ミニョンを振り切ってタクシーに乗ったユジンはサンヒョクの家へと向かった。ユジンはタクシーを降りると、そっとインターフォンを押してじっと待っていた。サンヒョクの家は、今は春川ではなくソウルの高級住宅地にあり、かなり立派な門構えをしている。サンヒョク一家の裕福ぶりが分かるどっしりとした一軒家だった。サンヒョクの父のジヌは、もともと由緒ある家の出だったので、ソウルに家を持つことが出来たのだ。
ユジンがしばらく心もとなげに待っていると、無表情のサンヒョクが門を開けて出てきた。ユジンを見ようともせずに、ズボンのポケットに手を入れたまま俯いている。ユジンはわざと明るい声で話しかけた。
「サンヒョク、わたしね、すぐにタクシーであなたを追いかけたのよ。あなた、車を飛ばしたでしょ?」
サンヒョクはユジンを決まり悪そうに見つめた。
「もうっ、危ないわよ。」
わざと怒ったフリをして場を和ませようとするユジンに、サンヒョクは恐る恐る言った。
「ごめん、、、」
ユジンは何も悪くないのに、自分の嫉妬心が物事を悪く悪く捉えてしまう。嘘のつけない彼女のことだから、昨日は本当にミニョンに用事があったのだろうし、今晩はいるのを知らないのにバーに行ったのだ。昨日勝手に会社に押しかけて後をつけたのも、今夜バーに行くように仕向けたのも自分なのだ。それなのに、物事があらぬ方向に進んでしまい、思い通りにならないと腹を立てているのも自分だ、、、。ミニョンがユジンを見る目つきや、ユジンがいつも心ここに在らずな様子、自分に遠慮したちょっとしたウソや、寂しげな眼差しにたまらなく心を揺さぶられてしまう。ユジンの身体はそばにいても、心はさまよっているままだ。チュンサンが死んでからミニョンが現れる前までのように、死んだような目をしている。サンヒョクは深く傷ついて黙り込んでしまった。そんなサンヒョクを見るユジンもまた、傷ついていた。あんなに誓ったのに、またサンヒョクを傷つけてしまった。サンヒョクはチュンサンの死で立ち直れない自分を10年も励ましてそばにいてくれたのだ。しかも自分を深く愛してくれており、別れを告げたら死のうとまでしたのだ。申し訳なさすぎて、今さら拒むことは出来ないし、離れられない。ユジンはさらにわざと強い口調で続けた。
「サンヒョク、嫌な気分でしょう。あんな風に怒ったりするからよ。」
2人はじっと見つめ合った。ユジンは悲しそうな顔でサンヒョクにそっと近づいて、ユラリと身体を預けた。そんなユジンをサンヒョクはしっかりと抱きしめるのだった。サンヒョクの耳もとでユジンの「ごめんね」という声が微かに聞こえた。ユジンは今もなお、ミニョンに会うと心が乱れてしまう事が、申し訳なくてたまらなかった。ささやくような声は、夜風に乗って闇の中に消えて行った。
ミニョンが失意のまま、ホテルに戻ってくると、エレベーターの前でキム次長が待っていた。傷ついたであろうミニョンを心配して、一時間近く待っていてくれたらしい。そしてキム次長らしい優しさで言った。
「おい、待ったぞ。飲みたりないだろうから行こう。」
そしてニッコリと笑った。
二人はさっきとは場所を変えて、ピアノの生演奏があるバーで飲み始めた。
「お前、いろいろあって大変だろ。大丈夫か?」
ミニョンは火をつけていないタバコをトントンとテーブルに打ち付けながら、浮かない顔で言った。
「全部夢だったらいいのに。そうしたら目が覚めればユジンさんの事を忘れられる。」
「そんなにうまくはいかないだろう。だがな、もしかしたら良い方法があるかもしれないぞ。」
ミニョンは全く信じられないという目つきでキム次長を見つめた。
