二〇一三年九月二九日 NO・四十―二六 聖 書 日 課
礼 拝 次 第 (日)イザヤ 四六章(月) 〃 四七章
司会 桝 本兄(火) 〃 四八章 (水) 〃 四九章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 五十章(金) 〃 五一章
招詞祈祷 創世記十二章一~三節 (土) 〃 五二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十三番 ◎三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日、豊口恵久子姉の転入会式が行われます。
交 読 文 詩 編百三四編 ◎「天路」二一号ができました。
讃 美 讃美歌二八八番
献 金 感謝の祈り 高橋姉 次週の讃美歌十三・二八八・ 聖歌四三六番
讃 美 聖 歌四三二番 わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であっ
説 教 ヨハネ八章四八~五九節 て、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と
転入会式 豊口恵久子姉 言っている。あなたたちはその方を知らないが、わた
讃美祈祷 聖 歌四三六番 豊口姉 しは知っている。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヨハネ八章三九・四十節
あなたはイエスを誰と言うか
八章の最後に「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」とある。これが主イエスのユダヤ人の対話の結末である。八章の初めで、姦通の女に石を投げつけなかった彼らが、ここで石を取った。罪ある者ゆえに、人の罪を裁くことをしなかった彼らも、神を冒涜する者を―彼らは判断した―放置することはできなかった。「イエスとは何者なのか?」という問いが、その底流にある。そしてユダヤ人は、「悪霊に取りつかれている」という結論に達したのである。それは主イエスが、御自身を「わたしはある」(二四節)という者だと言いわれたからである―「アブラハムがいる前から、『わたしはある』」(五八節)―。これはユダヤ人の目に、イエスが自分を神と等しい者としたと見えた。これより恐ろしく大きい罪があるだろうか!
さらにイエスが「誰かがわたしの言葉を守るなら、永遠に至るまで死を見ることは決してない」(直訳五一節)と言われた言葉は、ユダヤ人には大言壮語と映った。神が選ばれた始祖アブラハムも、神の使いの預言者も死んだのに…「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」(五三節)と。もちろんここで主イエスが「死を見ない」と言われたのは、肉体の死を否定されたのではない。しかしユダヤ人は、それを地上の生が終わらない、と誤解した。
「わたしはある」と言うお方は、命そのものであり給う。イエスを信じる者、イエスの言葉にとどまる(守る)者は、主イエスに接がっているゆえに、その命にすでに与っているのである。すなわち「死から命へ移っている」(五章二四節)のであり、「永遠の命を得」て(六章五四節)いるのである。イエスを信じる者にとって地上の死は、終わりではなく、真の命への入り口である。
主イエスを断罪したユダヤ人は、同じ神を信じていたのではないだろうか?五五節の「あなたたちはその方を知らない」との主イエスの言葉は、意味深長である。神を知るとはどういうことか?神が唯一であることを知る事でも、律法の内容を知る事でもない。神を啓示されるイエスを拒否するところに神は見出されない。私たちが「イエスこそ神」であること信じる所に、神はいます。
礼 拝 次 第 (日)イザヤ 四六章(月) 〃 四七章
司会 桝 本兄(火) 〃 四八章 (水) 〃 四九章
奏楽 堅 田姉(木) 〃 五十章(金) 〃 五一章
招詞祈祷 創世記十二章一~三節 (土) 〃 五二章
頌 栄 聖 歌三八四番 (お 知 ら せ)
信仰告白 使徒信条 ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃 美 讃美歌 十三番 ◎三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り ◎本日、豊口恵久子姉の転入会式が行われます。
交 読 文 詩 編百三四編 ◎「天路」二一号ができました。
讃 美 讃美歌二八八番
献 金 感謝の祈り 高橋姉 次週の讃美歌十三・二八八・ 聖歌四三六番
讃 美 聖 歌四三二番 わたしに栄光を与えてくださるのはわたしの父であっ
説 教 ヨハネ八章四八~五九節 て、あなたたちはこの方について、「我々の神だ」と
転入会式 豊口恵久子姉 言っている。あなたたちはその方を知らないが、わた
讃美祈祷 聖 歌四三六番 豊口姉 しは知っている。
頌栄祝祷 聖 歌三八三番 ヨハネ八章三九・四十節
あなたはイエスを誰と言うか
八章の最後に「ユダヤ人たちは、石を取り上げ、イエスに投げつけようとした」とある。これが主イエスのユダヤ人の対話の結末である。八章の初めで、姦通の女に石を投げつけなかった彼らが、ここで石を取った。罪ある者ゆえに、人の罪を裁くことをしなかった彼らも、神を冒涜する者を―彼らは判断した―放置することはできなかった。「イエスとは何者なのか?」という問いが、その底流にある。そしてユダヤ人は、「悪霊に取りつかれている」という結論に達したのである。それは主イエスが、御自身を「わたしはある」(二四節)という者だと言いわれたからである―「アブラハムがいる前から、『わたしはある』」(五八節)―。これはユダヤ人の目に、イエスが自分を神と等しい者としたと見えた。これより恐ろしく大きい罪があるだろうか!
さらにイエスが「誰かがわたしの言葉を守るなら、永遠に至るまで死を見ることは決してない」(直訳五一節)と言われた言葉は、ユダヤ人には大言壮語と映った。神が選ばれた始祖アブラハムも、神の使いの預言者も死んだのに…「いったい、あなたは自分を何者だと思っているのか」(五三節)と。もちろんここで主イエスが「死を見ない」と言われたのは、肉体の死を否定されたのではない。しかしユダヤ人は、それを地上の生が終わらない、と誤解した。
「わたしはある」と言うお方は、命そのものであり給う。イエスを信じる者、イエスの言葉にとどまる(守る)者は、主イエスに接がっているゆえに、その命にすでに与っているのである。すなわち「死から命へ移っている」(五章二四節)のであり、「永遠の命を得」て(六章五四節)いるのである。イエスを信じる者にとって地上の死は、終わりではなく、真の命への入り口である。
主イエスを断罪したユダヤ人は、同じ神を信じていたのではないだろうか?五五節の「あなたたちはその方を知らない」との主イエスの言葉は、意味深長である。神を知るとはどういうことか?神が唯一であることを知る事でも、律法の内容を知る事でもない。神を啓示されるイエスを拒否するところに神は見出されない。私たちが「イエスこそ神」であること信じる所に、神はいます。
※前のコメントの訂正 悪霊が行っている→悪霊が言っている(ex.ルカによる福音書4章41節)
イエス様への信仰(救い主あるいは神の子)は、目撃者である最初の弟子たちが、「イエスは復活した」という宣教(ケリグマ)から始まります。約束の聖霊が弟子たちに下って、彼らはキリストの証人となりました。弟子たちは、イエスの生前、イエス様から、自分が死んで復活することを聞かされていました。そしてそれが事実となってた時に、その意味するところを弟子たちは悟りました。そして命を懸けてのべ伝えたのでした。
イエスが神の子であることが証明できれば、伝道は必要なくなるかもしれません。しかし人はケリグマを聞いて、それを信じるか信じないかの決断を迫られます。信じた人は、確かに主イエスより与えられる救いを解放を経験したのでした。そのようにして、教会は、2000年存在しているのだと思います。