あけましておめでとうございます。
初日の出を見ながら、自分が願い、追い求めているものはいったいなんなのだろうかと、改めて思いを馳せる人も多いのではないでしょうか。
そういうとき、僕はなぜか反射的に、『巨人の星』というマンガを思い出します。空の星を見上げて、巨人軍の星となることを誓う主人公の姿が瞼に浮かぶのです。
僕が子どもの頃、梶原一騎先生の原作による「スポーツ根性マンガ」が流行っていました。
子どもも、あるいは野球好きのオトナも『巨人の星』の「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌を口ずさみ、他にも『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった梶原先生原作によるビッグなヒット作が少年向けマンガの世界を席巻していました。
マンガの世界だけではなく、一般的にスポーツは、高度経済成長の右肩上がりムードとともに、いまよりずっと国民的な支持を受けていました。
「大衆=スポーツ」の時代です。
そんな時代、もやしッ子だった僕はコンプレックスを感じていました。
どうせ自分には体力も運動神経も根性もないんだ、と。
当然梶原先生の作品に登場するヒーローにも引け目を感じていました。
ところが同じ梶原先生原作の『愛と誠』という作品は、他とは趣が違っていました。
このマンガは、スポーツを主題にしたものではなく、「純愛マンガ」だったのです。
幼い時にスキー場で命を救ってくれた少年・誠がその時の傷がもとで不幸な道を歩み、結果的に札付きの不良高校生となったことを知った令嬢の早乙女愛は、初恋の人である彼に親の力を借りて手を差し伸べ、しかしそんなことに反発する野育ちの誠からのこっぴどい仕打ちに耐え、自分の立場に泥を塗られながらも、純愛を貫きます。
不良高校生同士のケンカやリンチ場面などにはかなりハードな暴力描写を交えてはいるものの、その核に「純愛」というテーマを堂々と持ってきたのは当時の少年漫画にしては大変珍しく、このマンガは女の子にも人気があったのです。
しかし僕の心を特に捉えたのは、実は主人公二人ではありません。
早乙女愛に恋心を募らせ、ラブレターをしたため、恋人としては受け入れられなくてもひたすら献身的に彼女を守る岩清水弘の存在でした。
「君のためなら死ねる」
岩清水くんがかつてラブレターの中に記したこの言葉を、早乙女愛は、彼が現われるたびに心に蘇らせます。
この岩清水くん、勉強は出来るし教養もありますが運動神経はからきしありません。「ウラナリ」と呼ばれメガネをかけています。いまでこそ、女子の間で「メガネ男子」ブームが起きているようですが、当時「メガネ」といえばマイナスの記号でしかありませんでした(この頃メガネをかけていた僕が言うのだから間違いないです!)。
「ウラナリ」と呼ばれる彼は、しかしまったくひるむことがないのです。
自分に献身する早乙女愛の立場をさらに不利にし、おとしめようとする大賀誠。彼に対して、岩清水くんは決闘を挑みます。
もちろん、殴り合いのケンカでは勝ち目はありません。かといって勉強で勝ってもこの場合意味はありません。
ナイフの切っ先を上にして土中に埋め、二人でそこをめがけて後ろ向きに歩き、仰向けに倒れこむ。その際、ナイフから距離が離れていた方が負け。
これが、岩清水くんの提案した「決闘」でした。
一歩間違えれば、ナイフが自分の背中を貫きかねない。まさに「君のためなら死ねる」彼ならではの提案です。
この岩清水くんのキャラクターは当時新鮮でした。スポ根ブームの時代、勉強ばかりしていてメガネの「ウラナリ」は、嘲笑の対象でしかなかったからです。
僕にとって、この岩清水くんこそがヒーローでした。
知っている人も多いと思いますが、少年院出身の梶原一騎先生は、マンガ原作者として全盛期を過ぎたあたりから、暴力的な言動が目立つようになり、事件も起こしています。悪く言う人も多いですし、誰もが恐れるコワモテな人だったのでしょう。
