稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

週報

2014年11月30日 | 週報
二〇一四年十一月三十日 NO・四一―三五       聖 書 日 課   
 礼 拝 次 第 待降節第一主日 (日)Ⅰペトロ   一章(月)  〃   二章
     司会 桝 本兄(火)  〃 三章(水)  〃   四章
      奏楽 慰 子姉(木)  〃    五章(金)Ⅱペトロ   一章
招詞祈祷  詩編二七編七~十節     (土)  〃    二章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条   ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十三番    ◎四日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り          ◎七日(土)午後二時よりこどもクリスマス会です。
交 読 文  詩 編 四三編   ◎本日よりアドベント(待降節)に入ります。
讃  美  讃美歌 九四番      次週の讃美歌十四・九五・ 二七〇番
献  金  感謝の祈り  高澤姉 信じない者ではなく、信じる者になりなさい。  
讃  美  聖 歌五二〇番      トマスは答えて、
説  教 ヨハネ二十章二四~三一節「わたしの主、わたしの神よ」と言った。
讃  美  聖 歌三一〇番         イエスはトマスに言われた。「・・・。
祈  祷           桝本兄   見ないで信じる人は、幸いである。」
頌栄祝祷  聖 歌三八三番          ヨハネ二十章二七~二九節
               
   結論―トマスを通して―
 十二弟子のひとり、トマスは、復活日の主イエスの顕現の場にいなかった。なぜいなかったのか、理由は述べられていない。ヨハネ福音書に、ここを除いて二回トマスの語った言葉が記されている(十一章十六節・十四章五節)。そこから推察するとトマスは悲観的現実主義者、誠実な人柄である。

 トマスは仲間の弟子が「わたしたちは主を見た」と証ししてもそれを信じることができず、触って確かめることを求めた。これは他の弟子たちよりも少々徹底しているが、決して他の弟子たちより疑い深いということではない、と思う。不幸なことにトマスはその後の教会史において「懐疑家トマス」というあだ名をつけられてしまったのであるが・・・。

 次の週の日曜日、主イエスは、トマスもいる弟子たちの元に再び現れて下さった。それはまさにトマスのために、である。主イエスはトマスを咎めるのではなく、トマスの要求を知る者として、トマスの求めた通りのことをするように、トマスに言われた。主イエスは、決して「傷つける葦を折る(イザヤ四二章三節)ようなお方ではない。トマスの所まで降りてくださるお方である。

 このように語られる主イエスを見て、トマスはもはや触ることはなかっただろう。そして「わたしの主、わたしの神」主に向かってと告白した。これは本書の目的として三一節に言われていることを見事に言い表した言葉である。その名誉がトマスに与えられ、トマスの口から最初に告白されたのである!まさに「後の者が先になった」のである。重要なことは、単に主イエスの復活を認めることではなく、トマスのように「わたしの」主と呼ぶ関係、主イエスとの人格的な関係になることである。

 二九節「わたしを見たから信じたのか」と訳されているが、ここは「か」と取って、「信じた」と訳せる所で、ただ事実を述べられたと解釈できる。「か」をつけるとトマスを批難しているように聞こえてしまう。二九節は、復活を目撃できない後世の者に対する慰めと励ましの言葉である。ここで主イエスは見ないで信じる者こそ「幸い」である、と断言される。つまりトマスたちより私たちの方が幸いだ、と。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2014年11月23日 | 週報
 二〇一四年十一月二三日 NO・四一―三四       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)ヘブライ  十二章(月)  〃  十三章
       司会 桝 本兄(火)ヤコブ 一章(水)  〃   二章
       奏楽 慰 子姉(木)  〃    三章(金)  〃    四章
招詞祈祷  エゼキエル三七章九~十節  (土)  〃    五章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十二番        ◎二七日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                  ◎本日午後大掃除です。
交 読 文  詩 編 四二編        ◎
讃  美  讃美歌四九三番          次週の讃美歌十三・九四・ 聖歌五二〇番
献  金  感謝の祈り     みつ子師  イエスは重ねて言われた。  
讃  美  聖 歌五二〇番        「あなたがたに平和があるように。 
説  教   ヨハネ二十章十九~二三節    父がわたしを遣わされたように、わたしも
讃  美  聖 歌五六〇番         あなたがたを遣わす。」そう言ってから、彼らに
祈  祷               高澤兄 息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヨハネ二十章二一・二二節
                 