「一番 やけ酒を飲む。二番 他のオンナと付き合う。三番 セラピーを受ける。」
ミニョンはやっぱり役に立たない、また先輩の三択話が始まった、と鼻で笑った。
「プレイボーイのお前が情けないな。昔はそんなじゃなかっただろ。今のお前に必要なのは、三番セラピーだな。」
「結構です。からかわないでくださいよ。」
「俺は本気だぞ。精神科治療って聞くと特別に聞こえるかもしれないけど、結構利用する人は多いんだ。例えばそうだな、、、恋人が死ぬのを目撃したとするだろ。心に負った傷の記憶を消してもらって、新しい記憶を植え付けるんだってさ。催眠療法とかなんとか言ってたなあ。」
「催眠療法で記憶を植え替える?それは便利ですね。」
ミニョンは少し馬鹿にしたように応じた。
「そんなこと言わずにためしてみろよ。馬鹿みたいかもしれないし、失恋なんてそこまでする必要はないかもしれないけど、まあそんな方法もあるってことで、、、そうだ、ユジンさんの記憶をチェリンさんにすり替えてみるとか。」
キム次長は名案を思いついたというように、大真面目な顔でミニョンを見てくる。これにはミニョンも思わず笑ってしまった。そのとき、拍手の音とともにピアノ演奏が終わった。キム次長は演奏している女性を見て思い出したように言った。
「なあ、お前のお母さんてピアニストのカンミヒなのか?」
「それがどうしたんですか?」
「どうしたってよくいうよ。全く呆れるよ。生まれてから弾いたことないピアノをスラスラ弾けるから天才かと思ったじゃないか。なんてことはない、母親がピアニストじゃあな。弾いたことないなんて、嘘つくなよ」
「嘘じゃありません。本当に習ったことがないんです。」
ミニョンは真顔で言った。
「一度も鍵盤に触ったことがない⁉️」
「はい、本当なんです。」
ミニョンの顔は嘘を言っていないようだったが世慣れたキム次長には信じられなかった。
「それはさ、弾いたことがないんじゃなくて、弾いたことを忘れてるだけだよ。」
呆れたような顔で言い捨てると、グイッとウイスキーを🥃飲み干した。
ミニョンはピアノを弾く女性を笑いながら見つめていた。バーのざわめきの中で聴くピアノの音色は優しい。小さな頃、時おり帰ってきては何時間も部屋に篭ってはピアノの練習をするミヒを思い出した。隣の部屋で本を読んだり、おもちゃで遊んだりしながら、まるで子守り歌を聴くように温かい気持ちになったのを思い出したのだ。しかし、しばらくすると頭の奥がチリチリとし始めた。何かが蠢くような、ささやきかけるような、とてつもなく不快な気持ちが膨れ上がった。優雅なピアノの調べを聴きながら、ミニョンはつぶやいた。
「弾いていた記憶がない?僕が、、、過去を覚えていないと?」
それが本当だとしたら、何もかも辻褄が合うし、今までの疑問が全て解決する。昔から感じていた、自分が誰なのか分からないようなモヤモヤ感や所在のなさが理解できるのだ。全てがたった一つの結論に続いている、、、。しかし、もしそんな事があるならば、母親がかかわっているに違いない。なぜ母親はそんな事をしたのか?いつしたのだろうか?そもそも、そんな事を親がしていいのだろうか?
そして、大きな疑問にぶち当たった。
『僕はいったい誰なんだ?』
ミニョンは嵐のような混乱の中に落とされて、激しい頭痛と闘っていた。もはや、何も考えられなくなっていた。
どんどん顔色が真っ青になっていくミニョンに気がついたキム次長が、びっくりした顔になった。しかし、ミニョンのあまりの動揺ぶりに、かける言葉もなかった。深刻な雰囲気の二人の間に、美しいピアノの響きだけが横たわるのであった。