そんな先生が、身体は虚弱でも恋する気持ちでは誰にも負けない、岩清水くんのような人間に物語の中で居場所を与えている。それが、とても嬉しかったのです。
梶原先生の代表作である『巨人の星』のタイトルの由来を、先生が後に語っているのを読んで、驚きました。
「浅草の星」と呼ばれたストリッパーに憧れていた若き日の梶原先生が、自分にとっての星を追いかける主人公に重ね合わせて付けたタイトルだったのです。
そう考えれば、あの「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌も、まるで一途な恋の歌に聞こえてくるではありませんか。
このストリッパーとの仲がどうなったのかを、先生は晩年の自伝的作品『男の星座』で描いています。一時期彼女と付き合っていた先生ですが、つい彼女に甘えて迷惑をかけてしまう。そんなとき、彼女に惚れたというインテリの青年があらわれます。彼の、自分のすべてを捧げても彼女を幸せにすると堂々と言うその気迫に、まだ街のチンピラ的存在でしかなかった先生は身を引くのでした。
『愛と誠』で岩清水くんの恋は成就しません。恋に勝利するのはかつての自分に似た不良の大賀誠です。でも岩清水くんを、単にひ弱な負け犬としては描いていないのです。
そこに梶原先生が送ってきた人生の中での会得があったのではないでしょうか。
そしていま、スポ根などすっかり流行らなくなった時代に、僕は思うのです。
誰かを一生懸命思ったり、自分の星を求めてすべてを賭けることは、そんなに愚かなことだったのだろうか、と。
誰かに本気になること。それをすぐに「コワイ」よね、などと言い切ってしまい、気持ちを告げる行為すら「告る」という軽い言い方になってしまった現代。
たしかにストーカーにまでなってしまったらやりすぎでしょう。
でも恋する人を慕い続ける道というもの自体は、決して間違っていないと思います。
と、ここまで書いて、そんなに力むこともないと気づきました。
いくら否定しても、自分の中の星を見上げるということはやめられないのですから。
初日の出を見ながら、自分が願い、追い求めているものはいったいなんなのだろうかと、改めて思いを馳せる人も多いのではないでしょうか。
そういうとき、僕はなぜか反射的に、『巨人の星』というマンガを思い出します。空の星を見上げて、巨人軍の星となることを誓う主人公の姿が瞼に浮かぶのです。
僕が子どもの頃、梶原一騎先生の原作による「スポーツ根性マンガ」が流行っていました。
子どもも、あるいは野球好きのオトナも『巨人の星』の「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌を口ずさみ、他にも『あしたのジョー』『タイガーマスク』といった梶原先生原作によるビッグなヒット作が少年向けマンガの世界を席巻していました。
マンガの世界だけではなく、一般的にスポーツは、高度経済成長の右肩上がりムードとともに、いまよりずっと国民的な支持を受けていました。
「大衆=スポーツ」の時代です。
そんな時代、もやしッ子だった僕はコンプレックスを感じていました。
どうせ自分には体力も運動神経も根性もないんだ、と。
当然梶原先生の作品に登場するヒーローにも引け目を感じていました。
ところが同じ梶原先生原作の『愛と誠』という作品は、他とは趣が違っていました。
このマンガは、スポーツを主題にしたものではなく、「純愛マンガ」だったのです。
幼い時にスキー場で命を救ってくれた少年・誠がその時の傷がもとで不幸な道を歩み、結果的に札付きの不良高校生となったことを知った令嬢の早乙女愛は、初恋の人である彼に親の力を借りて手を差し伸べ、しかしそんなことに反発する野育ちの誠からのこっぴどい仕打ちに耐え、自分の立場に泥を塗られながらも、純愛を貫きます。
不良高校生同士のケンカやリンチ場面などにはかなりハードな暴力描写を交えてはいるものの、その核に「純愛」というテーマを堂々と持ってきたのは当時の少年漫画にしては大変珍しく、このマンガは女の子にも人気があったのです。