   復活した主イエス、弟子に現れる―付与と委託
 日曜日の夕方になった。ペトロともう一人の弟子は、早朝、空の墓と亜麻布を確認し、マグダラのマリアから「わたしは主を見ました。」との報告を聞いた。この大事件に、十二弟子は集まったのであろう。しかし「ユダヤ人を恐れて、戸に鍵をかけていた」とわざわざ記されている。イエスの遺体がないことは、ユダヤ当局にも伝わっており、盗んだとの嫌疑をかけられるのではとの思いが、恐れを増幅させた違いない。マリアの報知にもかかわらず、弟子たちはまだ主イエスの復活を信じられなかった。

 「そこへ、イエスが来て真ん中に立たれた」のである。どのようにして部屋の中に入ったかは記されていない。カルヴァンは、キリストは戸をすり抜けたのではない、というが果たしてどうであろうか。

 主イエスの第一声は「あなたがたに平和」であった。これはヘブライ語の「シャローム」で、挨拶として普通に使われる言葉であるが、ここでは決して単なる挨拶ではない。その一つの証拠として、重ねて「あなたがたに平和」と言われているからである―挨拶なら二度言う必要はない―。これは十四章二七節で、約束されたことの成就である。「平和があるように」との願いではない。補うとしたら平和が「ある」である。死を打ち破って復活した主イエスは平和を与えることがおできになる。

 主イエスの第二声は、「派遣」である。主イエスが父なる神から遣わされたように、主イエスは、弟子たちをご自身の復活の証人として派遣される。その務めのために必要不可欠なのは「聖霊」である。「聖霊を受けよ」と言って彼らに息を吹きかけられた。これは創世記の二章七節の人間の創造の時に「命の息を吹き入れた」を連想させる。罪の赦しを受け、主イエスの死の勝利に与る「新しい人間」としての再創造が暗示されている、といっても過言ではないだろう。

 二三節の理解は注意を要する。ここを、ある人間に、罪の赦しと留保の権威が与えられた、と決して受け取ってはいけない。罪の赦しと留保は、神の専権事項である。ただ聖霊によって、教会は、弟子たちは、主イエスによる罪の赦しと死への勝利が実現したことを証しするだけである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2014年11月16日 | 週報
二〇一四年十一月十六日 NO・四一―三三       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第       (日)ヘブライ   五章(月)  〃   六章
        司会 高 澤兄(火)  〃    七章(水)  〃   八章
        奏楽 慰 子姉(木)  〃    九章(金)  〃    十章
招詞祈祷  イザヤ六十章一~五節    (土)  〃   十一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十一番        ◎二十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日午後一時より使徒信条の学びです。
交 読 文  詩 編 四一編        ◎本日、責任役員会。
讃  美  讃美歌四九二番        ◎次週は大掃除。 
献  金  感謝の祈り      志村姉
讃  美  聖 歌五二〇番       次週の讃美歌十一・四九二・ 聖歌五二〇番
説  教   ヨハネ二十章十一~十八節   マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、
讃  美  聖 歌五二二番            「わたしは主を見ました」と告げ、
祈  祷              高橋姉      主から言われたことを伝えた。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                 ヨハネ二十章十八節
                 
   復活した主イエスに最初お会いしたマグダラのマリア
 復活した主イエスが、最初に会われたのは、マグダラのマリアである。なぜ、彼女はその栄誉に与ることができたのか?マリアは、ペトロたちのように空っぽの墓と、主イエスの身体を包んでいた亜麻布を確認しただけで家に帰る事ができなかった。そして墓のそばで泣き続けていたのである―聖書そう記す―。九九匹の羊をおいも一匹を捜す羊飼いのように、泣き悲しむマリアを救うためだろうか。

