末法人言

冥土、冥界、冥境、草葉の陰、黄泉、幽冥
 歳なのか?これらの言葉が気になっってきた。

極私的映画論 「おかあさんの木」を観た!

2015-06-13 16:59:30 | 日々の出来事

映画「おかあさんの木」

 (原作・大川悦生 脚本・監督 磯村一路」を観てきた。

          

封切りでしかも初日に映画を観たのは何十年ぶりだろうか、最近ではあまり記憶にない。

映画館に足が向かなかった。今回は、昔々のご縁で磯村監督を知っている事と、自分の中で日常的気分にポッカリと空白ができ、それを埋めるための映画館だったのかもしれない。

 

前宣伝は結構大々的である。と思われたのだが、客は他に一人しか入っていず、例によって、ちょっぴり寂しくもあり贅沢でもある映画鑑賞であった。椅子は80席ぐらいある映画館ではあるのだが……。

 

 

さて、映画であるが。

今時珍しく、地味で真面目な映画である。が、物語は真面目さを押し付けてくる気配もなく,むしろ淡々と進む。

 

この映画、戦時中おかあさんが木を植える物語かと思っていたら、見事にそれを裏切られた。こうゆう映画大好き!

 

この映画、現代から始まる。

老木である桐の木を切る切らないから始まるのである。

 

木を切る承諾の為に,その木の土地の所有者である老婦人を、ある開発会社の社員とその町の行政マンが訪ねる。 ところが、老婦人は切る切らないの話ではなく、桐の木を植えた因縁話を始める。これがこの映画の最初のシチュエーションである。

(奈良岡朋子扮するこの老婦人が、またまた良い)

 

この老婦人もまた、おかあさんと因縁のある婦人でもある。

彼女もまた戦後のおかあさんで、木を植えるおかあさんは、戦前・戦中のおかあさんである。この老婦人は、木を植えるおかあさんの子息で、唯一戦地から無事帰還した、五男の嫁でもある。

この老婦人の語りが観るものに訴えかける。

木を植えるおかあさんとその家族、また当時の世間の理不尽さ。それに耐えるおかあさん。その老婦人の、結婚した旦那との恋。

 

この映画の裏の主人公はこの老婦人である。

また、 時代・社会によってその表現のちがいはあれ、 子を想う母親もまた永遠の主人公か?

         

もともと原作の「おかあさんの木」には、この様な老婦人は出てこない。ただ、原作のラストは、木を植えるおかあさんをその息子から孫へ、そのまた孫から子へ、と語り継ぐ事の重要性を示唆しているようにも想える。語り継ぐには語り部が必要である。であるならば,その語り部が息子の嫁で、その家族を知っている,その老婦人でも何ら問題はない。

しかも、戦後70年の現代での語り部である。この様な老婦人を、新たな人物として登場させた脚本は、映画全体の奥行きが感ぜられ ひいき目に云って 見事な脚本である。と想われるのだが……?

 

また原作では、おかあさんの植えた木は切られ、変わりにクルミの木が植えられるのだが、映画ではおかあさんが植えたその木が、現代まで残っている設定になっている。それは、老婦人が生きていることと同義であるから、切ってなくなってしまっては拙い。

 

色々な想いが込められている、 おかあさんが植えた桐の木。語り継がれるべきはむしろその木ではないのか?「あの木は切ってわならねぇ」映画のラスト近くに認知症気味の老婦人が云う。心に残っている?

 

確かに最初その木は、おかあさんにとっては、子息達の無事帰還を願う木でもあった。がしかし、残念無念なことに、大半の子息は次々に戦死し帰ってこなかった。最後まで行方が知られなかった子息の帰還とともに,そのおかかさんも自分が植えた木の根元で死んでしまう。なんともはや、諸行無常である?とばかりも云ってられない。

 

戦地からの無事帰還を願う生者の木から、残念無念の死者の木に、その桐の木は結果としてなってしまった。切ってしまった方が良い、それも解らない訳ではないが、おかあさんも死んでしまった今、死者を誰が語り継ぐのか?その時代社会の色々な制約の中で悪戦苦闘をした死者達を誰が語り継ぐのか?おかあさんの植た桐の木の因縁話を誰が語り継ぐのか?

 

その桐の木は、生者と死者と場が織りなす因縁話を語る。少なくともその時代の叙述の痕跡が刻み込まれている木でもある。決して切ってはならない。

死者は死者でしかない。英霊でもなければ、単なるご先祖でもない。生者のエゴを超えて死者の語りを聞く、そしてそれを語り継ぐ。それが平和への微かな希望へと繋がる。

 

おかあさんの植えた桐の木は、遥かに微かな平和への木でもある。

 

是非劇場へ

 


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