稲毛聖書教会

教会の週報や牧師の折々の所感を載せます

天路

2011年10月20日 | 所感
 「天路」19号が今年もできた。年に一度、教会に連なる者が寄稿する。

 毎年その編集をしていて気づかされたことがある。それは「文は人なり」ということである。私たちはどうしても少しでも良い文章を書きたいと願う。しかし19年間、各自の文章を読んでいて感じることは、かっこをつけ、理想的に書こうとしても、人はその人のもっているものしか書けないし、出てこないということだ。そこにその人がよく表れている。そのことがわかってから、私は文章を書くのが苦にならなくなった。
 
 まさに文は人であり、個性である。それぞれにその人でなければ感じない、思わないことが表れている。それは良し悪しではない。それ自体が尊い。さらに、以前のものを読み返すと各自がその年年にどのようなことを感じ、どのようなことを経験したのがわかる。自分の人生の、信仰生活の一部を書き残したことになる。だから毎回読むのが楽しみである。毎年こつこつ続けていこう。
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誕生日

2011年10月18日 | 日記
 今日は57歳の誕生日。今日まで生かされてきたことを感謝しよう。主イエスは私の羊飼いであって、57年の私のたどたどしい歩みを導き守って下さったとつくづく思う。

 最近よく思うのは、自分に残された時間が限られている、ということである。いつであったか、日野原重明師が新聞に〈「命」と「時間」は一体のもの〉と書いておられたのを読んで以来、妙にそのことが心に留まっている。日本人男性の平均寿命は79.64歳くらいだとすると、後22年でそこに到達する。もちろん明日のことはわからないのだけど。今まさに第4コーナーを回って、最後の直線をゴールに向かって走っているような感覚を持つ。

 命を時間に置き換えてみる時、時間の経過そのものが命を減らし削っていることになる。そう思うと本当に1日1日が貴重である。これまで私は自分のしたいように時間を使い、生きてきた。しかしそのような生き方は、これまでで充分だ。これから少しは神の御心を追い求めることに時間と命を使いたいものだ。思いと実践はなかなか一致しないのだけれど。 
 
 「人生はため息のように消えうせます。
  人生の年月は70年程のものです。
  瞬く間に時は過ぎ、わたしたちは飛び去ります。
  生涯の日を正しく数えることを教えて下さい。
  知恵ある心を得ることができますように
。」(詩編90編9‐12抜粋) 
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週報

2011年10月16日 | 週報
二〇一一年十月十六日  NO・三八―二九       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第   (日)創世記   十一章(月)  〃  十二章
     司会 高 澤兄(火)  〃   十三章 (水)  〃  十四章
       奏楽 慰 子姉(木)  〃   十五章(金)  〃  十六章
招詞祈祷  詩編百三九編一~六節    (土)  〃    十七章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条      ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 九 番    ◎二十日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り              ◎本日午後新約の学び「ヨハネ福音書」です。
交 読 文  詩 編 六一編    ◎本日責任役員会。
讃  美  讃美歌三九七番    ◎十月三十日(日)大内俊師をお招きしての礼拝です。
献  金  感謝の祈り    高澤姉  次週の讃美歌十・三九一・ 聖歌三九八番 
讃  美  聖 歌三九六番    同様に、「霊」も弱いわたしたちを助けてくださいま
説  教   ローマ八章二六~二七節 す。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが 
讃  美  讃美歌二八八番    「霊」自らが、言葉に表さないうめきをもって執り成
祈  祷          小村姉    してくださるからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                    ローマ八章二六節
                 
   私たちの内にいます聖霊(の働き)
 今日の箇所でまず聖霊は「弱い私たちを助けてくださいます」と言われる。「弱い私たち」は忠実に訳せば「私たちの弱さを」である。二つの間に微妙にニュアンスの違いがある。「弱い私たち」とば相対的な響きがする。私たちは弱いが強い人もいるという具合に。「私たちの弱さを」という言葉で言い表されているのは、例外なくすべての人間が持ち合わせている弱さ、難しく言えば「被造性」であろう。

