二〇一四年七月二七日 NO・四一―十七 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 八章(月) 〃 九章
司会 桝 本兄(火) 〃 十章(水) 〃 十一章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十二章(金) 〃 十三章
招詞祈祷 イザヤ二六章十二~十三節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六三番 ◎今週の祈祷会はお休みです。
主の祈り ◎二日(土)十時半より教会学校の夏のお楽しみ会です。
交 読 文 詩 編 二五編 ◎アジア祈祷日献金全額二万円を 東北ヘルプに送金
讃 美 讃美歌二六二番 しました。
献 金 感謝の祈り みつ子師 次週の讃美歌六六・三六五・ 聖歌五〇一番
讃 美 聖 歌四〇二番 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
説 教 ヨハネ十六章十六~二四節 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、
讃 美 聖 歌六三〇番 あなたがたは心から喜ぶことになる。
祈 祷 高澤兄 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヨハネ十六章二二節
二つの時の狭間に生きるキリスト者
今日の箇所に「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(十六・十七・十九節)が三回も記されている。普通に理解すれば、「見なくなる」は死を、「見る」は復活の後の顕現のこと思われる。しかし「見る」については前節までで五回も予告された「パラクレートスなる聖霊」による顕現と理解する解釈も有力である。さらに「見なくなる」ことについて、世は喜び、あなたがたは悲しむ、とが対比されている。
もし「見なくなる・見る」を主イエスの死と復活の三日間の出来事に限定すると、それは当時の弟子たちだけに関わることになる。そしてここで指摘されている悲しみも三日間のこととなる。しかしここで主イエスは、もっと広い意味、すなわちその後の時代を超えたこの世と教会の現実を視野に入れて語っておられる、と理解するのが良いと思う。十字架の死以来、この世はもはや主イエスを見ることはない。しかしキリスト者は、パラクレートスなる聖霊により、復活の主イエスを見ることが許されている(十四章十九節)。
二一節の出産のたとえは、今日の箇所に七回も出てくる「しばらくすると(ミクロン)」という時を浮き立たせる。この世(の支配者)が喜び(勝ち誇り)、弟子たち(教会)が苦しむのは限られた時にすぎない、と。そしてその苦しみ・悲しみは喜びへと必然的に繋がる道程に過ぎないことが強調される。
二二節は、再臨の主との再会と理解するのが良いと思う。その時にはその喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」し、すべてが明らかになる(二三節)。
十四章十四節に続いて二三・二四節でイエスの名による祈りが勧められている。キリスト者の祈りと他の祈りを決定的相違は、この一点にある。これは聖霊の派遣の約束と共に、世を去る主イエスが信徒に与えられた最大の賜物である。聖霊のみでなく、私たちの祈りの背後には、主イエスがパラクレートスとしていてくださる。私たちは私たちの祈り付与されている特権をもっと自覚しなければならない。
礼 拝 次 第 (日)使徒言行録 八章(月) 〃 九章
司会 桝 本兄(火) 〃 十章(水) 〃 十一章
奏楽 慰 子姉(木) 〃 十二章(金) 〃 十三章
招詞祈祷 イザヤ二六章十二~十三節 (土) 〃 十四章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 六三番 ◎今週の祈祷会はお休みです。
主の祈り ◎二日(土)十時半より教会学校の夏のお楽しみ会です。
交 読 文 詩 編 二五編 ◎アジア祈祷日献金全額二万円を 東北ヘルプに送金
讃 美 讃美歌二六二番 しました。
献 金 感謝の祈り みつ子師 次週の讃美歌六六・三六五・ 聖歌五〇一番
讃 美 聖 歌四〇二番 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。
説 教 ヨハネ十六章十六~二四節 しかし、わたしは再びあなたがたと会い、
讃 美 聖 歌六三〇番 あなたがたは心から喜ぶことになる。
祈 祷 高澤兄 その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヨハネ十六章二二節
二つの時の狭間に生きるキリスト者
今日の箇所に「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」(十六・十七・十九節)が三回も記されている。普通に理解すれば、「見なくなる」は死を、「見る」は復活の後の顕現のこと思われる。しかし「見る」については前節までで五回も予告された「パラクレートスなる聖霊」による顕現と理解する解釈も有力である。さらに「見なくなる」ことについて、世は喜び、あなたがたは悲しむ、とが対比されている。
もし「見なくなる・見る」を主イエスの死と復活の三日間の出来事に限定すると、それは当時の弟子たちだけに関わることになる。そしてここで指摘されている悲しみも三日間のこととなる。しかしここで主イエスは、もっと広い意味、すなわちその後の時代を超えたこの世と教会の現実を視野に入れて語っておられる、と理解するのが良いと思う。十字架の死以来、この世はもはや主イエスを見ることはない。しかしキリスト者は、パラクレートスなる聖霊により、復活の主イエスを見ることが許されている(十四章十九節)。
二一節の出産のたとえは、今日の箇所に七回も出てくる「しばらくすると(ミクロン)」という時を浮き立たせる。この世(の支配者)が喜び(勝ち誇り)、弟子たち(教会)が苦しむのは限られた時にすぎない、と。そしてその苦しみ・悲しみは喜びへと必然的に繋がる道程に過ぎないことが強調される。
二二節は、再臨の主との再会と理解するのが良いと思う。その時にはその喜びをあなたがたから奪い去る者はいない」し、すべてが明らかになる(二三節)。
十四章十四節に続いて二三・二四節でイエスの名による祈りが勧められている。キリスト者の祈りと他の祈りを決定的相違は、この一点にある。これは聖霊の派遣の約束と共に、世を去る主イエスが信徒に与えられた最大の賜物である。聖霊のみでなく、私たちの祈りの背後には、主イエスがパラクレートスとしていてくださる。私たちは私たちの祈り付与されている特権をもっと自覚しなければならない。