先日、妻とドライブした帰りに、高崎市の北部環状線と旧三国街道が交差する辺りで「首塚」というブキミな案内板を見つけました。早速、車を停めて探索したかったのですが「もう寄り道はダメ!!それよりオナカすいた~!ノドかわいた~!」と言うので、泣く泣くあきらめたのでした(T_T)
というわけで、今回は単独行動で探索(^_^ゞ
何やら立派な碑と高札。首塚といえば平清盛のように、名を知られた武将の首を埋めて供養した場所。ハテどなたの首であろうと、読んでビックリ!(^o^;)
江戸時代の初期、高崎藩主であった松平丹波守康長(まつだいらたんばのかみやすなが)という殿様が、村人を皆殺しにした!!Σ(×_×;)!あとで調べてみると、この殿様は人格に問題あり、行く先々で不祥事を起こしていたようです。あの徳川家康の孫であるということで、揉み消されたらしいのですが(^_^;)
さて高崎藩主になったバカ殿が重い年貢を課したところ、この村が反抗。怒った殿様は安中藩の侍たちまで動員して、村を取り囲み、一人残らず斬殺。穴を掘って死体を放り込み、埋めてしまったのだとか!それから、この場所は切干塚(きりぼしづか)とか首塚と呼ばれるようになったとのこと。不思議なことに、こんな大事件であったのに、高崎藩には何の記録も無いのだそうです。言い伝えだけが残され、明治になって立派な碑が建てられました。
「老人や幼子まで、ことごとく容赦なく殺害した」という意味の文字が読み取れます。この碑の裏側にある小さな自然石が、もとの墓石。歴史から消されても、忘れまいとした人々がいたんですね。秋の日差しが強い日でしたが、この場所だけは空気が冷えているみたいでした。トリハダ!!(-_-;)
というわけで、今回は単独行動で探索(^_^ゞ
何やら立派な碑と高札。首塚といえば平清盛のように、名を知られた武将の首を埋めて供養した場所。ハテどなたの首であろうと、読んでビックリ!(^o^;)
江戸時代の初期、高崎藩主であった松平丹波守康長(まつだいらたんばのかみやすなが)という殿様が、村人を皆殺しにした!!Σ(×_×;)!あとで調べてみると、この殿様は人格に問題あり、行く先々で不祥事を起こしていたようです。あの徳川家康の孫であるということで、揉み消されたらしいのですが(^_^;)
さて高崎藩主になったバカ殿が重い年貢を課したところ、この村が反抗。怒った殿様は安中藩の侍たちまで動員して、村を取り囲み、一人残らず斬殺。穴を掘って死体を放り込み、埋めてしまったのだとか!それから、この場所は切干塚(きりぼしづか)とか首塚と呼ばれるようになったとのこと。不思議なことに、こんな大事件であったのに、高崎藩には何の記録も無いのだそうです。言い伝えだけが残され、明治になって立派な碑が建てられました。
「老人や幼子まで、ことごとく容赦なく殺害した」という意味の文字が読み取れます。この碑の裏側にある小さな自然石が、もとの墓石。歴史から消されても、忘れまいとした人々がいたんですね。秋の日差しが強い日でしたが、この場所だけは空気が冷えているみたいでした。トリハダ!!(-_-;)