もふもふ的世界

主に、音楽制作・言語学・心理学・哲学・文学・音声学・音波・システム開発 等々色々と呟いて参ります。

常識

2011-10-29 18:09:13 | ブログ
「常識が身についていない人は、常識を越えられる」

この命題が真であるならば、以下の命題も真であるはずである。

「常識が身についている人は、常識を越えられない」

たしかに、その通りであると思う。
音楽製作にしろ、日々の生活にしろ、学問にしろ、料理にしろ。

曲作りの方法など、全くの手探りで、自分の感覚の思うがままに音を選び、組み合わせ、並べて、構築していった、あの若い頃のハングリー精神は何処へ行ったのか。

「常識的にはこうだから、私がこう思っても、他の人はこう思わないのではないか?」という心理が働き、最近では自分自身で、その衝動にブレーキをかけていると思う。
何故、自分の素直な判断を、感覚を、素直に信じて推し進めてあげられないのか……

そのようなことを強く感じている私は、むしろこの閉塞感を感じられない人々に比べて、まだマシなのではなかろうか。


常識が内面化している人は、それが「常識」であるという客観的な感覚は持つことが出来ないため、自身の判断(即ち、自身の衝動にブレーキをかけるということ)は当然のことである、と思い込んでしまう。
これでは、自分で自分を殺していることと同じだ。
自分の可能性に、自分で蓋を閉じているのだから。
これ以上、愚かなことは他には無い。

嗚呼、あの若かりし頃の衝動の、なんと斬新だったことか。
奇をてらうことに対する羞恥心の無さは、恥ずべき事ではなく、むしろ賞賛すべきことであったのだ。

色々な可能性を全てひっくるめて、自分が信じ、納得した「作品」に仕上げることは、何よりも美しい所行であると私は思う。

対話

2011-10-09 07:50:05 | ブログ
他者と対話をするということは、自分の考えを「伝える」必要性が発生する、ということです。
その時の自分がどのように考えているかを、言語の形へと落とし込まなければなりません。
すなわち、自己を「ありのままの自己」から「客観的にも捉えられる自己」へと変換するプロセスを経ることになります。

私は、「ありのままの自己」は、はっきりと捉えきれないものである、と思っています。
それが、上記の変換において、自己は言語という限定された型枠の中へと押しこめられるのです。

この「自己を枠へ押しこめること」に対して、正直なところ私は耐えられません。
出来る事ならこの「枠」を意識せずに、「ありのままの自己」をありのままの形で「伝え」られたらどんなにか楽なことでしょう。

……枠とは、言語であり、それは言わば世間の常識であり、共通理解であります。
「伝える」という作業を通じて、私は常にこれらと自己との差異を痛感しています。

しかし、この「伝える」ことをせずに生きることは、もっともっと辛いものです。
伝えないと、孤独を感じてばかりの日々になってしまいます。
「ありのままの自己」をそのままの状態で「感じる」のは、自己対話です。
これが芸術の芽生えであり、これを表出させる(すなわち、他者にも捉えられるものにする)ことが創作であります。

そう考えると、芸術作品とは既に作者の「今」の感覚からはズレたものであるといえます。
「あの時、このように感じていた」ということを形にしているに過ぎないのです。
では、なぜ作品を作り続けるのか。

それはやはり、自己との対話をし、その時感じたことを形に残すことで、「自分が過去のその時生きていたのだ」という証拠を積み重ねたい、という欲求が有るがゆえでありましょう。
自己を振り返ることを繰り返し続けないと、今の自己が危うく感じられるのです。

なんとまぁ、不器用で手間のかかる存在なのでしょうか。