大宮姫命稲荷大神は二条城の西北にある。現地には狭い敷地に小さな祠が建つ。かなり背の高い巨木がそびえ、ここが神社であることが分かるようになっているものの、敷地の周りは簡単な柵が設けられているだけで、一見したところ各地にある地域の神社であるように感じられる。しかし 調べてみたところなんとこの神社、「式内社」なのだ。平安時代中期に編纂された延喜式神名帳に掲載される「御巫祭神八座 並大 月次新嘗」 だという。一般に考えれば 式内社はかなり広大な敷地を有し、拝殿、そして本殿もかなり格式のある立派なものが建てられているという印象だ。まさかこんなに小さな祠がポツンと建っているとはなかなか考えにくい。
創建についてはよく分かっていないが、平安時代後期の古文書によれば、神武天皇の頃に建てられたという記述があるようだが、何分にも 紀元前の話となるので、神話の世界であり確たるものではない。記紀の記述にも出てこないという。
祭神は大宮姫命であり、これは伏見稲荷大社では大宮能売大神となる。天皇を守護する女神であり、伏見稲荷大社でも祀られているので、当神社でも「稲荷」となっているようだ。
奈良時代前に中国にならって日本でも律令制度が設けられる。そしてこの神社は律令制によって設けられた二官八省のうちの二官、つまり太政官と神祇官のうち、宮廷を守る役割がある神祇官の八神殿の一つだという。この神祇官は宮廷を中心とする平安京内裏の内部が、東西の院に分けられていて、そのうち西側にあったので、神祇官西院と呼ばれていた。そこでは御巫と呼ばれる女性たちが中心になって、宮中の催事を取り仕切っていたという。もちろんその役割は祭事が中心ということだけではなく、普段から 宮中の平穏を保てるような役割を持っており、宮中に仕える様々な役人たちに対して、天皇が心安らかに生活できるように指導や指示をしたという部分もある。しかし 律令制の中での二官の立場は事実上、太政官が上の立場にあり、神祇官はやや格下で八省の一つのように扱われていたということらしい。
このような重要な役割を担っていた神社であり、式内社としてと上位の位置に列せられていたということのようだ。しかし宮中の勢力が衰えるとともに形骸化し、神社そのものの役割も軽視されるようになる。江戸時代になって、律令制度そのものの衰えとともに応仁の乱によって神社は消失。その後神殿の方は再建されることなく幕末を迎える。明治以降は官庁の筆頭に神祇官が設けられたが、近代日本の設立のために数年後、名称も変更され事実上神祇官は廃止となる。こうして今現在、かつての重要な位置を占めたこの神社は、平安京内裏の西院の地に残ることになった。無論再建されたもので比較的新しいものとなる。ただ実際の位置は、今現在よりももう少し東の方にあったと言われている。
最初に記したように創建時期についてはよく分かってないが、律令制度の中で神祇官の 一つを占める重要な役割を担っていたという意味では、奈良時代後半から平安時代にかけての創建ということも考えられないでもない。
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