事実とは、あくまで「発生している事象」であり、そこには感情はありません。
感情は、刹那的でもあり、継続的であり、また断続的でもあるものです。
別の表現をするならば、
事実は一切変えられないものであり、
感情は変えられる可能性を十分に秘めたもの、です。
そして、タイトルにある「記憶」とは、「その時点での自身の主観を通しての記録」であります。
ただそこにある事象に向き合い、自分がどう感じたのか、ということが焼き付いたものが、「記憶」であると言えます。
この焼き付きは、ある特徴があります。
・自身の主観がより強く共感した部分は、より強く焼き付く(焼き付き方に、強弱が発生する)
・風化していく(そうすると、必然として、不要な部分は削除されていく)
すなわち、偏った形でしか、残らざるを得ないのが「記憶」である、ということになります。
人は、風化して片鱗のみになっている記憶を前にすると、その周辺部を別の要素で埋め合わせようとします。
言い換えるなら、その残り部分を種として連想してゆくのです。
連想する際に用いるのは、主観ですから、「こういうことを言ったのだから、こうだったに違いない」という、事実とはズレのある形での補完がなされるのです。
過去の記憶が都合良く美化されがちであったりするのもこれが原因でありましょう。
別の見方をするならば、自身の過去に嫌な記憶を持つ場合、(これは程度にも依ると思いますが)それと向き合い何度か補完を繰り返して、良い方向へ、良い方向へと記憶を塗り替えていけば、少しずつでもその嫌な記憶が軽くなっていくだろうと思います。
あらゆる事実も記憶も感情も、容赦なく変化させてしまう。
時間の流れというものは、なんと偉大なものでしょうか。