しかし僕の心を特に捉えたのは、実は主人公二人ではありません。
早乙女愛に恋心を募らせ、ラブレターをしたため、恋人としては受け入れられなくてもひたすら献身的に彼女を守る岩清水弘の存在でした。
「君のためなら死ねる」
岩清水くんがかつてラブレターの中に記したこの言葉を、早乙女愛は、彼が現われるたびに心に蘇らせます。
この岩清水くん、勉強は出来るし教養もありますが運動神経はからきしありません。「ウラナリ」と呼ばれメガネをかけています。いまでこそ、女子の間で「メガネ男子」ブームが起きているようですが、当時「メガネ」といえばマイナスの記号でしかありませんでした(この頃メガネをかけていた僕が言うのだから間違いないです!)。
「ウラナリ」と呼ばれる彼は、しかしまったくひるむことがないのです。
自分に献身する早乙女愛の立場をさらに不利にし、おとしめようとする大賀誠。彼に対して、岩清水くんは決闘を挑みます。
もちろん、殴り合いのケンカでは勝ち目はありません。かといって勉強で勝ってもこの場合意味はありません。
ナイフの切っ先を上にして土中に埋め、二人でそこをめがけて後ろ向きに歩き、仰向けに倒れこむ。その際、ナイフから距離が離れていた方が負け。
これが、岩清水くんの提案した「決闘」でした。
一歩間違えれば、ナイフが自分の背中を貫きかねない。まさに「君のためなら死ねる」彼ならではの提案です。
この岩清水くんのキャラクターは当時新鮮でした。スポ根ブームの時代、勉強ばかりしていてメガネの「ウラナリ」は、嘲笑の対象でしかなかったからです。
僕にとって、この岩清水くんこそがヒーローでした。
知っている人も多いと思いますが、少年院出身の梶原一騎先生は、マンガ原作者として全盛期を過ぎたあたりから、暴力的な言動が目立つようになり、事件も起こしています。悪く言う人も多いですし、誰もが恐れるコワモテな人だったのでしょう。
そんな先生が、身体は虚弱でも恋する気持ちでは誰にも負けない、岩清水くんのような人間に物語の中で居場所を与えている。それが、とても嬉しかったのです。
梶原先生の代表作である『巨人の星』のタイトルの由来を、先生が後に語っているのを読んで、驚きました。
「浅草の星」と呼ばれたストリッパーに憧れていた若き日の梶原先生が、自分にとっての星を追いかける主人公に重ね合わせて付けたタイトルだったのです。
そう考えれば、あの「♪思い込んだら試練の道を 行くが 男の ド根性」という主題歌も、まるで一途な恋の歌に聞こえてくるではありませんか。
このストリッパーとの仲がどうなったのかを、先生は晩年の自伝的作品『男の星座』で描いています。一時期彼女と付き合っていた先生ですが、つい彼女に甘えて迷惑をかけてしまう。そんなとき、彼女に惚れたというインテリの青年があらわれます。彼の、自分のすべてを捧げても彼女を幸せにすると堂々と言うその気迫に、まだ街のチンピラ的存在でしかなかった先生は身を引くのでした。
『愛と誠』で岩清水くんの恋は成就しません。恋に勝利するのはかつての自分に似た不良の大賀誠です。でも岩清水くんを、単にひ弱な負け犬としては描いていないのです。
そこに梶原先生が送ってきた人生の中での会得があったのではないでしょうか。
そしていま、スポ根などすっかり流行らなくなった時代に、僕は思うのです。
誰かを一生懸命思ったり、自分の星を求めてすべてを賭けることは、そんなに愚かなことだったのだろうか、と。
誰かに本気になること。それをすぐに「コワイ」よね、などと言い切ってしまい、気持ちを告げる行為すら「告る」という軽い言い方になってしまった現代。
たしかにストーカーにまでなってしまったらやりすぎでしょう。
でも恋する人を慕い続ける道というもの自体は、決して間違っていないと思います。
と、ここまで書いて、そんなに力むこともないと気づきました。
いくら否定しても、自分の中の星を見上げるということはやめられないのですから。