二〇一七年十月二九日 NO・四四―三一 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 八章(月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章(水) 〃 十一章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 十二章(金) 〃 十三章
招詞祈祷 詩編百三十編一~八節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 八五番 ◎二日(木)の午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎十一月五日は「召天者記念礼拝」」です。
交 読 文 詩 編 二一編
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 堅田姉 あなたがたは、
讃 美 聖 歌四〇三番 人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、
説 教 Ⅰペトロ一 章十七~二一節 「父」と呼びかけているのですから、
讃 美 聖 歌五〇〇番 この地上に仮住まいする間、
祈 祷 みつ子師 その方を畏れて生活すべきです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰペトロ一章十七節
「神を畏れる」生活とは?
十七節は、「神を畏れて」生活するようにと言われている。これはキリスト者の行動基準の根幹にあるべきものである。では「神を畏れる」とはどのようなことなのか。「人それぞれの行いに応じて公平に裁きをされる方」という言葉を聞くと、「神を恐れる」気持ちになるが、それは「神をこわがる」ということではない。「公平」と訳されている言葉は、「顔を見てえこひいきしない」という意味である。今年は「忖度」という言葉がはやったが、神は人を身分や地位、男だから女だからまた子供だから、障がい者だからという理由で、態度を変えられるお方ではない。どんな人も神の前では同等に尊い。私たちキリスト者は、そのようなお方を「父」と呼んでいる。だから私たちが「神を畏れて生活する」とは、人との関係においては、神がなさるように、偏り見ないで各人を尊んで接することである。神が公平=人をかたより見られない、ということを知るのは、何と慰めに満ちていることだろう。
さらに神が私たちを愛されることと、神が「行いに応じて公平な裁きをされる」こととは矛盾しない。義なる神は、罪に対して死を報いられることは厳粛な決して変わることのない事実である。それゆえに神は罪のない「キリストの血=命」によって、私たちを贖ってくださったのである。キリストが十字架上でその尊い血を流されたという生々しい表現によって、神が愛する独り子を犠牲にするという空前絶後の事を、私たちを罪から救うためになしてくださった神の愛を思うべきである。
さらにペトロは「キリストは、天地創造の前から知られていた」(二十節)と言う。ここに神の私たちの想像を絶する神の全能が表されている。私たち人間は、歴史(時間)に現れるまでは、何事も知ることはないが、神は時を超えて、すべての事を見通し、計画される。私たちにとって、現在という時は、すでにキリストが救いの御業を成就されたがゆえに「恵みの時、救いの日」ではあるが、まだ「救いの完成」は起こっていない。それゆえ私たちは、公平であり、キリストを与えるほどに私たちを愛し、かつすべてを予知し予定される神に、「信仰と希望」(二一節)を寄せて、この世の旅路を続けるのである。
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 八章(月) 〃 九章
司会 高 澤兄(火) 〃 十章(水) 〃 十一章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 十二章(金) 〃 十三章
招詞祈祷 詩編百三十編一~八節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 八五番 ◎二日(木)の午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎十一月五日は「召天者記念礼拝」」です。
交 読 文 詩 編 二一編
讃 美 讃美歌五〇三番
献 金 感謝の祈り 堅田姉 あなたがたは、
讃 美 聖 歌四〇三番 人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、
説 教 Ⅰペトロ一 章十七~二一節 「父」と呼びかけているのですから、
讃 美 聖 歌五〇〇番 この地上に仮住まいする間、
祈 祷 みつ子師 その方を畏れて生活すべきです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 Ⅰペトロ一章十七節
「神を畏れる」生活とは?
十七節は、「神を畏れて」生活するようにと言われている。これはキリスト者の行動基準の根幹にあるべきものである。では「神を畏れる」とはどのようなことなのか。「人それぞれの行いに応じて公平に裁きをされる方」という言葉を聞くと、「神を恐れる」気持ちになるが、それは「神をこわがる」ということではない。「公平」と訳されている言葉は、「顔を見てえこひいきしない」という意味である。今年は「忖度」という言葉がはやったが、神は人を身分や地位、男だから女だからまた子供だから、障がい者だからという理由で、態度を変えられるお方ではない。どんな人も神の前では同等に尊い。私たちキリスト者は、そのようなお方を「父」と呼んでいる。だから私たちが「神を畏れて生活する」とは、人との関係においては、神がなさるように、偏り見ないで各人を尊んで接することである。神が公平=人をかたより見られない、ということを知るのは、何と慰めに満ちていることだろう。
さらに神が私たちを愛されることと、神が「行いに応じて公平な裁きをされる」こととは矛盾しない。義なる神は、罪に対して死を報いられることは厳粛な決して変わることのない事実である。それゆえに神は罪のない「キリストの血=命」によって、私たちを贖ってくださったのである。キリストが十字架上でその尊い血を流されたという生々しい表現によって、神が愛する独り子を犠牲にするという空前絶後の事を、私たちを罪から救うためになしてくださった神の愛を思うべきである。
さらにペトロは「キリストは、天地創造の前から知られていた」(二十節)と言う。ここに神の私たちの想像を絶する神の全能が表されている。私たち人間は、歴史(時間)に現れるまでは、何事も知ることはないが、神は時を超えて、すべての事を見通し、計画される。私たちにとって、現在という時は、すでにキリストが救いの御業を成就されたがゆえに「恵みの時、救いの日」ではあるが、まだ「救いの完成」は起こっていない。それゆえ私たちは、公平であり、キリストを与えるほどに私たちを愛し、かつすべてを予知し予定される神に、「信仰と希望」(二一節)を寄せて、この世の旅路を続けるのである。