キシリ徹の!おんぼろファクトリー操業記

キシリ徹の
架空CMソングの作詞・作曲・制作の経緯、小さなハプニングやイカしたグッズ
についての裏話を書きます!

<エッセイ> 『ばあちゃんとイタコ』 (やなせ・第一回)

2020-04-30 19:23:19 | 日記
 キシリ徹のやなせ京ノ介(どちらかというと歌っているほう・メガネをかけていないほう)です

このブログでは、曲の裏話以外に、メンバー2人それぞれのエッセイも時々書いていきます。その第一回です。
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『 ばあちゃんとイタコ 

1.僕の地元はこんなところ

 今年2月、社会情勢がこんなふうになる前、マニアフェスタ Vol.4終了とともに、北海道の実家に帰省した。

帰省は2年ぶりで、ありがたくもキシリ徹で作曲の仕事を頂いたり、取材をしてもらったりと色々あったので、報告も兼ねて一度帰ることにした。

 僕の地元は、北海道の道東、人口5000人割れ・高齢化率45%越えのほぼ限界集落。
コンビニは町に2個で・木材工場は9個ある。街の総面積の95%を森林が占め、3%を木材工場が占める。残り2%で市街地をやりくりしているド田舎だ。

 近年は更に過疎化が進行し、空き家だった家々すら消滅し、そこいらじゅうに空き地の目立つリアルマサラタウンになっていた。
くさむらに入ったらオーキド博士に注意されるかと思った。

そんな状況でも、町のド真ん中に、ピッカピカの新しい箱物の施設が作られたりしている。これは田舎あるあるなのだろうか。空想地図の皆さんに聞いてみたい。

 この町に住む学生は「学校帰りにカラオケに行く・マックに行く」など正統派の中高生っぽい過ごし方が出来ない。

 最寄りのカラオケまではバスで片道680円・30分かかる。
 中学生の財力でおいそれと頻繁に行くことはできないので、歌いたい曲を練習しまくり、溜めまくって3ヶ月に一回・往復1260円かけて行く。
それはちょっとした大イベントのため、一度に7時間半とかカラオケにいる。
マニアフェスタで声が枯れるまで歌った後、中学生の頃の三月に一度のカラオケを思い出す。

 学生たちの町内での過ごし方は、豊かすぎる自然と友達の家の2つを主だったバトルフィールドとして、遊びは自分たちで工夫して考えるしかない。
 その他、ヤンキーの先輩たちはセイコーマートのフードコートで数時間たむろし、店員に注意されている。ヤンキーでなければセイコーマートのフードコートに立ち入ることは許されない。これは後に”ヤンキーにならずんばセイコーマートのフードコートを得ず”という故事成語になっている。
 そして、中学生たちの初デートスポットは専ら、町営の『農業者トレーニングセンター』という施設だった。名前に隠しきれない田舎がにじみ出ているのが当時は恥ずかしかった。

 気候は盆地のため、夏は「今日日本で一番暑かった場所」・冬は「今日日本で一番寒かった場所」として全国ニュースで毎年地名を目にする、異常な寒暖差が特徴である。
 
 そんな、四季が豊かで娯楽に乏しい町で、想像力を駆使し工夫して遊びながら育った。自分たちが出演する妄想のバラエティ番組のテイで、放課後、大喜利や体当たり企画をして遊んでいた。
今の空想・妄想を元にした作曲に行き着いたのは、ド田舎の環境で育まれた、想像・妄想の習慣から必然的だったかもしれない。



2.美人すぎる議員、元気すぎる祖母

 自営業で両親は共働きだったので、幼い頃、母方の祖母に親代わりとして育てられた。

 祖母は今年で87歳で、所々に不調はあるらしいが、ハタから見てもバリバリに元気である。
 特に耳と口と脳が達者で、本当に止めどなく喋っている。
 
 祖母だけでなく、親族が基本的に皆おしゃべりで、実家では僕以外の家族が一斉に喋っているみたいな異常な瞬間が良くある。
 近しい人々に「おしゃべりだねえ」と言われる僕でも、実家に帰れば高倉健扱いだ。(無口という意味で。決して銀幕のスター扱いではない。撮影中焚き火があっても当たらないとかそういう精神性の話でもない)

 今回の帰省で、母親と共に祖母の家に寄ると、いつものようにCSで演歌チャンネルを垂れ流しにしていた。

 それを見ながら、
 「ヒロヤス(ばあちゃんの長男、僕から見て叔父)がこの前病気して~」
 「ユウジロウ(僕の弟)の研修が~」
など、子や孫の話を話したり、
 「今度(山内)惠介のコンサートにまた行く」
 「惠介は歌だけじゃなく、喋りもユーモアがあって面白い」
 「でも(氷川)きよしはサービス精神がない」
と、好きな演歌の話を延々していた。

 僕は、良い曲であれば何でも興味深く聞きたいタチなので、サブちゃんの新曲などにじっくりと耳を傾けていた。
 そして、独り言ぐらいの音量で「この”原譲二”ってサブちゃんの作曲のときの名義だよなー」とボソッと呟くと、
すかさず、祖母が「そう、ペンネームだよ。たぶん20代ぐらいから使ってるんじゃなかったかい」と原譲二についてのプチカウンターウンチクをかました。
耳と口と脳が達者だなあと思った。