 天使がマリアに語りかけられた言葉と同じ言葉を主イエスは、マリアに語られた。「婦人よ、なぜ泣いているのか」と。これは決して泣いている理由を問われた言葉ではない。それはすでに百も承知である。マリアは、この時点でまだ主イスの復活を知らず、どこまでも遺体が無くなったことを嘆いている状態である。しかしそれは事実と違う。ここで主イエスは、「泣く必要はない」、私の身体は盗まれたのではなく、復活したことを、この言葉に込めておられる。

 マリアは主イエスを見てもそれと気づかない。これは二一章四節でも同様であり、ルカのエマオ途上の弟子たちも、イエスと会ってもすぐに気づかない、と記されている。それはまことに不思議なことである。ここに復活のイエスと生前のイエスの違いが、すなわち復活体の秘密があるのかもしれない。

 しかし主イエスが「マリア」と呼びかけられると、マリアはその人が主イエスと気づく。そして「ラボニ(私の先生)」と応答する。真に感動的な瞬間である。ここに復活体と生前の連続性が認められる。

 マリアがすがりつこうとすると、主イエスは「わたしにすがりつくのはよしなさい。」と言われる。なぜか?さらに以下にその理由が述べられているのだが、一見、すがりつくな、の理由になっていない。
ここで主は、マリアに自分が父のもとへ上ることを、弟子たちに伝えるように命じられる。復活した主イエスは、父もとに帰られるのである。それは告別説教で明確に告げられたことであり、それによって聖霊が送られる、と。すがっていけない理由は、復活の主は、生前の主と全く同じではない、から。もはやイエスは「先生」ではなく、「主」なのだ。その最初の証人としてマリアは遣わされた!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2014年11月09日 | 週報
二〇一四年十一月九日  NO・四一―三二       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)テトス    二章(月)  〃   三章
        司会 桝 本兄(火)フィレモン  一章(水)ヘブライ  一章
          奏楽 慰 子姉(木)  〃    二章(金)  〃    三章
招詞祈祷  イザヤ五七章十四~十五節  (土)  〃    四章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 十 番        ◎十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日は聖餐の恵みに与りました。
交 読 文  詩 編 四十編       
讃  美  讃美歌四六五番          次週の讃美歌十一・四九二・ 聖歌五二〇番
献  金  感謝の祈り     みつ子師     主が墓から取り去られました。
讃  美  聖 歌五二〇番            どこに置かれているのか、・・・わかりません。
説  教   ヨハネ二十章一~十節       彼らは墓に入り、亜麻布が置いてあるのを見た。
聖 餐 式                       それから、先に墓に着いたもう一人の弟子も
讃美祈祷  聖 歌四三七番     豊口姉  入って来て、見て、信じた。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヨハネ二十章二・六・八節
                 
   主イエスの復活に対する最初の反応
 主イエスの復活を伝える記事において、最初に告げられるのは、墓が空っぽである、という事実である。そしてその第一発見者はマグダラのマリアである。そしてその事態をマリアは、「彼らが主を墓から取り去った」と理解する。彼らとは、おそらく主イエスを十字架につけた者たちのことであろう。彼女は墓が空であるのを見て、主イエスが復活したと思ったのではなく、取り去られたと思った。これは彼女にとってあまりにショックな出来事であり、急いで弟子たちに知らせに行った。

 その知らせを受けてペトロともう一人の弟子が、急いで墓に向かった。四節は、その急ぐさまと同時に、片方が早く着いたという記述に彼らの仰天ぶりが読み取れる。最初に着いた弟子は、墓の中に入らず、中をのぞいて亜麻布があるのを見る。そして後から着いたペトロが墓の中に入ると、もう一人も入った。そこで目にしたのは、主イエスを包んでいた亜麻布が置いてあるという事実である。それも頭の亜麻布は別の所に置いてあった、という細かい描写で。墓が空である、という事実の次に、主イエスを包んでいた亜麻布がそこに放置されているという事実が判明した。それを見たペトロの反応について、ヨハネは記述していない。ただルカが「この出来事に驚きながら家に帰った。」と記している。