 「助けてくださいます」という語は三つの語(「一緒に」「代わって」「引き受ける」)からなる複合語である。具体的に何について助けると言われているかと言えば、その後に続く「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが」ということである。「どう祈るべきか」という語は直訳的に訳せば「何を祈るか、あるべき仕方を知らない」となる。つまり私たちは神のみ旨にかなう祈りが何であるかを知らない、ということである。たとえ私たちが具体的な嘆願をしている時でさえ、私たちの弱さ・被造性のゆえに。

 さらに、私たちがもう言葉を出して祈ることすらできず、うめく以外にない状態にある時、聖霊はそのうめきそのものの中にいてくださると言われる。聖霊はそのような私たちと「一緒に」いて下さり、私たちに「代わって」そのうめきを神のもとに携えて下さり、すべてを「引き受けて」下さるのである。この世に存在する何者も、私たちをそのように助けることはできない。しかし聖霊は私たちの内にいて、私たちの弱さをうめきをご自分に引き受けて下さって、神に届けて下さるのである。それが「霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」ということである。私たちはどう祈るべきを知らないが、聖霊は神の御心に従って執り成して下さるのである。

 これによって、私たちの弱さが解消されるのではない。しかしこの御霊が私たちの内にいまし、助け、執り成して下さるので、「大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。わたしは弱い時にこそ強い」(2コリント十二章九・十節)ということができるのである。キリストを信じる者に聖霊が宿り、(八章九節) 、私たちのために神に働かけ給う。これこそキリスト者に与えられている最大の賜物・恵みである。
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週報

2011年10月09日 | 週報
二〇一一年十月九日   NO・三八―二八       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第   (日)創世記    四章(月)  〃   五章
     司会 桝 本兄(火)  〃    六章 (水)  〃   七章
     奏楽 慰 子姉(木)  〃    八章(金)  〃   九章
招詞祈祷  詩編八編四~十節      (土)  〃     十章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条    ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 七 番   ◎十三日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り             ◎天路十九号ができました。ご利用ください。
交 読 文  詩 編 六十編     ◎次週は新約の学び「ヨハネ」です。
讃  美  讃美歌三九一番 ◎十月三十日(日)大内俊師をお招きしての礼拝です。
献  金  感謝の祈り     田姉  次週の讃美歌九・三九一・ 聖歌三九七番 
讃  美  聖 歌三九六番  被造物だけでなく、霊の初穂をいただいているわたし
説  教   ローマ八章二三~二五節 たちも、神の子とれること、つまり、体の贖われる 
讃  美  聖 歌五九五番     ことを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。
祈  祷          大庭姉 わたしたちは、…忍耐して待ち望むのです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ八章二三・二五節
                 
   うめきと希望と忍耐
 パウロは、被造物は「滅びへの隷属から解放」されるために、うめき、産みの苦しみを味わっている、と語った。そして今、被造物だけでなく、「霊の初穂をいただいているわたしたちも…心の中でうめきながら待ち望んでいる」と語る。キリスト者は、「人を奴隷として再び恐れに陥れる霊ではなく、神の子とする霊を受けた(十五節)」者ではないか。「罪と死の支配」から、キリストによって「恵みと命の支配」に移された者ではないか。そのような者がうめいている、とは意外ではないだろうか?いや、聖霊を受け、恵みの中にあるからこそ、うめくのである。なぜなら、私たちは「神の子とする霊を受け」ているが、まだ名実ともに神の子とされていないことを知っているからである。だからパウロは、「神の子とされること」を「体の贖われること」と言い換えている。霊だけの存在は天使である。人間の存在全体は霊と体を持つ存在である。そして肉の体は死を経なければならない。その意味でまだ体は罪と死から解放されていない。私たちはキリストの復活体のように朽ちない体になることを待ち望んでいる。それゆえ「体が贖われ」た時こそ、救いの完成、神の子と名実ともになる時である。
 
 「聖霊の初穂」とは、「聖霊の手付金」と言い換えることができる。私たちは救いの手付金をすでに頂いている。まだ救いは完全に自分のものになっていないけれど、手付金のゆえに、自分のものになることを確信することができる。それが二四節の「わたしたちはこのような希望によって救われているのです」の意味である。
 