 そして、キシリ徹の最近の動向について、祖母に簡単に話すと、
 「どんな作曲の仕事でも、一生懸命やって良いもの作るんだよ。
そしたらまた次の仕事につながってどんどんどんどん大きくなるはずだから。頑張れよ~」と言ってくれた。
普段そんなに話す機会もないので、こんな長尺でエールをくれたことに驚いたし、何より作曲についてめちゃくちゃ無駄なく的確な言い回しで、”もしかしてアンタが原譲二か!?”と思った。
 アンタが原譲二で俺が小金沢昇司かえ!?!?さしずめ弟は大江裕かえ!?!?耳と口と脳が達者か!?!?!?ともかくなんか嬉しかった。

 夕飯時になり、ばあちゃんも連れてうちに帰ろう、となったときに、母親が急になんでもないような顔でつぶやいた。
「あと3年だね、言われた話だと」
祖母が「そう」と同じような顔で返答した。

 何の話?と聞いてみたら、思わぬ展開になった。




3.ばあちゃんとイタコ

 ばあちゃんの夫、つまり僕から見て祖父は、40代で亡くなっている。
ある日、いつものように酔っ払って帰ってきて、翌朝そのまま眠るように、布団で息を引き取っていたらしい。
末っ子である、母親が14歳のときのことだったので、当然僕は祖父に会ったことがない。

 祖父について知ることは、祖母や母の兄弟から聞く
 ・仲間を大切にする人だった
 ・スポーツ、勉強、小唄などなんでも出来た
 ・町長選に出るように周りに薦められたが「そういう責任のある立場は向いていないから」と固辞した
 ・酒好きで、人を集めて毎日一人1升を飲んでいた(絶対盛ってる、チャックノリス伝説か!)

などの人物像と、神棚の近くにある、弓道をやっている勇ましい祖父の肖像のみだ。

 先ほどの”あと3年”の話は、そんな祖父が亡くなった直後の出来事から。
 当時40歳を目前にした祖母は、突然夫を亡くした喪失感からなかなか立ち直れずにいた。
そんなとき、友人から「町に有名なイタコさんが住んでいる」という話を聞きつけ、一度会ってみたらと提案されたらしい。

 少しでも夫と話したい、と思い、当時高校生だった、母の姉(僕からみて叔母)と共にそのイタコを尋ねた。
イタコさんはひとしきりの降霊術的なことを行うと、実際に目の前の彼女の身体に祖父が降りてきた。

イタコの身体を借りた祖父は、祖母に
 「俺は突然死んでしまって迷惑をかけた。本当に迷惑をかけてばかりで申し訳ない。
  だから、俺の力でお前を90までは絶対に生かす!」と約束したそうだ。
 祖母は現在87歳。
そのときの祖父の言葉をもって、”あと3年”と言っていたのだった。

 全く聞いたことがなかったし、母と祖母から突然に飛び出した霊性の話が不思議で、何と言えばいいかわからずぼっとしていた。
 母と祖母は「あのとき私も一緒にイタコさんに会いたかったよ!」「アンタまだ中学生だったからやめるって言ってたしょ」とか笑いながらやりとりしていた。

 続けて母が「でも本当だったらあと3年でしょ」と言うと、祖母は

「そんなね、ヒロヤス(叔父)も病気して心配だし、リョウタロウ(僕の本名)もこれからだし、ユウジロウ(弟)も将来楽しみだし、あと3年じゃ死ねないよ!!とより元気な口調で言ってのけた。

 母の「じゃあどうすんのさ笑」という問いには、
「また新しいイタコさんを探してね、じいちゃんに言いに行く!”3年じゃ足りない、もっと頑張れ!!”って」と豪快に言い放ったのであった。

 40代から女手一人で、4人の子を無事に成人させ、現在は孫もたくさんいる祖母だが、
(特に経済的には)決して、楽な半生ではなかったであろうし、心配事も尽きなかっただろう。
それでも、じいちゃんとの約束の齢90をまだ足りないと言い放ち、あの世のじいちゃんに喝を入れる力強さ。そして、イタコへの絶対的な信頼に少し笑ってしまった。

 ばあちゃんにしてみれば長男である叔父は60を超えている。それでも子として心配し続ける母の親心。
 更に、30になった僕のことも、20前後の弟のことも、皆を心配する慈愛は文字通りのグランドマザーすぎる。
これは100まで生きる、口も耳も脳も達者なままに…と僕は確信した。
じいちゃんにはもっと頑張ってもらい、誰かに良いイタコを紹介してもらえば、呪力+持ち前の生命力の両輪で300歳ぐらいまで生きるかもしれない。

 芸術のフィールドでは、御年91歳のアレハンドロ・ホドロフスキー監督が新作を出したり、現役バリバリの御仁がたくさんいて、そういう人を見ると「歳を取るのも悪くなさそうだしむしろ楽しそうだ」と思ったりする。
人生には面倒なことが多く、嫌になることも多いが、僕は甲本ヒロトが歌うように”生まれたからには生きてやる”と思っている派なので、現役の先人たちの楽しみ方の良いところに倣って、なるべく楽しくいたいと考えている。

 世に知られる作品こそないが、うちのばあちゃんも変わらないぐらい、生きて楽しむこと、に関して現役だった。惠介のコンサートや孫たちの将来、まだまだ楽しみがあるという。
 少しきざな言い方をすると、タモリさんじゃないが、ご先祖のリレーの上にたまたまいる自分は、ばあちゃんの作品の一つなのかも知れない。
それを目的にやっているわけではないが、ばあちゃんの作品が少しでも世に知られたら、ばあちゃんも、会ったことのないじいちゃんもウケてくれるかな、とちょっと思っている。