もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

新規

2011-07-31 08:35:58 | ブログ
「新規」となることは、ものすごいことである。
同時に、誰にでもそうなることが出来る可能性を秘めていることでもある。

人と違う視点から、その対象を見据えて、機能を強調したり、または削除したりしてそのものに新たな価値を与えるのだ。
従来公開されていなかった新たな価値に対して、人は付加価値を見出す。

新規性に対する価値とは、言うなれば「時代(もしくは年月)による収斂を経ていない価値」であり、「その収斂に自分も関わることが出来る価値」であるだろう。

自分も歴史に関わったのだ、という事実を実感したいために、人は新規のものを好むのかも知れないと私は思う。

開発

2011-07-29 12:59:13 | ブログ
システム開発の仕事をしているといつも感じること。
それは、使っている人間(ユーザ)が開発すればよいのではないか? ということ。

これはきっと、世の中で仕事をしているエンジニアは皆一度は感じたことがあると思います。

ではなぜ、ユーザが開発しないのか?

 ・ユーザは、「使う」専門家であるから、開発のことは気にする必要はない、と考えている。
 ・ユーザは、開発に関しての知識はなくてもよい、と考えている。
 ・ユーザは、開発者が気付かない視点からの発言をするために、開発側へ染まってはならない、と考えている。

いろいろと考えはあることと思いますが、ひとつ言えるのは「片方に徹すると、全体を見渡すことは出来なくなる」ということです。

木を見て森を見ず、にも通じることですが……

私は、ユーザだからといって、自分が使用しているシステムの「仕組み」の部分を理解する必要はない、とは思いません。仕組みが分かっていれば、開発者へ自分の要望を伝える際に、「こことこことがつながっているはずだから、この部分を簡略化できるのではないか」というように、情報量多く提案できます。

同様に、開発者だからといって、システムの限界を把握しているが故にユーザの要望を「できない」の一言で切り捨てることも良しとはしません。むしろ、限界を知っているからこそ、その限界の範囲内で何か別の方法を模索したり、人の手によってしなくてはならないことはコレなのだ、と明確に説明したりして、ユーザに納得してもらうことができます。

このように、互いに利する点が大きい以上、システムについての共通理解は、するに越したことはありません。
私はそう思います。

判断

2011-07-25 07:57:08 | ブログ
生きていくということは、あらゆる事象に対して○か×かの判断を繰り返す事であります。

日本人は兎角、その○か×での判断を避け、その間の領域に自分を置くことをしようとします。
その事が顕著なのが、アンケートを取る際の、「まあまあ」「やや」という選択肢です。

例えば、
 Q.アナタは現在の自分の収入に満足していますか?
 A. 1)大変満足 2)満足 3)やや満足 4)やや不満 5)不満 6)大変不満

場合によっては3)と4)の間に「普通」という項目もあったりすることもあります。
「普通」とは、これまた相対的な評価ですね。
その一方で「満足」「不満」はいずれも絶対的な評価であります。

「満足していますか?」という問いなのですから、回答は「満足」か「不満」かの二択であるべきです。
そこに「まあまあ」「やや」「大変」という、程度の強弱に関わる語を頭につけることで、評価を細分化しています。
そして、その細分化された評価にも分類しきれない領域の判断を「普通」としているのです。
アンケートの中には、「普通」の替わりに「わからない」という項目がある場合もあります。

そういう選択肢を選んでしまうのは、実はその項目に関して、究極的に内省が出来ていない(即ち、自分がその事に対してどのように思っているのかを把握できていない)ということを意味しているのではないか、と私は思います。

考えを突き詰めていけば、答えは「出ない」のではなく「出にくい」だけなのです。
○か×かの二択だけなのですから、深く深く考えをめぐらせれば、○か×か(少なくともその時点での)答えは出るでしょう。

人間は、「その時」の判断しか出来ません。
「その時」の判断が、「今」の自分に合わなくなったら、もう一度判断を下せばよいのです。

弁証法的内省

2011-07-10 08:22:11 | ブログ
私は、曲作りを始めて12年になります。
間に何度かの波があり、断続的ではありますが、ここまで続けてこられたのは、一生をかけての趣味とすることを自分で決めたためだと思います。
ゆっくり、じっくりで良い、と感じるようになりました。

初期の頃に作ったものは、いま聴いても結構とがっていて、「常識」(もしくは「既成の価値観」)に対する反逆心ばかりを前面に出していたなぁ、と思い起こされます。
これが私の感じている事なのだ!と言わば独りよがりなものを多く作っていたと思います。
自分が楽しければ良い、他の人がどう聴こうが関係無い。そんなふうに、信じていました。(これも、若さゆえでしょう)
ヘーゲル弁証法的に解決するならば、既に世に広まっている価値観をテーゼ(命題)とすると、私が初期の頃夢中になって作っていた作品たちはみなアンチテーゼ(反命題)でありました。
本来ならば、そのアンチテーゼ(反命題)は、テーゼ(命題)とぶつかり合いを経て、より高次元の段階であるジンテーゼ(総合命題)へと昇華させなくては何の意味もありません。

最近、ようやく「生み」の苦しみが、「苦しい」と思えるようになってきました。
人生がにじみ出るような、そんな作品を紡ぎ続けていきたいです。
常に、その時点でのジンテーゼを目指して。

伝えたい

2011-07-09 07:48:28 | ブログ


音楽を世に出す、即ち自分以外の他者にも公開するという行為は、自己顕示欲の表れだとしばしば言われます。
「自分はこのようなことを感じている」ということは、実際のところはひどくデリケートな領域の物事であり、それをわざわざ人へ見せたいというのはある種の「性分」であると言えます。

音楽を人へ聴かせたいのは、音楽家であり、
文章を人へ読ませたいのは、物書きであり、
話しを人へ聞かせたいのは、噺家であり、
考え方を人へ伝えたいのは、指導者であります。

「ただ、自分がそこに居るだけで価値がある」
そんな存在になりたいと思った事もありましたが、冷静な目で考えてみれば、それでは単なる「象徴」であり、「仕事」ではないと思います。
居続けることが仕事なら、その目的を達成するために食事を摂り、寝て、起きて、時々遊んで……と、これではまるで自由人です。
社会へ働きかけをすることなく、むしろ搾取する側にだけ居る。
それは逆に言えばその搾取する側が居なくなった場合、その分他の人に富が分配される量が多くなるということになりませんか。

「居るだけ」なら「もらうだけ」です。
居るのならば、「自分がそこに居るのだ!」ということを「主張」することこそ大切なのだと私は思います。