 もう一人の弟子、すなわち主イエスの愛弟子については、「見て、信じた。」と記されている。しかしその直後に「イエスは必ず死者の中から復活されることになっているという聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかった」と言われているのはどういうことだろうか。愛弟子は、トマスのように主イエスの顕現を見て信じたのではなく、主イエスを見ないで―亜麻布を見て―信じたのである。ある人はこの時の信じたは、まだ不十分な信仰という。だが確かにこの時、愛弟子は主イエスが復活したと信じたのである。しかしそれはあくまで個人的な事柄であるにすぎない。それは聖書の言葉によって裏付けられて初めて真理なのである。事実、復活を信じたからと言って、愛弟子に大きな変化は起こらなかった。パラクレートスなる聖霊が与えられて初めて、主イエスの復活の事実と力に与るのである。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

週報

2014年11月02日 | 週報
二〇一四年十一月二日  NO・四一―三一       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第     召天者記念礼拝 (日)Ⅰテモテ     五章(月)  〃  六章
                司会 桝 本兄(火)Ⅱテモテ     一章(水)  〃  二章
                 奏楽 慰 子姉(木)  〃      三章(金)  〃  四章
招詞祈祷  詩編三四編二十~二三節   (土)テトス      一章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番        ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日の礼拝は「召天者記念礼拝」です。
交 読 文  詩 編 三九編        ◎
讃  美  讃美歌四八八番         次週の讃美歌十・四六五・ 聖歌五二〇番
献  金  感謝の祈り      堅田姉      兵士の一人が槍でイエスのわき腹を刺した。
讃  美  聖 歌六四〇番             すると、すぐ血と水とが流れ出た。
説  教   ヨハネ十九章三一~四二節     彼らはイエスの遺体を受け取り、・・・
讃  美  讃美歌四七七番             香料を添えて亜麻布で包んだ。
祈  祷              志村姉       新しい墓・・・そこにイエスを納めた。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番               ヨハネ十九章四十~四二節
                 
   主イエスの死の確認と埋葬 
 本来、十字架刑は、つけられた者が死ぬまで、何日でもその上にかけておく刑である。しかしユダヤ人指導者は、翌日が安息日であり、さらに過越祭であったので、その前に受刑者を十字架から降ろすことを願い出た。そこで死期を早めるために足を折る処置がなされ、他の二人は足を折られた。しかしイエスはすでに死んでいたので、主イエスは足を折られずに済んだ。この出来事についてヨハネは、聖書の預言の成就と言う。それは過越祭の羊について言われている御言葉である。まさに主イエスは過越しの小羊が指し示しているお方なのである。

 イエスは足を折られなかった代わりに、兵士によってわき腹を槍で刺された。するとそこから「血と水」が流れ出た。この出来事について、ヨハネはわざわざ「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である。」と付け加えている。「血と水」はある事を象徴する目に見えるしるしなのである。主イエスから血と水が流れ出ることによって、罪の贖いと洗いのきよめが成就したのである。足がおられずにわき腹が刺されて血と水が流れた、という出来事の背後に神の摂理がある。

 三八節から埋葬について記されている。本来、十字架刑に処せられるような者は、死んだ後、野ざらしにされたらしい。しかしここにアリマタヤ出身のヨセフがピラトに願い出て、自分の新しい墓に葬るのである。さらにニコデモが来て、百リトラ(約三三キロ)の香料を添えて亜麻布で主イエスの遺体を包んだ。これは非常に丁重な埋葬である。それを主イエスの生前は、ユダヤ人指導者を恐れて隠れ弟子であった二人が、それをなした。これは大変勇気のいる行為である。イエスの死は、二人を変えたのである。「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」との主イエスの言葉を思い起こす。使徒信条にわざわざ「葬られ」という言葉がある。生前の主イエスは、神人イエスであって、私たちを凌駕するが、埋葬においては私たちの全く等しく人の手を借り給う。埋葬によって、主イエスは真に死なれたのである―私たちと同じように。メメント・モリ(死を憶えよ)。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする