田神社拝殿の東側になります。)

(当時の暮らしを身近に感じることができて、感慨深いですね)

 

また、説明板の区画①「御うら方」には、

あの武田信玄公の正室である三条夫人が住んでいました

 

次は区画②に進みます。

こちらには、当時、主殿・本主殿がありました!

京都からの公家を招いたり、裁判の裁定をしたりと、来客対応や公務を行う場所として、

使用されていたそうです。

(1.5メートル下にある区画③の庭を見渡すことができるため、来客対応にはうってつけの場所ですね)

 

現在の社務所前にある看板通りに進んでいくと・・・

右手にまたまた井戸があります(説明板の区画②「本主殿」の左下あたり)

名称は、『姫の井戸』と言います

本来、姫の井戸は、社務所の西側にありますが、こちらまで水を引っ張ってきているようです。

一説によると、信玄公の御息女誕生の際に産湯に使用したことが名前の由来になっているそう!

また、この井戸からは、茶釜や化粧道具が出てきたことから、主に女性が使用していたのではないかと言われています。

 

なんと、こちらの井戸水は飲むことができます

 

・・・が・・・

 

現在、新型コロナウイルス感染拡大防止の為、井戸水の使用ができなくなっています

一刻も早い新型コロナウイルスの収束を願うばかりです。

 

最後に区画③です!

こちらは、現在と同様に庭となっていました

当時生活していた人々や客人は、この広いお庭を見て癒されていたのでしょう。

(現在でも、このような優雅で上品な庭を見るとなんだか心が落ち着きますよね)

 

上の写真正面の大きな榎の奥に目を向けると、

何やら土が盛り上がっている場所が見えます

この部分は、まだ館が小さかった信虎公の時代に、土塁があり、その上に櫓(やぐら)があったのではないかと推測されています

 

また、当時の区画③には存在していませんでしたが、現在は、写真右側に見える茶色い建物で能を上演する「甲陽武能殿」や、赤い神橋を渡ってすぐの鳥居の左側にあり、金運や延命長寿のご利益が得られるといわれている「奇木 三葉の松」などもあるので、ぜひそちらもチェックしてみてください

 

信玄公の時代の館の役割は、「居住の場」、「公務の場」といったもので、「戦いをする場」ではありませんでした。しかし、勝頼公の時代になると、「居住の場」と「戦いをする場」とが一体となり、やがて、豊臣秀吉が天下統一をした頃には、国主の拠点が甲府城に移っていったということです。一番はじめの写真①の左上の図は武田氏滅亡後、館が城に変わったようすをあらわしています。

 

武田氏の生活していた痕跡から、武田氏の歴史の変遷がわかりますね

 

以上が神社の中に今でも残されている武田氏の生活の跡の紹介になります

さて、次回は「館の西門から西曲輪」を紹介します

そこには当時の地形がそのまま残っている場所が多いとのこと

お楽しみに