 パウロは「うめきと希望」について語ったが、それに「忍耐」を付け加える。矢内原忠雄は、美しい表現で忍耐について説明している。「彼の希望に輝く目と、涙に濡れ眼とが、この語の中に融け合っている。」と。キリストを知ることは、神を、神の愛を知ることである。それゆえ私たちの目は、希望に輝く。しかし同時になおその完成に至っていない現実を見てうめき、涙にぬれる。そこに必要なのは忍耐である。それはじっと我慢することではなく、希望とうめきに満ちた躍動的忍耐である。
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週報

2011年10月02日 | 週報
二〇一一年十月二日   NO・三八―二七       聖 書 日 課   
   礼 拝 次 第        (日)黙示録   十九章(月)  〃  二十章
          司会 高 澤兄(火)  〃   二一章 (水)  〃  二二章
          奏楽 慰 子姉(木)創世記    一章(金)  〃   二章
招詞祈祷  イザヤ六五章十七~二十節  (土)  〃     三章
頌  栄  聖 歌三八四番             (お 知 ら せ)
信仰告白  使徒信条           ◎早天祈祷会(月~土)午前五時三十~五五分。
讃  美  讃美歌 三 番        ◎六日(木)午後二時より祈祷会です。
主の祈り                   ◎本日午後、天路の製本をします。
交 読 文  詩 編 五九編              予 告
讃  美  讃美歌三九一番        ◎十月三十日(日)大内俊師をお招きしての礼拝です。
献  金  感謝の祈り      永田姉  次週の讃美歌七・三九一・ 聖歌三九六番 
讃  美  聖 歌三九五番           被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んで 
説  教   ローマ八章十九~二二節    います。   つまり、被造物も、いつか滅びへの 
聖 餐 式                       隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由
讃美祈祷  聖 歌六〇〇番    桝本兄  にあずかれるからです。
頌栄祝祷  聖 歌三八三番                ローマ八章十九・二一節
                 
   栄光の自由への待望 
 十九~二二節において、パウロは「被造物」に言及している。ここから私たちは、キリストによる救いが人間だけに関わる事柄ではなく、存在するすべてのものに及ぶことを知る。ギリシア人は、世界を「調和(コスモス)」と言った。日本人も同様に自然美に親しんでいる。聖書もまた詩編十九編一節で「天は神の栄光を物語り、大空は御手の業を示す。」と述べている。確かに、万物は神に造られたものとしてすばらしいものである。

 しかしここでパウロは被造物が「虚無に服している」と言い、「滅びの隷属」におり、「うめき、産みの苦しみを味わっている」と言う。これがパウロの自然観である。これは創世記の三章十七節「お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べものを得ようと苦しむ。お前に対して、土は茨とあざみを生えいでさせる。」に根差している。少しでも菜園をしたものは、いかに自然が邪魔をするかを知っている。また日本は四季折々の豊かさだけでなく、地震・台風・豪雨等々、自然が牙をむくのを経験している。自然は、私たちに糧をもたらすだけでなく、命を奪う存在でもある。それは自然が自ら望んでそうなったのではない。自然がそうであるのは、人の罪のゆえだ、と聖書は言うのである。

 自然も今うめいている。しかし単にうめいているだけではない。彼らは希望をもって切に待ち望んでいる。それは神の子の出現を。つまり人の救いが完成する時を。それをパウロは「(神の)栄光の自由にあずかる」と表現している。「神の栄光」の内容を言葉で表現することはできない。しかしキリストによる救いとは、その栄光に与ることを意味する。さらに栄光の「自由」と言われる。まさに自由こそ救いなのである。今は皆が「虚無に服し」、「滅びの隷属」の中にある。これこそ自由の反対である。この事実を正面からしっかり見据える者だけが、「切なる渇望」を持ち、キリストにある希望に生きるのである。今、万物は虚無、はかなさ、滅びの中にあるが、その苦しみはあくまで「産みの苦しみ」なのである。キリストによって「罪と死の支配」は終わり告げ、「恵みと命の支配」が到来しつつある。
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