二〇二四年四月二八日 NO・五一―四 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 三章 (月) 〃 四章
司会 松 田兄(火) 〃 五章 (水) 〃 六章
奏楽 内 間姉(木) 〃 七章 (金) 〃 八章
招詞祈祷 ミカ二章十二~十三節 (土) 〃 九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎礼拝の動画、不手際でとることができませんでした。
交 読 文 詩 編百三四編
讃 美 讃美歌四〇四番
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌六九九番
説 教 ローマ十一章二五~三二節
讃 美 聖 歌九〇番 神はすべての人を憐れむために、
祈 祷 志村姉 すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十一章三二節
全人類救済の秘義
25~32節は、9~11章の結論である。それを「秘義(奥義)」という言葉を用いて厳かに告げる。
パウロが神の秘義として告げるのは「異邦人の満ちる時が来る」と「全イスラエルが救われる」ということである。ここで異邦人ついては「充満(プレーローマ)」という語が用いられ、イスラエルに対しては「全・すべて」の語が用いられて、あえて区別されている。そして異邦人については、「(神の国に)入る」という言葉が付け加えられていて、「定数に満ちる」という意味合いが込められている。異邦人がそれに達した時、「全イスラエル」は救われると言われている。「全イスラエル」の意味についていくつかの見解に分かれている。①異邦人とユダヤ人の両方から成る「霊のイスラエル」のこと。②ユダヤ人の中から選ばれた者すべて、すなわち「残りの者」のこと、③全体(集合体)としての全イスラエルのこと、④文字通りすべてのユダヤ人のこと。①は、9章以降でパウロが扱っているのは同胞の民族としてのユダヤ人であるので賛成できない。②も「残りの者」についてはすでに9~10章で取り上げられた。それと同じなら、わざわざ秘義としてここで取り上げるには及ばない。それゆえ③か④である。
29節は、9章6節前半の言葉と共に、パウロの神に対する揺るがない確信である。たとえイスラエルが頑なであり不従順であっても、神がイスラエルに与えられた賜物と召しを「後悔されない」と。
32節は、結論のクライマックスである! ここでは25~26節の「異邦人とイスラエル」を区別することなく、文字通り「すべての人」と言われている。そして「すべての人の不従順」と「神のすべての人への憐れみ」とが対照されている。善人と悪人、敬虔と不敬虔との区別なく「すべての人は不従順へと閉じ込められ」でいる事実が告げられる。それは神によって無理やりになされたのではないが、それが事実である。そして不従順であるがゆえに、神は憐れまれるのである。これまでに徹底して語られてきたように、それはキリストの福音として啓示された。それを信じる者はたとえ自分がどんな者であろうとも、キリストのゆえに救われるのである。この箇所から「万人救済」は支持できるか? バルトの「私はいわゆる万人救済説を信じませんが、万人の救済者イエス・キリストを信じる」の言葉をもって結びたい。
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 三章 (月) 〃 四章
司会 松 田兄(火) 〃 五章 (水) 〃 六章
奏楽 内 間姉(木) 〃 七章 (金) 〃 八章
招詞祈祷 ミカ二章十二~十三節 (土) 〃 九章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 五六番 ◎二日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎礼拝の動画、不手際でとることができませんでした。
交 読 文 詩 編百三四編
讃 美 讃美歌四〇四番
献 金 感謝の祈り みつ子師
讃 美 聖 歌六九九番
説 教 ローマ十一章二五~三二節
讃 美 聖 歌九〇番 神はすべての人を憐れむために、
祈 祷 志村姉 すべての人を不従順のうちに閉じ込められたのです。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ローマ十一章三二節
全人類救済の秘義
25~32節は、9~11章の結論である。それを「秘義(奥義)」という言葉を用いて厳かに告げる。
パウロが神の秘義として告げるのは「異邦人の満ちる時が来る」と「全イスラエルが救われる」ということである。ここで異邦人ついては「充満(プレーローマ)」という語が用いられ、イスラエルに対しては「全・すべて」の語が用いられて、あえて区別されている。そして異邦人については、「(神の国に)入る」という言葉が付け加えられていて、「定数に満ちる」という意味合いが込められている。異邦人がそれに達した時、「全イスラエル」は救われると言われている。「全イスラエル」の意味についていくつかの見解に分かれている。①異邦人とユダヤ人の両方から成る「霊のイスラエル」のこと。②ユダヤ人の中から選ばれた者すべて、すなわち「残りの者」のこと、③全体(集合体)としての全イスラエルのこと、④文字通りすべてのユダヤ人のこと。①は、9章以降でパウロが扱っているのは同胞の民族としてのユダヤ人であるので賛成できない。②も「残りの者」についてはすでに9~10章で取り上げられた。それと同じなら、わざわざ秘義としてここで取り上げるには及ばない。それゆえ③か④である。
29節は、9章6節前半の言葉と共に、パウロの神に対する揺るがない確信である。たとえイスラエルが頑なであり不従順であっても、神がイスラエルに与えられた賜物と召しを「後悔されない」と。
32節は、結論のクライマックスである! ここでは25~26節の「異邦人とイスラエル」を区別することなく、文字通り「すべての人」と言われている。そして「すべての人の不従順」と「神のすべての人への憐れみ」とが対照されている。善人と悪人、敬虔と不敬虔との区別なく「すべての人は不従順へと閉じ込められ」でいる事実が告げられる。それは神によって無理やりになされたのではないが、それが事実である。そして不従順であるがゆえに、神は憐れまれるのである。これまでに徹底して語られてきたように、それはキリストの福音として啓示された。それを信じる者はたとえ自分がどんな者であろうとも、キリストのゆえに救われるのである。この箇所から「万人救済」は支持できるか? バルトの「私はいわゆる万人救済説を信じませんが、万人の救済者イエス・キリストを信じる」の言葉をもって結びたい。